ドアをノックする音に、目を開けた。
薄暗い天井に、カーテンの隙間から差しこむ光が泳いでいる。
「起きてる?」
「あ、うん」
答えるのと同時にドアが開き、お母さんが部屋に入ってきた。
「頭痛いのどう?」
「もう大丈夫。ナイトが治してくれたから」
「ナイト?」
きょとんとするお母さんに、やっと目が覚めた。
「なんでもない。今、何時?」
ベッドから起きあがると、ミネラルウォーターのペットボトルを差し出された。
「まだ午前中。終業式が終わったころじゃないかしら」
「そう……」
「念のため、病院に行こうか?」
心配そうに眉をハの字に下げるお母さんに、「大丈夫」と答えた。
「仕事に行っていいよ。もう平気だから」
「本当に?」
「うん」
「小野田さんとの契約があるんだけど、そのあと資料を持って行く約束をしているお客さんが何人かいるの。なにかあったらいつでも電話してね」
立ちあがろうとするお母さんに「ねえ」と声をかけた。
「美代子さんって、昔、娘さんを亡くしてるの?」
「……え?」
「佳代さんという名前で、修学旅行先の奈良県で事故に遭ったとか……」
お母さんが一瞬顔をこわばらせるのがわかった。でも、次の瞬間には「ええ」とうなずいた。
「すごく昔の話よ。いちばん下の娘さんが事故に遭ってね。当時は大変だったのよ」
やっぱりあの日会ったのは、本当の佳代さんだったんだ。
「誰に聞いたか知らないけれど、その話はあまりしないでね」
釘を刺すお母さんに、ふわりと疑問が浮かびあがった。
「しないよ。碧人もしないと思う」
お母さんはなかなか部屋から出て行ってくれない。迷うように、なにか考えるように視線を巡らせている。
「あの、ね……実月」
「うん」
「最近の実月はすごく元気そう。友だちも増えたみたいで、お母さんすごくうれしいのよ」
葉菜や瞳と仲良くなったことは、夕食のときなどに話している。今度、梨央奈を含めた四人が遊びに来ることも伝えてある。
気になるのは、うれしいはずなのにお母さんの表情がすぐれないことだ。
あ、そうか……。
「お母さんはさみしいよね。碧人の家族、引っ越しちゃったもんね」
「え……実月、そのこと知ってたの?」
今さらなにを、と思わず苦笑してしまう。
「碧人から聞いて知ってるよ。碧人も二学期からは奈良に引っ越すんだって」
「碧人くんも奈良に?」
「こないだ言われた。ずっと一緒だったのに、もう――会えなくなるんだよね」
幼なじみに戻る決心をしたのに、やっぱり悲しいよ。
もう学校で会うこともなくなる。話をすることもなくなってしまう。だけど、現実を変えることはできない。碧人をきちんと見送るためにも、決心を揺らがせてはいけない。
ふいにお母さんが私の手をギュッと握るから驚いてしまう。
「さみしいわよね? でも、人と人とはいつか別れるものだと思う。実月にはお母さんがついてるからね」
「急にどうしたの?」
お母さんはパッと手を離すと、慌てて部屋から出て行こうとする。
「なんでもないの。ほら、碧人くんのお母さんに会えなくなったから、さみしくって」
「お母さんたち、仲が良かったもんね」
口ではそう言ってみたものの、この一年、お母さんから碧人のおばさんの話題が出ることはなかった。
私が知らないところで話をしていたのかな……。
疑問を残したままお母さんは仕事に出かけて行った。
そういえば、夢のなかでナイトはヘンなことを言ってたっけ……。私が、片目をつむって生きているとか、この世界が残酷だとか。
ただの夢なのに、心になにか引っかかっている。
スマホを見ると、梨央奈から心配しているという内容のメッセージが数件届いていた。
「誰かを 頼れ、って言ってたよね……」
梨央奈に返信してから制服に着替えた。
カーテンを開けると、遠くの空に驚くほど大きな真昼の月がその姿を主張していた。
月が私を呼んでいる。私の役割をまっとう しろ、と告げている。
図書館への道を早足で歩く。
梨央奈に『これから旧校舎に行ってみる』とメッセージを打ったところ、終業式が終わったらしく、すぐに電話がかかってきた。
体調を心配する言葉のあと、なぜか梨央奈は『その前に図書館に集合』と言ってきた。
梅雨明けの街はすっかり夏の色をしている。熱い風が髪を揺らし、斜め上に真昼の月が夢で見たのと同じくらいの大きさで薄青色に光っている。
あの夏、碧人とふたりでここに来て『青い月の伝説』の絵本を見つけた。その瞬間走りだした恋は、結局碧人に追いつくことなく足を止めようとしている。
もうすぐ碧人は奈良へ行ってしまう。
なんてさみしい夏のはじまりなのだろう。セミの鳴く声まで悲しく聞こえる。
「お待たせ」
なぜか梨央奈が図書館のなかから出てきた。うしろには瞳と葉菜までいる。
「今日は休んでごめんね」
「ぜんぜん。図書館まで来てくれて悪いね」
梨央奈の笑顔がぎこちなく見えるのは気のせい?
「図書館に来るなんて珍しいね。夏休みの課題を調べに来たとか?」
「そういうわけじゃないけど……ちょっとね」
ごにょごにょと言うと、梨央奈は学校へ向かう道を歩きだす。瞳が私の隣に並んだ。
「体調はもういいのですか?」
心配してくれる瞳に、小さくうなずいた。
「ずいぶんラクになったよ。それに、青い月が出てるから」
見たこともないほどの大きさの月に、上空が支配されている。
「すごいですよね」
「こんなに大きな月、初めて見るね」
今にも空から落ちてきそうなほどだ。
「あの、実月……」
「ん?」
「いえ、なんでもないです」
早足で梨央奈のもとへ向かう瞳。梨央奈だけじゃなく、瞳の態度もぎこちない。どんどん違和感が大きくなっていく。
足のスピードを緩め、葉菜の隣に並んだ。
「葉菜も来てくれたんだね」
「あ、うん」
「三井くんはもう帰ったの?」
葉菜は小さく首を縦にふった。
「今日だけは友だちといたいから。実月のことを応援したいから」
碧人のことをあきらめる、という話をしたとき、葉菜はいなかったはず。おそらく、梨央奈から聞いたのだろう。
それから学校につくまでの間、私たちはほとんど会話らしい会話をしなかった。
みんなに遅れて教室に入ると、なぜか教壇に芳賀先生が立っていた。
「お帰り。空野さんは、おはよう」
「あ、どうも……」
さすがに病欠しているのに時間外に登校するのはマズかったのかも……。
気おくれする私にかまわず、梨央奈たちは教壇の近くの席に腰をおろした。私は梨央奈のうしろの席に座る。
「じゃあ」と芳賀先生が私たちを見回した。
「全員集合ってことではじめましょう」
「はじめる、ってなにを……ですか?」
芳賀先生は目が合うと同時に、やさしくほほ笑んでくれた。
「『青い月の伝説』についての授業よ。これから最後の使者になるんだよね? その前に、いろいろ整理しておきたくて借りに行ってもらったの」
梨央奈が芳賀先生に渡したのは、『青い月の伝説』の絵本。図書館に行ったのはこの本を借りるためだったんだ。
「なにを整理するんですか?」
また頭がキリキリと痛みだしている。謎の授業を阻止するように。聞いてはいけないと忠告しているように。
「実月」と、梨央奈が椅子ごとうしろを向いた。
「前に言ってたじゃん。碧人さんのことをあきらめる、って。それって本気で思ってるんだよね?」
こんなに真剣な顔は見たことがなかった。ほかのメンバーも私の口元を注視しているのがわかる。
芳賀先生の前でこういう話をしたくないのにな……。そう思うのと同時に勝手に口が開いていた。
「正直に言うと、まだ迷ってる。あきらめる、って決めても、その場で終わりにはできないから。そんな簡単な気持ちじゃないから」
芳賀先生が、チョークを手にし、黒板に文字を書きはじめた。
最初の数文字でなにを書こうとしているのかがわかった。
『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』
あの伝説に書いてあった文章だ。
芳賀先生は粉のついた手をはたいてから、教壇に両手を置いた。
「不思議な話よね。今でも小野田さんに会えたなんて夢での出来事みたい」
――『この世で起きることはぜんぶ夢さ』
ナイトの言葉がざらりと耳に届く。同時に、胸がキュっと痛くなった。
「でも」と、芳賀先生が声のトーンをあげた。
「私はたしかに小野田さんに会った。みんなも証明してくれるはず」
芳賀先生にみんながうなずいた。あれは現実のことだった。たしかに、私たちは佳代さんに会った……はず。
「先生ね、そのときに思ったの。ああ、これまでは小野田さんが亡くなったという事実を、夢だったことにしていたんだろうな、って。小野田さんの家で遺影に手を合わせても、お墓参りに行っても、心のどこかで亡くなったことを認めていなかったのよ」
「わかります」と、葉菜が静かに言った。
「私も姉の死を受け入れられなかった。なかったことにしたいのに、でもやっぱり現実は続いていて、だから……生きていたくなかった」
葉菜はずっと『死にたがり』だった。葵さんに会えたからこそ、『生きたがり』に変わったんだよね……。
「あたしはそういう人がいないからわからないけど、好きな人に会いたい気持ちはわかるよ」
梨央奈がそう言ってから、なぜか私を見た。その瞳はうるんでいて、また心臓がズキンと跳ねた。頭痛もこらえきれないくらいひどくなっている。
違和感がこの教室に満ちている。
なぜそんな目で私を見るの? どうしてここに集まったの?
ふと、ゆうべのナイトが言った言葉が頭に浮かんだ。
――『人間は片目をつむって生きてるんだ』
――『君はもっと現実世界を見る必要がある』
――『この世界の残酷さを知っても、君にはもうそれに耐えうる力があるはずだから』
ひょっとして……と思うのと同時に、体が揺れるほどの頭痛に襲われ悲鳴をあげてしまった。
梨央奈が椅子ごと隣の席に移動し、私の肩を抱き寄せた。
「こんな話をしてごめん。でも、みんな、実月に助けられたんだよ。あたしだってそう、たくさんの友だちがいることを教えてもらった」
鼻声の梨央奈。瞳も葉菜も顔をゆがませている。芳賀先生は、じっと私の顔を観察している。
「……私は」カラカラの声がこぼれた。
「ひょっとして……私も、なにかを夢だったことにしているの?」
思い出そうとしても、頭痛はどんどん激しくなっている。
だけど、だけど――みんながそうしたように私も自分の記憶と向き合いたい。
ギュッと目を閉じると、この数カ月間の出来事が脳裏に流れた。
交わす会話のなかに違和感がなかったといえばウソになる。引っかかることがあっても、見ないフリをしてきた。
閉じていた心の目を開けよう。
私が見ようとしなかった現実をしっかりと見つめたい。
頭のなかにふわりと映像が浮かぶのと同時に席から立ちあがっていた。
「ウソ……」
その映像は消えることなく、次の場面を映し出す。
「え、ウソでしょう。なにこれ……」
ぐらんと床が揺れた気がした。違う、自分の体から力が抜けているんだ。
足を踏ん張って耐えた。けれど、私が見ようとしてこなかった現実は、ダムが決壊したように次々に押し寄せてくる。
「実月!」
梨央奈が私の手をつかんだ。
「梨央奈……瞳、葉菜」
その名をうわごとのように呼ぶ。みんなは知っていたんだ。私が見てこなかった世界をとっくに知ってたんだ。
「思い出した?」
芳賀先生の言葉にうなずきながら、指先がおもしろいくらい震えていることに気づいた。手のひらがいつの間にか、窓からの青い光でキラキラ輝いている。
「私……行かなくちゃ」
「一緒に行きます」「私も」
やさしい瞳と葉菜に首を横にふった。
「大丈夫。ひとりで行く。ちゃんと向き合わなくちゃ」
「そうだね」
梨央奈が静かに言った。
「あたしたち、ここで待ってるよ。だから、行っておいで」
梨央奈がトンと背中を押してくれた。中腰だったふたりもゆっくり席につく。
芳賀先生はなにも言わず、力強くうなずいてくれた。
教室を飛び出すと、窓の向こうに落ちそうなほど大きな満月が青く光っていた。
旧校舎に飛びこみ、四階まで一気に駆けあがった。
全速力で走ってきたせいで、頭痛はさらにひどくなっている。呼吸のたびに頭がしめつけられ、めまいのような症状も起きている。
歯を喰いしばってゆっくり廊下を進むと、教室の前にナイトがいた。
「ナイト……」
荒い息を整えながら、その名を呼んだ。なにもかもを見透かした顔のナイト。
「思い出した。ぜんぶ、思い出したよ」
「にゃお」
ナイトについて教室に入ると、窓側に碧人が立っていた。
窓に背中を預け腕を組む碧人に、青い光がスポットライトのように当たっている。
「碧人」
「実月」
お互いの名前を呼び合い、そして沈黙。教壇に飛び乗ったナイトが、その場で体を丸くした。
碧人に近づくと、彼はバツの悪い顔になった。昔からそうだった。ウソがバレたときや、ケンカになったときはこういう表情をしていたね。
「わかったよ。碧人、ぜんぶわかった」
「……なにを?」
「ずっと不思議だった。この一年……碧人が部活でケガをしてから、小さな違和感ばかり覚えていたから」
「違和感って?」
碧人はもう目を伏せてしまっている。
「去年の二学期に『あまり話しかけないで』って言ったよね? 急に暑がりになって、ジャージじゃなく夏服しか着なくなった。スマホも解約したって言われた」
「ああ、たしかに」
「帰り道やマンションでは話してくれたけど、引っ越しとか転校とか、段階をつけて私から離れようとしていた。でも、ぜんぶウソだよね?」
もう碧人は、口をギュッと結んで微動だにしない。
「梨央奈は何度も会ったはずの碧人のことを忘れていたし、葉菜は『つき合ってたの?』って過去形で聞いてきた」
それだけじゃない。お母さんも前までは碧人の話を出すたびに、違う話題に変えてきた。あんなに仲がよかった碧人のおばさんの話もしなくなった。
「みんなも碧人の話を避けていた。まるでいない人のように……」
「小早川さんとは普通に話をしているけど?」
「瞳は霊感が強いから。きっと、どこかのタイミングで碧人が私にバレないようにお願いしたんじゃないかな。『普通に接してほしい』って」
碧人が顔をあげた。その瞳までもが、青く染まっている。
「本当にぜんぶ思い出したのなら、言ってみて。ぜんぶの答えを」
「碧人は……」
こみあげてくる涙をこらえて、私は言う。
「碧人は……去年の夏、事故で亡くなった。そして、幽霊になってしまったんだよね?」
景色が波のように揺れてももう迷わない。
心の目を開いて過去を見つめると、あの悲しい夏が音もなくよみがえった。
***
八月二日、晴れ。
うだるような暑さのなか、梨央奈と並んで歩いている。頭上から照りつける太陽に、梨央奈はさっきから不満ばっかり言っている。
「なんでこんな真夏にテニスの試合があるわけ? これじゃあメイクが崩れちゃう」
「会場は屋内だから涼しいと思うよ」
「にしても遠過ぎ。選手はいいよね。学校のバスで会場入りできるんだから」
三つ離れた駅にある県営の競技場はアクセスが悪い。市営のバスを降りてからもう十分は歩いている。遠くに見える建物がちっとも近づかない。
「でも碧人、一年生なのにすごいよね。今日の試合にぜんぶ勝てば、県の代表になるんだって」
「そりゃすごいけどさ、あたしまだほとんどしゃべったことないし」
「これを機会に仲良くなるといいよ」
「これを機会に、ねぇ」
梨央奈が急にニヤニヤし出した。
「前から思ってたんだけど、実月って碧人さんと幼なじみの関係だけじゃないでしょ? 本当は好きだって認めちゃいなよ」
こういう質問には慣れっこだ。
「碧人はただの幼なじみ。それ以上でもそれ以下でもないから。つき合ったりしたらいつか終わりが来るでしょ? 友情のほうが長く続くんだから」
まるで自分に言い聞かせているみたい。
「それってさ、長く続くのならば恋人同士のほうがいい、ってふうにも聞こえるけど?」
「違うって。そうじゃなくて――」
反論を途中で止めたのは、うしろからすごい勢いで救急車が音をかき鳴らして追い抜いていったから。一台だけじゃない。遅れて二台の救急車とパトカーまで。
なにか事故でもあったのかな。そう尋ねたいのに、なぜか言葉が出てこなかった。
足元から悪い予感が這いあがってくる気がして、歩幅を大きくする。
「待ってよ。あたし、走れないって」
梨央奈の文句もかまわず、競技場へ急ぐ。
会場の建物の前にある大きな交差点。さっきの救急車やパトカーが停まっている向こう側に、街路樹をなぎ倒して停車しているトラックが見えた。
その手前、横向きに倒れているバスが見えた。
あれは……うちの高校のバスだ!
悲鳴が聞こえる。救助されているのは、碧人と同じテニス部の男子生徒だった。
「え……ウソ」
目の前に立ち入り禁止のロープが設置された。
「入らないでください。下がってください!」
警察官の声が頭を素通りしていく。割れたガラスや、バスの部品が散らばっている。
事故だ……。バスが事故に遭ったんだ。
「碧人……」
その名前をつぶやき、ロープをくぐってなかへ。
バスから出ている黒煙にむせながら、碧人を探した。
そんなはずはない。こんなこと、起きるはずがない……!
誰かが私の肩をつかんできたけれど、無理やり引きはがした。
「碧人……碧人っ!」
バスが青いシートに覆われていく。隙間から、担架に乗せられる人が見えた。
シーツのようなものに覆われていて誰かわからない。
と、シーツから覗いている左の足首に、あの色が見えた。
赤色と青色と黄色の丸い輪っか。勝負に勝てるように、と願いをこめて作ったあのミサンガが――。
「心拍反応なし!」
救急車に乗りこむのと同時に、救急隊員のひとりが碧人に馬乗りになるのが見えた。人工呼吸をする姿を呆然と見ているうちに、ドアが閉められる。
梨央奈が駆けつけてくれたとき、私はその場所に座りこんでいた。
そこから先は、なにも覚えていない。
八月十日、曇り。
碧人のいない世界にひとり。
おばさんは泣きはらした顔で、さっき部屋までお礼を言いに来てくれた。
私は……なんて答えたのだろう。覚えていない、なにも覚えていない。
葬儀に参列できず、初七日法要にも顔を出せなかった。おばさんが涙ながらにお母さんと話す横で、私は夢を見ているような気分だった。
目を閉じれば碧人がまだいて、目を開けるといない。こっちが夢で、あっちが現実だと思った。
碧人はケガをしただけ。だってそうでしょう?
ほかの部員は無事だったんだから。
ねえ、そうでしょう?
今日が何日かわからない。
夏休みがもうすぐ終わることだけはわかっている。
みんな私にやさしい言葉をかけてくれる。今日は芳賀先生が家に来てくれた。
そんなことしなくてもいいのに。
二学期になれば、碧人は「よう」ってなにも変わらずに声をかけてくれるはずだから。
九月八日、雨。
『学校では話しかけないで』と言われてしまった。
だけど、平気だよ。碧人が無事でいてくれただけでいいの。
碧人がこの世にいてくれれば、私は生きていけるから。
***
まるで海のなかにいるみたい。
教室ごと深海に沈んだなか、取り残されたふたりぼっち。
あの事故は夢だと思って生きてきた。目の前にいる碧人は、現実に耐えられなかった私が見ていた幻だったの?
「ごめん」と、碧人が言った。
「実月の言うとおりだよ。俺はあの事故で死んでしまって、幽霊になったんだ」
「碧人……」
彼のうしろにある満月はあまりにも大きい。ゆっくり碧人が私に近づき、やっとその表情が見られた。
小さなころからいつも一緒にいたよね。恋を知ったあの日から、世界は碧人を中心に回り、それがもっと大きなよろこびを教えてくれた。
「幽霊になってすぐのころは、この教室から一歩も出られなかった。でも、死んで一週間が過ぎたくらいのころに、急に自由に動けるようになったんだ」
やさしく目を細める碧人。こんなにリアルなのに、碧人はもうこの世にいない。
そう考えると、さらに頭がしめつけられるように痛んだ。
「ひょっとして『青い月の伝説』を知っていた人の特典なのかも、って思ったけど違った。青い月が出てなくても好きな場所に行けたし」
学校帰りにいろんな話をしたよね。マンションのロビーでも。ぜんぶ、覚えているよ。私の思い出には碧人がいつもいた。だから、生きてこられたの。
だからこそ、幽霊になってしまったなんて信じたくないよ。
「幽霊は自分の強い願いや思いだけじゃ存在できない。実月が俺の死を受け入れなかったから、存在できたんだ。でも、俺の姿は実月や、霊感の強い人にしか見えない」
「うん」
「だから『話しかけないで』って言ってしまった。実月がおかしな人に思われたくなくてさ……」
「うん」
涙が視界をにじませていく。青い光がイルミネーションのようにキラキラ輝いている。
「実月は俺の死をなかったことにした。誰かが現実を諭そうとすると、パニックになり泣き叫んだ。だから……周りの人が実月の世界を壊さないようにしてくれたんだ」
ああ、そうだったんだ……。
夏休みの間、私は碧人が生きていると思いこんだ。
いろんな人が慰 めてくれた記憶がかすかに残っている。そのたびに部屋に閉じこもったことも思い出した。
最初のうちは真実を告げようと努力した人たちも、碧人のことに触れないルールを作ることで見守ってくれていたんだ……。
「誰からも俺の姿は見えないのに、実月には普通に見えていた。俺に教室で話しかけてきたときはアセった。周りのヤツら、ギョッとしてたから」
「ああ……だから、あんなこと言ったんだね」
「そして青い月が出た。思い残しを解消して消えるんだな、と覚悟したよ。でも、なぜか実月は使者になった。だから、実月が連れてくる人間とは会わないようにしてた。彼らから俺の姿は見えないから」
「……でも、小早川さんは?」
「小早川さんだけは俺の姿が見えていたから、あとでこっそりお願いをしたんだ。最初に見たときは震えてただろ?」
いろんなことが解決していく。すとんと胸に落ちる真実は、まるで碧人とのラストシーンみたい。
私たちの物語は終わりに向かって進んでいる。悲しくても前向きな完結に向けて一歩ずつ。
だけど、だけど……!
「私はこのままがいい。碧人といられるなら、なんでもやる。だから、どこにも行かないで」
碧人は「うん」とうなずいてくれた。
「いつまでも実月のそばにいようと思った。現実が受け入れられるまで、心配で仕方なかった」
「うん、うん……」
こらえていた涙がついに頬にこぼれた。
「でも、実月は変わった。幽霊の思い残しを解消していくうちに、強くなったんだよ」
「そんなことない。ダメなの。碧人がいないと、ダメ……」
嗚咽を漏らす私の肩を碧人がつかんだ。強い力を感じるのに、現実には存在していないなんて、やっぱり信じたくないよ。
「実月が成長していくたびに、俺の力は弱まっていった。今ではこの教室から出られなくなった」
「じゃあもう使者になんてならない。碧人のそばにいられるなら、ほかにはなんにもいらない」
「バカ」
そう言うと、碧人は肩に置いた手を背中に回し抱きしめてくれた。碧人のにおいに、涙がもっと止まらなくなる。
「実月はもう大丈夫。これからは、きちんとこの世界を生きていってほしい」
碧人のいない世界になんの意味があるのだろう。『青い月の伝説』は、永遠のしあわせをもたらしてくれるんじゃなかったの?
胸に顔をうずめたまま、何度も首を横にふった。
「そばにいたい。ひとりじゃなんにもできないよ……」
「ひとりじゃない。実月の世界を守ってくれた人がたくさんいるだろ? みんな実月がいつか乗り越えられるように連絡を取り合ってくれていた。その人たちを安心させてあげないと」
「でも……!」
顔をあげると、碧人の瞳から月色の涙がひとつ落ちた。
「俺だって悲しい。でも、これが俺たちのためなんだよ」
「碧人は、幽霊でいることが苦しいの?」
そう尋ねた私に、
「そうそう」
と、碧人は答えた。
「ウソついてる。幽霊でいるのは大丈夫ってこと?」
しまった、という顔で碧人は私の体からパッと離れ、手の甲で涙を拭う。
「心が穏やかなんだ。だから幽霊でいることはできる。でも、もうすぐこの校舎は取り壊されてしまう。そうなったら、俺は消えることになる」
「ほかの場所に移動するんじゃないの? どこでも行くよ。会えるんなら、私、どこでも行くから……」
だけど、碧人はスッと目を逸らしてしまった。
「これから先、また新しい場所に幽霊たちは集まるだろう。でも、この校舎に居ついた幽霊は、建物がなくなったら消えてしまうんだ。実際、商店街にいた霊たちは建物と一緒に消えていったから」
「そんな……」
どうしよう。どうしたらいいのかわからない。
ふと、教室に満ちていた光が弱まっていることに気づいた。
「今回、実月は使者だけじゃなく、あの伝説の主人公になった。ほかに幽霊はいないだろう?」
「あ……」
「俺の願いはたったひとつ。実月に、俺のいない世界を生きてほしいってこと」
私の願いも同じ。碧人に生きていてほしい。一緒に同じ時間を過ごしたい。
碧人がポケットからなにかを取り出し、私に握らせた。
それは――碧人にあげたミサンガだった。
「ついに切れたんだよ。つまり、俺の願いは叶うってことだろ?」
「碧人……」
嫌だよ、碧人のいない世界を生きていくなんてできない。
碧人の体を縁取る輪郭がぼやけだしている。もう、時間がないんだ……。
「幽霊になった人と関わるなかで、強くなれた気はしてる。だけど……」
「『だけど』は禁止」
「でも……」
「それも禁止」
ニッと笑う碧人に、思わず唇を尖らせてから少し笑った。
ああ、そうだった。私たちはいつもこんな感じだったよね。
「ほら」碧人が両手を差し出した。
「伝説では手をつなぐことになってるだろ?」
永遠のしあわせ……。私たちはもうすぐ離れてしまう。
もっと早く伝えるべきだった言葉を、今こそ伝えよう。そう自然に思えた。
「碧人、あなたのことが好きでした」
「え?」
戸惑う碧人の手を自分から握る。
「ずっと碧人のことが好きだった。関係を壊すのが怖くて言えなかったけれど、やっぱりちゃんと伝えたかった」
こんな状況で言われても困るのはわかるけれど、これまでたくさんの幽霊に会ってわかった。思い残しを手放していく ことが、毎日のなかで必要だということを。
眉間にシワを寄せた碧人。私を握る手の力が弱くなっている。
どんな答えでもいい、と思った。それは、告白をした瞬間、あんなにあった頭痛がウソのように消えていたから。
自分をだまして生きていたから、体が悲鳴をあげたのかもしれない。
「あーあ」
急に碧人が天井に顔を向けて嘆いた。
「俺のほうが先に言うつもりだったのに」
「え?」
「最後に告白してから消えるつもりだった。まさか、先に言われるなんて」
「そうだった……の?」
思わぬ展開に唖然としてしまう。
握られた手に、再び力がこめられた。
「ふたりで青い月を見た日から、実月を意識した。ううん、きっと前から好きだった。ずっとあった感情が、月の光に照らされたような感じがした。死んで最初に思ったのは、『実月に伝えるべきだった』ってこと。こういうのを、思い残しって言うんだろうな」
そうだったんだ……。うれしさに胸が熱くなったかと思った次の瞬間、さっきよりも熱い涙が頬を伝っていた。
碧人の姿がどんどん薄くなっていく。思い残しを解消できた今、彼は旅立とうとしている。
笑って見送らなくちゃ。碧人と私のために、青い月が用意してくれたラストシーンを演じなくちゃ……。
だけど――。
「納得できない」
はっきりそう言うと、碧人がびっくりしたように目を大きく開いた。
「だってそうでしょう?『永遠のしあわせがふたりに訪れる』という伝説がこのことなの? やっと想いを伝え合えたのにさよならするなんて、そんなの永遠じゃない」
「実月?」
話しているうちにモヤモヤが大きくなっていくのがわかる。
「碧人との思い出なんていらない。私は、碧人がこの世界からいなくなることが悲しいの。同じ気持ちだとわかったなら、なおさらそうだよ」
困ったように碧人はうつむいてしまう。
本当はわかっている。伝えられなかったのは私たちの強さであり弱さだということを。そっくりな私たちに、青い月がくれた最後の勇気だったということも。
「ナイト、最後のお願いを聞いてくれる?」
うずくまっていたナイトが耳だけをこっちに向けた。
「ちゃんとお別れするって約束するから。今日で最後にはしないで」
意外な提案だったのだろう、ナイトはひょいと顔をあげた。呆れた顔に見えるのは気のせいじゃない。
「この校舎が取り壊される日まで、碧人に会いたい。恋人として過ごせる時間がほしいの」
ナイトはなにも答えない。
「俺からもお願いするよ。旧校舎の工事がはじまったらちゃんと消える。それまでは実月のそばにいさせてほしい」
穏やかな顔で碧人はほほ笑んでくれた。
「……にゃん」
低い声でナイトが答えた。渋々納得してくれたことが伝わり、ふたりで思わず笑った。
明日からの夏休み。毎日ここに来よう。本当のさよならを伝える日に備えよう。
私なりにきちんと受け入れられるように強くなるから。
月が銀色の光に戻った。あんなに大きかった月は、はるか彼方で小さな円になっている。
碧人の手を強く握りしめれば、遠くからチャイムの音が聞こえてくる。
それはまるで、祝福の鐘のように耳に届いた。