青い月の下、君と二度目のさよならを

それは、期末テストの最中に起きた。

最後の科目はいちばん苦手な『介護福祉基礎』。瞳が予想してくれた問題がたくさん出題されていて、最後の問題まである程度答えることができた。答案用紙を見直していると、机ごと水に浸かったような感覚に陥った。

青色の光が答案用紙に落ちている。瞳も窓の外へ目を向けているのがわかった。

青空にぽっかりと丸い穴が開いている。真昼の月は薄い青で、秒ごとにどんどんその色を濃くしていくみたい。これは旧校舎に幽霊が現れる合図。

よかった。もう一度、旧校舎に行くことができるんだ。ナイトや幽霊に会える。そして――碧人もきっと来てくれる。

あきらめようと思ったとたん出てくるなんて、青い月も意地悪だ。同じくらい感謝もしているけれど。

最後に碧人と楽しく過ごそう。笑い合って、一緒に幽霊の思い残しを解決して、終わったらこの気持ちも忘れよう。

テストが終わると同時に、瞳が私を廊下に呼んだ。

「久しぶりに出ましたね」

「うん。しかも濃くなるスピードが速い気がする」

「かなり速いです。よほど強い思いの幽霊なんでしょうか?」

廊下も海のなかにいるみたいに青くゆらめいている。これが私にとって最後の使者としての役目になるのならがんばらなくちゃ。

気合いを入れると同時に、瞳の表情が浮かないことに気づいた。

「どうかした?」

「申し訳ないんですけど、今日は実月ひとりで行ってもらえますか?」

「え? なにか用事?」

てっきり一緒に行ってくれるものとばかり思っていたから驚いてしまう。

「用事はありません。碧人さんとふたりで会ったほうがいいと思うんです」

ああ、そうか……。ふたりで会ってちゃんと終わらせることを応援してくれているんだ……。

なにも行動には移さないと決めたけれど、今日で気持ち的には区切りをつけ、ただの幼なじみに戻りたい。

「ありがとう。そうしてみるね」

こめかみを押さえながらうなずいた。

「頭痛、治ってないのですか?」

「最近はずっとこんな感じ。きっと幽霊に会う副作用なのかも」

おどける私に、瞳はキュっと口をつぐんだ。なにかおかしなことを言ったのかな、と不安になってしまう。

しばらく黙ってから瞳はおずおずと気弱に私を見た。

「たぶんもっと前からだよ。去年くらいから、たまに顔をしかめてたから」

「ああ、そうかも……。一度病院に行ったほうがいいかな」

そんな話をしていると、トイレから出てきた葉菜がやってきた。

「昨日はごめんね。一緒に予習したかったんだけど、三井くん恥ずかしかったみたいで」

「三井くんといい感じだね」

昨日のふたりはまるで恋人同士のようだった。

ひょっとして告白をされたのですか?」

瞳の問いに、葉菜は「まさか」と目を丸くした。

「ただの友だちって感じだよ。昨日もわからないところをお互いに聞き合うくらいで、終わったらさっさと帰っちゃうし。別にいいんだけどね」

ちっともよくない、という雰囲気をにじませている葉菜がいじらしい。

恋をしてから、葉菜はよくしゃべるようになった。机に突っ伏していたのが夢だったかのように、いつもニコニコしている。

恋に勝者と敗者がいるのなら、間違いなく葉菜は前者で、私は……。

違う。私だって、前向きな気持ちで碧人との関係をリセットするのだから。

自分に言い訳をしている気分になってしまう。

「いい天気だね。梅雨も終わったのかな」

太陽みたいにまぶしい笑顔の葉菜に、もう青い月は見えていない。あえて言う必要もないだろう、と瞳と視線で会話をした。

テストの返却期間が終われば、夏休みになる。旧校舎ともお別れ。

いろんなことが終わる夏が、もうそこまで来ている。
旧校舎に着くころには、満月は真上で青く輝いていた。青空に空いた丸い穴からふる光が、世界を青色に染めている。

これも今日が最後になるのかな……。

碧人とふたりで会うのもこれが最後かもしれない。

ううん、違う。これからも幼なじみとしてなら会えるはず。

旧校舎の手前にある桜の木が、青色の葉を揺らしている。セミが一匹、鳴きながら逃げていった。

生命の輝きさえ悲しい色で瞳に映る。くじけそうな決心を抱えたまま、扉のほうへ進むと、ナイトがいつものように堂々と胸を張って座っていた。

「久しぶりだね」

なにも答えず、ナイトはゆっくりまばたきで返してくる。

「もうすぐこの建物、取り壊されるんだって。そうしたら、ナイトは違う場所へ行くの? 今日会う幽霊が最後のひとりなの?」

言いながら気づいた。前回は奈良の神社で幽霊に会った。佳代さんは、亡くなった場所から神社に引き寄せられた、と言っていたはず。

ということは、ここがなくなったとしても、違う場所に幽霊は集まるのかもしれない。

「あのね、ナイト……話したいことがあるの。これが私の使者として最後の役目なんだよね?」

楕円形の目に見つめられ、思わず目線を逸らした。

「伝説に参加できてうれしかった。でも、私は『使者』になれても、願いを叶えてもらう『ふたり』にはなれなかった。だから、ちゃんと区切りをつけなくちゃいけなくて……」

「いいんじゃない」

「え⁉」

ナイトがしゃべったのかと思ってギョッとしたけれど、すぐに碧人の声だとわかった。いつの間に か旧校舎のなかに立っている。

「碧人。え、先に入ってたの?」

「とっくにいた。こいつが入れってうるさいからさ」

あごでナイトを指す碧人。ナイトはツンと澄ました顔でさっさとなかに入っていく。

ひとりと一匹のあとを追いながら、頭のなかで自分が言ったことをくり返す。おかしなことを――碧人への気持ちを言葉にしてないよね?

碧人の背中を見つめながらのぼっていく。今までもそうだった。私がじっと見つめていられるのはいつもうしろ姿だけ。

この想いが消えたなら、碧人の顔をちゃんと見られるようになるはず……。

ナイトは四階へ着くと、トイレの横にある教室へ入っていく。

「え、ここって……」

去年まで私たちがいた一組の教室だ。

久しぶりに足を踏み入れると、懐かしいにおいに包まれた。今と比べると机も椅子も、床も天井だって古ぼけて見える。

「福祉科ってこんな感じなんだ」

「スポーツ科と一緒じゃないの?」

「いや」と碧人は空いている席に腰をおろした。

「うちのクラスにこんなモニターなかったし、ロッカーに扉もなかった」

「そういえばそうだね 」

夏休み前まではよく碧人の教室にも顔を出していた。あの日、『学校では話しかけないでほしい』と言われるまで、私の恋は順調だった。

今ならわかること。二学期になり、碧人は私を拒否した。友だちにからかわれたくないから、という理由はきっとウソだろう。

――最初からフラれていたんだ。

気づきたくなくて、私はずっと碧人にすがりついていた。一緒の帰り道やマンションで会うことが、切れそうな糸をかろうじてつないでくれていた。

でも、もうそれさえなくなった。

告白することはできなくても、ただの幼なじみに戻ることは表明しておきたい。

「あのね……」

口を開くと同時に、ぐわんと頭が揺れた気がした。激しい頭痛が一気に押し寄せてくる。空いている席に倒れこむように腰をおろした。

碧人は気づかずに、教壇へ足を進めると先生みたいに両手を置いた。

青い光がサラサラと碧人の顔をなでている。これがちゃんと会える最後になるのなら、その姿を目に焼きつけたかった。

なのに、碧人はヘンな顔をしている。

「幽霊、どこにいんの?」

言われて気づいた。そういえば、ここにいるはずの幽霊の姿が見えない。

「去年ここで亡くなった生徒っていないよな?」

「これまでのことを考えると場所は関係ないのかも。亡くなった時期がずっと前ってこともあるよね?」

「たしかに。せっかくだから俺、自分のクラス、見に行ってくる」

私の机にひょいとナイトが飛び乗ってきた。

「ナイト。ここで合ってるんだよね?」

「にゃん」

珍しく喉をゴロゴロ鳴らしている。触ろうとすると、隣の机に逃げてしまった。

少し離れた場所から見つめる視線が、いつもよりやさしく見えた。なにもかも見透かされている気がして、空に視線を逃がした。

青空に青い月が輝いていて、見えるものすべてをその色に染めている。

それはまるで、恋に似ている。好きな人は青い月のように、見える世界をその人の色に変えていく。

また碧人のことを考えていることに気づき、机に頬をつけた。ひんやりとした感覚が生きていることを実感させてくる。

「なあ」

碧人の声にゆるゆると顔をあげた。

「ぜんぶの教室を見たけど、どこにもいないんだけど」

教室の前の扉にもたれ、碧人は不満げに腕を組んだ。

「ひょっとしたら私のせいかもしれない」

「え、なんで?」

「……体調がよくなくって。勉強のし過ぎかも」

「それはないな。一夜漬けが(たた)ったんだろ?」

ニヤリと笑う碧人に、わざとらしくため息をついてみせた。

「うるさいな。碧人だってどうせ勉強してなかったんでしょ?」

「やってもやらなくても結果が同じなら、遊んでたほうがいいし」

そうそう、私たちはこんな感じだった。お互いをからかって、最後はふたりで大笑いしていた。

……きっと大丈夫。碧人と幼なじみに戻れるはず。

「とりあえず今日は帰ろうか。寝不足だし」

椅子から立ちあがる私に、碧人が「あのさ」と声のトーンを低くした。

碧人が『あのさ』と口にするときは、悪いニュースの前兆なことが多い。部活を辞めることも引っ越しをすることも、同じ言葉からはじまっていた。

思わず身構える私に、碧人は言った。

「二学期から奈良の高校に編入することになったんだ」

ニガッキカラ ナラノ コウコウニ――。

「……え、なんで?」

「どっちにしても二学期からは普通科に変わることになるし、それなら学校ごと変えちゃったほうがいいかも、って。親に言ったら大賛成でさ」

「そう、なんだ。でも……編入試験とかどうするの?」

「ないない。定員割れしてるとこみたいで、内申書だけでOKもらってる」

しん、とした教室にチャイムの音が聞こえた。

そういえば今日はチャイムが鳴っていなかったことを思い出す。これから幽霊が出てくるのかも……。

でも、もう帰りたくて仕方ない。

「いつ……引っ越すの?」

「今のアパートに引っ越してから日が経ってないだろ? 実は荷物、あんまり開けてなくてほとんど段ボールに入れたままでさ」
 
早めに引っ越しをするということなのだろう。

泣きたい。泣きたい。泣きたくてたまらない。

胸にこみあげてくるせつなさを無理やり押しこむと、また頭痛が視界を揺らした。

「……仕方ないよね」

そう言うと碧人はホッとしたような顔で笑う。

「いいタイミングだよな。ちょうどここも取り壊されるし」

旧校舎が壊されることは、碧人の引っ越しとは関係ないことでしょう? どうしてこんな悲しい話なのに笑っていられるの?

たくさんの疑問を吞みこんで、私も笑う。

「使者としての役割、ちゃんと手伝ってからにしてよね」

「もちろん。明日また出直すか」

外に出ると、青い月はもう見えなかった。引っ越しの準備があるのだろう、碧人はバス停へ走っていく。その背中を見送ってから、私も歩きだした。

頭のなかがぐちゃぐちゃ。心までぐにゃりとねじ曲がっている気がする。こんなに悲しいのに、涙が出てくれない。

どんどん私から離れていく碧人。一年かけて長い予告編を見せられた気分。ついに、本当に消えてしまうんだね。

幼なじみの関係に戻るとしても、まさか距離まで離れてしまうなんて。

でも、私は平気だよ。最初からずっとひとりぼっちだったから。
                  ***
 
夢のなかで、私は旧校舎の教室の窓辺に立っていた。

青い月が見たこともないほど大きく、手が届きそうなほどの距離に浮かんでいる。

ブルーサファイアよりも輝く光から目を背けると、机の上にナイトが座っていた。

「君はなにをしてるの?」

最初はナイトが話していると思わなかった。

教室を見渡す私に、

「君に話しかけてるんだよ、実月」

ナイトは前足で私を指してくる。

「あ、これ夢だったね」

やけにリアルな夢だ。青い光がちゃんと青色に見えているし、開けた窓からの風も頬に感じられる。

「この世で起きることはぜんぶ夢さ」

想像していたよりも低い声でナイトは答えた。

「ぜんぶ?」

「今起きていることも、次の瞬間には過去になる。残るのは頼りない君の記憶だけ。つまり、なかったことと同じ」

「そんなことない。思い出に残ることが大事でしょ」

反論する私に、ナイトは白い毛を誇示するように胸を張った。

「記憶は君の主観で構成されているから、正しい情報とは言えない。それに記憶は美化されてしまうからね。それにしがみつくなんて、人間はやっぱりバカだ」

さすがにムッとしてしまう。

なんでナイトにそこまで言われなくちゃいけないのよ。

「君はなにをしているの?」

ナイトは冷たい目で私をじっと見つめている。

「それ、さっきも聞いたよね? 別にここにいるだけだし」

「ふうん」

興味なさげにナイトはジョリジョリと 、ざらつく舌で右足の毛づくろいをはじめた。

「それより、なんでこの間は幽霊に会えなかったの? もう旧校舎が取り壊されるまで時間がないのに、間に合わないよ」

「学校も休んでるしね」

「え?」

言われて思い出した。昨夜から頭痛がひどくなり、今日の終業式を休んでしまったんだった。

朝ご飯を食べてからベッドに戻って……。今は何時くらいなのだろう?

「ひょっとして青い月が出てるの?」

「出てると思う?」

「まさか……夢のなかまで呼びに来たってこと?」

「だったらどうする?」 

質問だらけの会話じゃなんの答えも出ない。

「行かないよ」

「なんで?」

「だって……体調が悪いから」

ふん、と鼻から息を吐くナイト。

「正直、君が使者に選ばれたときは不満だし不安だった。でも、君はこれまで幽霊の思い残しを解決してくれた。かろうじて、ってレベルだけどね」

どうやらナイトは口が悪いらしい。騎士というよりは漫画に出てくるイヤミな上司みたい。

「体調は君の不安定な心を表わしている。それでも僕は使者に頼るしかない。痛みを和らげてあげるから、最後の役目をまっとうしてほしい」

たしかに前回、幽霊に会えなかったことは気になっていた。碧人ももうすぐいなくなるし、最後はふたりでがんばりたい気持ちがあるのはたしかなこと。

だけど……。

「どうして私たちが使者に選ばれたの? やっぱり青い月を見たから?」

「青い月を見られる人間は、自らも強い願いを抱えている。だけど、あの伝説に関わるにはカギが必要なんだ。君たちはあの日、カギを見つけたんだ」

「それって、『青い月の伝説』のこと?」

「そのとおり」

ふたりで絵本を見た日のことを、今でもリアルに思い出せる。静かな図書館、咳払いの音、本のにおい、碧人のはしゃぐ声。

「君が使者としておこなったことも、いつかは夢になる。だってこんな話、人間は信じないだろ?」

「うん……」

「現実世界は厳しいからね。人間は片目をつむって生きてるんだ。そのほうが傷ついたときに言い訳ができるから。でも、それじゃあ半分しか世界を見たことにならない」

「片目を……?」

「実月だって同じ。もっと現実世界を見る必要がある」

「ごめん。なにを言ってるのか――」

「わからない? 違う。わからないフリをしてるんだ」

キッパリ言い切るナイトに、眉をひそめてしまう。

私の複雑な気持ちを知らないからそんなことを言えるんだよ。言い返そうとしたけれど、なぜか口が開かなかった。

「だけど」とナイトが琥珀色の瞳を伏せた。

「君がしたことが夢だったとしても、僕だけは知ってる。君が必死で、幽霊たちの思い残しを解消したことを。そして、誰よりも碧人を好きなことを」

「え……」

体全体で伸びをしたナイトが、音もなく床に降り立った。

「あきらめようとするのもいいけど、一度閉じていた片目を開けてごらん。この世界の残酷さを知っても、君にはもうそれに耐えうる力があるはずだから」

「なにを――」と言いかける口を閉じた。

つい今、『わからないフリをしてる』って言われたばかりだ。

「自分の記憶を疑うなら、誰かに頼ってもいいんだよ。それが、君の世界の本当の色を教えてくれるはず」
 
ふり返りもせず、ナイトは教室から出て行ってしまった。

片目を閉じてみた。碧人への恋に似ていると思った。

幼なじみのフリをして、碧人のウソに合わせて、だけど苦しくって……。

あきらめようとすること自体、ナイトは反対していなかった。

「記憶……」

なにか私が忘れているってこと? 本当の色ってなんのこと?

今度は両目を閉じてみた。まぶたの裏にまだ青い光がちらついている。

静かな夢の終わりを、私は受け入れた。

                  ***
ドアをノックする音に、目を開けた。

薄暗い天井に、カーテンの隙間から差しこむ光が泳いでいる。

「起きてる?」

「あ、うん」

答えるのと同時にドアが開き、お母さんが部屋に入ってきた。

「頭痛いのどう?」

「もう大丈夫。ナイトが治してくれたから」

「ナイト?」

きょとんとするお母さんに、やっと目が覚めた。

「なんでもない。今、何時?」

ベッドから起きあがると、ミネラルウォーターのペットボトルを差し出された。

「まだ午前中。終業式が終わったころじゃないかしら」

「そう……」

「念のため、病院に行こうか?」

心配そうに眉をハの字に下げるお母さんに、「大丈夫」と答えた。

「仕事に行っていいよ。もう平気だから」

「本当に?」

「うん」

「小野田さんとの契約があるんだけど、そのあと資料を持って行く約束をしているお客さんが何人かいるの。なにかあったらいつでも電話してね」

立ちあがろうとするお母さんに「ねえ」と声をかけた。

「美代子さんって、昔、娘さんを亡くしてるの?」

「……え?」

「佳代さんという名前で、修学旅行先の奈良県で事故に遭ったとか……」

お母さんが一瞬顔をこわばらせるのがわかった。でも、次の瞬間には「ええ」とうなずいた。

「すごく昔の話よ。いちばん下の娘さんが事故に遭ってね。当時は大変だったのよ」

やっぱりあの日会ったのは、本当の佳代さんだったんだ。

「誰に聞いたか知らないけれど、その話はあまりしないでね」

釘を刺すお母さんに、ふわりと疑問が浮かびあがった。

「しないよ。碧人もしないと思う」

お母さんはなかなか部屋から出て行ってくれない。迷うように、なにか考えるように視線を巡らせている。

「あの、ね……実月」

「うん」

「最近の実月はすごく元気そう。友だちも増えたみたいで、お母さんすごくうれしいのよ」

葉菜や瞳と仲良くなったことは、夕食のときなどに話している。今度、梨央奈を含めた四人が遊びに来ることも伝えてある。

気になるのは、うれしいはずなのにお母さんの表情がすぐれないことだ。

あ、そうか……。

「お母さんはさみしいよね。碧人の家族、引っ越しちゃったもんね」

「え……実月、そのこと知ってたの?」

今さらなにを、と思わず苦笑してしまう。

「碧人から聞いて知ってるよ。碧人も二学期からは奈良に引っ越すんだって」

「碧人くんも奈良に?」

「こないだ言われた。ずっと一緒だったのに、もう――会えなくなるんだよね」

幼なじみに戻る決心をしたのに、やっぱり悲しいよ。

もう学校で会うこともなくなる。話をすることもなくなってしまう。だけど、現実を変えることはできない。碧人をきちんと見送るためにも、決心を揺らがせてはいけない。

ふいにお母さんが私の手をギュッと握るから驚いてしまう。

「さみしいわよね? でも、人と人とはいつか別れるものだと思う。実月にはお母さんがついてるからね」

「急にどうしたの?」

お母さんはパッと手を離すと、慌てて部屋から出て行こうとする。

「なんでもないの。ほら、碧人くんのお母さんに会えなくなったから、さみしくって」

「お母さんたち、仲が良かったもんね」

口ではそう言ってみたものの、この一年、お母さんから碧人のおばさんの話題が出ることはなかった。

私が知らないところで話をしていたのかな……。

疑問を残したままお母さんは仕事に出かけて行った。

そういえば、夢のなかでナイトはヘンなことを言ってたっけ……。私が、片目をつむって生きているとか、この世界が残酷だとか。

ただの夢なのに、心になにか引っかかっている。

スマホを見ると、梨央奈から心配しているという内容のメッセージが数件届いていた。

「誰かを 頼れ、って言ってたよね……」

梨央奈に返信してから制服に着替えた。

カーテンを開けると、遠くの空に驚くほど大きな真昼の月がその姿を主張していた。

月が私を呼んでいる。私の役割をまっとう しろ、と告げている。
図書館への道を早足で歩く。

梨央奈に『これから旧校舎に行ってみる』とメッセージを打ったところ、終業式が終わったらしく、すぐに電話がかかってきた。

体調を心配する言葉のあと、なぜか梨央奈は『その前に図書館に集合』と言ってきた。

梅雨明けの街はすっかり夏の色をしている。熱い風が髪を揺らし、斜め上に真昼の月が夢で見たのと同じくらいの大きさで薄青色に光っている。

あの夏、碧人とふたりでここに来て『青い月の伝説』の絵本を見つけた。その瞬間走りだした恋は、結局碧人に追いつくことなく足を止めようとしている。

もうすぐ碧人は奈良へ行ってしまう。

なんてさみしい夏のはじまりなのだろう。セミの鳴く声まで悲しく聞こえる。

「お待たせ」

なぜか梨央奈が図書館のなかから出てきた。うしろには瞳と葉菜までいる。

「今日は休んでごめんね」

「ぜんぜん。図書館まで来てくれて悪いね」

梨央奈の笑顔がぎこちなく見えるのは気のせい? 

「図書館に来るなんて珍しいね。夏休みの課題を調べに来たとか?」

「そういうわけじゃないけど……ちょっとね」

ごにょごにょと言うと、梨央奈は学校へ向かう道を歩きだす。瞳が私の隣に並んだ。

「体調はもういいのですか?」

心配してくれる瞳に、小さくうなずいた。

「ずいぶんラクになったよ。それに、青い月が出てるから」

見たこともないほどの大きさの月に、上空が支配されている。

「すごいですよね」

「こんなに大きな月、初めて見るね」

今にも空から落ちてきそうなほどだ。

「あの、実月……」

「ん?」

「いえ、なんでもないです」

早足で梨央奈のもとへ向かう瞳。梨央奈だけじゃなく、瞳の態度もぎこちない。どんどん違和感が大きくなっていく。

足のスピードを緩め、葉菜の隣に並んだ。

「葉菜も来てくれたんだね」

「あ、うん」

「三井くんはもう帰ったの?」

葉菜は小さく首を縦にふった。

「今日だけは友だちといたいから。実月のことを応援したいから」

碧人のことをあきらめる、という話をしたとき、葉菜はいなかったはず。おそらく、梨央奈から聞いたのだろう。

それから学校につくまでの間、私たちはほとんど会話らしい会話をしなかった。

みんなに遅れて教室に入ると、なぜか教壇に芳賀先生が立っていた。

「お帰り。空野さんは、おはよう」

「あ、どうも……」

さすがに病欠しているのに時間外に登校するのはマズかったのかも……。

気おくれする私にかまわず、梨央奈たちは教壇の近くの席に腰をおろした。私は梨央奈のうしろの席に座る。

「じゃあ」と芳賀先生が私たちを見回した。

「全員集合ってことではじめましょう」

「はじめる、ってなにを……ですか?」

芳賀先生は目が合うと同時に、やさしくほほ笑んでくれた。

「『青い月の伝説』についての授業よ。これから最後の使者になるんだよね? その前に、いろいろ整理しておきたくて借りに行ってもらったの」

梨央奈が芳賀先生に渡したのは、『青い月の伝説』の絵本。図書館に行ったのはこの本を借りるためだったんだ。

「なにを整理するんですか?」

また頭がキリキリと痛みだしている。謎の授業を阻止するように。聞いてはいけないと忠告しているように。

「実月」と、梨央奈が椅子ごとうしろを向いた。

「前に言ってたじゃん。碧人さんのことをあきらめる、って。それって本気で思ってるんだよね?」

こんなに真剣な顔は見たことがなかった。ほかのメンバーも私の口元を注視しているのがわかる。

芳賀先生の前でこういう話をしたくないのにな……。そう思うのと同時に勝手に口が開いていた。

「正直に言うと、まだ迷ってる。あきらめる、って決めても、その場で終わりにはできないから。そんな簡単な気持ちじゃないから」

芳賀先生が、チョークを手にし、黒板に文字を書きはじめた。

最初の数文字でなにを書こうとしているのかがわかった。

『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』

あの伝説に書いてあった文章だ。

芳賀先生は粉のついた手をはたいてから、教壇に両手を置いた。

「不思議な話よね。今でも小野田さんに会えたなんて夢での出来事みたい」

――『この世で起きることはぜんぶ夢さ』

ナイトの言葉がざらりと耳に届く。同時に、胸がキュっと痛くなった。

「でも」と、芳賀先生が声のトーンをあげた。

「私はたしかに小野田さんに会った。みんなも証明してくれるはず」

芳賀先生にみんながうなずいた。あれは現実のことだった。たしかに、私たちは佳代さんに会った……はず。

「先生ね、そのときに思ったの。ああ、これまでは小野田さんが亡くなったという事実を、夢だったことにしていたんだろうな、って。小野田さんの家で遺影に手を合わせても、お墓参りに行っても、心のどこかで亡くなったことを認めていなかったのよ」

「わかります」と、葉菜が静かに言った。

「私も姉の死を受け入れられなかった。なかったことにしたいのに、でもやっぱり現実は続いていて、だから……生きていたくなかった」

葉菜はずっと『死にたがり』だった。葵さんに会えたからこそ、『生きたがり』に変わったんだよね……。

「あたしはそういう人がいないからわからないけど、好きな人に会いたい気持ちはわかるよ」

梨央奈がそう言ってから、なぜか私を見た。その瞳はうるんでいて、また心臓がズキンと跳ねた。頭痛もこらえきれないくらいひどくなっている。

違和感がこの教室に満ちている。

なぜそんな目で私を見るの? どうしてここに集まったの?

ふと、ゆうべのナイトが言った言葉が頭に浮かんだ。

――『人間は片目をつむって生きてるんだ』

――『君はもっと現実世界を見る必要がある』

――『この世界の残酷さを知っても、君にはもうそれに耐えうる力があるはずだから』
ひょっとして……と思うのと同時に、体が揺れるほどの頭痛に襲われ悲鳴をあげてしまった。

梨央奈が椅子ごと隣の席に移動し、私の肩を抱き寄せた。

「こんな話をしてごめん。でも、みんな、実月に助けられたんだよ。あたしだってそう、たくさんの友だちがいることを教えてもらった」

鼻声の梨央奈。瞳も葉菜も顔をゆがませている。芳賀先生は、じっと私の顔を観察している。

「……私は」カラカラの声がこぼれた。

「ひょっとして……私も、なにかを夢だったことにしているの?」

思い出そうとしても、頭痛はどんどん激しくなっている。

だけど、だけど――みんながそうしたように私も自分の記憶と向き合いたい。

ギュッと目を閉じると、この数カ月間の出来事が脳裏に流れた。

交わす会話のなかに違和感がなかったといえばウソになる。引っかかることがあっても、見ないフリをしてきた。

閉じていた心の目を開けよう。

私が見ようとしなかった現実をしっかりと見つめたい。

頭のなかにふわりと映像が浮かぶのと同時に席から立ちあがっていた。

「ウソ……」

その映像は消えることなく、次の場面を映し出す。

「え、ウソでしょう。なにこれ……」

ぐらんと床が揺れた気がした。違う、自分の体から力が抜けているんだ。

足を踏ん張って耐えた。けれど、私が見ようとしてこなかった現実は、ダムが決壊したように次々に押し寄せてくる。

「実月!」

梨央奈が私の手をつかんだ。

「梨央奈……瞳、葉菜」

その名をうわごとのように呼ぶ。みんなは知っていたんだ。私が見てこなかった世界をとっくに知ってたんだ。

「思い出した?」

芳賀先生の言葉にうなずきながら、指先がおもしろいくらい震えていることに気づいた。手のひらがいつの間にか、窓からの青い光でキラキラ輝いている。

「私……行かなくちゃ」

「一緒に行きます」「私も」

やさしい瞳と葉菜に首を横にふった。

「大丈夫。ひとりで行く。ちゃんと向き合わなくちゃ」

「そうだね」

梨央奈が静かに言った。

「あたしたち、ここで待ってるよ。だから、行っておいで」

梨央奈がトンと背中を押してくれた。中腰だったふたりもゆっくり席につく。

芳賀先生はなにも言わず、力強くうなずいてくれた。

教室を飛び出すと、窓の向こうに落ちそうなほど大きな満月が青く光っていた。
旧校舎に飛びこみ、四階まで一気に駆けあがった。

全速力で走ってきたせいで、頭痛はさらにひどくなっている。呼吸のたびに頭がしめつけられ、めまいのような症状も起きている。

歯を()いしばってゆっくり廊下を進むと、教室の前にナイトがいた。

「ナイト……」

荒い息を整えながら、その名を呼んだ。なにもかもを見透かした顔のナイト。

「思い出した。ぜんぶ、思い出したよ」

「にゃお」

ナイトについて教室に入ると、窓側に碧人が立っていた。

窓に背中を預け腕を組む碧人に、青い光がスポットライトのように当たっている。

「碧人」

「実月」

お互いの名前を呼び合い、そして沈黙。教壇に飛び乗ったナイトが、その場で体を丸くした。

碧人に近づくと、彼はバツの悪い顔になった。昔からそうだった。ウソがバレたときや、ケンカになったときはこういう表情をしていたね。

「わかったよ。碧人、ぜんぶわかった」

「……なにを?」

「ずっと不思議だった。この一年……碧人が部活でケガをしてから、小さな違和感ばかり覚えていたから」

「違和感って?」

碧人はもう目を伏せてしまっている。

「去年の二学期に『あまり話しかけないで』って言ったよね? 急に暑がりになって、ジャージじゃなく夏服しか着なくなった。スマホも解約したって言われた」

「ああ、たしかに」

「帰り道やマンションでは話してくれたけど、引っ越しとか転校とか、段階をつけて私から離れようとしていた。でも、ぜんぶウソだよね?」

もう碧人は、口をギュッと結んで微動だにしない。

「梨央奈は何度も会ったはずの碧人のことを忘れていたし、葉菜は『つき合ってたの?』って過去形で聞いてきた」

それだけじゃない。お母さんも前までは碧人の話を出すたびに、違う話題に変えてきた。あんなに仲がよかった碧人のおばさんの話もしなくなった。

「みんなも碧人の話を避けていた。まるでいない人のように……」

「小早川さんとは普通に話をしているけど?」

「瞳は霊感が強いから。きっと、どこかのタイミングで碧人が私にバレないようにお願いしたんじゃないかな。『普通に接してほしい』って」

碧人が顔をあげた。その瞳までもが、青く染まっている。

「本当にぜんぶ思い出したのなら、言ってみて。ぜんぶの答えを」

「碧人は……」

こみあげてくる涙をこらえて、私は言う。

「碧人は……去年の夏、事故で亡くなった。そして、幽霊になってしまったんだよね?」

景色が波のように揺れてももう迷わない。

心の目を開いて過去を見つめると、あの悲しい夏が音もなくよみがえった。
                  ***


八月二日、晴れ。


うだるような暑さのなか、梨央奈と並んで歩いている。頭上から照りつける太陽に、梨央奈はさっきから不満ばっかり言っている。

「なんでこんな真夏にテニスの試合があるわけ? これじゃあメイクが崩れちゃう」

「会場は屋内だから涼しいと思うよ」

「にしても遠過ぎ。選手はいいよね。学校のバスで会場入りできるんだから」

三つ離れた駅にある県営の競技場はアクセスが悪い。市営のバスを降りてからもう十分は歩いている。遠くに見える建物がちっとも近づかない。

「でも碧人、一年生なのにすごいよね。今日の試合にぜんぶ勝てば、県の代表になるんだって」

「そりゃすごいけどさ、あたしまだほとんどしゃべったことないし」

「これを機会に仲良くなるといいよ」

「これを機会に、ねぇ」

梨央奈が急にニヤニヤし出した。

「前から思ってたんだけど、実月って碧人さんと幼なじみの関係だけじゃないでしょ? 本当は好きだって認めちゃいなよ」

こういう質問には慣れっこだ。

「碧人はただの幼なじみ。それ以上でもそれ以下でもないから。つき合ったりしたらいつか終わりが来るでしょ? 友情のほうが長く続くんだから」

まるで自分に言い聞かせているみたい。

「それってさ、長く続くのならば恋人同士のほうがいい、ってふうにも聞こえるけど?」

「違うって。そうじゃなくて――」

反論を途中で止めたのは、うしろからすごい勢いで救急車が音をかき鳴らして追い抜いていったから。一台だけじゃない。遅れて二台の救急車とパトカーまで。

なにか事故でもあったのかな。そう尋ねたいのに、なぜか言葉が出てこなかった。

足元から悪い予感が這いあがってくる気がして、歩幅を大きくする。

「待ってよ。あたし、走れないって」

梨央奈の文句もかまわず、競技場へ急ぐ。

会場の建物の前にある大きな交差点。さっきの救急車やパトカーが停まっている向こう側に、街路樹をなぎ倒して停車しているトラックが見えた。

その手前、横向きに倒れているバスが見えた。

あれは……うちの高校のバスだ! 

悲鳴が聞こえる。救助されているのは、碧人と同じテニス部の男子生徒だった。

「え……ウソ」

目の前に立ち入り禁止のロープが設置された。

「入らないでください。下がってください!」

警察官の声が頭を素通りしていく。割れたガラスや、バスの部品が散らばっている。

事故だ……。バスが事故に遭ったんだ。

「碧人……」

その名前をつぶやき、ロープをくぐってなかへ。

バスから出ている黒煙にむせながら、碧人を探した。

そんなはずはない。こんなこと、起きるはずがない……!

誰かが私の肩をつかんできたけれど、無理やり引きはがした。

「碧人……碧人っ!」 

バスが青いシートに覆われていく。隙間から、(たん)()に乗せられる人が見えた。

シーツのようなものに覆われていて誰かわからない。

と、シーツから覗いている左の足首に、あの色が見えた。

赤色と青色と黄色の丸い輪っか。勝負に勝てるように、と願いをこめて作ったあのミサンガが――。

「心拍反応なし!」

救急車に乗りこむのと同時に、救急隊員のひとりが碧人に馬乗りになるのが見えた。人工呼吸をする姿を呆然と見ているうちに、ドアが閉められる。

梨央奈が駆けつけてくれたとき、私はその場所に座りこんでいた。

そこから先は、なにも覚えていない。
八月十日、曇り。

碧人のいない世界にひとり。

おばさんは泣きはらした顔で、さっき部屋までお礼を言いに来てくれた。

私は……なんて答えたのだろう。覚えていない、なにも覚えていない。

葬儀に参列できず、初七日(しょなのか)法要(ほうよう)にも顔を出せなかった。おばさんが涙ながらにお母さんと話す横で、私は夢を見ているような気分だった。

目を閉じれば碧人がまだいて、目を開けるといない。こっちが夢で、あっちが現実だと思った。

碧人はケガをしただけ。だってそうでしょう?

ほかの部員は無事だったんだから。

ねえ、そうでしょう?