着替えをしてマンションを出ると、空にはほぼ満月の形の月が輝いていた。青い月よりもはるか遠くで、サラサラと銀色の光を落としている。
きっと私たちに見えている青い月は、現実のものじゃない。
あの『青い月の伝説』を読んだ人の特権だとはとても思えない。それならもっとたくさんの人が目撃できるはずだから。
まさか自分が使者になるとは思っていなかったけれど、碧人との共通点だから平気。
道路を渡り、葉菜さんの家へ向かう。
「集中しないと……」
今は碧人のことは横に置いておき、葵さんと葉菜さんのことを考えなくちゃ。
思うそばから自信がなくなる。
葵さんには、全力で拒絶された。妹である葉菜さんも同じ反応をするだろうな……。
インターフォンの前に立っても、なかなかボタンを押す勇気が出ない。
友だちでもないのに、いきなり家に来られても困るだろう。会う理由も、いろいろ考えてはみたけれど、どれもしっくりこない。
思考に集中し過ぎていたのだろう、誰かが歩いて来るのに気づかなかった。
驚いた顔で近づいてくるのは、葉菜さんだった。隣にはお母さんと思われる女性がいて、ふたりは揃いのジャージ姿だ。
ヤバい、と思ったときにはもう遅かった。
「すみません。ウォーキングに出かけてまして」
愛想よく駆けてくるおばさんに、
「いえ」
首を横にふる。葉菜さんは、信じられないような顔で私を見ている。
「あの、うちにご用事なのよね?」
「あ……はい」
そのあとが続かない。むしろ、足が勝手にあとずさりをはじめている。
家を間違えたことにして、今日は帰ろう。そう思ったときだった。
「実月さんじゃん」
葉菜さんが私の腕に抱きついてきた。
え……今の、葉菜さんが言ったの? 想像よりも明るい声で、葉菜さんはうれしそうに笑っている。
「ビックリした。まさか実月さんがうちに来てくれるなんて」
「うん。急に……ごめんね」
驚きのあまり、ぎこちなくなってしまった。
「ああ、葉菜と同じクラスの子? ひょっとして、そこのマンションに住んでる人?」
ホッとしたようにおばさんがほほ笑んでくれた。
「そうです。空野実月です。あの、葉菜さんと少し話がしたくって……。夜なのにすみません」
意外な展開にバクバクと心臓が鳴っている。
「えー、うれしい。じゃあさ、そこの公園に行こうよ。ちょっと行ってくるね」
おばさんにそう言うと、
「行こ」
と葉菜さんは私を促した。
歩きだしてから葉菜さんは家のほうを自然な感じでふり返った。おばさんが家に戻ったことを確認すると、パッと腕から離れた。
怒られることを覚悟する私に、
「ごめん」
彼女はつぶやくような声で言った。
「え?」
「親しげにしちゃってごめん」
「私こそ、突然押しかけてしまってごめんね」
返事も聞かず、葉菜さんは近くにある公園へ急ぐ。
公園といっても芝生が広がっているだけで、遊具はひとつもない空き地。周りを散歩用の歩道が囲っていて、ウォーキングしている人がちらほら見える。
歩道にいくつか置かれたベンチのひとつに葉菜さんが腰をおろしたので、私も隣に座る。
「ちゃんと学校に行けてないこと、うちの親、すごく心配してるんだ。だから、友だちはいることにしてる。本当はいないのに。実月さんが近くの マンションだって知ってたから、たまにウソの話をしてた」
ああ、だから親しげな態度を取っていたんだ。
「ぜんぜんかまわないよ。もう友だちだし」
私の言葉に目を丸くした葉菜さん。けれど、すぐにその表情は曇ってしまう。
「芳賀先生に頼まれたから来たんでしょう?」
「え?」
「普通科に変わることを考え直してほしい、って……え、違うの?」
眉をひそめる葉菜さんは、やっぱり葵さんそっくりだ。
「葉菜さん、普通科に移っちゃうの?」
「うん」
と、ため息と一緒に葉菜さんはうなずいた。
「みんな知らないと思うけど、一時間目の途中くらいに登校はしてるんだよ。といっても、教室じゃなくて学習室へ直行してる。で、みんなの授業が終わる前にこっそり帰ってる」
週に一度くらいしか登校してないと思っていたから驚いた。
「それなら出席日数は足りてるんだよね?」
「でも、これからはムリなんだ。介護実習に行けそうもないから」
二学期からはグループに分かれ、介護施設での実習が本格的にはじまる。
ただでさえ、週に一回程度しか教室に顔を出さな い葉菜さんには厳しいのだろう。
「葉菜さん、一年生の自己紹介のときに『介護の道に進みたい』って言ってたよね?」
「ああ」と懐かしそうに葉菜さんが目を細めた。
「ずっとなりたかったし、今もそう。でも、私にはその資格がないってことがわかった。だから、普通科に移るの」
地面をなめるように吹く風に、葉菜さんの髪が躍る。その姿が、孤独に捕らわれている葵さんと重なった。
「資格ならひとつはもう取ったよね?」
一年生のときに『介護職員初任者研修』という資格を取った。たしか、葉菜さんも取得できたはず。
「それに卒業すれば介護福祉士の受験資格だって――」
「違う」
強く否定したあと、葉菜さんは恥じるようにうつむいてしまった。
「違うの。その資格のことじゃなくて……。せっかく話してくれてるのにごめんね」
体を小さくした葉菜さんが、「私」と小声で続けた。
「死にたがりなの」
「……死にたがり?」
初めて聞く言葉だった。
躍る髪を押さえながら葉菜さんはうなずいた。
「早く死にたい、っていつも思ってる。介護の道に進めば、そういう気持ちも消えてくれるかもって思ってた。でも、そうじゃなかった。死にたい私が、生きたい誰かを支えられるはずないもん」
じゃあどうしてそんなに悲しそうなの? 瞳がうるんでいるのはなぜ?
聞きたい言葉をあえて吞みこんだのは、今は葉菜さんに話してほしかったから。
「介護の道を目指していた人がいたの。その人みたいに私もなりたかった。でも、もういない。その日からずっと、死にたがりなんだ」
きっと葵さんのことだ。
葵さんが亡くなってから、夢だけじゃなく生きる気力さえ失くしてしまったのかもしれない。
「でも、安心して。死んでるように生きてるだけで、自殺しようとは思ってないから」
「……うん」
ウォーキングしている人は、私たちを仲のいい高校生だと思ってるのだろう。まさか、死ぬことについて話しているなんて誰も思わない。
洟をすすったあと、葉菜さんはわずかに首をかしげた。
「どうして私に会いに来たの? 明日もテストなのに」
「ああ、うん……」
今度は私が話す番だと、背筋を伸ばした。
最初は葵さんのことをぜんぶ話すつもりだった。すべて話して拒否されたら仕方ないとも思っていた。
だけど、今は違う。生きることに絶望している葉菜さんを助けたい。
「明日の放課後、旧校舎に来てほしいの」
「え……?」
きょとんとする葉菜さんに、頭を下げた。
「ヘンなお願いだってわかってる。だけど、どうしても来てほしい」
「なんで、って質問してもいい?」
葉菜さんの声に顔をあげた。視線が合うと同時に、スッと目を逸らされた。
「今は言えない。でも、信じてほしい」
迷うように視線をさまよわさせたあと、葉菜さんは鼻から息を吐いた。
「よくわからないけど、行くよ。でも、同じクラスの子と一緒とかはムリかも」
「ほかのクラスの男子とかは?」
「もっとムリ」
碧人について来てほしかったけれど、見たとたんに逃げ出してしまうかもしれない。
「じゃあ、ふたりきりで会おう」
葉菜さんの表情が少しやわらかくなった。
「でも、なんで旧校舎……あ、質問はダメなんだよね」
教室でのふさぎこんだ表情でも、おばさんの前で見せた 作り笑顔でもなく、自然な笑みを浮かべている。
「葉菜さんの死にたがりを変えたいから。きっと、生きたがりに変えてみせるから」
そう言うと、葉菜さんは小さく笑った。
「初めてしゃべったけど、実月さんてなんかおもしろいね」
「碧人にはヘンっていつも言われてる」
ブスっとする私に、葉菜さんは「え」と短く言った。
「碧人って、スポーツ科の清瀬くんのこと? 実月さんと同じマンションの?」
「碧人のこと知ってるの?」
驚く私に、葉菜さんはあいまいにうなずいた。
「私立の中学に通ってたの。テニス部に入ってて、たまに男子の試合も応援に行ってて……」
その頬が暗がりでも赤く染まっている気がした。まさか、葉菜さんも碧人のことを……?
思ってもいなかった展開に、今度は私のほうが目を伏せてしまった。
「そうなんだ。碧人、テニスがうまいからね」
軽い口調を意識しても、つっかえては意味がない。
口を『あ』の形にして固まった葉菜さんが、ごくりとつばを吞みこむのがわかった。
「ひょっとして……清瀬くんとつき合ってたの?」
「まさか!」
秒で否定してしまった。
「あ、ごめん……。余計なことだよね」
うなだれる葉菜さんを見て、しまったと気づいても遅い。
ああ、なんで碧人の話題なんて出してしまったのだろう。
「そんなことより、明日のことのほうが大事だから」
強引に話題を戻しても、さっきみたいな穏やかな雰囲気は、もうない。
ぎこちないまま、その日は別れた。
きっと私たちに見えている青い月は、現実のものじゃない。
あの『青い月の伝説』を読んだ人の特権だとはとても思えない。それならもっとたくさんの人が目撃できるはずだから。
まさか自分が使者になるとは思っていなかったけれど、碧人との共通点だから平気。
道路を渡り、葉菜さんの家へ向かう。
「集中しないと……」
今は碧人のことは横に置いておき、葵さんと葉菜さんのことを考えなくちゃ。
思うそばから自信がなくなる。
葵さんには、全力で拒絶された。妹である葉菜さんも同じ反応をするだろうな……。
インターフォンの前に立っても、なかなかボタンを押す勇気が出ない。
友だちでもないのに、いきなり家に来られても困るだろう。会う理由も、いろいろ考えてはみたけれど、どれもしっくりこない。
思考に集中し過ぎていたのだろう、誰かが歩いて来るのに気づかなかった。
驚いた顔で近づいてくるのは、葉菜さんだった。隣にはお母さんと思われる女性がいて、ふたりは揃いのジャージ姿だ。
ヤバい、と思ったときにはもう遅かった。
「すみません。ウォーキングに出かけてまして」
愛想よく駆けてくるおばさんに、
「いえ」
首を横にふる。葉菜さんは、信じられないような顔で私を見ている。
「あの、うちにご用事なのよね?」
「あ……はい」
そのあとが続かない。むしろ、足が勝手にあとずさりをはじめている。
家を間違えたことにして、今日は帰ろう。そう思ったときだった。
「実月さんじゃん」
葉菜さんが私の腕に抱きついてきた。
え……今の、葉菜さんが言ったの? 想像よりも明るい声で、葉菜さんはうれしそうに笑っている。
「ビックリした。まさか実月さんがうちに来てくれるなんて」
「うん。急に……ごめんね」
驚きのあまり、ぎこちなくなってしまった。
「ああ、葉菜と同じクラスの子? ひょっとして、そこのマンションに住んでる人?」
ホッとしたようにおばさんがほほ笑んでくれた。
「そうです。空野実月です。あの、葉菜さんと少し話がしたくって……。夜なのにすみません」
意外な展開にバクバクと心臓が鳴っている。
「えー、うれしい。じゃあさ、そこの公園に行こうよ。ちょっと行ってくるね」
おばさんにそう言うと、
「行こ」
と葉菜さんは私を促した。
歩きだしてから葉菜さんは家のほうを自然な感じでふり返った。おばさんが家に戻ったことを確認すると、パッと腕から離れた。
怒られることを覚悟する私に、
「ごめん」
彼女はつぶやくような声で言った。
「え?」
「親しげにしちゃってごめん」
「私こそ、突然押しかけてしまってごめんね」
返事も聞かず、葉菜さんは近くにある公園へ急ぐ。
公園といっても芝生が広がっているだけで、遊具はひとつもない空き地。周りを散歩用の歩道が囲っていて、ウォーキングしている人がちらほら見える。
歩道にいくつか置かれたベンチのひとつに葉菜さんが腰をおろしたので、私も隣に座る。
「ちゃんと学校に行けてないこと、うちの親、すごく心配してるんだ。だから、友だちはいることにしてる。本当はいないのに。実月さんが近くの マンションだって知ってたから、たまにウソの話をしてた」
ああ、だから親しげな態度を取っていたんだ。
「ぜんぜんかまわないよ。もう友だちだし」
私の言葉に目を丸くした葉菜さん。けれど、すぐにその表情は曇ってしまう。
「芳賀先生に頼まれたから来たんでしょう?」
「え?」
「普通科に変わることを考え直してほしい、って……え、違うの?」
眉をひそめる葉菜さんは、やっぱり葵さんそっくりだ。
「葉菜さん、普通科に移っちゃうの?」
「うん」
と、ため息と一緒に葉菜さんはうなずいた。
「みんな知らないと思うけど、一時間目の途中くらいに登校はしてるんだよ。といっても、教室じゃなくて学習室へ直行してる。で、みんなの授業が終わる前にこっそり帰ってる」
週に一度くらいしか登校してないと思っていたから驚いた。
「それなら出席日数は足りてるんだよね?」
「でも、これからはムリなんだ。介護実習に行けそうもないから」
二学期からはグループに分かれ、介護施設での実習が本格的にはじまる。
ただでさえ、週に一回程度しか教室に顔を出さな い葉菜さんには厳しいのだろう。
「葉菜さん、一年生の自己紹介のときに『介護の道に進みたい』って言ってたよね?」
「ああ」と懐かしそうに葉菜さんが目を細めた。
「ずっとなりたかったし、今もそう。でも、私にはその資格がないってことがわかった。だから、普通科に移るの」
地面をなめるように吹く風に、葉菜さんの髪が躍る。その姿が、孤独に捕らわれている葵さんと重なった。
「資格ならひとつはもう取ったよね?」
一年生のときに『介護職員初任者研修』という資格を取った。たしか、葉菜さんも取得できたはず。
「それに卒業すれば介護福祉士の受験資格だって――」
「違う」
強く否定したあと、葉菜さんは恥じるようにうつむいてしまった。
「違うの。その資格のことじゃなくて……。せっかく話してくれてるのにごめんね」
体を小さくした葉菜さんが、「私」と小声で続けた。
「死にたがりなの」
「……死にたがり?」
初めて聞く言葉だった。
躍る髪を押さえながら葉菜さんはうなずいた。
「早く死にたい、っていつも思ってる。介護の道に進めば、そういう気持ちも消えてくれるかもって思ってた。でも、そうじゃなかった。死にたい私が、生きたい誰かを支えられるはずないもん」
じゃあどうしてそんなに悲しそうなの? 瞳がうるんでいるのはなぜ?
聞きたい言葉をあえて吞みこんだのは、今は葉菜さんに話してほしかったから。
「介護の道を目指していた人がいたの。その人みたいに私もなりたかった。でも、もういない。その日からずっと、死にたがりなんだ」
きっと葵さんのことだ。
葵さんが亡くなってから、夢だけじゃなく生きる気力さえ失くしてしまったのかもしれない。
「でも、安心して。死んでるように生きてるだけで、自殺しようとは思ってないから」
「……うん」
ウォーキングしている人は、私たちを仲のいい高校生だと思ってるのだろう。まさか、死ぬことについて話しているなんて誰も思わない。
洟をすすったあと、葉菜さんはわずかに首をかしげた。
「どうして私に会いに来たの? 明日もテストなのに」
「ああ、うん……」
今度は私が話す番だと、背筋を伸ばした。
最初は葵さんのことをぜんぶ話すつもりだった。すべて話して拒否されたら仕方ないとも思っていた。
だけど、今は違う。生きることに絶望している葉菜さんを助けたい。
「明日の放課後、旧校舎に来てほしいの」
「え……?」
きょとんとする葉菜さんに、頭を下げた。
「ヘンなお願いだってわかってる。だけど、どうしても来てほしい」
「なんで、って質問してもいい?」
葉菜さんの声に顔をあげた。視線が合うと同時に、スッと目を逸らされた。
「今は言えない。でも、信じてほしい」
迷うように視線をさまよわさせたあと、葉菜さんは鼻から息を吐いた。
「よくわからないけど、行くよ。でも、同じクラスの子と一緒とかはムリかも」
「ほかのクラスの男子とかは?」
「もっとムリ」
碧人について来てほしかったけれど、見たとたんに逃げ出してしまうかもしれない。
「じゃあ、ふたりきりで会おう」
葉菜さんの表情が少しやわらかくなった。
「でも、なんで旧校舎……あ、質問はダメなんだよね」
教室でのふさぎこんだ表情でも、おばさんの前で見せた 作り笑顔でもなく、自然な笑みを浮かべている。
「葉菜さんの死にたがりを変えたいから。きっと、生きたがりに変えてみせるから」
そう言うと、葉菜さんは小さく笑った。
「初めてしゃべったけど、実月さんてなんかおもしろいね」
「碧人にはヘンっていつも言われてる」
ブスっとする私に、葉菜さんは「え」と短く言った。
「碧人って、スポーツ科の清瀬くんのこと? 実月さんと同じマンションの?」
「碧人のこと知ってるの?」
驚く私に、葉菜さんはあいまいにうなずいた。
「私立の中学に通ってたの。テニス部に入ってて、たまに男子の試合も応援に行ってて……」
その頬が暗がりでも赤く染まっている気がした。まさか、葉菜さんも碧人のことを……?
思ってもいなかった展開に、今度は私のほうが目を伏せてしまった。
「そうなんだ。碧人、テニスがうまいからね」
軽い口調を意識しても、つっかえては意味がない。
口を『あ』の形にして固まった葉菜さんが、ごくりとつばを吞みこむのがわかった。
「ひょっとして……清瀬くんとつき合ってたの?」
「まさか!」
秒で否定してしまった。
「あ、ごめん……。余計なことだよね」
うなだれる葉菜さんを見て、しまったと気づいても遅い。
ああ、なんで碧人の話題なんて出してしまったのだろう。
「そんなことより、明日のことのほうが大事だから」
強引に話題を戻しても、さっきみたいな穏やかな雰囲気は、もうない。
ぎこちないまま、その日は別れた。