「別に俺は、何もしてないよ。お礼言われる筋合い、ないから」
「いいんだよ、それでも。こうやって出会えて、今話せてることに意味があるの」
 そう言って晴陽が笑った。俺に向き直り、もう一度力強く手を握る。
「ほら、今度は麻耶くんの番だよ。この夢見る前にどんな夢見てたか、教えて?」
 ふぅ、と息を吐き、俺も晴陽の手を握り直した。
 記憶の底、頑丈な箱にしまって忘れようとしている思い出を引っ張り出す。
「……実は、俺も暗い夢見てたんだよ。晴陽と同じで。今聞いてて、びっくりした」
 晴陽も同じ気持ちだったのか、目を白黒させている。まさか俺が同じような夢を見ていたとは思っていなかったのだろう。
「麻耶くんも、暗い夢見てたの?闇に呑み込まれる夢」
「うん、見てた。他にも色んな夢見てたけど、一番覚えてるのはそれかな」
 惨い夢や苦しい夢、数え切れないほどの夢を見てきた。自分が得体の知れないものに追われる夢もあったり、高い場所から突き落とされて殺される夢もあった。
 その中でも一番印象に残っている夢が、晴陽も見た闇に呑み込まれる夢だった。
「あの夢、結構怖かったんだよね。急に闇が身体にまとわりついてくるし、全く剥がせないし。闇に呑み込まれるしかなくてさ」
 晴陽がうんうんと頷いている。
 今思い出しても身体が震えてしまいそうなほどに、あの夢は怖かった。
 ぬるぬるとした黒い闇が俺を浸食していき、自分の心までが食い潰されるように感じる。そのくせ苦しさとかそう言った類いのものはなくて、ひんやりとした冷たさが心地いいと感じるほどだった。
「まぁそんな感じで、色々と暗い夢見てて。ずっとこんなんなのかなって思ってた矢先に、一回違う夢見たんだよね」
 晴陽と出会う前、俺はひとつ違う夢を見ていた。
 光に覆われた部屋の中にいるような、そんな夢――特別暗くも明るくもない夢。
「へー、そんな夢見たんだ。わたしは見てないなぁ」
「そうなんだ。てっきり晴陽も見たのかなと思ったんだけど」
 その光の夢を見た日は晴陽と出会う前日で、今思えばこれが前兆だったのかもしれない。
 これからいい夢が見れるよと、もう大丈夫だよという誰かからのメッセージだったのだろうか。
「色んな夢があるね、ほんと。不思議」
「ね。そう言えば、晴陽はいつからこういう夢見るの?明晰夢ってやつ」
「あぁ、それなら小さいときからかな。幼稚園の時とかからずっと。夢の中で夢って自覚してて、夢ってそういうもんだと思ってたの。お母さんにそう言ったら笑われたよ」
――小さいときから、ずっと。何気なく発されたその言葉が胸を衝く。
 物心ついて間もないときから、晴陽は苦しい夢を見てきたのだろうか。そうなのだとしたら残酷すぎやしないか。
 まだ何も知らない純粋無垢な子供が見るには、酷すぎる夢だと思う。
「小さいときから、暗い夢見てたの?」
「ううん、小さいときは違った。家族で遊園地行ってる夢とか、動物園行ってる夢とか。幸せなものが多かったな」
 ほっと胸を撫で下ろした。小さい頃からあんな夢を見ていたら、俺だったら壊れてしまいそうだ。
「よかった。小さい頃からあんな夢見てたら、耐えられなくなりそうと思って」
「わたしもそう思う。そこだけが唯一の救いって感じ?」
 その言葉を皮切りに会話は途切れ、ふたりで空を眺めた。誰かといるときの沈黙は普通気まずいはずなのに、晴陽といるとそうは思わない。それどころか沈黙ですらも心地いいほどだ。
 その理由を自分の中で考えかけて、やめた。どこか照れくさいような、そんな気分になったから。
「そうだ麻耶くん、もう一個質問」
 晴陽が思い出したように言う。その顔つきは、どことなく真剣だった。
「麻耶くんって、俳優やってるって言ってたよね。それって、菅田麻耶って名前でやってる?それとも、芸名とか?」
 予想していなかった角度の質問が飛んできて、俺は思わず微笑む。そんな他愛のない質問を、真剣な顔つきで聞いてくる晴陽がおかしかった。
「何、そんなこと?すごい真剣そうな顔してるから、何かと思った」
「いや、わたしにとっては大事だから!現実で調べようと思いまして」
「調べないでくれない?恥ずかしいんだけど」
「別にいいじゃん。ほら教えて」
 何を言っても晴陽は引き下がりそうにないので諦める。本名でやってます、菅田麻耶で検索したら出てきますと言えば目を輝かせながら笑った。
「よし、帰ったらすぐ調べてやる。これ見て欲しいって映画とかドラマとかある?」
「自分からそういうのあんまり言わなくない?」
「いちいちうるさいなぁ麻耶くんは。あるのないのどっちなの」
「じゃあまぁ一応言っとくよ、去年公開された主演映画があるから、それとかかな」
「え、主演映画あるの!すごいなぁ、名俳優じゃん」
 名俳優かどうかは分かんないけど、と自嘲気味な笑みをこぼした。いつだって俺が演じられるのは暗い役だけだ。玲央がよくやる明るい役は俺には似合わない。
「すごいなぁ麻耶くん。わたしも女優目指そうかな」
「それこの間も言ってなかった?」
 晴陽が笑い、そういえばとまた話を切り出す。
「麻耶くんって、誕生日いつだったっけ?お祝いしたくて」
「誕生日?一月二十三日だけど。なんで?」
「いや、メモしてたはずなんだけどさ、自分の字が汚すぎて読めなくて。次のお誕生日で何歳になるんですか?」
「今二十五だから、次で二十六だね。え、俺二十六年も生きたんだ」
 口にしても実感が湧かない。たかが二十六年、されど二十六年。俺にとってはかなりの重みのある数字だ。
「ん?今二十五歳ってことは何年生まれ?」
「今が二〇二四年でしょ、だから一九九九年だよ。合ってるよね?」
 うん、と晴陽が頷く。年齢の計算はややこしくて苦手だ。
 それは晴陽も同じらしく、時々自分が何年に生まれたのか分からなくなると笑っていた。
 楽しそうに笑う横顔を見て、話したいことがあったんだと思い出した。本当に他愛のないことだけれど。
 晴陽といると話が尽きない。話したいことがぽんぽん出てくる。時々脱線はするけれど、それはそれで楽しいからいいだろう。
 ベンチに並んで座り、何時間か話した頃――遠くから、アラーム音が聞こえた。
「起きなきゃだ。ごめん晴陽、もっと話したかったんだけど」
「大丈夫だよ、また会えるし。またね」
 ひらひらと晴陽が手を振る。俺も手を振り返して立ち上がった。
「ねぇ、麻耶くん」
 唐突にそう呼ばれて振り返った。
「どうしたの、晴陽」
 晴陽が目を伏せる。きゅっと手をきつく握りしめていて、何か言いたいことがあるのかと思う。いや、言いたいことというより、隠していることの方がしっくりくるだろうか。
 俺の携帯のアラーム音が響く世界で、どれだけそうしていただろうか――やがて晴陽が手をほどき、笑顔になって言った。
「……なんでもない。ごめん」
 そっかと呟いたが、その言葉は晴陽に届いたのだろうか。俺は晴陽の言葉を聞ききってすぐ、現実世界へと戻った。
 ゆっくりと起き上がり、アラームを止める。最後に見た晴陽の表情が、頭にこびり付いたままだ。
 晴陽は何を言いたかったのだろうか。きっと、いや確実に晴陽は何かを隠しているような顔をしていた。言いたくても言えない、そんな秘密を抱えているような。
 何なんだろうと思うのと同時に、ぞわりと鳥肌が立った。もし晴陽がいなくなったら、俺はどうしたらいいのか分からない。仮に晴陽が何かを打ち明けようとしてくれていたとして、俺はそれをどう受け止めればいいのか。
 そこまで考えて、晴陽がいなくなったらどうしようと思っている自分に気づいた。
 出会ったときは、ただの幻想としか思っていなかったのに。それどころか、少しの嫌悪感を覚えたほどだった。
 今の俺は、晴陽に会いたくて仕方がない。会いたくて話したくて、晴陽の顔が見たくて。
――夢に出てきた女に恋した?
 昨晩玲央が放った言葉が脳内で再生される。あの時俺は否定したが、それは間違いだった。
 俺は、晴陽が好き。それはもう、どうしようもないほどに。
 ひとりきりの寝室で、俺は、そんな馬鹿みたいなことを考えていた。