青い月の下、君と二度目のさよならを

中間テスト三日目は、朝から雨が降っている。

午後になり小降りになったけれど、雨は明日の昼まで続くという予報。新しい校舎は前よりも壁が厚いらしく、雨の音はほとんど耳に届かない。

「てことで、最終日もがんばってね。明日は午後に研修旅行の説明会もあるからね」

芳賀先生がそう言った。

みんなが帰って行くのをぼんやりと見る。

あの日以来、青い月は姿を見せていない。もう五月も月末に近い。

ホッとしているのが半分、もどかしい気持ちも半分。関わらないほうがいいと思っていても、あの女性に会った日、久しぶりにお父さんの話ができた。

お父さんの話題を避けてきた私にとってはすごいことだと思う。

使者としての役割を与えられたのなら、私にできることをしたい。彼女の苦しみや悲しみを癒してあげたかった。

でも、な……。この雨で当分の間、青い月は姿を見せないだろう。それに明日は満月。

ネットで調べたところ、実際に青い月が観測されるのは満月の日以外のことらしい。月と地球の位置関係上、とか書いてあったけれど、詳しいことはわからない。

葉菜さんはこの三日間、テストを受けるために登校している。朝は私よりもギリギリだし、休み時間は机に突っ伏していて、テストが終わるとホームルームを待たずに帰ってしまう。

あの女性がお姉さんかどうかを聞くことができないまま、今日も終わろうとしている。

誰もいなくなった教室の窓から、線のように細い雨が見える。

「実月」

急に名前を呼ばれ、驚きのあまり体ごと飛び跳ねてしまった。

教室のうしろの戸から現れたのは碧人だった。

「テストお疲れさん」

教室に入ってきた碧人が、隣の席にひょいと腰かけた。

「福祉科はテスト科目が多くて大変だよな」

「スポーツ科だって同じでしょ」

「うちはそこまで多くないし、筆記の科目は点数取れなくても平気。実技テストの結果が大事だからな」

気持ちよさそうに伸びをする碧人を見ていたら、重い気持ちが少しだけ軽くなった気がした。

「実技っていえば、足のほうは大丈夫なの?」

「現状維持ってところ。生きている間はつき合うしかないんだろうな」

「そう……」

声のトーンが落ちてしまった。元気づけなくちゃ、と顔をあげれば碧人が笑いを噛み殺している。

「なんか『しまった』って顔してる」

「そ、そんなこと……」
 
思いっきり動揺してしまった。

「心配してくれてありがとう」

ひょいと左足をあげ、私があげたミサンガを指さす碧人。

「このお守りがあるから大丈夫」

私を見つめる碧人の瞳がやさしい。そうだよね、昔からお互いの気持ちを言葉にしなくてもわかり合えていたから。

碧人を好きになってしまったことに、罪悪感ばかり覚えていた。ルールを破ったのは私なのに、碧人の言葉や態度にふり回される自分が嫌いになった。

でも、不思議。最近では、告白はできなくても、碧人を好きになったことを後悔しなくなった。むしろ、必然だったとさえ思えている。

どれくらい見つめ合っていたのだろう、碧人が先に視線を逸らした。

「引っ越しの準備が大変過ぎて、そのせいで体が痛い。なんたって二カ所に荷物を送らなくちゃいけないから」

冗談っぽく笑うから、私も同じように目じりを下げるの。

「引っ越しって経験ないけど、そうとう大変なんだってね」

「やってもやっても終わらない。こんなに荷物あったっけ?って、毎日発掘作業してる」

「碧人の部屋、昔はすごかったもんね」

なんでもかんでも集めるクセはあいかわらずらしい。

「思い出がたくさん詰まってるから、どれも捨てられないんだろうな」

「だろうなって、なんで()()(ごと)なの?」

「俺じゃなくて母親の話だから。俺がものを捨てられないのは遺伝で間違いない」

と、碧人はおどけている。

「おばさん、腰痛あったよね? テスト終わったら手伝いに行こうか?」

おばさんにもずいぶん会ってないな……。昔は気軽に遊びに行けたけれど、高校生になってからはさすがに恥ずかしくて。

「俺もそう言ったんだけど、私物を見られるのが嫌なんだってさ。放置しといていいから」

「そのぶん碧人ががんばらないとね」

まかせとけ、と言う代わりに、碧人は胸をドンとたたいてみ せたあと、「あ」と短く声を発した。目線が窓の外に向いている。

「見て」

碧人の指す空には、灰色の雨雲が広がっている。上空は風が強いらしく、すごい速さで雲が流れている。

「え、どこ?」

「あの雲の間をしばらく見てて」

やがて、碧人の言おうとしていることがわかった。雲の切れ間から、時折、うっすらと月が顔を出している。

「こんな雨の日に月が見えるなんて……」

「たぶん俺たちにだけ見えてるんだと思う。ほら、薄い青色で光ってる」

言われて気づいた。満月に近い形の月が顔を出すたびに、そこだけ青空みたいな色になっている。 実際に観測される青い月と、この月は関係がないみたいだ。

ということは、あの女性が旧校舎に現れているということ?

「まいったな」と、困ったように碧人はハの字に眉を下げた。

「今日は旧校舎に行けないわ。明日もテストだし、引っ越しの準備もあるし」

立ちあがると同時に碧人は歩きだした。

「あ、うん」

「実月も今回はスルーしたほうがいい。じゃあ、またな」

最後のほうの言葉は、ほとんど聞こえなかった。それくらい急いでいるのだろう。

でも、碧人と教室で話ができたなんてうれしいな。先月までは学校では視線すら合わせてくれなかったから……。

ひょっとしたら碧人も私のことを――。

ふわりと浮かぶ空想、いや、妄想を打ち消す。いくらなんでも飛躍し過ぎだろう。

話ができるだけでもうれしいのだから、次を求めちゃダメ。欲張りになる自分を(いまし)めながら教室を出た。

雨のなか、旧校舎は灰色にくすんでいる。さみしそうに、悲しそうに。

あの女性もきっと、誰かに会いたい。こんな天気でも青い月が出ているのは、彼女が助けを求めているからかも……。

「行っちゃダメ」

揺らぐ気持ちに言い聞かせる。『二度とここへは来ないで』と、言われたばかりじゃない。あんな冷たく言われたのに、どうして気になってしまうんだろう。

ふん、と鼻から息を吐き、階段をおりる。いつも以上に足を強く踏みしめて。

一階で靴を履き替えていると、開きっぱなしの昇降口の向こうで雨がさわいでいる。まるで家に帰ろうとする私を非難するように。

迷う気持ちはある。でも、ひとりで行ってもできることなんてないし……。

ふと、なにか声が聞こえた気がしてあたりを見回す。昇降口に目を向ければ、あの黒猫が、雨をバックに座っていた。

「にゃあ」

まるで『迎えに来た』と言っているように、彼は鳴いた。
「ねえ、雨だから今日はやめない?」

薄暗い旧校舎をのぼりながら黒猫に尋ねるけれど、前回と同様にまるで無視。しなやかに屋上へ続く階段をのぼっていく。

「明日もテストなの。テストって言葉の意味、わかる?」

絶対にこの猫は人間の言葉がわかっているはず。なのに、ちっとも反応してくれない。呼びに来るなら、せめて碧人がいるときにしてくれればよかったのに。

とはいえ、きっと幽霊に会うことになるのだろう。今回は靴とカサを持ってきた。

屋上の扉の前で黒猫がやっと視線を合わせてくれた。黒いしっぽが遅れてピンと伸びた。胸元の毛が、薄暗いなかでも生クリームのように真っ白なのがわかる。

「君って、騎士みたい。ナイトって名前で呼んでもいい?」

ピクピクと鼻を動かした黒猫が、「にゃ」と短く鳴いた。

同意? 否定? わからないままカサを手に扉を開けると同時に、雨が顔にふりそそいだ。慌ててカサを広げていると、雨の音に負けそうなほど小さな音でチャイムが聞こえてくる。

屋上の景色は前回とはまるで違った。激しく降る雨が景色をけぶらせ、大きな海原に取り残された船にいるみたい。

月が顔を出すたびに、コンクリートの床に青い光がほのかにゆらめいている。

黒猫は水たまりを突っ切るようにスタスタ歩いていく。よく見ると、彼の毛はまったく()れていない。

「え、君も幽霊……なの?」

「にゃあ」

でも、クラスのみんなにも黒猫――ナイトは見えていたはず。人間と幽霊の中間みたいな存在なのかな……。

あの女性は前回と同じ場所に立っていた。彼女も雨に濡れることなく、美しい横顔で遠くを眺めている。

私に気づいた瞬間、彼女の髪がふわりと舞いあがった。

「来ないで、って言ったよね?」

鋭い視線に負けそうになりながら、なんとか手すりまでたどり着いた。

「すみません。どうしても気になってしまって……」

本当は黒猫に呼ばれたのだけど、正直に答えてしまったらどうなるかは想像がつく。

やはり、葉菜さんに似ていると思った。鼻の形や唇、醸し出す雰囲気までそっくりだ。

「なにが『気になってしまって』よ。ふざけないで」

「……はい」

体がすくむほどの鋭い視線に耐え切れず、雨が跳ねるコンクリートに目を落としてしまう。

なにか言いたいけれど、口が動いてくれない。

「見てわからないの? 私はもう生きてない。死んでるんだよ」

彼女だけでなく、雨にまで責められている気分になる。

やっぱり、私にできることなんてないのかもしれない。どうして来てしまったのだろう……。

「生きている人間はいいよね。自分に関係のないことならやさしくなれるから。親切そうな顔で、なんだって言える」

カサを持つ手に力を入れないと、雨に負けて落としてしまいそう。

「私の悲しみや苦しみは誰にもわかってもらえない。わかってもらいたくもない!」

青い光が、コンクリートに彼女の影を作った。炎のように髪の影がゆらめいている。

どんな言葉も彼女には届かない。でも、苦しんでいるのはたしかだと思った。

「正直、わからないです。ごめんなさい」

ふり絞った勇気で、なんとか言葉にした。

「……は?」

「だけど、わかりたいって思います。ここにいるっていうことは、なにかに苦しんでいるからですよね? きっと誰かに――」

「ふざけんな!」

爆発したかのような大声とともに、私の体はコンクリートにたたきつけられていた。

一瞬でびしょ濡れになり、数秒後に右肩に激痛が走った。

顔だけでなく口のなかにまで雨が入りこんでくる。

なんとか上半身を起こすと、ゆっくり女性が近づいてくるのが見えた。握りしめてる拳が震えていて、髪は嵐のなかにいるように踊り狂っている。

「みんなウソつき。家族も先生も医者も、誰も本当のことを言わなかった。聞いてもウソばっかり。もっと早く病気のことを知っていたら違ったのに。やりたいこともできたのに!」

手すりにつかまろうと手を伸ばす。あと少しで届きそうなところで、ふわりと体が浮いた感覚のあと、再度コンクリートにたたきつけられる。激しく舞い散る水しぶきに息ができない。

「あんたもウソをついてる。こんな場所に閉じこめられ た私のことをわかりたいなんてウソだ!」

絶叫しながら女性は泣いているように見えた。顔をゆがめ、憤りを体全部で表現している。

「ウソつき! ウソつき! ウソつき!」

手を伸ばしてくる女性の目は、怒りで赤く燃えている。

ああ、やっぱりダメだった。私にはなんにもできなかった。

「いい加減にしろ!」

突然の怒鳴り声にハッと顔をあげた。大きな背中が私の前に立ちふさがっている。

「大丈夫か?」

あごをこっちに向けて尋ねたのは――碧人だった。

助けに来てくれたんだ……。

「実月に手を出すな」

こんな怒った碧人は初めて見た。

「あ……」

ここからは見えないけれど、我に返ったような女性の声が聞こえた。

転がっていたカサを碧人が渡してくれたけれど、手が震えてうまく持てない。

カサを手にした碧人が私の肩を引き寄せた。

「碧人……」

「やっぱり気になって戻ってきた。実月なら、きっと行くだろうなって。それとも、こいつに無理やり連れてこられたのか?」

ギロッとナイトをにらむ碧人。澄ました顔でナイトはそっぽを向いている。

女性の目はもう赤くなかった。自分のしたことが信じられないような顔で、両手を見つめている。

「碧人、ありがとう。もう大丈夫だと思う。彼女とふたりで話をさせて」

そう言うが、碧人は抱きしめる腕を離さない。

「そんな簡単に幽霊を信用するな」

女性がチラッと碧人を見たが、言い返す気力もないのか、口をキュっと閉じてうつむいてしまう。

「本当に大丈夫だって。たぶん女子同士のほうが話しやすいと思うから、階段のところで待ってて」

不思議と怖さよりも、彼女を理解したい気持ちが勝っていた。

渋々碧人が去ったあと、今度こそ手すりにつかまって立ちあがった。

「あなたをわかりたい気持ちは本当のことです」

もう、怖くはなかった。

「最初は、使者として仕方なくやっていました。でも、今は違います。『青い月の伝説』は本当にあるんです。だから、あなたをしあわせにしたいんです」

「なに……それ。使者? 青い月?」

右肩は雨に打たれるだけでも 悲鳴をあげたいほどに痛い。それでも、ちゃんと伝えなくちゃ……。

「絵本に書いてありました。『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』って」

女性がうつろな瞳で黒猫を見た。

「知らない。私……そんなの知らない」

「話を聞かせてください。私にできることをさせてください」

「なにも言いたくないし、してもらいたくない。どうせ私は、死んでしまったのだから」

どれほどの期間、彼女はここにいるのだろう。ひとりぼっちで誰とも話せず、きっと心まで死にかけているんだ。

「お願いします。私に協力させてください!」

痛みに耐えながら叫んだ。 

女性はしばらくうつむいてから、首をゆるゆると横にふった。炎のような髪も重力に負け、左右に軽く揺れている。

「ムリだよ。この校舎、夏休みになったら取り壊されるんだって。そのときが、本当にこの世から消えるときだってわかってる。あと少しだから……もう平気」

「でも……」

「いいから私のことは忘れて」

はっきりとした口調で言ってから、女性が私の右手をチラッと見た。さっき擦りむいたのだろう、手首からわずかな血が雨に溶けていた。

「ケガをさせてごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」

「大丈夫です。こんなの、かすり傷ですから」

「でも」と女性は恥じるように目を伏せた。

「お願いだからここへは来ないでほしい。これ以上、私の心を乱さないで」

背を向ける女性。激しく降る雨が、彼女の怒りと悲しみを表わしているように思える。

ナイトが私をチラッと見た。わかってるよ。このまま帰ることなんてできないってことは。

聞こえないように深呼吸をしてから、勇気を出して前に進んだ。

「持田葉菜さんを知っていますか?」

その名前を出すのと同時に、女性の体が大きく揺れた。

「あなたは、持田葉菜さんのお姉さんですか?」

信じられないような表情でふり向く彼女を見て確信した。やっぱり葉菜さんのお姉さんなんだ……。

「あなたは……葉菜と同じクラス……なの?」

「はい。二年一組の空野実月です」

「葉菜は……元気でいる……の?」

最後は聞き取れないほどの小さな声で、女性はその場に崩れるように座りこんだ。両手を顔に当てて、声を殺して泣いている。

まだ雨は、私たちを責めるように降っていた。
学校を出るころには、雨もあがっていた。

青い月も消え、さっきまで灰色だった空が朱色に塗り替えられていく。

「助けてくれてありがとう」

隣を歩く碧人に言うと、カサをたたみながら「いや」と唇を尖 らせた。

「実月の性格なら、旧校舎に行くかもしれないことを、もっと早くに気づくべきだった」

「行くつもりはなかったんだけど、ナイトが呼びに来たから」

「ナイト? ああ、あの黒猫のことか。たしかに騎士っぽいな」

私の考えていることを、碧人はすぐに理解してくれる。だからこそ、好きな気持ちだけはバレないようにしないと。

「しかし、あの幽霊が……名前、なんだっけ?」

(あおい)さん。三年前に亡くなったんだって」

「まさか葵さんの妹が、こないだ見かけた菜葉(なは)さんだとは」

「葉菜さんだよ」

碧人は昔から、人の名前を覚えるのが苦手だ。

「あれ、そう言ったつもりだけど」

平然とそんなことを言う碧人に、やっと少し笑えた。

「で、どうすんの? 葉菜さんに会いに行くつもり?」

碧人の問いに口をつぐむ。葵さんは、亡くなってからの三年間、ずっと旧校舎にひとり取り残されている。

思い残しについて尋ねたところ、迷わずに『葉菜に会いたい』と涙にむせびながら口にした。

「葉菜さんに話をしに行きたいけど、この格好だし……」

悲しいくらい制服はビショビショで、汚れもひどい。血は止まったけれどケガもしているこの状況で会いに行けば不審がられるだろう。

「一度帰ってから会いに行くよ」

会いに行くことに迷いはなかった。葵さんの願いを叶えてあげたいと思った。

「俺もついて行きたいけど、同性同士のほうがいいんだろ?」

「葉菜さんが話を聞いてくれるとは思えないけど、そのほうがいいかな」

ほとんど話をしたことがないのに、いきなり訪ねて行っても大丈夫だろうか。

少しずつ距離を縮めてから話をしたいのが本音だ。

碧人がもう青くない月を見やった。

「明日も青い月が出る、って言われたんだっけ?」

「葵さんはそう言ってた。そのあと一カ月くらいは出ないんだって」

「幽霊ってそんなことまでわかるんだな」

感心したように碧人はマンションへ入っていく。

ちょうど一カ 月後に研修旅行があるので、明日を逃せばしばらく葵さんには会えない。ううん、夏休みに突入したら旧校舎を取り壊すから、二度と会えないかもしれない。

「しかし、実月は昔のまんまだよな」

エレベーターホールの中央で、碧人は足を止めた。

「どういうこと?」

「昔から困っている人を見たらほっとけなかった。小学校のとき、俺が家のカギを落としたときだって、遅くまで一緒に探してくれたよな」

「ああ、そんなこともあったね。カギをなくしたっていうのに、碧人、ぜんぜん平気な顔してた」

ふわりとあの日の記憶がよみがえる。

碧人が寄った場所をふたりで探し回った。公園や書店、コンビニまで、碧人の行動範囲があまりに広過ぎて絶望したのを覚えている。

「逆に実月は、自分が失くしたみたいに必死で探してくれた」

「碧人が叱られちゃったらかわいそうだから」 

前までは取りつくろったウソで乗り切っていた。でも、自分の気持ちをちゃんと言葉にすることを決めたから。

そう考えると、もっと葉菜さんを葵さんに会わせたくなる。大切な人に会えるということは当たり前じゃない。いつ会えなくなるのかわからないのだから、素直な気持ちを言葉にしたい。

「引っ越しの準備は進んでるの?」

もうすぐこんなふうに一緒に帰れなくなる。碧人の住むというアパートは、マンションとは逆の方角だから。

「ほとんど終わってる。テスト明けの土日でやっと引っ越し完了の予定」

うれしそうな碧人に、「そっか」と私も笑う。

普段は素直になれても、自分の気持ちがバレないようなウソは継続している。ううん、そうしないといけない。

エレベーターに乗りこむと、碧人はいつものように右手をあげた。

「おやすみ。このあとがんばって」

「うん、おやすみ」

エレベーターが閉まると同時に、我慢していたさみしさを解放した。
着替えをしてマンションを出ると、空にはほぼ満月の形の月が輝いていた。青い月よりもはるか遠くで、サラサラと銀色の光を落としている。

きっと私たちに見えている青い月は、現実のものじゃない。

あの『青い月の伝説』を読んだ人の特権だとはとても思えない。それならもっとたくさんの人が目撃できるはずだから。

まさか自分が使者になるとは思っていなかったけれど、碧人との共通点だから平気。

道路を渡り、葉菜さんの家へ向かう。

「集中しないと……」

今は碧人のことは横に置いておき、葵さんと葉菜さんのことを考えなくちゃ。

思うそばから自信がなくなる。

葵さんには、全力で拒絶された。妹である葉菜さんも同じ反応をするだろうな……。

インターフォンの前に立っても、なかなかボタンを押す勇気が出ない。

友だちでもないのに、いきなり家に来られても困るだろう。会う理由も、いろいろ考えてはみたけれど、どれもしっくりこない。

思考に集中し過ぎていたのだろう、誰かが歩いて来るのに気づかなかった。

驚いた顔で近づいてくるのは、葉菜さんだった。隣にはお母さんと思われる女性がいて、ふたりは(そろ)いのジャージ姿だ。

ヤバい、と思ったときにはもう遅かった。

「すみません。ウォーキングに出かけてまして」

愛想よく駆けてくるおばさんに、

「いえ」

首を横にふる。葉菜さんは、信じられないような顔で私を見ている。

「あの、うちにご用事なのよね?」

「あ……はい」

そのあとが続かない。むしろ、足が勝手にあとずさりをはじめている。

家を間違えたことにして、今日は帰ろう。そう思ったときだった。

「実月さんじゃん」

葉菜さんが私の腕に抱きついてきた。

え……今の、葉菜さんが言ったの? 想像よりも明るい声で、葉菜さんはうれしそうに笑っている。

「ビックリした。まさか実月さんがうちに来てくれるなんて」

「うん。急に……ごめんね」

驚きのあまり、ぎこちなくなってしまった。

「ああ、葉菜と同じクラスの子? ひょっとして、そこのマンションに住んでる人?」

ホッとしたようにおばさんがほほ笑んでくれた。

「そうです。空野実月です。あの、葉菜さんと少し話がしたくって……。夜なのにすみません」

意外な展開にバクバクと心臓が鳴っている。

「えー、うれしい。じゃあさ、そこの公園に行こうよ。ちょっと行ってくるね」

おばさんにそう言うと、

「行こ」

と葉菜さんは私を促した。

歩きだしてから葉菜さんは家のほうを自然な感じでふり返った。おばさんが家に戻ったことを確認すると、パッと腕から離れた。

怒られることを覚悟する私に、

「ごめん」

彼女はつぶやくような声で言った。

「え?」

「親しげにしちゃってごめん」

「私こそ、突然押しかけてしまってごめんね」

返事も聞かず、葉菜さんは近くにある公園へ急ぐ。

公園といっても芝生が広がっているだけで、遊具はひとつもない空き地。周りを散歩用の歩道が囲っていて、ウォーキングしている人がちらほら見える。

歩道にいくつか置かれたベンチのひとつに葉菜さんが腰をおろしたので、私も隣に座る。

「ちゃんと学校に行けてないこと、うちの親、すごく心配してるんだ。だから、友だちはいることにしてる。本当はいないのに。実月さんが近くの マンションだって知ってたから、たまにウソの話をしてた」

ああ、だから親しげな態度を取っていたんだ。

「ぜんぜんかまわないよ。もう友だちだし」

私の言葉に目を丸くした葉菜さん。けれど、すぐにその表情は曇ってしまう。

「芳賀先生に頼まれたから来たんでしょう?」

「え?」

「普通科に変わることを考え直してほしい、って……え、違うの?」

眉をひそめる葉菜さんは、やっぱり葵さんそっくりだ。

「葉菜さん、普通科に移っちゃうの?」

「うん」

と、ため息と一緒に葉菜さんはうなずいた。

「みんな知らないと思うけど、一時間目の途中くらいに登校はしてるんだよ。といっても、教室じゃなくて学習室へ直行してる。で、みんなの授業が終わる前にこっそり帰ってる」

週に一度くらいしか登校してないと思っていたから驚いた。

「それなら出席日数は足りてるんだよね?」

「でも、これからはムリなんだ。介護実習に行けそうもないから」

二学期からはグループに分かれ、介護施設での実習が本格的にはじまる。

ただでさえ、週に一回程度しか教室に顔を出さな い葉菜さんには厳しいのだろう。

「葉菜さん、一年生の自己紹介のときに『介護の道に進みたい』って言ってたよね?」

「ああ」と懐かしそうに葉菜さんが目を細めた。

「ずっとなりたかったし、今もそう。でも、私にはその資格がないってことがわかった。だから、普通科に移るの」

地面をなめるように吹く風に、葉菜さんの髪が躍る。その姿が、孤独に捕らわれている葵さんと重なった。

「資格ならひとつはもう取ったよね?」

一年生のときに『介護職員初任者研修』という資格を取った。たしか、葉菜さんも取得できたはず。

「それに卒業すれば介護福祉士の受験資格だって――」

「違う」

強く否定したあと、葉菜さんは恥じるようにうつむいてしまった。

「違うの。その資格のことじゃなくて……。せっかく話してくれてるのにごめんね」

体を小さくした葉菜さんが、「私」と小声で続けた。

「死にたがりなの」

「……死にたがり?」

初めて聞く言葉だった。

躍る髪を押さえながら葉菜さんはうなずいた。

「早く死にたい、っていつも思ってる。介護の道に進めば、そういう気持ちも消えてくれるかもって思ってた。でも、そうじゃなかった。死にたい私が、生きたい誰かを支えられるはずないもん」

じゃあどうしてそんなに悲しそうなの? 瞳がうるんでいるのはなぜ?

聞きたい言葉をあえて吞みこんだのは、今は葉菜さんに話してほしかったから。

「介護の道を目指していた人がいたの。その人みたいに私もなりたかった。でも、もういない。その日からずっと、死にたがりなんだ」

きっと葵さんのことだ。

葵さんが亡くなってから、夢だけじゃなく生きる気力さえ失くしてしまったのかもしれない。

「でも、安心して。死んでるように生きてるだけで、自殺しようとは思ってないから」

「……うん」

ウォーキングしている人は、私たちを仲のいい高校生だと思ってるのだろう。まさか、死ぬことについて話しているなんて誰も思わない。

 (はな)をすすったあと、葉菜さんはわずかに首をかしげた。

「どうして私に会いに来たの? 明日もテストなのに」

「ああ、うん……」

今度は私が話す番だと、背筋を伸ばした。

最初は葵さんのことをぜんぶ話すつもりだった。すべて話して拒否されたら仕方ないとも思っていた。

だけど、今は違う。生きることに絶望している葉菜さんを助けたい。

「明日の放課後、旧校舎に来てほしいの」

「え……?」

きょとんとする葉菜さんに、頭を下げた。

「ヘンなお願いだってわかってる。だけど、どうしても来てほしい」

「なんで、って質問してもいい?」

葉菜さんの声に顔をあげた。視線が合うと同時に、スッと目を逸らされた。

「今は言えない。でも、信じてほしい」

迷うように視線をさまよわさせたあと、葉菜さんは鼻から息を吐いた。

「よくわからないけど、行くよ。でも、同じクラスの子と一緒とかはムリかも」

「ほかのクラスの男子とかは?」

「もっとムリ」

碧人について来てほしかったけれど、見たとたんに逃げ出してしまうかもしれない。

「じゃあ、ふたりきりで会おう」

葉菜さんの表情が少しやわらかくなった。

「でも、なんで旧校舎……あ、質問はダメなんだよね」

教室でのふさぎこんだ表情でも、おばさんの前で見せた 作り笑顔でもなく、自然な笑みを浮かべている。

「葉菜さんの死にたがりを変えたいから。きっと、生きたがりに変えてみせるから」

そう言うと、葉菜さんは小さく笑った。

「初めてしゃべったけど、実月さんてなんかおもしろいね」

「碧人にはヘンっていつも言われてる」

ブスっとする私に、葉菜さんは「え」と短く言った。

「碧人って、スポーツ科の清瀬くんのこと? 実月さんと同じマンションの?」

「碧人のこと知ってるの?」

驚く私に、葉菜さんはあいまいにうなずいた。

「私立の中学に通ってたの。テニス部に入ってて、たまに男子の試合も応援に行ってて……」

その頬が暗がりでも赤く染まっている気がした。まさか、葉菜さんも碧人のことを……?

思ってもいなかった展開に、今度は私のほうが目を伏せてしまった。

「そうなんだ。碧人、テニスがうまいからね」

軽い口調を意識しても、つっかえては意味がない。

口を『あ』の形にして固まった葉菜さんが、ごくりとつばを吞みこむのがわかった。

「ひょっとして……清瀬くんとつき合ってたの?」

「まさか!」

秒で否定してしまった。

「あ、ごめん……。余計なことだよね」

うなだれる葉菜さんを見て、しまったと気づいても遅い。

ああ、なんで碧人の話題なんて出してしまったのだろう。

「そんなことより、明日のことのほうが大事だから」

強引に話題を戻しても、さっきみたいな穏やかな雰囲気は、もうない。

ぎこちないまま、その日は別れた。
テストが終わると同時に、教室の空気が一気に動き出す。

雄たけびをあげる男子、教科書をめくる音、椅子を引く音。たくさんの音が、波のように押し寄せてくる。

「もう最悪。苦労して覚え たところが一問も出なかった~」

しょげる梨央奈を慰めながら、葉菜さんの席をさりげなく見ると、席を立つところだった。

このあとは研修旅行の打ち合わせがあり、半分のグループが教室に残る。私と梨央奈、葉菜さんのグループの説明は明日の放課後におこなわれる。

「今日はスーパーに寄ってくの?」

「もちろん行く。こうなったら、やけ買いしちゃうんだから」

乱暴に荷物をバッグに詰めこむ梨央奈に笑ってしまう。

「笑わないでよ。これでも落ちこんで――」

私に視線を戻したとたん、梨央奈が動きを止めた。気づくとクラスメイトもなぜか私のほうを見ている。

え、なに……?

横を見ると、いつの間にいたのか葉菜さんが立っていた。

「あ、葉菜さん」

「ちょっと職員室に呼ばれちゃって。少し遅れちゃうかも」

「わかった。じゃあ、先に行って待ってるね」

小さくうなずくと、葉菜さんは急ぎ足で教室を出て行った。

とりあえず約束は守ってくれるみたいでホッとした。

「ちょっと!」

梨央奈が私の肩をつかんで激しく揺さぶってきた。

「どういうこと? なんでモッチとしゃべってるの?」

「モッチ?」

「持田さんのこと。勝手にあだ名つけてんの。って、そんなことはどうでもいいんだって。いつの間に知り合いになったのよ」

周りのみんなも気になるようで、特に三井くんは顔を近づけて私の返事を聞こうとしている。

「まあ、クラスメイトだし……。家が近いのもあって、ね」

あいまいに答えつつ廊下に目を向けると、ちょうど碧人が通りかかったところだった。目が合うと、バイバイと手をふって帰って行く。

絶対に幽霊に会わずに済んでホッとしているに決まっている。今朝、マンションの前で会ったときに、ふたりきりで会うことになったと伝えたところ、碧人は『残念残念』とウソをついていた。

「いいなあ」梨央奈の声に視線を戻した。

「あたしもモッチと仲良くなりたい。声、すっごくかわいかったね」

「うん」

「じゃあ、僕も」

三井くんがそう言うと、「あんたはダメ」とすかさず梨央奈が言った。

「こういうのはまず女子同士から。研修旅行が同じグループだから話しかけたかったんだよね」

普通科に変わることを知ったら驚くだろうな。ひょっとしたら梨央奈なら、葉菜さんを説得できるかもしれない。

「今度一緒にしゃべろうよ。葉菜さんのことを知れば、絶対に好きになるから」

「もちろん」

そううなずいてから、なぜか梨央奈は三井くんに目で合図を送った。三井くんもなぜかうなずいている。

「え、なに?」

違和感にそう尋ねると、梨央奈は肩をすくめた。

「こないだ、ひでじいと話してたんだよ。『最近の実月、前と違うよね』って。いい意味でだよ」

「そうそう」と三井くんも同意した。

「進化したっていうか、なにかを乗り越えたっていうか。そんな感じ」

そんな話をしていたなんて驚いてしまうけれど、身に覚えがないわけじゃない。

幽霊との出会いによって、考え方が変わったのは自覚している。ううん、幽霊だけじゃない。葉菜さんと話せたことも大きな一因だ。

みんな言葉にできないなにかを抱えている。重荷を取り除くことはできないけれど、一緒に支えられる私になりたい。そう思える自分になれた。

「褒め言葉だと受けとって おくね」

いつか梨央奈に、今起きていることを話したい。幽霊を信じない梨央奈だけど、真剣に話せば理解してくれるかもしれない。

「好きな人ができたとか言わないでよ。そういう話はごめんだからね」

(くぎ)を刺してくる梨央奈に、「まさか」と笑ってみせる。

碧人への想いを話せる日はくるのかな。恋愛の話になるたびに、『言ってはいけない』と心の声が聞こえてくる。

そして、また頭痛が音もなく顔を出す。

「恋なんてするわけないでしょ。梨央奈こそ、抜けがけしないでよね」

「恋はお金がかかるからしないの」

堂々と宣言する梨央奈に三井くんは呆れ顔だ。

廊下へ出て階段をおりる。踊り場でふり返る。下駄箱で見渡す。

いなくて当たり前だけど、つい碧人の姿を探してしまう。いつも、『よう』って突然声をかけてくる彼だからいるような気がした。

旧校舎に向かっていると、満月が真上に浮かんでいた。少しずつ青色になるにつれ、周りの景色も同じ色に変わっていく。

「集中しないと……」

今は葉菜さんと葵さんのことを考えよう。

旧校舎の裏手に回ると、葉菜さんが心細げに立っていた。ナイトも私を待ち構えている。

「待たせてごめんね」

「ううん。思ったよりも早く終わったから……。あの、ここでなにをするの?」

本当は屋上に着いてから話をしたかったけれど、さすがにこれ以上は引っ張れないだろう。

「葉菜さん、あの月が見える?」

頭上を指さすと、葉菜さんは小さくうなずいてくれた。

「昼間なのにはっきり見える。今日は満月なんだね」

「じゃあ、青色に見える?」

校舎も木も地面も、青い光に浸され ていく。

葉菜さんは戸惑いを浮かべた表情のまま、首をかしげた。

「青色? え、どうして?」

きっと青い月が見えないと、葵さんの姿も瞳に映らないだろう。でもどうやって、信じてもらえばいいのだろう。

「『青い月の伝説』という絵本があるの。『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』っていう話でね」

「黒猫って……」

葉菜さんがハッとしたようにナイトに視線を向けた。

「伝説でいうところの『使者』が私なの。これから一緒に屋上に行ってほしいんだ」

「え……冗談だよね?」

顔をこわばらせる葉菜さんの気持ちはわかる。いきなりこんなことを言われても戸惑うだけだろう。

「信じてもらえなくて当然だと思う。でも、本気で言ってる」

「どうして屋上に行かなくちゃいけないの? 実月さん、なんか怖い」

話すほどに葉菜さんの表情がどんどん乏しくなっていく。

「伝説は本当のことだから。今の葉菜さんにとって必要なことだから」

「言ってる意味がわからない。そんな話をするためにここに呼んだの?」

疑うような目が突き刺ささる。

「会ってほしい人がいるの。葉菜さんのお姉さん……葵さんが屋上で待ってるから」

「は?」

葵さんも最初同じ反応だった。怒りに身をまかせた葵さんと違い、葉菜さんは笑ったかと思った次の瞬間、泣きそうな顔になった。

「なんでお姉ちゃんのこと……。ひどいよ、なんでそんなウソがつけるの? お姉ちゃんは亡くなったんだよ」

どういう反応をしたらいいのかわからない。『受容』『共感』『傾聴』、授業で習ったどれも、この場にふさわしくない気がした。

「葉菜さん――」

「すごくつらくて悲しくて、いつも死にたいって思ってた。実月さんに声をかけられてうれしかったのに、うれしかったのに……」

水色の涙が葉菜さんの頬にこぼれた。

私が傷つけたんだ……。

「葉菜さん、あの――」

「こういうオカルトが嫌いなの。だから……ごめん」

踵を返した葉菜さんの前に、いつの間にかナイトが回りこんでいた。三日月のような瞳で葉菜さんをじっと見つめている。

「え……」

「お願いします」

フリーズしたように動かない葉菜さんの背中に頭を下げた。

「会えなかったら、二度と私と話をしてくれなくていい。だから、一度だけ、私を信じてください」

「……なんのために?」

青い光が濃くなるなかで、葉菜さんの声がした。

「葉菜さんの『死にたがり』を変えたいから。『生きたがり』にするって約束したから」

チャイムが鳴り響く。葵さんが葉菜さんを呼んでいるように思える。

信じていない葉菜さんには聞こえないのか、反応がなかった。

どれくらい黙っていただろう、葉菜さんがゆっくりとふり向いた。唇を噛みしめ、ハンカチで目を拭っている。

「にゃあ」

短く鳴いたナイトが、旧校舎の扉の前に進んだ。

「一度だけ……」

自分に言い聞かせるようにつぶやいた葉菜さんに、もう一度頭を下げた。

「葵さんに会いたい、って心から願って。そうすればきっと会えるはずだから」

「そんなの……ずっと思ってる。毎日毎日、そう思ってるから」

「わかった。じゃあ、行こう」

靴を手にして旧校舎に入ると、少し遅れて葉菜さんもついて来てくれた。

階段をのぼりながら葉菜さんをふり返ったけれど、目を合わせてくれない。静かな怒りと戸惑い、悲しみが伝わってくる。

屋上の扉を開けると、青い光で世界は満ちていた。

「え……なにこれ」

靴を履くのも忘れ、葉菜さんがふらふらと外に出た。

「どうなって……るの?」

あたりを見回していた葉菜さんが、満月と目を合わせた。『青い』と口が動くのが見えた。

「『青い月の伝説』が本当だったってこと? じゃあ……お姉ちゃんが……」

屋上のはしっこに立つ葵さんが見える。ここからでも、すでに泣いているのがわかった。

「あそこで葵さんが待ってるよ」

「え?」

ふり返った葉菜さんが短く悲鳴をあげ、

「お姉ちゃん!」

と、大声で叫びながら駆けだした。

両手を広げる葵さんの胸に飛びこむと、ふたりはその場に倒れながら強く抱き合った。

「お姉ちゃん。お姉ちゃん……!」

「葉菜!」

青一色に染まる世界のなか、ふたりの泣き声が聞こえる。その光景は、まるで絵画のように美しかった。

体を離した葉菜さんが、確かめるように葵さんの頬に触れる。

「信じられない。お姉ちゃんに会えるなんて。私、私……」

声にならずに泣く葉菜さんを、葵さんはやさしい目で見つめている。葵さんの願いが叶ったことがうれしくて、気づけば私も唇を噛んでいた。

「実月さん、ありがとう」

葵さんがそう言い、

「ほら、葉菜もお礼を言って」

お姉さんらしく促した。

「ありが……とう。ごめん……なさい。あり、がとう」

鼻声でくり返す葉菜さんに、首を横にふる。

「私こそ、強引に連れてきてごめん。でも、よかったね」

「うん、うん……!」

力強くうなずく葉菜さんが、また涙に崩れた。

葵さんがふと空を見あげた。

「そっか……青い月ってこういうことだったんだね。私、世界に色があることも忘れちゃってたみたい」

「お姉ちゃん……」

「葉菜に会いたかった。三年間、ずっとそればっかり考えてた」

「私もだよ」

胸で泣く葉菜さんをやさしい瞳で見つめていた葵さんが、私に視線を移し大きくうなずいた。

すう、と息を吸うようなしぐさをしたあと、葉菜さんの体を引きはがした。

「会いたかったのは、葉菜に言いたいことがあったから」

戸惑う葉菜さんを残し、葵さんは立ちあがる。葉菜さんも手すりにつかまり、腰をあげた。

「私に病名を告げられなかったこと、ずっと後悔してるでしょう?」

「あ……」

「お見舞いにももっと行けばよかった、ってことも思ってるはず」

そのとおりだったのだろう、言葉に詰まった葉菜さんは花がしおれたようにうつむいてしまう。

葵さんが「やっぱりね」といたずらっぽく葉菜さんの顔を覗きこんだ。

「きっと後悔してるんだろうな、って。昔から、なにかあるたびに後悔ばっかりしてたもんね」

「だって、だって……」

「正しかったんだよ。葉菜がしたことは正しかった。だって、早い段階で病名を聞かされていたら、私のことだから怒り狂ってたと思うもん。ね?」

私に尋ねられても、身に覚えがあるぶん答えようがない。

葵さんは、葉菜さんの頬を両手で挟むように包み、強引に顔を上にあげさせた。

「お見舞いだって同じ。毎日のようにLINEくれたよね? あれでじゅうぶんだったよ」

「でも……」

「でも、じゃない。お姉ちゃんがそう言ってるんだからそうなの。弱っている姿を見られたくなかったし、葉菜の前では最後までお姉ちゃんでいたかったから。わかった?」

「……わかった」

うなずく葉菜さんを見て、「よし」と葵さんは笑った。

私にはわかる。葵さんは、これが最後だって知っている。

だからこそ、必死でお姉さんらしくふるまっているんだ……。葉菜さんがこれ以上後悔しないように。

葉菜さんがすがるように葵さんの制服をつかんだ。

「お姉ちゃんに会いたかった。これからはここで会えるんだよね?」

一瞬、葵さんの顔がゆがむのがわかった。すぐに真顔に戻し、「見て」と真上の月を指さした。

「どんどん月の色が戻っていくのがわかる? もう、行かないといけないの」

間もなく『青い月の伝説』の時間が 終わろうとしている。薄くなっていく青色の向こうに、うっすらと周りの景色が姿を見せはじめていた。

「嫌……そんなの嫌だよ。お姉ちゃんといたい。ずっと一緒にいたい」

「私はもう死んでるんだからムリ」

「だったら私も死ぬ。お姉ちゃんと一緒にいられるなら――」

「バカ!」

葵さんがひときわ大きな声で叫んだ。ビクッと体を震わせた葉菜さんの肩を、葵さんはギュッとつかんだ。

「なんのために三年間もこんな場所にいたと思ってんの? あんたに生きてほしいからに決まってるじゃない!」

強い口調で言ったあと、葵さんは校門のほうに視線を移した。

「ここでいつも葉菜のことを見てたよ」

「え……?」

「いつもひとりぼっちだった。ほとんど遅刻してきて、帰りも早退ばっかり。学習室で勉強してたんだよね?」

答えられない葉菜さんの髪を、葵さんがやさしくなでた。

「いつも死にたそうな顔をしてた。見るたびに思ったよ。お姉ちゃんのせいだ、って」

「違うよ。お姉ちゃんのせいじゃない」

「だったら、ちゃんと生きるって約束しなさい」

葵さんの願いが届くといいな……。けれど、葉菜さんは涙をポロポロこぼしながら、首を横にふるだけ。

困った顔の葵さん。もう月はほとんど青色を手放してしまっている。

葵さんの体が徐々に薄くなっているのがわかった。

「そんな……」と、葉菜さんが()(えつ)を漏らした。

「嫌だよ。ずっとそばにいてよ。お願いだからどこへも行かないで……」

「葉菜さん」 

そう呼びかけるのに勇気はいらなかった。

「うちの父も亡くなってるの。したいことがまだたくさんあったはず。だから私は、父の思いを引き継いで生きていこうって思ってる」

「……でも」

「葵さんも同じですよね?」

「そうだよ」と葵さんはうなずいた。

「福祉の道に進みたかった。誰かを支えたかった。誰かを支える家族のことも支えたかった」

ハッと顔をあげた葉菜さんに、葵さんはさみしそうにほほ笑んだ。

「それだけじゃない。お父さんやお母さんのことも支えたかった。もちろん葉菜のこともね」

「お姉ちゃん……」

「弱くてもいいんだよ。誰かを支えるのに強さなんて必要ない。同じ痛みを味わいながら、たくさんの人の味方になってほし……い」

こらえていた涙がこぼれ、葵さんが「ああ」とうつむいた。

「最後までお姉ちゃんらしくいたかったのに、やっぱりダメだ」

葵さんは洟をすすったあと、右手を差し出した。

「ほら、手をつなごう。私の勇気を葉菜にあげるから」

葉菜さんが右手を持ちあげかけて、力尽きたようにもとの位置に戻した。

時間がない。

「後悔したっていいんだよ。後悔は弱さじゃない。誰かの痛みがわかることで、強さとやさしさに変わるはず」

「お姉ちゃん……」

葉菜さんが右手を差し出した。葵さんがその手を両手で包むように握りしめた。

「葉菜、ありがとう。会いに来てくれてありがとう」

透けていく体に、葉菜さんは「私」と声をふり絞った。

「がんばる。お姉ちゃんと私の夢を叶えられるようにがんばるから」

「がんばり過ぎない程度にね。葉菜は真面目過ぎるから」

いたずらっぽく笑う葵さんに、葉菜さんは頬をふくらませた。

屋上に光が戻ると同時に、葵さんの姿は溶けるように消えた。

その場でしゃがみこむ葉菜さんを、やわらかい光が包みこんだ。
トイレで鏡を見ると、昨日泣き過ぎたせいで目が腫れぼったかった。

まだ昨日の出来事が頭を何度もよぎっている。

『使者』の役をするのは二度目だけど、そうとう体力を使うみたい。朝からあくびが何度も出ている。

廊下は朝の光にあふれていて、目がチカチカしてしまう。

碧人がスポーツ科の教室に入る前に、ヒラヒラと手をふってきたので返した。

昨日の出来事をあとで話す約束をしている。

次の青い月は、一カ月後の予定。そのときは研修旅行に出かけているので、しばらくは穏やかな毎日が続くだろう。

ホッとしつつも、残念な気持ちも少しはある。使者は大変だけど、人を助けることで自分も救われる部分があり、この役目を好きになりはじめていたから。

教室に入ると、葉菜さんがすでに登校していた。前の席の女子と、メッセージアプリ のIDを交換しているみたい。

「あたしもあたしも!」

梨央奈が駆け寄り、葉菜さんがおかしそうに笑った。

ああ、また泣いてしまいそう。

「実月さん」

葉菜さんがスマホを手にやってきたので、

「おはよう。昨日はよく眠れた?」

尋ねながらスマホを取り出した。

「寝過ぎて眠い感じ。でも、本当にありがとう」

「私は『使者』だからね」

クスクス笑ったあと、葉菜さんは「そうだ」と顔をあげた。

「こないだ、清瀬くんの話したでしょう?」

「あ、うん」

「なんか勘違いさせたかも、って気になってたの。あれ、違うから」

中学時代、葉菜さんが碧人を好きだったのかも、と疑ったんだ。最近のことなのに、ずいぶん前のことのように思えた。

「あのね」と、葉菜さんが上目遣いで見てきた。

「清瀬くんね、うちの叔父さんにそっくりだったの。見るたびに親戚に会ったみたいで恥ずかしくって」

「へえ、そうなんだ」 

ホッとしつつも顔には出さないように気をつける。

「そこの家の犬もそっくりなんだよ」

「犬も⁉ すごい笑える」

碧人にそっくりな犬なら見てみたいものだ。

ひとしきり笑ったあと、

「ああ、よかった」

と葉菜さんが言った。

「なにが?」

「実月さんが元気で」

「それはこっちのセリフ。葉菜さんが元気でよかった」

空には丸い雲がひとつ。

葵さんは今ごろ、穏やかな気持ちで眠りについているのだろう。

「なんの話してんの? あたしも入れてよ」

梨央奈がやって来るのを見て、葉菜さんが私の耳に顔を寄せた。

「私、『生きたがり』になってみせるからね」

小さな声でも力強く耳に届く。

「がんばり過ぎない程度にね」

葵さんの言葉をくり返すと、彼女そっくりな笑顔がそこに咲いていた。
学校から出られるのは最高だ。ナイトも現れないし、幽霊だって見なくて済む。

気分がいいと空気まで()()しく感じるから不思議。

今日から二泊三日で奈良県に研修旅行に来ている。奈良県には初めて来たけれど、想像していたとおりの街だった。

お寺や神社がいたるところにあり、景観を守るために高い建物があまりない。観光客よりも多いんじゃないかというくらい、たくさんの鹿が街を歩いている。

研修旅行という名前はついているものの、行程表に記載されている内容は、軽めの修学旅行というイメージ。介護施設での実習は今日の午後だけで、明日の午前は講演会を聴講し、午後は観光。最終日は京都を観光してから帰るというスケジュール。

私のいる福祉科と碧人のスポーツ科では、研修先は違うものの、ホテルや観光では一緒になる。

最近は碧人と会う機会がどんどん減っている。碧人が引っ越してしまってからは、帰り道も違うし、当たり前だけどマンションで会うこともない。

旅行中に少しでも話ができればいいな……。

私のグループの研修先は、『ならまち』と呼ばれる古い街にあるデイサービス。朝、利用する高齢者をお迎えに行き、お風呂や食事、運動をして夕方に家まで送る施設だ。

グループメンバーは梨央奈と、葉菜と小早川さんの四名。施設の担当者がつき、到着早々業務の手伝いをしている。

が、なぜか私の担当者だけはデイサービスの職員ではなく、芳賀先生だ。

スタッフの人数が足りないそうで、梨央奈からは『くじ運がないね』と同情されてしまった。人見知りな私だから、知らない人についてもらうよりはよっぽど気楽だ。

「空野さん、ここからのぼり坂だから(やま)(もと)さんの体を支えてもらえる?」

いつもの黒ジャージ姿の芳賀先生が、先を行く山本さんのほうを見た。

昼食後の運動を兼ね、利用者である山本さんとならまちを散歩している。山本さんは八十五歳のおじいさんで、そうとう頑固っぽい。

眉間には常に深いシワが刻まれていて、私が話しかけてもまるで無視。

この施設についたのはお昼前。山本さんがお風呂に入ることを拒否しているのに出くわした。昼食も『まずい』と言ってほとんど食べず。散歩に行く前も『(つえ)なんて持たん』と、ひとりで出ていこうとした。

「山本さん、危ないので腕を持ちますね」

「余計なことや」

関西弁でピシャリと言われたけれど、やはり年齢のせいか足元がふらついている。

「失礼します」

強引に脇に手を入れると、「離せ!」とふりほどこうとする。

「すみません。危ないので我慢してください」

「俺が転ぶと思ってんのか。バカにすんな!」

杖を渡すが、凶器代わりにふり回す山本さん。なにごとか、と道行く観光客が目を丸くしている。

困った。このままではふたりして転んでしまいそうで、仕方なく手を離した。

見かねた芳賀先生が、駆け寄ってきて山本さんに頭を下げた。

「山本さんがひとりで歩けることは見ていてわかりますが、空野さんの研修のためなんです。彼女が立派な介護員になれるよう、ご協力いただけないでしょうか?」

「なんで俺が協力せんとあかんのや」

「同じ教職者としてお願いしています。以前、教師をされていたんですよね?」

芳賀先生の言葉に、きょとんとしてしまった。

「山本さん、先生だったのですか?」

「昔のことや。中学校で四十年教えとった」

胸を反らす山本さんに、芳賀先生はホクホクとした笑みを浮かべた。

「私の大先輩ですね」

「あんたはまだ十年くらいか?」

「やだ。私、もっと歳取ってるんです。そんなに若く見えますか?」

「冗談に決まってるやろ。お世辞っちゅうやつや」

ニヤリと笑う山本さんに、

「ガハハ!」

芳賀先生はおかしそうにお腹を抱えた。

聞こえるように大きくため息をついてから、山本さんは私に左腕を差し出した。

「しょうがない。帰るまでやで」

「あ、はい」

おずおずと腕を持つと、

「持つならしっかり持たんかいな」

と、注意までしてくる。

なだらかな坂をゆっくりと歩く。電話がかかってきたらしく、芳賀先生は立ち止まってなにやら話しこんでいる。

「ここも変わってしもうた」

山本さんがボソッと言った。

「奈良県は観光の街やけど、ならまちに人はおらんかった。商人の街として栄えとったが、今じゃこじゃれた店ばっかりや。おまけにデイサービスまであるしな」

ならまちは初めて来たけれど、古い町並みのなかに新しい店が混在しているイメージ。長屋と呼ばれる古い家の隣にかわいい雑貨屋さんがあったりして、平日なのに観光客でにぎわっている。

どう答えていいのかわからないでいると、山本さんは「ふん」と鼻を鳴らした。

「古いものは(とう)()されていくんやろうな。俺も同じや。デイサービスなんか行きたくないのに、家におられちゃ邪魔なんだとよ」

『淘汰』の意味はわからないけれど、言いたいことはなんとなく理解できた。

「デイサービスが嫌いですか?」

「大嫌いや。そやけど、『デイサービスに行かへんかったら施設に入れるで』って息子が脅してくるから、しょうがなく来てやってる。こうなったら家出するしかないな」

「…………」

「そこは笑うとこやで。ま、関西人やないからしゃーないな」

さっきよりも表情も言葉もやわらかくなっている。芳賀先生が山本さんの怒りを収めてくれたおかげだろう。

「受け入れるしかないんや。人も街も、時代とともに変わっていくからな」

山本さんは、さみしさをごまかすために強気でいるしかなかった。自分はほかの人とは違う、と思いたいのにどんどん体は動きづらくなって……。

「堂々としていればいいと思います」

気づけば勝手に言葉になっていた。

「山本さんもこの街も、古くなんかありません。時代を作ってきた大切な存在です。でも、堂々とするためにも、デイサービスで運動は続けてほしいです。あと、キレイでいるためにはお風呂も――」

そこまで言ってハッと口を閉じた。なにを偉そうに言ってるんだろう。

気分を悪くしたかもしれない。いや、しただろう。

「すみませんでした」

シュンとする私に、山本さんが「ほら」と細い道の先にある一軒の店を指さした。

見た感じは古い町屋の建物だけど、のれんに『()(おん)食堂』と書かれている。

「あそこは朝食専門の店やで。おもろい店主がいてな、たまに息子に連れて来てもらってる。最近、店の子と結婚したんやって」

その横顔がやさしく見えた。

「町家の見た目はそのままに、中身だけ改装してる。俺ら老人も中身を変えていかんとあかんのやろうな」

そう言ったあと、山本さんは私をチラッと見た。

「誰かさんが余計なことを言うから風呂に入りたくなったわ。今から戻っても、間に合うもんやろか?」

「きっと大丈夫ですよ。なんなら私が手伝います」

「研修生になにができるんや」

言葉は厳しいけれど、シワだらけの顔をくしゃっとして笑っている。

歩きだすと、遠くの空に真昼の月が見えた。

そっか、今日は青い月が出るんだった。あの旧校舎に取り残された人が待っているかもしれないと思うと胸が痛んだ。同時に頭痛も少し顔を出している。

罪悪感を持っても、さすがにここから旧校舎に行くことはできないけれど。
ホテルにつくころには、奈良の街は夕闇に包まれていた。

(さる)(さわ)(いけ)と呼ばれる大きな池のほとりに建つホテルに私たちは泊まるそうだ。

今は班ごとに部屋のカギをもらっていて、私のグループは梨央奈が代表。ほかのメンバーはお客さんの邪魔にならないよう旅館の外で待機している。

猿沢池のほとりにあるベンチに座っていると、誰かが隣に座った。一瞬、碧人かもと期待してしまったけれど、違った。

「お疲れさん」

芳賀先生は座るなり、足をガバッと開いた。黒ジャージのせいで、散歩にでも来たみたいに見える。

「今日はありがとうございました」

「どうなるかと思ったけど、山本さんとけっこう仲良くしてたね。お風呂も入ってくれたし」

口からあくびを逃がしながら芳賀先生が言った。

「芳賀先生のおかげです。山本さんから教師をしていたころの話、たくさん聞かせてもらいました」

「急に来た人に介助されて、怒っちゃう気持ちもわかるよね。明日からはもう会わないわけだし」

幽霊との出会いによく似ている。長い時間あの場所に捕らわれた人の心をほどくには、誠心誠意対応しないと。

いや、もう六月だから会えるチャンスはないのかもしれない。夏休みになったら旧校舎は取り壊されてしまう。

「生きている人にちゃんと接しようと思いました」

「生きている人?」

きょとんとする芳賀先生に、なんでもない、と急いで首を横にふった。

「すべての人に、しっかり接します」

「いい心がけね。ほかにも反省点はある?」

顔を向けてくる芳賀先生。

「山本さんの個人ファイルをしっかり見ていませんでした。あとで見たら、教師だったことも、お風呂嫌いなことも書いてありました」

ファイルには山本さんの情報が詰まっていた。仕事のことや病気のことだけじゃなく、家族関係や好きな食べものまで。

「まずは情報が大事。そこから援助する方法を見つけるの」

「はい」

芳賀先生がじゃれ合っている男子に「こら!」と注意しに行った。スポーツ科の生徒が制服を着ているのは珍しい。

碧人はどこにいるんだろう。会う機会が減ってからは、前よりもずっと碧人のことを考えている。廊下に、校門に、帰り道にその背中を探してしまう。

幼なじみとしての会話が歯がゆかったけれど、今となってはかけがえのない時間だったとわかる。宝物のようにキラキラした時間は、もう戻らない。

あきらめたほうがいいのかな……。

これまでも何度もあきらめようとしたけれど、そのたびにあきらめることをあきらめてきた。

今、心のなかで小さな決心が生まれている。

碧人への気持ちを、手放すときが来たのかもしれない。

幽霊になった人は、思い残しに苦しんでいた。私だって今、死んでしまったら確実に幽霊になるだろう。それよりも、恋のフィルターをはずし、昔みたいに碧人となんでもないことで笑い転げたい。

でも…… ずっと覚えていたい自分もいる。ああ、なんてややこしい感情なのだろう。

「ため息なんかついて、どうかした?」

「ひゃあ!」

思わず悲鳴をあげてしまった。目の前にいつの間にか碧人が立っていた。

「え、いつの間に?」

「声かけたのにボーッとしてるから。てか、みんな見てる」

悲鳴をあげたせいで注目を集めたらしい。碧人がホテルの裏側へ向かったのでついていくことにした。

白いシャツがまぶしくて、背の高い碧人によく似合っている。

碧人の存在はどんどん大きくなって、逆に自分はちっぽけだと思ってしまう。そんな恋を、ずっとしてきた。

あきらめようという決意が早くも揺れている。

「ここなら誰にも見られないはず」

碧人が足を止めた。誰かに見られたって、私はかまわないのに。

「そっちの研修はどうだったの?」

だけど、私はなんでもないように尋ねるの。好き、の気持ちが漏れないように。碧人にだけはバレてしまわないように。

「部活によって違って、テニス部と野球部は最新のAI技術について勉強しに行った。でかい会社でさ、設備がすごかったよ。ま、俺は元テニス部って立場だから、居心地が悪かったけどな。福祉科は実習だっけ?」

「すごく勉強になったよ。梨央奈なんて、最後の挨拶のときに号泣してた」

そう言ってから、梨央奈が碧人のことを覚えていなかったことを思い出した。

「あ、梨央奈っていうのはクラスメイトで――」

「七瀬梨央奈さん。実月の親友だろ? それよりさ、気づいてた?」

碧人が人差し指を上に向けた。

空には()(えん)(けい)の月が浮かんでいて……。

「あっ!」

気づかなかった。月がほのかな青色に変化している。

「俺もさっき気づいたとこ。こんな場所でも青い月が見られるんだな」

「じゃあ、今ごろ旧校舎に誰かいるんだね」

「さすがに行ってやることはできないけどな」

碧人は腕を組み、残念そうに言っている。

「どっちにしても碧人は幽霊が怖いからムリだもんね?」

「ないない。怖いと思ったことは一度もない」

言葉をくり返すのは、ウソをついている合図。自分でも気づいたのだろう、碧人は「いや」と首を横にふった。

「幽霊を手伝いたい気持ちはあるけど、俺も余裕なくってさ」

「普通科に変わるのはいつから?」

碧人は、テニス部を辞めてしまった。先週、『普通科に移る』と言われたけれど、それも決定してから報告された。

「今、担任と話し合ってるところ」

「ケガの後遺症、ひどいの?」

「平気平気」

また、ウソをついている。

やっぱり私には相談はしてくれないんだ……。落ちこみそうになるけれど、こうして話ができただけでもうれしいと思わなくちゃ。

そろそろうちのグループが部屋のカギをもらう時間だ。

「じゃあ、またね」

いつものように軽い口調で言った。

やっぱり碧人をあきらめることなんてできない。そんな自分が、少しかわいそうに思えた。
小早川さんは不思議な人。

教室ではほとんどしゃべらないし、長い前髪に隠れるようにうつむいていることが多い。

けれど、今日の実習ではぜんぜん違った。前髪を耳にかけ、ニコニコと元気よくデイサービスを利用している人と話をしていた。

「コバヤンって二重人格なわけ?」

ホテルの部屋で梨央奈が急に尋ねた。どうやらあだ名をつけたらしい。

ちなみに梨央奈は私と知り合って早々に『ミッツ』と呼んできたけれど、すぐに却下している。あきらめずに何度もその名前で呼んできたけれど、根気よく修正したことで今では普通に名前で呼んでくれている。

お風呂も終わり、明日の研修報告会での資料をまとめている最中だった。

部屋は広い和室で、窓からは猿沢池が見下ろせる。足の短いテーブルの向こうには布団が四組敷かれている。

「いえ……そんなことはありません」

向かい側に座る小早川さんがおずおずと答えた。もう前髪はおりてしまっている。

テーブルの上には今日のレポートが置かれていて、私たちの倍以上の文字で埋まっている。

「だって教室にいるときとぜんぜん違うし。双子の妹とすり替わってんのか、って思ったくらい。めっちゃ利用者さんとしゃべってたじゃん」

ね、と梨央奈が私に同意を求めてきた。

「すごく楽しそうだったし、頼りがいがあったよ。私がおやつの介助の仕方を迷っていたときも助けてくれたよね?」

小早川さんはもう、うつむいてしまっている。

浴衣が気になるのか、斜め前に座る葉菜は胸元をたぐり寄せつつ、

「あのね」

と隣の小早川さんに体ごと向いた。

「小早川さんの気持ちが少しわかるよ。私も、本当に心を許した人としか話せなかったから」

葉菜はお姉さんと旧校舎で話をしてから変わった。教室に来るようになったし、クラスメイトとも今までがウソのように話をしている。

私との距離も近づき、今では呼び捨てで名前を呼び合う仲になった。

「それくらい、介護が好きなんだよね?」

葉菜がそう言うと、少し遅れて小早川さんはうなずく。

「好き、というか……それしかないから」

「初めて会った人にあんなににこやかに接することができてすごいと思った。私も見習わなくちゃ、って反省してたところ」

葉菜の言葉に、小早川さんは恥ずかしそうに首を何度も横にふった。

梨央奈が手鏡をテーブルに置いた。梨央奈は明日の準備よりも、肌の手入れが大事な様子。テーブルの上に化粧水や美容液、クリームを販売でもしそうなくらいたくさん並べている。

「あたしもコバヤンを見てたら、介護っていいかもって思っちゃった」

「私の話はもういいです。逃げ出したくなります」

顔を真っ赤に染める小早川さんにみんなで笑った。少しだけ距離が近づいた気がした。

「ご飯はイマイチだったね。デザートもなかったし」

夕食が不満だったらしく、梨央奈はずっとぼやいている。

「売店に なにか買いに行く?」

葉菜の提案を、「まさか」と秒で梨央奈は却下した。

「こういうところは法外な料金設定なんだよ。モッチも絶対に買っちゃダメだからね」

法外ではないと思うけれど、普段から節約している梨央奈には耐えがたいのだろう。

「チョコレートなら持ってるけど食べる?」

小型のトランクには、それ以外にも(あめ)やガムを忍ばせている。

「さすが実月。お願い、あたしに糖分を補給して」

「了解」

部屋の隅にまとめてあるトランクへ向かう。あれ、リュックのほうに入れたような気もする。リュックのなかを先に探してみるが、甘いものは入ってなかった。

「やっぱりトランクか」

ジッパー式のトランクはこの研修旅行のために買ってもらった。小型なのに容量が大きくてお気に入りだ。

トランクを開けると、なにか黒いものが目に飛びこんできた。

こんな色の洋服なんて入れたっけ……。

触ってみると、やわらかくて温かい。

「……え?」

「にゃお」

ぐいんと背伸びをしたのは――ナイトだった。

「ウソでしょ⁉」

大声で叫ぶ私に、なにごとかと梨央奈が首を伸ばした。

「え、猫? まさか、実月連れてきちゃったの?」

「うちの猫じゃないし。でも、なんでナイトがここにいるのよ」

荷物を詰めたのは家でだから、入ることはできなかったはず。学校に集合したときだって開けていないし、そもそも実習先で何度か荷物の出し入れをしたときだって……。

そこで考えることをあきらめた。雨だってすり抜けられるナイトだから、忍びこむことだって簡単にできたはず。

ナイトはテーブルにひょい、と乗るとみんなに愛想をふりまいている。

「えー、ナイトくんついてきちゃったんだ。この間はありがとうね」

葉菜が頭をなでると、気持ちよさそうに目を閉じるナイト。

ペットが荷物に入ってた、という話は聞いたことがあるけれど、研修旅行先でというのはかなりまずい。しかもあと二日間もあるし。

「しょうがない。とりあえず芳賀先生に言ってくる」

立ちあがると同時に、ナイトが部屋のドアの前に先回りして立ちふさがった。

「ちょっと通してよ」

「シャーッ!」

毛を逆立てるナイトに、がっかりする。

ああ、最悪だ……。せっかくのいい一日が台無しになってしまった。それどころか、この先の二日間も悪い展開しか予想できない。

「あの」

それまで黙っていた小早川さんが口を開いた。

「たぶん意味があるんだと思います」

「意味?」

「ナイトさんは、空野さんに頼みたいことがあってついてきたんです」

机とにらめっこしながら言う小早川さんに、梨央奈がクスクス笑った。

「コバヤン、ウケる。そんなわけないでしょ」

「それがあるんです」

小早川さんはスッと立ちあがったと思ったら、窓のカーテンを開いた。

「空野さんには見えていますよね? 空に青い月が出ています」

まさか青い月の話が小早川さんから出ると思っていなかったから絶句してしまう。

「青い月?」と梨央奈が空を見あげてから首をひねった。

「どこが青いのよ。普通のお月さまじゃん」

「今回は私も見えないみたい」

葉菜も同じ反応だ。

「まだ薄いですが、これからどんどん青色が濃くなると思います」

さっきまでの小声ではなく、はっきりと小早川さんは言う。

「これまでも青い月が見えていたの?」

まさかの発言に、おそるおそる尋ねた。

「数年前から見えるようになりました。おそらく明日は朝から青い月が空に浮かぶのでしょう。この街のどこかに使者を待つ人がいるという証拠です」

「え……なんで知っているの?」

質問しか出てこない私に、小早川さんはうなずいた。

「『青い月の伝説』に出てくる使者のことです」

「うん……」

カラカラに乾いた声でうなずくと、小早川さんはナイトの頭をそっとなでた。

「この黒猫は幽霊です。おそらく強い力を持っているから、私たちにも見えるのでしょう。そして、使者は空野さん、あなたですよね?」

前髪の間にある瞳が、まっすぐに私を見つめている。

「にゃん」

と、代わりにナイトが答えた。