「灰! 忘れ物はない? って言っても一泊分の着替えだけだからそんなに多くないだろうけど!」
 
「しっかり全部持ってきたよ、去年の夏前に準備してたセットがそのまま部屋に残ってたからね」
 
「それならよかった! 楽しみだなぁ、まさか本当に二人で旅行できるなんて夢みたいだよ」
 
「いつにも増して瞳月さんはテンションが高いね」
 
「あ! また“瞳月さん“って呼んだ! この旅行中はお互い呼び捨てって決まりなのもう忘れちゃったの?」
 
 そうだった、“呼び方も話し方も距離感も全部去年の夏までに戻る“約束だ。 
 昨日、僕は瞳月を最寄り駅まで送った後、日付が変わる直前に一度帰宅した。朝方に荷物だけを取りに帰るつもりでいたけれど、どうしても父の様子が気になってしまったから。
 物音のする方を覗くと、ちょうど父が仏壇の横の棚からなにかを慎重に取り出しているところが見えた。深い紫の布に覆われた四角形のなにか——父が布を解いて見えたのは、僕の遺影だった。父はそれを一度包むように抱きしめた後、母の遺影の隣にそっと置いて手を合わせた。線香が二本並べられていて、煙が真っ直ぐに伸びている。自分の遺影を見るなんて、なんとも言えない気持ちになったけれど、父が僕の死を受け入れた一つの形なのかもしれないと思った。父から僕の姿は見えないから、触れてしまうほど近くへ行くこともできたけれど僕はその場をすぐに去った。
 そこから少し歩いた廊下で、僕自身も父と別れたことを受け入れ始められた。
 朝が来て一度この家を出れば、もうここには帰ってこない。父の姿を見るのもこれが最後だ、そんな当たり前に寂しくなりながらしばらく家の中を歩いて思い出に浸った。
 そして今朝、二人がもう一度出会った海岸から少し歩いた場所にある無人駅からの始発へ乗り込み、僕と瞳月の夏旅行が始まった。
 
「夏休み中だからかなぁこの電車、私と灰の二人きりだよ!」
 
「時間もなかなか早いからね、瞳月ってバス通学だっけ?」
 
「さぁどっちでしょう! 恋人の勘に従ってお答えくださいっ!」
 
 提案した瞳月本人も久しぶりの“恋人同士の距離感“に緊張しているようで、それを和らげるために必死に会話を膨らませてくれている。その中で瞳月には、なにかを説明するときに指で空中に輪郭を描いたり、手を上下に振ったりと緊張を誤魔化すための可愛らしいくせがいくつかあることを知った。
 
「瞳月——」
 
 呼びかけた声に返事がない。
 荒い線路を走る電車に揺られて一時間と少しが経った頃、僕の隣には瞳月の寝顔があった。返事の代わりに、荒い寝息が一度だけ返ってきたことが可愛らしくて笑ってしまいそうになる。
 無邪気に話していた姿とは結びつかないほど静かに目を瞑っている。大人びた顔立ちは眠るとどこか幼く見えて、そのギャップに見惚れてしまった。
 
「ちょっと、ごめんね——起きないで、そのままでいて」
 
 そう小声で告げた後、僕の呼吸が瞳月の顔にかからない性質を利用して、鼻先が触れてしまうほどの距離に顔を近づけてみる。物理的に、恋人らしい距離感になってみる。そうしたら少しは実感が湧くかな、と思って。
 見つめ続けて十数秒。体温なんてないはずなのに頬が熱ったような感覚になって、僕は慌てて窓の外に視線を移した。
 数センチ開けられた車窓の隙間から早朝の冷たい風が吹き込む。これから暑くなるよ、と予告を含んだ夏の朝の風。車輪に弾かれる草木や、遠くの方に見える水平線、隣から聞こえる寝息、僕以外の全てが生きている。なんて、つい、感傷的になってしまう。
 
『ご乗車ありがとうございました——まもなく終点——落とし物、お忘れ物ございませんよう、ご注意ください——』
 
 いつ起こそうかとタイミングを見計らっていたけれど、終点を告げるアナウンスと同時に、瞳月は目を覚ました。
 一瞬戸惑ったように周囲を見渡した後、僕を見つめて微笑む。
 
「おはよ、灰」
 
 おはよう、と寝起き特有の雰囲気に少しだけ動揺して、つい無愛想に返してしまった。
 そんな僕へ、瞳月は「可愛い彼女の寝顔を見るチャンスはどうだった?」とからかうように尋ねてきた。寝顔を見せるために眠っていた、とでも言うように自信に満ちた顔で。
 
「可愛かったよ、とってもね」
 
「えーそれだけ? まぁいっか、ありがと!」
 
 寝顔も笑顔も可愛いよ、と隠さずに伝えられたらいいのに。
 
「瞳月」
 
「なに?」
 
 いや、やっぱりいいや。
 今はまだきっと、伝えられても恥ずかしさが勝って素直に伝えきれない。
 
「あ——なんて言おうとしたか忘れちゃった」
 
「あるよねぇそういう時! でも気になるから思い出したら教えて!」
 
 いつもより少し大きめの鞄を抱えて、最後まで誰も乗っていない電車を降りた。
 僕たちが住んでいる場所もかなりの田舎だけど、たどり着いたこの街はそれをはるかに超えてしまう田舎具合だった。聞こえてくる音は鳥や虫の鳴き声と、農機具を動かす時の金属の音、そしてたまに古びたスピーカーから割れた音で町内放送が響く。山、畑、田んぼ、草むら——景色は、見渡す限り緑しかない。
 
「ここから、僕たちはどこに行くんだっけ」
 
「ちょっと歩いた先にある古民家に行く! 場所はなんとなくしかわかってないんだけど……まぁなんとかなるかなって思ってる!」
 
 あまりにも大雑把すぎる。でも、初めての道を二人で探りながら歩くことも旅行の醍醐味なのかもしれない。
 瞳月の「なんとなくこっち!」という勘からくる案内に従いながら進んでいく。合っているかはわからなかった。看板も目印もなく、家の外観はどれも似ていて、見る限り緑が広がっている景色の中で“これかもしれない“というものは一向に見当たらない。
 
「この道で合ってるはずなんだけどなぁ……」
 
 暑さのせいもあるのか、瞳月の声にだんだん自信がなくなっていく。
 
「場所、もしかしてあんまり調べてこなかった?」
 
「いやぁ調べたは調べたんだけど——私、極度の方向音痴でね? 平面の地図も写真が動く地図みたいなのもよくわからなくてさ」
 
 それなら仕方ないか、と納得してしまう、
 それに——。
 
「その古民家へのマップって、今見れたりする?」
 
「昨日の夜にサイトを見てたんだけど開けなくなっちゃったんだよね……」
 
 方向音痴だけじゃない。本人に自覚はないかもしれないけど、瞳月はきっと極度の機械音痴だ。
 いくら恋人と言っても、誰かのスマートフォンに触れて操作するのは抵抗があった、でもいつまでも迷っているわけにもいかないし——こうなったら、最終手段として僕の性質を利用するしかない。
 
「ねぇ瞳月、その古民家ってどんな見た目だった? 屋根の色とか、何階建てだったとか」
 
「瓦屋根で、平屋だった——昔からある家! って感じの雰囲気で、外には縁側があったよ」
 
 僕の視界に入っている家は七軒、そのうち二軒は屋根が赤く塗られていて、もう一軒は二階建て。瞳月の記憶が合っていれば候補は残りの四軒になる。
 
「瞳月、ちょっとここで待っててもらってもいいかな」
 
「いいけど、どうして?」
 
「あの瓦屋根の四軒、近くまで行って見てこようと思う。そしたらどれが目的地かわかるでしょ?」
 
「いや、わかるかもしれないけど……! でもそんなの不審だよ——」
 
「大丈夫、僕のことは瞳月以外視えてないから」
 
 我ながら、言っていて複雑な気持ちになる。
 電車内で瞳月の顔に近づいたことといい、僕のしていることは利用というより悪用に近いような気さえしてきた。
 僕以上に複雑そうな表情で瞳月は分かりやすく困惑したまま僕を送り出す。
 一軒目はパッと見てそれっぽいけれど縁側がない、二軒目は瞳月が教えてくれた特徴とピッタリだけど民泊をやっているような雰囲気はない、三軒目の庭には伸び切った草が足の踏み場もなく生えていてすぐに候補から消えた。ということはつまり——。
 
「ここだ」 
 
 瓦屋根の平屋、外には縁側があって全体的に古風な雰囲気が漂っている。
 ここしかない、そう確信した。
 瞳月が気づいてくれる可能性にかけて叫びながら手を振ってみる。生前の僕なら周囲の目を気にして外で叫ぶなんてできなかっただろう、でも今は恥じらいを気にする必要もない。僕がどれだけ大きく手を振っていようと、瞳月の名前を叫んでいようと、誰にも見られることも聞かれることもないのだから。この身体は案外都合がいいかもしれない、なんて呑気なことを思ったりしている。
 
「わぁすごい! ここだよここ! 見つけてくれてありがと!」
 
 本来予定していた倍近くの時間をかけて、僕たちは目的地へたどり着いた。
 古民家の扉の横には表札が外された跡が残っていて、その隣には『みんぱく』と子供が書いたような平仮名で書かれた看板が立っている。
 
「すみませーん! 予約していた生田でーす!」
 
 瞳月の弾んだ声が玄関から室内へ響き渡ると、奥の方から張りのある可愛らしい声が返ってきた後に一人の女性が顔を出した。父と同い年くらいの、僕たちの母親あたりの年齢に見えるその女性は、少しだけ慌てた様子でこちらへ駆けてくる。
 
「宿泊でご予約の生田瞳月様ですね! えっと——二名で予約していただいていたはずだけど——」
 
 女性と瞳月の間に、なんとも言えない沈黙と疑問が漂っている。
 僕のせいだけれど、これっばかりはどうにもできない。
 機転を効かせてこの状況を突破できないか、瞳月お得意のコミュニケーション能力でどうにか“もう一人“に向けられた疑問を晴らせないか——。
 
「二名揃ってます! ちょっと透明感がありすぎて視えづらいんですけど——でも、確かにここにいます!」
 
 女性は少し困った後、なにかを察したように微笑んでくれた。
 なんでそんな突拍子もないような瞳月の言葉をすぐに飲み込めるのだろうと僕の方が驚いてしまう。
 そして瞳月へ「もしかして去年ご予約いただいていた生田様と東雲様でいらっしゃいますか」と囁くように尋ねた。覚えてくれていたのか、と暖かい気持ちになる。
 透明感がありすぎて視えづらいんですけど、なんて無理のある説明、きっと瞳月にしかできない。
 
「生田様、東雲様、おかえりなさい! ごゆっくり素敵な夏の一日をお過ごしください!」
 
 先ほどまでの困惑は晴れ、女性は僕たちを眩しすぎる笑顔で宿泊部屋へ送り出してくれた。
 教えられた通りに廊下を歩いている途中、瞳月はニヤッと笑って僕を見た。
 なんとなく、次に言い出すことはわかっている。
 
「ねぇ私、なかなか天才的じゃない?」
 
 期待を裏切らない、予想通りすぎるセリフだった。
 でも確かに、あの状況を変に誤魔化さず、素直さだけで突破したのは一種の才能かもしれない。
 
「本当に、なかなか天才的だ。僕一人じゃ、どうにもできなかった」
 
「でしょー? こんなに頼もしい彼女、私以外いないからね!」
 
 目的地を忘れてしまったことも、地図が読めなかったことも、サイトを開けなくなったことも、全てなかったことになっている。
 頼もしい、か。でも確かに、否定はできない。
 でもそれより僕は——。
 
「頼もしい、ってところより自信家なところの方が、僕は素敵だと思うよ」
 
 あの状況を打破してくれたお礼として、そう素直に伝えよう。
 わかりやすく頬を赤らめて照れている間に、告げられた部屋番号が書かれた部屋へ着いた。
 二人分の布団、作業をするには小さい机、ペットボトルが数本入る程度の冷蔵庫。
 民泊、と言うくらいだから旅館のような部屋を勝手に想像していたけれど、なんというかこの部屋は想像よりはるかにシンプル——いや、はっきり言って物がなさすぎる。
 
「これ、部屋って言うより箱じゃない?」
 
 そんな失礼なことを呟いてしまった僕へ、瞳月は「わかってないなぁ」とまっすぐ人差し指を立てて、それを左右に動かしてみせた。
 
「ここはね“田舎での暮らし“を体感するための宿泊施設なの! だから“なにもない“じゃなくて“自分たちで見つける“が正解!」
 
 必要最低限のものだけが置かれた空間、確かに言われてみれば新居のような雰囲気がある。
 田舎での暮らし。僕たちが住んでいる場所もかなりの田舎だと言うのに、どうして瞳月はここを選んだのだろう。
 
「どうしてここを選んでくれたの?」
 
「私たちの未来を疑似体験するためだよ? 灰の身体、いつどうなるかわからなかったから——だから、一緒に暮らしたらこんな感じなんだろうなぁって知りたくてさ!」
 
 僕が浅はかだった。
 この宿を選んでくれた理由にまで瞳月の優しさが隠れているのか、と朝からここへ来るまでのことを思い出しながら浸ってしまう。
 周囲から僕の姿は視えていないのに、電車の切符も、ここでの宿泊料も瞳月は全て“二人分“で予約をしてくれていた。
 今更な気がするけれど瞳月は心から、この一日を恋人として過ごそうとしてくれていると感じた。
 
「瞳月」
 
「どうしたの?」
 
「今日、いっぱい恋人でいようね」
 
 そんなこと改めて言われたら照れちゃうよ、と瞳月は嬉しそうに笑った。
 素直に僕も嬉しくなった。
 部屋の隅に二人分の荷物をまとめて置いた。机上にあった置き手紙に従って僕たちは外へ出る。始発に出発したはずが、時間はすでにお昼を過ぎている。そろそろ昼食を摂りたいところだけど——。
 
「ここの畑から好きなのを収穫して私のいる台所に持ってきてちょうだい! それを私が調理してお昼ご飯として提供させていただきますっ!」
 
 と、先ほど僕たちを出迎えてくれた女将が張り切って教えてくれた。
 口調もかなり砕け始めていて居心地がいい、本当に“宿泊施設“というより“実家“そんな雰囲気を感じる。
 お母さんが生きていたら、こんな感じの日常があったのかもしれないな——なんて。
 入ってきた扉の反対側にある扉から外へ出ると、話にあった通りの畑が広がっていた。雨で落ちかけた野菜のイラストが書いてある看板が可愛らしい、その横には二人分のスコップと収穫するためのハサミ、軍手とカゴが置かれていた。
 
「食事から自分たちで作る感じなんだね……灰くん、野菜を傷つけないで収穫する方法とか、わかったりする?」
 
「いや、僕も農業経験なんてないし——まぁでも、きっとゆっくり手探りでやってみればいいんだよ。それこそ、一緒に暮らしてるって感覚になれるんじゃない?」
 
 そう言うと、やけに嬉しそうに瞳月はスコップを構えた。嫌な予感しかしないし、危うい。そして真っ先に、とうもろこしの絵が書かれた看板が建てられている畑へ駆けて、スコップの先で本当に少しずつ土を払っていく。大きく振りかぶった割に、土をかくスコップの動きは過剰に小さくて、その緊張ぶりに笑ってしまいそうになる。並ぶように僕もしゃがんで、一緒に黄色いなにかが見えるまで土をかき分ける。
 
「「あ——」」
 
 みつけた、やっと、一本目の収穫に近づいた。
 
「私たち、とうもろこし一本に時間かけすぎだね」
 
 そう僕たち自身の慎重さに笑ってしまった。
 そのあとは互いにコツを掴んだのか、野菜を傷つけることなく土から取り出し、怪我をすることもなく無事収穫を終えた。
 湯気が充満している台所にはエプロン姿の女将が僕たちを待ってくれていた。
 いっぱい獲れたねぇ、と面白がりながら褒めた後に部屋で待っているようにと桶に氷と一緒に入れて冷やされたサイダーを瞳月へ手渡した。そのサイダーも、しっかり二本。
 
「サイダーだねぇ、夏だねぇ——でもサイダーと言えば灰だねぇ」
 
 窓際、遠くを見つめながらそう呟いた瞳月からは僕の「どういう意味?」を待っているような視線を感じる。
 気になる、とても気になるけど、そんな期待されるような視線を向けられると妙に緊張してしまう。
 
「私が言ったこと、どういう意味かわかる?」
 
 僕が躊躇っている間に、待ちきれなくなって尋ねてきた。
 ううん、と首を横に振る。
 ふふふ、と瞳月は懐かしさに浸ったように笑う。
 
「高校一年生の夏頃かな、灰が入院してる時の話ね。食事の制限が厳しくなっちゃってさ、私がこっそり病院の近くにある駄菓子屋さんでサイダー買ってお見舞いに行ってたんだよね! 炭酸のシュワシュワが私はちょっと苦手だったけど灰と飲むと美味しく感じたんだよねぇ」
 
 懐かしいなぁ、という瞳月の呟きへ。
 
「懐かしいね、ほんとに」
 
 と、架空の記憶で相槌を打ってみた。
 覚えてないでしょ! と鋭いツッコミが飛んでくる。そういう悪ノリはよくないよーと、笑いながら僕を指差す。
 悪ノリ、確かに間違いない。でも正直な僕の気持ちは悪ノリなんてそんなものじゃなくて、瞳月からの過去の話に懐かしいと返してみたいという単純な願望だった。
 すごく身勝手な形だけど、叶ったことがちょっと嬉しい。
  
「懐かしいよねぇ、わかるわかる。私たちにとっての青春だね!」
 
 ちょっと嬉しい、が、嬉しい、に変わった。
 そして——。
 
「いやぁ私ね、灰と“懐かしいね“って言い合ってみたかったんだよねぇ——夢叶っちゃったよ!」

 偶然の一致にも程がある、さすが、恋人同士だ。
 そう浸ってしまって僕が相槌を打てずにいた一瞬で生まれた沈黙に互いの緊張と恥じらいが昂った。
 誤魔化すように笑い合う、大袈裟に、それでもその笑いが心からの笑いになって、恥ずかしいは楽しいになって、そこから少しだけ思い出話をした。僕は知らない記憶に、架空の感情を乗せて懐かしんだ。氷で冷やされて持つのもやっとだったサイダーのビンは温くなっていく。
 そして——。
 
「あ」
 
「たぶん、僕も同じこと思ってる」
 
「「炭酸、シュワシュワしてないね」」
 
 そう声が揃ったところで、昼食が運ばれてきた。
 
 ◇
 
 十八時過ぎ頃、日が沈み始めて空の綺麗さが一層目立つ。
 淡い朱色と遠く澄んだ青色が入り混じった幻想的な空間に、うっすらと月が姿を表し始めた。雲は出ていない、この調子だときっと星も綺麗だろう。
 
「お風呂上がったよー、うわぁ空綺麗! ずるい! 私も一緒に縁側に座る!」

 そう言うとまだ髪が濡れていることにも構わず僕のいる方へ駆け寄ってきた。
 瞳月が隣に座った瞬間、風が吹いた。お風呂上がりの熱気と、石鹸系のシャンプーの匂いが僕を刺激する。今の僕はそんな些細なことにドキドキしてしまうけれど、もし一緒に暮らしたらこれは日常のほんの一瞬になるのかな、なんて想像してみる。
 
「空、綺麗だよね。空気もいつも以上に澄んでるように感じるよ」
 
 そうだね、とやけに穏やかに瞳月は空を見つめている。
 その様子を見てなんとなく、なにか言いたそうにしているなぁ、と思ったけれど触れずに僕も空を見続けた。
 
「灰」
 
「なに?」
 
「ほんとに空、綺麗だね」
 
 瞳月は絶望的に嘘が下手なのかもしれない。
 本物の笑顔が眩しすぎる分、無理やり作った笑顔にはやっぱり隠しきれない違和感がある。
 
「瞳月」
 
「ん?」
 
「話したいことあるなら、聴かせてよ。恋人なんだし」
 
 とってつけたような理由を最後に添えてしまった。
 からかってくるかなと覚悟して待っていたけれど、返ってきたのは——。
 
「ありがと」
 
 それだけだった。
 そして何度か深呼吸をして、僕を見て頷く。本当に話しても大丈夫だよね、と確認するように。
 
「私、灰に話してないことがあったんだ。話してないことというか、言うタイミングを逃し続けてたことなんだけどね」
 
「言うタイミングを逃し続けてたこと?」
 
「どうして灰がいないなら私も死んじゃいたいって思うくらい好きになったか、愛してるって言えるか。ずっと話せてなかったよね」
 
 言われてみれば確かにそうだ。
 恋人を亡くすことは悲しいことだけど、それにしても瞳月が僕へ抱いている感情はどこか重すぎるような気もする。悪い意味じゃなくて、どうしてそんなにも思ってくれているのだろうという疑問を込めた意味で。
 
「もっと言うなら、私が灰を怒らせた日の話。してなかったよね」
 
 僕が瞳月に怒った——記憶がないから覚えていないのは当たり前だけど、それにしても心当たりがなさすぎる。
 瞳月は確かにちょっとズレたところがあって、抜けてて、たまに理解が追いつかないような言動をする人だけど、それでもそれ以上に素敵な人だ。僕が怒るなんて、そんなこと想像すらできない。
 
「それ、いつの話?」
 
「私たちが中学二年生の頃の話、国語の授業の一環で屋上に集まって百年に一度の奇跡の満月を観た日の話だよ」
 
 百年に一度の奇跡の満月、どこかでそんな言葉を聞いたような記憶はある。
 名称も、なんとなく、本当に微かに。
 
「その月ね“瞳《ヒトミヅキ》月“って名前なの。百年に一度、その月が世界を見渡して、幸福を抱いている人にはそれを守り抜く力を、不幸を感じている人には幸福と巡り会う力を与える——まぁ実際は、物語の中のフィクションで実在はしないらしいんだけどね」
 
 中学校の授業なんて正直あまり記憶にない、ただ瞳月の言っていることが嘘じゃないことはわかる。
 でもそんな授業の中で僕が瞳月を怒る理由はなんだ——。
 
「二人一組で観察をするように言われて、ちょうど私と灰が隣の席だったからペアを組むことになったんだ」
 
「そう、だったんだ。それで?」
 
「その時の担任の先生がね、みんなに質問したの。自分は今、幸せですか、それとも不幸せですか。って、それぞれペアの相手に教え合いましょうってね」
 
 そんな質問、ただでさえ繊細な中学二年生という年頃の生徒にするか。なんて疑問はこの際一旦置いておこう。
 
「瞳月は僕になんて答えたの?」
 
「なにも答えられなかった、幸せも不幸せもよくわからなかったからね」
 
 中学二年生、もう幼いという年齢ではないけど、大人になるには足りないものが多すぎる時期。やっぱり、幸せか不幸せかという問いはあまりに漠然としていて、壮大なことのような気がする。
 
「私ね、中学校の頃はこんなに明るくなかったの。なにか理由があったわけじゃないんだけどね。友達もいなかったし、勉強も苦手で、運動もできなくて、楽しいって思えることがパッと思いつかなくて、好きな人もいなくて——だから別に不幸せって言うほど辛いわけじゃないんだけど、自信持って幸せっても言えなくてさ」
 
 考え方が幼いよねぇ、と笑って瞳月は照れているのを隠す。
 そんなことない、というより、真っ当な考え方だと思う。どれだけ健康体な人でも全てが幸せなわけじゃない、持病を抱えていても全てが不幸せなわけじゃない。中学二年生の瞳月がたどり着いた答えは、高校三年生の僕が聞いても納得して受け取れてしまうほど自然なことだ。
 
「え、もしかしてその瞳月の答えに僕、怒ったの?」
 
「そうだよ? もしかして——覚えてたりする?」
 
 残念ながらここまで話されても全く思い出す気配はない。僕が首を横に振ると、瞳月は少し寂しそうな顔をして「そうだよね、大丈夫だよ」と頷いてくれた。
 話し始めた頃より空の青が深くなっている、藍色に近づいていく。
 月の輪郭がはっきりしてきて、それを瞳月は真っ直ぐ見つめている。そして「灰が覚えてなくても、私がちゃんと教えてあげるから大丈夫だよ」と言い、瞳月はなおも言葉を続けた。
 
「人生の残り時間があるのに幸せになろうとしないなんて人生の無駄遣いだ、って怒られちゃったんだよね。幸せって認められないなら、ずっとなにもない人生になる、そんなの命に失礼だ。って」
 
 幼いのは、圧倒的に僕の方だろう。
 中学二年生の夏頃——ああ、ちょうど僕の病状が悪化した頃だ。それに伴って治療方法も服用する薬も変わって、かろうじて学校には通えていたけれど日常生活の中での制限も増えて、次の手術についての話が主治医から出始めた時期。
 五歳から続いていた闘病期間の中できっと、初めて僕自身の死を強く覚悟した時だった。だからと言って当時まだ僕の持病についてなにも知らない、ただ席が隣だっただけの瞳月にそんな言葉を浴びせるなんて、あまりに身勝手すぎる。
 
「ごめん、記憶にないことが余計に申し訳ないんだけど、でも言ったことは事実だから謝らせほしい。命に失礼だなんて、そんな酷いこと言ってごめ——」
 
「いいの、私、灰にそう言ってもらえなかったらずっと変われなかっただろうから」
 
「え——」
 
「まぁ言われた瞬間は「なんで怒られないといけないんだろう」って不思議に思ったけど、でも、気づけた。その時の私は超健康体だけど、明日が来るかなんてわからない——事故に遭うかもしれないし、突然病気になるかもしれない。その時に私自身の幸せも不幸せもわからないなんて言ったら、私は私を恨んじゃうと思う」
 
「それは、そうなのかもしれないけどさ」
 
「灰の病気について、その時の私はもちろん知らなかった。だからこそ純粋に「この人の考え方素敵だな、もっとこの人を知りたい」って思えたんだよね」
 
 その次の日に前の席の子に話しかけたんだ、そうしたらその子の隣の席の子が苦手な教科を教えてくれて、その流れで無所属だった部活動に体験入部に行ったんだ。僕の言葉を受けてからの変化を瞳月は並べていく。話の途中で見せてくれる瞳月のスマートフォンに残された写真には笑顔が増えていく、だんだん僕がこの数日間で知った生田瞳月の姿と話が重なっていく。
 
「友達ができて、勉強と運動はまだあんまり得意じゃないけど別にいいって言い切れるくらい他のことが楽しい! 好きな人だっていて、その人と恋人になれて、まだまだ一緒にやりたいことも多かったけど、でも、私の中に後悔はない」
 
 笑っている、いつもと少し違う笑い方で。
 楽しいでも嬉しいでもない。奥底にある寂しいとか悲しいを、どうにか上書きしているような笑顔。
 僕の名前を呟くように呼ぶ、そこに僕がいないみたいに。
 そしてすぐに「今から言うことちゃんと受け取ってね」と瞳月は視線と言葉の宛先を僕へ向けた。
 
「灰は、私を変えてくれた人。私に幸せってこういうものだよって教えてくれた大切な人だから——だから、出会ってくれてありがとね」
 
 やっと言えた、と瞳月は深く息を吸う。
 たとえ僕のその言葉が瞳月の心を変えるきっかけになっていたとしても、変わったのは瞳月自身だ。なにも僕が感謝されるようなことじゃない、でも、そう変わってくれた瞳月の存在が僕が生きていたことを証明してくれているようで嬉しかった。
 空は星の光が眩しいと感じられるほど暗くなっている。一緒に見た真昼の星空も忘れられないほど綺麗だったけど、夜空に散りばめられているこの瞬間の星空は綺麗なんて言葉では語りきれないほど美しい。
 隣にいる瞳月を特別な人だと思えているからか、この時間が感じたこともないほど愛おしく思える。
 ——ああ、僕、この人のことが好きなんだ。
 そう気づくまでが遅すぎるように感じて、進んでいく時間を惜しく思ってしまう。
 
「星空、綺麗だね」
 
「綺麗だよね、月も綺麗だよ——あっ、これ違う意味で受け取られちゃうのかな」
 
 そう恥ずかしそうに口元を手で覆う、しばらく僕とは目を合わせてくれそうにない。
 あの日海岸で観た月は、ちょうど綺麗な満月だった。だから今日は満月から少し欠けた月。でも、僕の瞳には少しだけ歪んだ満月が映っている。
 それは夜空に浮かんでいる月じゃなくて——。
 
「いくら恋人だからって、女の子の泣き顔をじっと見るのはよくないと思うよ?」
 
 瞳月の潤んだ瞳に反射した月だ。
 白い肌が月明かりに照らされてより美しく見えて、瞳月自身が光り輝いているような、そんな幻想的な雰囲気を纏っている。
 どんな意味で受け取られたっていい、だから今はただ伝えさせてほしい。
 
「本当に綺麗だね」
 
 物語のフィクションから見つめた満月は、確かに僕たちの中で実在した奇跡の満月だったのかもしれない。
 ひとつ訂正するのなら、それが百年に一度じゃないことくらい。
 僕たちにとっての奇跡の満月は中学二年生の頃に観た“瞳月“と、名前すらない二日前に観た満月。
 
「私たちを結んでくれたの、一回目も二回目も綺麗な満月だったね」
 
 心を読まれているのかと疑ってしまう、通じ合っている感覚に嬉しくなる。
 でも違う、僕たちを結んでくれたのはそんな偶然じゃない。
 一回目は偶然だったのかもしれないけれど二回目はそんなことないだろう。だから、本当に僕たちを結んでくれたのは——。
 
「僕たちを結んでくれたのは満月なんかじゃないよ」
 
「じゃあ、なに?」
 
「書くから読んでみて」
 
 あの時と同じ、浜辺の砂より地面が硬くて文字が書きづらい、それに暗くて見えづらい。部屋から溢れる暖かい灯りと月の光を頼りに書く。
 ほら、きっとこれが正解だ。
 
 ——瞳月
 
「読める?」
 
「これ、どっちの意味でもきっと正解だね」
 
 書いた字を消さないまま、僕たちは笑い合った。
 ぼんやりとしか意識していなかったけれど、僕たちは縁側に座りながら日が沈み切るまでの時間を過ごしていたらしい。
 瞳月の髪は毛先から乾き始めていて、肌に冷たい夜風が触れている。あの日海岸でみた横顔と重なる。綺麗だ、僕の記憶に残っている同級生の異性と比べても群を抜いて可愛い、でもそれだけじゃない。
 今の僕は瞳月の表情に惹かれている。
 だってこんなに恋人らしい、それこそ幸せに満ちた言葉を交わしていたのに瞳月は寂しそうに涙を堪えているから。
 
「瞳月、どうかした?」
 
「あっ、いや——空が綺麗だなぁって思って。暗くなったなぁって、一緒に見れてるの、嬉しいなぁ幸せだなぁって思ったの」
 
 空が綺麗、か。瞳月は知っているかわからないけど、その言葉にももう一つの意味があるんだよ。
 でも今はそんなことを話すより先に、その言葉と表情の間にある違和感の正体について知りたい。
 
「嬉しくて幸せ、な人の表情には見えないよ」
  
「ほんとだよね。なんか幸せなんだけど、幸せなのはいいんだけど、その気持ちに間違いはないんだけど——」
 
「ん?」
 
「“時間が進んでる“って、今日が終わるってことでしょ? なんか急に実感しちゃって、ちょっと心が痛いかも」 
 
 今日が終わる、僕たちの恋人でいられる時間が終わる。
 ここで僕が「今日が終わっても一緒にいようよ」なんて言えたらいいのだけど、残念ながら僕はもう死んでいて、瞳月の隣からいずれ消えなければいけない。
 この宿を探す時僕は“この身体は案外都合がいいかもしれない“なんて呑気なことを思ったけど、そんなことはなかった。
 誰にも怪しまれずに敷地内に侵入できても、大切な人の隣にすらいられないのなら使い物にならないだろう。
 それなら僕はまた、身勝手な言葉を瞳月に溢してみよう。きっと瞳月なら素敵に受け取ってくれるから。
 
「寂しいけど、自動的に終わってくれる方がきっといいよ。自分たちで終わりを決めないといけない方が、よっぽど寂しいし悲しい」
 
 僕だって嫌だ。やっと大切だとわかった人の隣を離れなければいけないなんて、あまりに残酷すぎる。
 だから気持ちはわかるから、どうか今は終わることなんて考えずに僕との今を純粋に楽しいと、幸せだと感じてほしい——そう伝えればよかったなと、僕は瞳月の涙が頬を伝った頃に気づいた。
 
 ◇
 
 深夜三時半。
 瞳月の寝息を聞くたびに、目が冴えていく。
 最低限のものしかない部屋に二つ並べて布団が敷かれている、異様な緊張感が漂っていて眠れるわけがない。
 ところどころ雨漏りのシミがついている天井を見つめながら、漠然とここへ来た目的を思い出した。瞳月の青春を掴む、それは達成できた。ただもう一つ、きっと一番果たさなければいけないこと——。
 
 ——僕の未練の正体を見つける。
 
 この旅が充実していたことに間違いはない、去年の夏に果たせなかった約束を果たせたという意味では完璧だと言える。でもまだ瞳月から僕の姿が視えているということは、僕の未練が果たされていないということになる。
 
「恋人にやり残したこと、か」
 
 瞳月と僕が生前やり残したこと、些細なことはあるのかもしれないけど、それはきっとこの旅の満足度で上書きされているような気がする。
 それなら、伝えそびれたことか。最後の病室で顔を見れなかったこと——でもそんなこと、悔やんだってしかたがない。母の姿をみてきたこともあり常に残りの時間を気にして生きてきた僕が守れない約束なんてするわけがないし——だめだ、考えることにおいても記憶がないことが不利すぎる。
 
「それなら病院に運ばれる前は——」
 
 辿れば微かに記憶が残っている、ベッドの上で僕が考えていたこと。
 身体の辛さはもう頭になくて、ただただ生きていた時間を振り返っていたような気がする。
 死を覚悟していたからこそ、受け入れてしまっていたような感覚だった。
 時々父が様子を見にきてくれていて、なにかを語りかけてくれていたような——きっとその中に、瞳月の話もあっただろう。なにも思い出せないなら考えてみればいい、もう一度死の目の前にいると仮定して、朦朧とした意識の中で僕が恋人である瞳月に伝えたいこと。
 
「灰——」
 
 起きてしまったかと顔を覗いてみる、ただの寝言だった。
 そのまま少し、瞳月の寝顔を見つめてみる。電車内でも見たけれど、その時とはまた違う安心しきった顔に癒される。抱きしめたい、触れたい、でもそれはできない。
 瞳月と離れたくない、そう強く思った。
 でもそれはできない。僕はこれからもう一度死んで、瞳月は変わらず生き続ける。それなら、瞳月にどんなふうに生きていてほしい? もし本当に天国なんてものがあったとして、僕はそこからどんな瞳月をみれたら嬉しい——わかった、これが僕の中にあり続けた未練だ。
 僕が瞳月へ向けた、たった一言がずっと心に引っかかっていたんだ。
 一日あってもわからなかったのに、僕は一時間と少しという異常な速さで正体の答えへ辿り着いた。
 朝五時、あと数分で瞳月のスマートフォンからアラームが鳴る。
 だから僕はその音よりも早く、声を届けたかった。
 
「瞳月」
 
 まだ少し眠さの残る声とあくびが返ってくる、数回目を擦って僕に焦点を合わせる。
 
「おはよ、灰。ゆっくり眠れた?」
 
 柔らかく、そう尋ねられた。
 一緒に暮らしたら、毎朝こんな幸せが眠った先で待っているのか——僕自身の死を受け入れたけれど、やっぱり生きていたかったなんて気持ちばかり強くなっていく。
 
「よく眠れたよ、隣でね」
 
 本当は一睡もできなかったけど、でもいい、この夜には眠る以上の意味があった。
 本当は嫌だけど、まだ恋人でいたいけど、隣で笑っていたいけど、でも僕の心は決まっている。
 僕は、僕の死を受け入れる。だからそのために——。
 
「瞳月、僕のお墓についてきてくれないかな」