――麻耶くん、だ。
 そう呟いて、あまりの馬鹿さに笑えた。なんだよ、麻耶くんだって。
「何言ってんの晴陽。マヤ?誰それ」
「……なんでもない」
「えぇ?ならいいけど。私もう行くから、ちゃんとご飯食べてね」
 それだけ言い残して、お母さんは慌ただしく部屋を出て行った。ひとり取り残された部屋の中で、わたしは一枚の紙切れを見つめている。
[090-××××-×××× 麻耶]
 確かに夢の中で見た麻耶くんの筆跡と同じで、あれは夢であり夢じゃなかったんだと気づかされた。それと同時に、麻耶くんの声を聞きたくて仕方なくなってくる。
 電話をかけてみようか。でも、お仕事中かもしれないし。ベッドサイドに置いた携帯に手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。
――期待なんか、しちゃいけないから。
 ごめんね、麻耶くん。
 多分、だけれど。
 わたし達が電話越しに会話を交わすことは、ない。
 その理由を言えるのは、いつになるんだろう。


3


 電話の着信音で目覚め、ベッドヘッドに置いていた携帯を手に取った。まだ朝の八時だ。
 液晶画面には『羽坂さん』の文字が表示されていて、何があったんだろうと思いながら受信ボタンを押した。
「羽坂さん?どうしたんですか」
『麻耶さん、わたし、どうしたら』
 切羽詰まったような泣き声に、何かあったのだとすぐに察した。
 羽坂さんはあまり感情を表に出す人ではない。出したとしても心を許している数人だけで、その数人に俺は入っていないことを知っている。
 そんな羽坂さんがこんなに感情的になっているなんて。一体何があったのだろうか。
「何があったんですか」
『玲央さんが、玲央さんが』
 何があったのか聞いても羽坂さんは泣きじゃくりながら玲央の名前を呼ぶばかりで、まともに話ができない。どうしたものかと思い、迷った末に羽坂さんの家に向かうことにした。
 電話の向こうで泣いている羽坂さんを宥め、一度電話を切る。クローゼットから適当に服を出して着替えた。午後から仕事なので小さい鞄も持ち、家を出る。出先でタクシーを捕まえて、羽坂さんの家の住所を言った。何かあったらここに来てくださいと、数年前に教えられていたのだ。
――玲央さんが。
 切羽詰まったような羽坂さんの声を思い出す。玲央に何かあったんだろうか。いやでも、きっと違う。
 もしかしてと浮かんだ考えは最低で、しかしそれが現実になってしまいそうで、俺はため息をついた。
 車に揺られること数十分。遠くに見えた羽坂さんの家には、明かりが灯っていなかった。
 不安を抱きつつ車を降り、インターホンを押す。応答はない。思い切ってドアの引き手に手をかけると、ドアはすっと開いた。
 カーテンも閉め切られて、まるで生気がないようなリビングに足を踏み入れる。ここに来るのは三回目だ。一回目は俺が体調を崩した時で、二回目は俺が暗い夢を見るようになったときだった。
 どの来訪時よりもリビングは荒れていて、鞄は投げ捨ててあるわ椅子は倒れているわ、ひどい有様だ。さっきから左胸の辺りがうるさい。勝手に最悪の想定をして、勝手に緊張している。
「羽坂さん?」
 暗い部屋に俺の声が響く。返事はない。二階にいるのだろうかと思って階段を上ると、「……麻耶さん」と情けない声がした。
 声がした寝室に入ると、羽坂さんが涙で顔をぐちゃぐちゃにして、ベッドに横たわっていた。すっぴんの素肌に涙の跡が残っていて、髪は乱れている。心を大きく乱しているのだろうと、すぐに分かった。
 羽坂さんはゆっくりを身体を起こし、溢れる涙を拭う。
「……どうしたんですか。玲央が、って言ってましたけど」
 聞きたいようで、聞きたくない。だけど聞かなければならない。
 羽坂さんは近くにあったタオルケットを取って、顔に押し当てた。顔とタオルケットの隙間から、絞り出したような声が聞こえてくる。
「……玲央さん、浮気してたんです。共演した女優さんと」
――考えていた最低が、現実になった。
「さっき上から電話が来たんです。週刊誌にすっぱ抜かれて、記事が出るって言われました。記事云々より、浮気されてたって事実が受け入れられなくて」
 そう言ったきり、羽坂さんはタオルケットに顔を埋めて泣いた。悲痛な泣き声に、俺の感情もぐらりと揺らぐ。
 慰めてあげなくては、と思うものの、その方法が見つからない。抱きしめるのは違うし、頭を撫でてあげるのも違う気がする。
 羽坂さんの心は玲央の元にあり、俺がどれだけ慰めの言葉を投げかけたところで羽坂さんの心の傷は癒えない。その傷を治せるのは玲央だけであり、反対に彼女にとどめを刺せるのも玲央だけだ。
 どうしたらいいのか分からず突っ立っていると、ジーンズのポケットに入れた携帯が震えた。すみませんと羽坂さんに断りを入れ、一度寝室を出る。
 連絡は玲央からで、[今時間ある?]という短い文章だった。既読だけつけて返信はせず、電話をかける。
 一コールで玲央は電話に出た。
「もしもし、玲央?」
『ごめん麻耶、急に連絡して。ちょっと話があってさ。美羽ちゃんからなんか聞いてる?』
 思いがけない軽い口調に、咄嗟に口をつぐんだ。まさか玲央の方から、こんな単刀直入に話を切り出されるとは思っていなかったのだ。
 俺が動揺したことを察したのだろう、電話の向こうで玲央が笑った。何かが面白かったという笑い方でもなく、乾いた笑いでもなく、自分自身を嘲笑うような笑い方だった。
『やっぱ聞いてるか。美羽ちゃんなら麻耶に頼りそうだなと思って。今近くにいたりする?どんな様子?』
 近くにいるというかすぐそこだ。目と鼻の先の距離、ベッドにぐったりとした様子で座り込んでいる。
 一緒にいると言うことを言うべきか言わないべきか、考えあぐねていると羽坂さんがこちらを向いた。冷え切ったような視線が俺を刺す。
 宅配便が来たと玲央に嘘をつき、一度ミュートにした。廊下から寝室までがやたら遠く思えた。歩きながら、今の演技は臭かったかなと思う。
 ただ一言軽く言うだけでよかったのに、なにか余計なものを乗せてしまったような気がする。つくづく思うが、俺は自分を生きることが下手なのだ。学生時代自分を殺してきたことのしわ寄せが、未だ来ている。
 聞こえる途切れ途切れの声で、電話の相手が玲央だと気づいたのだろう。羽坂さんは頭を垂れた。
「……玲央さん、なんて言ってるんですか」
「羽坂さんは近くにいるのかって。それと、どんな様子かも聞いてきました」
 はは、と羽坂さんの口から乾いた笑いが漏れた。ぞくりと背筋が粟立つ。
 彼女のそれには、触れたらたちまち凍ってしまいそうなほどの冷たさがあった。それに加えて、浮気をした恋人に対する憎しみも。
「……麻耶さん、携帯貸してもらえますか」
 不自然な笑みを浮かべながら、羽坂さんが言った。俺は「はい」と小声で呟き、携帯を渡して寝室を出た。部屋を出ろとは言われていなかったけれど、なんとなくそうした方がいいような気がしたのだ。
 寝室のドアを閉めてまもなく、玲央さん、と恋人の名前を呼ぶ羽坂さんの声が聞こえてきた。その声からは憎しみも苦しみも悲しみも、何も感じられない。逆に元気すぎて痛々しいほど。
 はい、うん、はい。ドアの向こうの羽坂さんは相槌を打つばかりで、自分の思いは何一つ口にしない。いや、理性的にそうしているのだろう。