「麻耶くんなら、わたしはいくらでも触れて欲しいって思うよ。あ、今の変な意味じゃないからね!」
 分かってるよと笑うその顔が愛しかった。変な意味じゃないよと誤魔化したけれど、別に変な意味で受け取ってもらっても構わなかった。
 麻耶くんになら何をされてもいいと思ってしまうほどには、わたしは麻耶くんに惚れ込んでいるのだ。
 それにしても、わたしが儚いだなんて。麻耶くんには気づかれないように、少し笑った。
 儚いだなんて、初めて言われた。消えてしまいそうだとも、初めて。麻耶くんがどうしてそう思ったのかは、なんとなく分かる。
 わたし達はゆっくりと歩き出し、ぽつぽつと会話を交わした。時々流れる沈黙ですら愛おしく感じる。
 そのうち私が歩き疲れてしまい、近くのベンチに腰掛けた。麻耶くんは立って、周りの景色を見つめている。
 ふと、楽に息ができている自分に気がついた。現実世界ではずっと息が苦しくて、常に心がぐわんぐわん揺れているような感覚がする。うまく生きられないからこそ感情の起伏が激しくて、毎日荒ぶっている感情の波に、呑み込まれそうになる。
「麻耶くんといると、心が落ち着く。普段荒ぶってる感情の波が、ゆっくり凪いでる感じ」
 少しポエミーだったかな。ちゃんと、麻耶くんに言いたいことが伝わったかな。口にしてすぐ、不安になってしまう。
 その不安も杞憂に終わり、麻耶くんは嬉しくてたまらないという表情をしていた。
――ああ、好きだなあ。
 唐突に、だけど当たり前のようにそう思った。
 わたしにだけ向けてくれる柔らかい視線も微笑みも、整った顔立ちも。少し低い声も、わたしより高い身長も、努力家なのに自分の努力を見せないところも。ぜんぶ、ぜんぶ。
 どこをとってもわたしは麻耶くんのことが好きで、ああ違う、好きとかいう言葉では収まりきらないほどの、あたたかい想いなのだ。好きとか愛してるとか、そういう言葉で縁取るには、あまりに重すぎる、想い。
 なぜかと理由を問われてもうまく答えられないし、いるか分からない人を好きになるなんてと思われるかもしれない。
――それでも、わたしは確かに、好きなのだ。
 そう思いながら麻耶くんを見つめていると、想いのこもった視線に気づいたのか、麻耶くんがこちらを向いた。
 わたしに向けられている麻耶くんの視線にも、何やら想いが込められているような気がした。今麻耶くんが何を思っているのか、絡み合った視線を通して何を伝えたいのか、わたしには分からない。麻耶くんの考えることなら分かるんだよ、なんて大口叩いた癖して、全然分かってないんじゃん、わたし。
 ただ――麻耶くんの視線にも、わたしと同じような想いが含まれているような気がした。
 出会えてよかったという喜び、優しく包み込む安心感、ずっと一緒にいて欲しいという、自分勝手な願い。そして、好きだという気持ち。これが、わたしが視線に込めた想い達。
 麻耶くんが全く同じ想いを抱いているという確証はないけれど――なぜか不思議と、そう思ってしまったのだ。
 麻耶くんは、わたしのことを好きでいてくれてるのかな。それは素直に嬉しい。嬉しいのだけれど、わたしは――。
「あ、ねぇ晴陽」
 立って遠くを見つめていた麻耶くんがこちらを向いた。
 腰に手を当て、どこかそわそわとしている。もしや、何か隠し事?
「何麻耶くん。そわそわしちゃって」
「いや、あの、もしよければなんだけど。連絡先、交換しない?」
 どこかそわついている理由はそれだったのか。わたしは笑うと、ポケットからメモとペンを取り出した。何かあった時用にと、毎日持ってきている。
「そんなことだったの?いいよ。とりあえず電話番号でいい?」
「うん、ありがとう」
 ペンをノックし、メモに十一桁の数字を書いた。数字が書かれた紙をちぎり、麻耶くんに手渡す。
「ありがとう。俺も一応書くから、メモ貸してもらっていい?」
 メモとペンを渡すと、十一桁の数字が刻まれて返ってきた。麻耶くんはわたしが手渡した紙切れを、まるで宝石のように大事に大事に持っている。
「やった。これで、現実でも晴陽と話せる」
 そう嬉しそうに笑う姿が可愛くて、自然とわたしの口角も上がった。ただ電話番号を渡しただけで、ちゃんと電話が繋がる確証なんてないのに。どうしてそんなに喜べるのだろう。
「電話しない方がいい時間とかある?例えば、大学とか」
「んー、特にないかな。麻耶くんは?」
「撮影中以外ならいつでも。たとえ深夜でも早朝でも、いつでもちゃんと出るよ」
 いつでも電話に出ると言ってくれたのは嬉しいけれど、麻耶くんの仕事の邪魔はしたくない。これじゃあ、電話をかけるタイミングを見失ってしまいそう。
――って、なんで電話をかけられると思ってるんだろう。
 麻耶くんは未だ、紙切れをじぃっと見つめている。そんなに大事?と聞こうとして、やめた。そう言うわたしだって、手の中にあるこの一抹の希望を、大事に大事に抱えているじゃないか。
 お互いが十一桁の数字に恍惚としている中、突然遠くから電子音が流れてきた。いつもの麻耶くんのアラーム音とも、わたしの目覚まし時計の音とも違う。言うなれば、電話の着信音と言ったところか。
「ごめん、電話だ。多分羽坂さんか玲央かも。一回出てくる」
「うん、分かった。時間あれだったら、もう起きていいよ」
 紙切れをぎゅっと握ったまま、麻耶くんがこの世界から去って行く。ずっとここにふたりでいれたら、どんなにいいだろう。とはいえ行かないでと麻耶くんを引き留めるほど、わたしは子供じゃない。
 わたしは大きく息を吐いた。その息に感化されるように、周りの景色が変わっていく。美しかった世界から、荒廃したような世界に。
 もう世界が変わることに驚きもしないし、何かを感じることもない。ただひとつ思うのは、麻耶くんがいなくなってしまったんだ、ということだけ。
 手のひらを開き、メモを取り出す。折りたたまれたメモを開いて、麻耶くんが書いた数字を見つめる。麻耶くんが書いた、という事実だけでわたしの感情は一瞬で高揚し、違う事実に気づいては一気に下降する。
――連絡先、交換しない?
 どうして、うんと頷いてしまったんだろう。親が厳しいから、とでも言い訳をして、断ってしまえばよかったのに。
 少し、期待をしてしまったのかもしれない。もしかしたら、もしかしたらと。そんな期待が壊されたとき、苦しくなると知っているのに。
 もういっそ、このメモなんてちぎってしまおうか。そう思っても行動に移せないのは、やっぱり期待をしてしまっているからで。どうしようもなく救いを求めてしまっている自分に、嫌気が差す。
『――晴陽、晴陽!ほら、起きて!』
 遠くからお母さんの声が聞こえてきた。目覚まし時計が鳴っていないんだからもう少し寝ていてもいいはずなのに。鬱陶しいなぁと思いつつも、わたしは仕方なく意識を現実へと戻す。
「あ、やっと起きた。おはよう晴陽」
「……おはよう」
 もう何度も経験していることなのに、麻耶くんとの夢から覚めるのは未だ慣れない。幸せな夢と、当たり前の現実。そのふたつのせめぎ合い。
 ベッドからむくりと身体を起こす。足に乗っかった重たい布団をどかそうとして、何か紙切れを手に握っていることに気がついた。