「納得できないんですけど」
今日だけで梨央奈は五回もこのセリフをくり返している。
「うん」
「そりゃあ、入学式はおめでたいよ。あたしたちにもついに後輩ができたわけだしさ」
「うん」
「でも去年の入学式のとき、在校生は休みだったじゃん」
「そうだっけ?」
言われてみると、入学式のときは一年生だけしかいなかったような気もする。
校門に桜吹雪がふりそそぐなか、写真を撮るための長い列ができているのが窓越しに見える。
「なんで今年から半日授業になったわけ? 絶対にガハ子が張り切って決めたんだよ」
「芳賀先生、って呼びなよ。それに、芳賀先生が悪いわけじゃないでしょ。新しい校舎を見学してもらうついでに授業の様子も見てもらうため、って校長先生が言ってたじゃん」
うちのクラスにも何組かの新一年生と保護者が見学に来ていた。
担任の芳賀先生はいつもの黒ジャージ姿ではなくスーツ姿で、梨央奈の言うようにかなり張り切っていた。
一方、さすがに今日はマズいと考えたのだろう。梨央奈は髪をひとつに結んでいるし、メイクもいつもに比べて薄めだ。
「半日で帰れるんだからいいんじゃない?」
慰めの言葉に、梨央奈は眉間のシワを深くした。
「今日が何曜日か知ってる? 火曜日だよ、火曜日。『火曜日恒例・得々セール』に朝から行けるチャンスだったのに」
「今からでも行けばいいでしょ」
「ちょっと」と、梨央奈はムッとした顔を近づけてきた。
「『火曜日恒例・得々セール』は限定品が多いの。今日は、おひとり様一 パック限りではございますが玉子がなんと八十 円! 生鮮食品コーナーからは、こちらもおひとり様一 パック限り、まぐろの切り落としが二百円!」
興奮し過ぎてスーパーのアナウンスみたいになっている。
「わかったって」
「こんな時間から行っても、限定品は絶対に残ってないんだから。実月だって夕飯作ってるんならそれくらい知っておかないと」
怒りの矛先を向けられてはかなわない。両手を挙げて降参のポーズを取ると、やっと落ち着いたらしく肩の力を抜くのがわかった。
「あたしだって別にケチじゃないんだよ。あんまり言えないんだけど、不動産業って昔ほどうまくいかないみたいで、けっこうヤバいんだって」
「え、そうなんだ?」
「銀行への借金も多いみたいだし、『そのうち自宅を売らなくちゃいけないかも』って、ママは口ぐせみたいに言ってる」
ぜんぜん知らなかった。だから、家計の節約に協力してたんだ。
「それに、夕飯はあたしの担当だから」
「浮いたお金でメイク道具買うんだもんね」
「そういうこと。おこづかいだけじゃ足りないし」
日直の三井くん が教室に戻って来た。食べることが大好きでよく笑う彼は、クラスのムードメーカー的存在。二年生になり、制服のサイズをまたひとつ大きくしたそうだ。したそうだ。名前は英滋なのに仲のいい生徒からは『ひでじい』と呼ばれている。
もうひとりの日直は小早川さん。壇上に立つ三井くんと違い、小早川さんは自分の席に座りうつむいてしまった。
小早川さんは黒髪のボブカットで、同じ長さの前髪で表情を隠しているような子。いつも本を読んでいて、私もほとんどしゃべったことがない。
「ひでじい、ガハ子、帰っていいって言ってた?」
男子のひとりが尋ねると、三井くんはニッと笑った。
「校門の混雑が落ち着いたら帰っていいってさ。僕の見解ではすでに落ち着いてるように見える。つまり、もう帰っていいってことだね」
おお、とクラスが沸き、
「先に行くね」
梨央奈が慌てて教室を飛び出して行った。ゾロゾロと帰っていくクラスメイトを見送ってから、校門に目を向ける。
どう見てもまだ混雑しているけれど、ほかのクラスも同じことを言われたのだろう。ちらほらと在校生の姿も見えた。
そういえば、今日も真昼の月が浮かんでいるのかな……。
視線を上に向けると、斜め上に青い月が浮かんでいた。
「え……青い月?」
一瞬目を疑ってしまった。昨日よりも少し厚みを増した月が、薄青色で光っている。空の色よりも少しだけ濃い青い色。
「ウソ……」
昔、碧人と一緒に見た月にそっくりだ。
ふと視線を感じた。小早川さんと目が合った次の瞬間、サッと前髪で顔を隠すようにうつむいてしまった。
そんなことより、青い月が出ていることを碧人に伝えなくちゃ……!
通学バッグを手に慌てて教室を飛び出した。廊下にあふれる人をすり抜け、いちばん奥にあるスポーツ科の教室へ向かう。
教室が近づくにつれ、だんだんと足のスピードが落ちていき、最後は立ち止まってしまった。
そうだった……。学校では話をしない約束だった。
青い月の話をしても、碧人は迷惑そうな顔をするのだろう。
あの月が放つ光のように、私の気持ちもいつかにじみ出てしまう。だったら碧人の言うように、話をしないほうがいい。
ため息をつきながらスポーツ科の教室の前を通り過ぎた。横目で確認したけれど、教室には数名の生徒が残っているだけで碧人の姿はなかった。
突き当たりの階段をおり、遠回りをして昇降口へ。靴を履き替えて外に出てから空を見あげたけれど、太陽がまぶしくて月がどこにあるのかわからない。
校舎をぐるりと半周すると、自転車置き場の向こうに旧校舎が現れた。新校舎ができてからは常に日陰になってしまっている。
「ああ……」
青空よりも少し薄い青色の月が旧校舎の真上に浮かんでいる。
あの日、私は碧人への気持ちに気づいた。マンションのホールで別れるまで、碧人と手をつなぎたい欲求と戦った。そんな勇気は出なかったし、今もそれは同じ。
くるくると同じ場所を回っているおもちゃみたい。だったら早く『恋』という電池がなくなって止まってしまえばいい。その一方で消えないで、と願う自分もいる。
なんて恋はややこしいのだろう。好きになっていくのと比例して、どんどん碧人のことがわからなくなっている。今では、自分がどうしたいのかさえもわからない。
やっと青い月を見つけられたのに、碧人に伝えることもできないなんて……。
そのときだった。なにか違和感ある音が耳に届いた。
――キーンコーンカーン。
信じられない。旧校舎からチャイムの音がする。まるで風でかき消されそうなほど小さな音だけど、たしかに聞こえる……!
やがてチャイムが鳴り終わり、余韻さえも消えた。心臓がありえないほどドキドキしているのがわかる。
月の青色がさっきよりもさらに濃くなったように見えるけれど、これは……夢なの?
真上で光る青い月が、今にも落ちてきそうなほど大きく見える。
「そうだ……」
写真を撮っておこう。あとで碧人に写真だけでも見せたい。
スマホを取り出していると、視界のはしっこになにかが見えた。
顔をあげると、『立ち入り禁止』の看板の前に黒猫がちょこんと座っていた。
え……なんでこんな場所に黒猫が?
騎士のように胸を張っている黒猫は、きっとオスだろう。凛々(り)しい顔つきにスリムな体、胸元だけ白色の毛が高貴さを醸し出している。
「青色の月が輝く日、黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる」
伝説の内容を無意識につぶやいていた。
「まさか、あの伝説に書いてあった黒猫……?」
黒猫は、まるで『そうだよ』と応えるように、ゆっくりとまばたきをした。
が、次の瞬間、くるりと向きを変え旧校舎のほうへ歩きだしてしまった。
「待って!」
思わず看板の脇をすり抜け追いかけていた。黒猫は、一定の速度を保ちながら旧校舎の建物沿いを優雅な足取りで進んでいく。
裏手に回ると、忘れ去られた桜の木が花吹雪をふらせていて、あまりの美しさに立ち止まってしまった。
はらはらと舞う桜の花の向こうに、旧校舎の裏口の扉がある。
木の下を通り過ぎた黒猫は、一度だけ私をふり返ってから裏口の扉に消えた。よく見ると、扉が開きっぱなしになっている。
工事業者の人がいるかも、と考えたけれど、今日は入学式だしさすがにいないだろう。
薄暗い廊下のまんなかに黒猫はいた。私を待ちくたびれたかのように、大きなあくびをしている。
……どうしよう。
伝説の内容で覚えているのはあの文章だけ。細かい内容は覚えていない。導かれるままについてきてしまったけれど、このままついて行っていいものなの?
黒猫は優雅に階段をのぼっていく。三月まで私もあの階段をのぼり四階にある教室へ通っていた。
ひとつ深呼吸をしてから靴を脱いで廊下に足を踏み入れた。足裏にひんやりとした感触を感じながら、外から見えない位置に靴を移動させる。
階段を一段ずつあがっていくと、懐かしいにおいがした。にぎやかな生徒の声や先生の声はもうここにはないけれど、壁に廊下に空気に、思い出が染みついている。
黒猫は三階の踊り場につくと、少し先にある『二―三 』と書かれた教室に消えた。うしろのドアが開いている。
不思議だ。昼間なのに月の光が廊下を浸している。それも銀色ではなく青い光が 。
青い世界に太陽の光がきらめいて いて、まるで海のなかにいるみたい。
おそるおそる教室のなかを覗きこんだ。
ひょっとしたら碧人がいたりして……。
わずかな期待は、すぐに打ち消された。
教室のうしろにある窓にもたれるように、ひとりの男子生徒が立っていた。うつむいているので顔は見えないけれど、普通科に知り合いはいない。
怖い人だったらどうしよう……。
急に怖くなり、足がすくんでしまう。彼が気づく前に逃げなくちゃ。
踵を返そうと足に力を入れたのがまずかった。床で滑りそうになり、近くにある椅子にとっさにつかまってしまった。その音に気づいた男子生徒がゆっくりと顔をあげた。
糸のように細い髪がサラリと揺れ、人懐っこそうな瞳が見えた。筋のとおった鼻と、真顔なのにもともと笑っているかのようにあがった口角。
彼は私に気づくと、白い歯を見せて笑った。
「こんにちは」
顔の印象と同じで、やわらかい声だった。
「こ……こんにちは」
かすれる声でなんとか挨拶をすると、彼は教壇へ目を向けた。教壇の上にさっきの黒猫がちょこんと座っている。
「連れてきてくれてありがとう」
うれしそうにそう言うが、黒猫は無視して毛づくろいをはじめている。
「今日は入学式だってね。君は、新入生?」
「いえ……二年生になりました」
「そう」
うなずいた男子生徒が、右手を喉のあたりに当てた。
「久しぶりに人と話をするから、うまく声が出ない」
「そんなこと……ないです」
私のほうが緊張で言葉が滑らかに出てこない。不思議と逃げ出したい気持ちはもう起こらなかった。
「去年までこのクラスだった遠山陸です。今は一応、三年生」
上級生だとわかり急に緊張してきた。
「わ、私は、二年一組です。空野実月です」
自己紹介をしていないことに気づいて慌てて頭を下げると、「へえ」と感心したような声が聞こえた。
「一組ってことは福祉科だよね? 僕はスポーツ科で推薦受けたけどダメでさ、一般で普通科になんとか入ることができたんだ。結局、部活はしてないけどね」
くだけた話し方になる遠山さんに、「そうですか」とゴニョゴニョと答えた。
笑みを浮かべたまま、彼は青い光をすくうように手のひらを眺めた。
「青い月が出ているね」
「あの、遠山さん」
「陸、でいいよ。僕の苗字、『遠山の金さん』と同じで好きじゃないんだ。昔は『金さん』ってあだ名で呼ばれてね――」
「陸さん」
話の途中で遮ってしまったのは、陸さんもこの青い月が見えていると知ったから。
「……陸さん、『青い月の伝説』のことを知っていますか?」
思わず半歩前に出てしまった。私を見て、陸さんは大きくうなずいた。
「知ってるよ。だから君を呼んでもらったんだ」
「え……」
それってどういうこと? 青い月の光のなかで手をつなぐ恋人が私ってこと?
きょとんとする私に、陸さんはおかしそうに笑いだした。
「君が伝説にある『ふたり』という意味じゃないよ。実月さんに頼みたいことがあるから、彼に呼んできてもらったんだ」
必死に毛づくろいをしている黒猫を見て、陸さんは言った。
「……頼みたいこと?」
「元カノに会いたくって」
「元カノ……」
話の意図が見えず、くり返すことしかできない。
「三年一組の立花涼音を連れてきてほしいんだ。今日でなくていいから、また青い月が出ることがあったらお願いできる?」
反射的に「はい」 とうなずいてから慌てて首を横にふった。こんな大切な要件をすぐに引き受けるわけにはいかない。
「あの……私が陸さんの元彼女さんをここに呼んでくる、ということですか?」
「そうだよ。そのときは君も一緒に来て、僕の言葉を彼女に伝えてほしい」
「私も、ですか?」
「僕は涼音と話ができないかもしれないから」
――碧人と同じだ。
学校では話をしない。伝えたいことがあっても伝えられない。モヤっとした気持ちがお腹に生まれた。
「失礼ですが……ご自身で伝えたほうがいいと思います」
「ああ、そうだね」
陸さんが小さく笑うのを見て、モヤモヤがさらに大きくなる。
「どうして自分で伝えないんですか? 大切なことは自分で伝えたほうがいいと思うんです」
大切じゃないことも伝えたい。伝えてほしい。でも、私だって碧人になにも伝えられていない。
ああ、そっか……。やっぱり碧人は私の気持ちを知ってしまったんだね。だから学校では露骨に避けるんだ。学校以外の場所でも本当は話したくないのかもしれない。
「わかってるよ。でも、できないんだ」
その声に、思考を中断させた。
まだほほ笑んでいる陸さんの表情に、悲しみの感情が存在している気がした。
教室全体をゆっくりと見渡したあと、陸さんは私に視線を戻した。
「僕も自分で伝えたかった。でも、僕の姿は彼女にはきっと見えない」
「……え?」
それってどういうこと? 戸惑う私を見て、陸さんは納得したように深くうなずいた。
「そこから説明しないとダメだったね。ごめん」
さみしげにそう言うと、彼は私の目をまっすぐに見つめた。
「君は伝説で言うところの『使者』なんだよ」
「使者……」
まさか、と思わず笑いそうになった。
陸さんはひとつうなずいてから言った。
「そして、僕はもう死んでいる」
「え?」
「俗に言う、幽霊ってヤツなんだよ」
穏やかな顔のまま、陸さんはそう言った。
今日だけで梨央奈は五回もこのセリフをくり返している。
「うん」
「そりゃあ、入学式はおめでたいよ。あたしたちにもついに後輩ができたわけだしさ」
「うん」
「でも去年の入学式のとき、在校生は休みだったじゃん」
「そうだっけ?」
言われてみると、入学式のときは一年生だけしかいなかったような気もする。
校門に桜吹雪がふりそそぐなか、写真を撮るための長い列ができているのが窓越しに見える。
「なんで今年から半日授業になったわけ? 絶対にガハ子が張り切って決めたんだよ」
「芳賀先生、って呼びなよ。それに、芳賀先生が悪いわけじゃないでしょ。新しい校舎を見学してもらうついでに授業の様子も見てもらうため、って校長先生が言ってたじゃん」
うちのクラスにも何組かの新一年生と保護者が見学に来ていた。
担任の芳賀先生はいつもの黒ジャージ姿ではなくスーツ姿で、梨央奈の言うようにかなり張り切っていた。
一方、さすがに今日はマズいと考えたのだろう。梨央奈は髪をひとつに結んでいるし、メイクもいつもに比べて薄めだ。
「半日で帰れるんだからいいんじゃない?」
慰めの言葉に、梨央奈は眉間のシワを深くした。
「今日が何曜日か知ってる? 火曜日だよ、火曜日。『火曜日恒例・得々セール』に朝から行けるチャンスだったのに」
「今からでも行けばいいでしょ」
「ちょっと」と、梨央奈はムッとした顔を近づけてきた。
「『火曜日恒例・得々セール』は限定品が多いの。今日は、おひとり様一 パック限りではございますが玉子がなんと八十 円! 生鮮食品コーナーからは、こちらもおひとり様一 パック限り、まぐろの切り落としが二百円!」
興奮し過ぎてスーパーのアナウンスみたいになっている。
「わかったって」
「こんな時間から行っても、限定品は絶対に残ってないんだから。実月だって夕飯作ってるんならそれくらい知っておかないと」
怒りの矛先を向けられてはかなわない。両手を挙げて降参のポーズを取ると、やっと落ち着いたらしく肩の力を抜くのがわかった。
「あたしだって別にケチじゃないんだよ。あんまり言えないんだけど、不動産業って昔ほどうまくいかないみたいで、けっこうヤバいんだって」
「え、そうなんだ?」
「銀行への借金も多いみたいだし、『そのうち自宅を売らなくちゃいけないかも』って、ママは口ぐせみたいに言ってる」
ぜんぜん知らなかった。だから、家計の節約に協力してたんだ。
「それに、夕飯はあたしの担当だから」
「浮いたお金でメイク道具買うんだもんね」
「そういうこと。おこづかいだけじゃ足りないし」
日直の三井くん が教室に戻って来た。食べることが大好きでよく笑う彼は、クラスのムードメーカー的存在。二年生になり、制服のサイズをまたひとつ大きくしたそうだ。したそうだ。名前は英滋なのに仲のいい生徒からは『ひでじい』と呼ばれている。
もうひとりの日直は小早川さん。壇上に立つ三井くんと違い、小早川さんは自分の席に座りうつむいてしまった。
小早川さんは黒髪のボブカットで、同じ長さの前髪で表情を隠しているような子。いつも本を読んでいて、私もほとんどしゃべったことがない。
「ひでじい、ガハ子、帰っていいって言ってた?」
男子のひとりが尋ねると、三井くんはニッと笑った。
「校門の混雑が落ち着いたら帰っていいってさ。僕の見解ではすでに落ち着いてるように見える。つまり、もう帰っていいってことだね」
おお、とクラスが沸き、
「先に行くね」
梨央奈が慌てて教室を飛び出して行った。ゾロゾロと帰っていくクラスメイトを見送ってから、校門に目を向ける。
どう見てもまだ混雑しているけれど、ほかのクラスも同じことを言われたのだろう。ちらほらと在校生の姿も見えた。
そういえば、今日も真昼の月が浮かんでいるのかな……。
視線を上に向けると、斜め上に青い月が浮かんでいた。
「え……青い月?」
一瞬目を疑ってしまった。昨日よりも少し厚みを増した月が、薄青色で光っている。空の色よりも少しだけ濃い青い色。
「ウソ……」
昔、碧人と一緒に見た月にそっくりだ。
ふと視線を感じた。小早川さんと目が合った次の瞬間、サッと前髪で顔を隠すようにうつむいてしまった。
そんなことより、青い月が出ていることを碧人に伝えなくちゃ……!
通学バッグを手に慌てて教室を飛び出した。廊下にあふれる人をすり抜け、いちばん奥にあるスポーツ科の教室へ向かう。
教室が近づくにつれ、だんだんと足のスピードが落ちていき、最後は立ち止まってしまった。
そうだった……。学校では話をしない約束だった。
青い月の話をしても、碧人は迷惑そうな顔をするのだろう。
あの月が放つ光のように、私の気持ちもいつかにじみ出てしまう。だったら碧人の言うように、話をしないほうがいい。
ため息をつきながらスポーツ科の教室の前を通り過ぎた。横目で確認したけれど、教室には数名の生徒が残っているだけで碧人の姿はなかった。
突き当たりの階段をおり、遠回りをして昇降口へ。靴を履き替えて外に出てから空を見あげたけれど、太陽がまぶしくて月がどこにあるのかわからない。
校舎をぐるりと半周すると、自転車置き場の向こうに旧校舎が現れた。新校舎ができてからは常に日陰になってしまっている。
「ああ……」
青空よりも少し薄い青色の月が旧校舎の真上に浮かんでいる。
あの日、私は碧人への気持ちに気づいた。マンションのホールで別れるまで、碧人と手をつなぎたい欲求と戦った。そんな勇気は出なかったし、今もそれは同じ。
くるくると同じ場所を回っているおもちゃみたい。だったら早く『恋』という電池がなくなって止まってしまえばいい。その一方で消えないで、と願う自分もいる。
なんて恋はややこしいのだろう。好きになっていくのと比例して、どんどん碧人のことがわからなくなっている。今では、自分がどうしたいのかさえもわからない。
やっと青い月を見つけられたのに、碧人に伝えることもできないなんて……。
そのときだった。なにか違和感ある音が耳に届いた。
――キーンコーンカーン。
信じられない。旧校舎からチャイムの音がする。まるで風でかき消されそうなほど小さな音だけど、たしかに聞こえる……!
やがてチャイムが鳴り終わり、余韻さえも消えた。心臓がありえないほどドキドキしているのがわかる。
月の青色がさっきよりもさらに濃くなったように見えるけれど、これは……夢なの?
真上で光る青い月が、今にも落ちてきそうなほど大きく見える。
「そうだ……」
写真を撮っておこう。あとで碧人に写真だけでも見せたい。
スマホを取り出していると、視界のはしっこになにかが見えた。
顔をあげると、『立ち入り禁止』の看板の前に黒猫がちょこんと座っていた。
え……なんでこんな場所に黒猫が?
騎士のように胸を張っている黒猫は、きっとオスだろう。凛々(り)しい顔つきにスリムな体、胸元だけ白色の毛が高貴さを醸し出している。
「青色の月が輝く日、黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる」
伝説の内容を無意識につぶやいていた。
「まさか、あの伝説に書いてあった黒猫……?」
黒猫は、まるで『そうだよ』と応えるように、ゆっくりとまばたきをした。
が、次の瞬間、くるりと向きを変え旧校舎のほうへ歩きだしてしまった。
「待って!」
思わず看板の脇をすり抜け追いかけていた。黒猫は、一定の速度を保ちながら旧校舎の建物沿いを優雅な足取りで進んでいく。
裏手に回ると、忘れ去られた桜の木が花吹雪をふらせていて、あまりの美しさに立ち止まってしまった。
はらはらと舞う桜の花の向こうに、旧校舎の裏口の扉がある。
木の下を通り過ぎた黒猫は、一度だけ私をふり返ってから裏口の扉に消えた。よく見ると、扉が開きっぱなしになっている。
工事業者の人がいるかも、と考えたけれど、今日は入学式だしさすがにいないだろう。
薄暗い廊下のまんなかに黒猫はいた。私を待ちくたびれたかのように、大きなあくびをしている。
……どうしよう。
伝説の内容で覚えているのはあの文章だけ。細かい内容は覚えていない。導かれるままについてきてしまったけれど、このままついて行っていいものなの?
黒猫は優雅に階段をのぼっていく。三月まで私もあの階段をのぼり四階にある教室へ通っていた。
ひとつ深呼吸をしてから靴を脱いで廊下に足を踏み入れた。足裏にひんやりとした感触を感じながら、外から見えない位置に靴を移動させる。
階段を一段ずつあがっていくと、懐かしいにおいがした。にぎやかな生徒の声や先生の声はもうここにはないけれど、壁に廊下に空気に、思い出が染みついている。
黒猫は三階の踊り場につくと、少し先にある『二―三 』と書かれた教室に消えた。うしろのドアが開いている。
不思議だ。昼間なのに月の光が廊下を浸している。それも銀色ではなく青い光が 。
青い世界に太陽の光がきらめいて いて、まるで海のなかにいるみたい。
おそるおそる教室のなかを覗きこんだ。
ひょっとしたら碧人がいたりして……。
わずかな期待は、すぐに打ち消された。
教室のうしろにある窓にもたれるように、ひとりの男子生徒が立っていた。うつむいているので顔は見えないけれど、普通科に知り合いはいない。
怖い人だったらどうしよう……。
急に怖くなり、足がすくんでしまう。彼が気づく前に逃げなくちゃ。
踵を返そうと足に力を入れたのがまずかった。床で滑りそうになり、近くにある椅子にとっさにつかまってしまった。その音に気づいた男子生徒がゆっくりと顔をあげた。
糸のように細い髪がサラリと揺れ、人懐っこそうな瞳が見えた。筋のとおった鼻と、真顔なのにもともと笑っているかのようにあがった口角。
彼は私に気づくと、白い歯を見せて笑った。
「こんにちは」
顔の印象と同じで、やわらかい声だった。
「こ……こんにちは」
かすれる声でなんとか挨拶をすると、彼は教壇へ目を向けた。教壇の上にさっきの黒猫がちょこんと座っている。
「連れてきてくれてありがとう」
うれしそうにそう言うが、黒猫は無視して毛づくろいをはじめている。
「今日は入学式だってね。君は、新入生?」
「いえ……二年生になりました」
「そう」
うなずいた男子生徒が、右手を喉のあたりに当てた。
「久しぶりに人と話をするから、うまく声が出ない」
「そんなこと……ないです」
私のほうが緊張で言葉が滑らかに出てこない。不思議と逃げ出したい気持ちはもう起こらなかった。
「去年までこのクラスだった遠山陸です。今は一応、三年生」
上級生だとわかり急に緊張してきた。
「わ、私は、二年一組です。空野実月です」
自己紹介をしていないことに気づいて慌てて頭を下げると、「へえ」と感心したような声が聞こえた。
「一組ってことは福祉科だよね? 僕はスポーツ科で推薦受けたけどダメでさ、一般で普通科になんとか入ることができたんだ。結局、部活はしてないけどね」
くだけた話し方になる遠山さんに、「そうですか」とゴニョゴニョと答えた。
笑みを浮かべたまま、彼は青い光をすくうように手のひらを眺めた。
「青い月が出ているね」
「あの、遠山さん」
「陸、でいいよ。僕の苗字、『遠山の金さん』と同じで好きじゃないんだ。昔は『金さん』ってあだ名で呼ばれてね――」
「陸さん」
話の途中で遮ってしまったのは、陸さんもこの青い月が見えていると知ったから。
「……陸さん、『青い月の伝説』のことを知っていますか?」
思わず半歩前に出てしまった。私を見て、陸さんは大きくうなずいた。
「知ってるよ。だから君を呼んでもらったんだ」
「え……」
それってどういうこと? 青い月の光のなかで手をつなぐ恋人が私ってこと?
きょとんとする私に、陸さんはおかしそうに笑いだした。
「君が伝説にある『ふたり』という意味じゃないよ。実月さんに頼みたいことがあるから、彼に呼んできてもらったんだ」
必死に毛づくろいをしている黒猫を見て、陸さんは言った。
「……頼みたいこと?」
「元カノに会いたくって」
「元カノ……」
話の意図が見えず、くり返すことしかできない。
「三年一組の立花涼音を連れてきてほしいんだ。今日でなくていいから、また青い月が出ることがあったらお願いできる?」
反射的に「はい」 とうなずいてから慌てて首を横にふった。こんな大切な要件をすぐに引き受けるわけにはいかない。
「あの……私が陸さんの元彼女さんをここに呼んでくる、ということですか?」
「そうだよ。そのときは君も一緒に来て、僕の言葉を彼女に伝えてほしい」
「私も、ですか?」
「僕は涼音と話ができないかもしれないから」
――碧人と同じだ。
学校では話をしない。伝えたいことがあっても伝えられない。モヤっとした気持ちがお腹に生まれた。
「失礼ですが……ご自身で伝えたほうがいいと思います」
「ああ、そうだね」
陸さんが小さく笑うのを見て、モヤモヤがさらに大きくなる。
「どうして自分で伝えないんですか? 大切なことは自分で伝えたほうがいいと思うんです」
大切じゃないことも伝えたい。伝えてほしい。でも、私だって碧人になにも伝えられていない。
ああ、そっか……。やっぱり碧人は私の気持ちを知ってしまったんだね。だから学校では露骨に避けるんだ。学校以外の場所でも本当は話したくないのかもしれない。
「わかってるよ。でも、できないんだ」
その声に、思考を中断させた。
まだほほ笑んでいる陸さんの表情に、悲しみの感情が存在している気がした。
教室全体をゆっくりと見渡したあと、陸さんは私に視線を戻した。
「僕も自分で伝えたかった。でも、僕の姿は彼女にはきっと見えない」
「……え?」
それってどういうこと? 戸惑う私を見て、陸さんは納得したように深くうなずいた。
「そこから説明しないとダメだったね。ごめん」
さみしげにそう言うと、彼は私の目をまっすぐに見つめた。
「君は伝説で言うところの『使者』なんだよ」
「使者……」
まさか、と思わず笑いそうになった。
陸さんはひとつうなずいてから言った。
「そして、僕はもう死んでいる」
「え?」
「俗に言う、幽霊ってヤツなんだよ」
穏やかな顔のまま、陸さんはそう言った。