「いやー、恥ずかしい。あの時の話はしないで欲しいわ、バラエティーとかで」
 やっぱり恥ずかしかったみたいだ。
「しないでって言われるとしたくなるよな。丁度いいわ、すべらない話欲しかったところなんだよ」
「やめろやめろ、絶対すべるから!」
 それからもだらだらと酒を飲み、惣菜をつまみ、会話に花を咲かせていたら数時間が経った。そろそろ日が変わる頃なので解散とし、俺はひとりでタクシーに乗り込む。
 家の住所を告げ、座席にもたれる。信号に引っかかり、車が止まった。
 携帯をいじっていたら突然運転手さんに声をかけられ、顔を上げると見覚えのある顔と目が合った。
「やっぱり、こないだの子」
 俺が偶然乗り込んだタクシーの運転手さんは、奇しくもこの間俺のことを気遣ってくれた優しい人だった。
 どうも、と軽く会釈をし、再び携帯に視線を戻す。運転手さんは何か言いかけたが、信号が変わったため口をつぐんだ。
 お互い何も言わないままタクシーは俺の家の前に到着し、ランプを点灯させて止まる。代金を払い、降りようとドアに手をかけた瞬間、「ねぇ、君」と声をかけられた。
柔らかい笑みを浮かべた運転手さんが振り向き、俺を見つめる。
「なんか、いいことあった?」
「え?」
 反射的に声が出てしまった。素っ頓狂な声を上げた俺を見てまた運転手さんが笑う。
「この前は、ほんとひどい顔してたぞ?でも今日は、この前と全然違う顔だったから。なんか、柔らかくなったって感じだなぁ」
 柔らかくなった、か。
 俺は微笑み、運転手さんにありがとうございますと礼を言う。ここまで運転してくれたことと、また俺を労ってくれたこと、ふたつに対して。
 運転手さんの暖かい笑みを見送りながら、ふと思う。今までの俺だったら、こんな些細な礼ひとつさえ、出来なかったような気がする。
 それぐらいできるだろう、しなくてはいけないだろうと思われるかもしれないが、以前の俺はそれすら億劫だった。億劫というより、単に気が回らない人間だった。
 自分でいっぱいいっぱいで、人のことを考えることが出来ない。そんな人間。
 酒のお陰で視界がぐらつき、暗いことも相まって転びそうになる。何とかバランスを取ってそれを回避し、家の中に入った。
 今日はシャワーを浴びよう。そうしないと、明日朝起きたとき酒臭さと汗の匂いのダブルパンチにやられるだろう。
 二階に上がって服を取り、一階に戻る。脱衣所で服を脱ぎ、風呂場に入った。
 風呂場の大きい鏡に全身を映す。少し太ったなと思いながら腹をさすり、自分の顔を見てみる。映った男の顔を見て、俺はびっくりした。
――俺って、こんな顔してたっけな。
 自分でもそう思ってしまうほど、鏡に映った自分の表情は自分のものではなかった。暗かった瞳には少し光が灯り、口元には笑みをたたえている。
 俺はひとり、自分ではないような自分と見つめ合っていた。





「あ、麻耶くん!」
 今日も元気いっぱいな晴陽に手を振る。今日も俺は、晴陽がいる夢の世界にやってきた。
 晴陽はベンチに腰掛けていて、俺も空いた隣に座る。晴陽が着ている白いワンピースの裾が、ふわりと揺れた。
 そう言えばこの間、今度は違う服で来るって言ってなかったっけ。
「あれ、今日もその服?」
「待って、言い訳させて。あの、わたしも頑張ったの。今日は違う服で夢に入れますようにって、ちゃんと願ったし。でもだめ」
 裾をつまみ、憎たらしそうに見ている。その顔がなんだか面白くて、俺はぷっと吹き出した。
「ねぇ、なんで笑うの!わたしは真剣なのに」
「いや、ごめん。なんか面白くて」
 晴陽が頬を膨らませる。怒っていると言うことを伝えたいようだけれど、それでは全くもって逆効果だ。
「あ、そうだ麻耶くん。ちょっと聞きたいことがありまして」
「なに?」
 首を捻って、晴陽の横顔を見つめる。何かを考えているようなその横顔に、何かが重なるような感覚があった。こんな表情を、俺はどこかで見た気がする。
 記憶を辿って思い出した。羽坂さんだ。
――"夢"、大丈夫ですか。
 その言葉を発す前、羽坂さんは苦虫をかみつぶしたような、何かに悩んでいるような顔をしていた。それが晴陽と重なったのだ。
 羽坂さんがあの顔をするときは、何か言葉を探しているときだ。言いたいことは自分の中にあるのに、それを上手く言葉に出来ずに、必死になって言葉を探しているとき。
 その時の羽坂さんの顔が晴陽に重なったということは、晴陽も何か言葉を探しているのだろうか。
「麻耶くんってさ、わたしと会うまで、どんな夢見てた?」
「どんな夢?」
 想像していた以上に軽い質問だった。もっと過去のことを根掘り葉掘り聞かれたり、恋愛事情について聞かれたりするのかと思っていたのに。
「ちょっと気になっちゃって。わたしが出会う前に見てた夢、なかなかな夢だったから。麻耶くんはどうなのかなって」
 なかなかな夢。そのワードが、耳に残る。
 もしかしてだけれど、晴陽も夢に苦しんでいたのか。俺のような暗い夢――とまでは行かないかもしれないけど、同じように夢にうなされていたのだろうか。
「――晴陽は、どんな夢見てたの?」
 晴陽からの質問に答えるべきだ。そう分かっていたのに、口をついて出たのは違う言葉だった。
 突然の俺からの質問に、晴陽は驚きつつも、ゆっくりと答えてくれた。
「……暗い夢、かな。一言で言うなら。周りが暗闇みたいな夢で、光も出口もなくて……ずっとそこで彷徨うしかないんだけど、ずっとそこにいると、次第に闇に呑み込まれるの」
 同じだ。俺が見ていた夢と、同じ。
 暗くて、苦しくて、苦痛でしかない。そんな夢。
「身体のぜんぶを闇に覆われて、その瞬間ハッて目覚める。汗で背中はぐっしょりだし、手足は震えて強張るし。本当に、苦痛でしかなくて」
 うん、と頷きながら、晴陽の手を取った。そうしたのは、晴陽の手が震えていたから。
 俺だって、今でもあの夢を思い出すと、身体の芯が急激に冷やされたような感覚になる。毎日暗い夢でもいいと大口を叩いたことがあるけれど、心底あの夢はもう見たくない。
「色んなことしたんだよ、その夢を改善するために。でもだめだった。もう無理なのかなって思って、もう諦めてた。でもね」
 揺れる双眸(そうぼう)が、俺を見つめる。それと同時に、晴陽の手が俺の手をぎゅっと握った。
「そんな時、麻耶くんに出会ったの。まず夢が変わって、この世界に来れたことだけでもすごく嬉しかったんだけど……麻耶くんと出会えて、もっと嬉しくなった」
 何かをほどくように、ゆっくりと話してくれる晴陽。俺はただ黙って、晴陽の手を握っている。
「つい最近まで、寝るのは苦痛だって思ってたのに。今は、寝るのが楽しみなの。今日は麻耶くんと何しよう、何話そうって、毎日ずっと考えてる」
 俺だってそうだ。眠るのは苦痛でしかなかったのに、晴陽と出会って変わった。今では寝るのが楽しみになっている。
「だから、ありがとう。麻耶くん。わたしと出会ってくれて」
 俺は無意識のうちに、首を横に振った。お礼を言われる筋合いはない。
 どうして晴陽と出会えたのかなんて分からないし、俺が何かしたから晴陽と出会えたというわけでもない。
 晴陽と出会えたのは、偶然なのか必然なのか。それすらも、分からない。