死にきれなかった、確かにそう言われた。
その言葉が聞き間違いなんかじゃないことは、瞳月さんの瞳と口調の迷いのなさがなによりの証明していた。
なにも言えないまま瞳月さんからの言葉を待つように立ち尽くしてしまう、再び僕自身に情けなさを感じた。
そして「話すね」と瞳月さんの淡白な声が響いた。
「去年の夏、灰くんは亡くなった。それからの私はね——」
「待って、ちょっと、一回止まって」
話し始めた瞳月さんの口調はあまりに淡々としていた。
僕にはそれが、一年前から抱え続けている辛さや悲しさを押し潰しているように聞こえて、不意に話を止めてしまった。
きっとこの話は誰かに聴かれるだけで心が壊れてしまうような、繊細な話だと思う。瞳月さんの言葉でしか語ってはいけないし、当事者である僕しか聴くのも許されていないような気がした。
間違っても、場の雰囲気で明かしていいことじゃない。だから——。
「申し訳ないけど、お父さん。ちょっと、瞳月さんと二人で話がしたい」
僕の言葉を受けた父は、深く一度だけ頷いてその場を去ってくれた。
瞳月さんへ軽く会釈をして、僕へはきっと、あえて目を合わせなかった。
登ってきた石段を降りていく姿を見送って、僕たちはまた二人きりになる。
「遮っちゃってごめん、続きを聴かせてほしい。でも、辛くなったら、話すのを止めていい。そこから深く問い詰めたりは、絶対にしないから」
今から聴く話はきっと、僕が死んだ夏から目覚める冬、そしてもう一度出会う昨日までの話。父のように物語に起こすのなら、純粋な瞳月さん視点の場面。
ここからは僕の知らない、瞳月さんの話だ。
「お父さんのことごめんね、でもありがとう」
「気を遣わなくていいんだだよ、僕自身も二人の方が集中して聴けるから」
僕はできる限り笑いながらそう言った。実際に心から笑っていられる状況ではないけれど、気を遣わないでほしいのは本当だから。
そんな僕の想いが伝わったかのように、瞳月さんに張り付いている不自然な緊張感が和らいでいくのがわかる。
瞳月さんは“話すね“と訴えかけるように僕へ頷き、僕はその合図を受け取った。正直怖いけれど、ここで僕が怯えるわけにはいかない。
「灰くんが亡くなって、本当なら私、お葬式に参列する予定だったんだ。でも、直前になって行けなくなっちゃったの。灰くんがもういないって認めたくなくて、実感しちゃうことがどうしても嫌で、着替えてる時に手が止まって、玄関に降りる途中の階段で崩れ落ちちゃって、行けなかった」
なにかを言おうとする唇が震えている、僕はただ急かさないように言葉を待つ。
「だからごめんね、あの日ちゃんとお別れに行けなかった——」
「いいんだよ、瞳月さんが謝ることじゃない」
扉越しに死に別れた恋人の葬儀なんて、聴くだけでも胸が痛い。想像するだけで鋭い頭痛がする。
幼かった僕でさえ、母の葬儀の後は喪失感に襲われた。見慣れた笑顔が遺影となって動かなくなっている光景も、生前はこんな人だったと懐かしんでいる親戚たちの会話が聞こえてしまうことも、瞳月さんが言うようにそれらは全て死を実感してしまう空間だったから。
だから瞳月さんは納得してくれないかもしれないけれど、僕の葬儀へは、きっと来なくて正解だったと思う。
「そう言ってくれるってわかってた、でも受け取ってほしいの。私はずっと、あの日ちゃんとお別れできなかった私自身を恨み続けてるから」
そんなことを言われてしまったら、頷くことしかできない。
そっか、わかったよ。としか返せないなんて、気が利かないにも程がある。
「灰くんが亡くなって二週間くらいが経った頃、夏休みが終わったんだ。だから学校に行かないと思って久しぶりに家の外に出たんだけどさ、外が暑いだけで灰くんが亡くなった日のことを思い出しちゃって——息すら吸えなくて、苦しくなって、そんな日が続くようになった」
こんなこと言われても困るよね、と申し訳なさそうに語る姿すら、痛々しかった。
僕が死んだ日は文字通り雲ひとつない青空で、肌が痛くなるほどの暑さだったらしい。その日に似た気温、天気、僕を連想するような単語や場所を思い出すだけで、立っていることすらできなくなってしまうんだと打ち明けられた。
どんな言葉をかけることも間違いで、頷くだけで済むような内容でもなくて、僕はただ瞳月さんからの言葉を噛み砕きながら沈黙に耐えることしかできなかった。
「私と灰くんね、学校で隣の席だったんだよ。教室の一番後ろの、窓際で二つ並んだ席。これぞ青春! みたいな席で、これぞ青春! みたいなやりとりいっぱいしたの。だから教室に入っちゃったら、楽しい記憶に襲われて、壊れちゃいそうだったから——九月の終わり頃までずっと、外には出れなかった」
瞳月さんの声が、だんだんか細く、小さくなっていく。
ゆっくりで大丈夫だよ、と気休め程度にしかなれない僕の言葉を瞳月さんは微笑みながら受け取ってくれた。
そして苦しそうに、深く息を吸う。
「ごめん! やっぱり思い出しちゃうと雰囲気重くなっちゃうね」
そう無理矢理笑ってくれた。
僕が死んだ後の苦しい日々のことなんて忘れてしまいたかっただろうに、知らぬ間に瞳月さんの全てを忘れてしまった僕のために記憶を掘り返してくれている。ごめん、を言うのは僕の方だ。
「ここからの話、今まで以上に灰くんは反応に困ると思う。それでも大丈夫なら話させてほしいんだけど——」
「僕のことなんて気遣わなくていいよ、それが瞳月さんの優しさだなんてことはわかってる。だから今だけは優しくならなくていい、あったままを教えてほしい。僕は、瞳月さんが抱えていてくれていた全部を受け取りたい」
その言葉に安心したように、瞳月さんの表情は穏やかになっていく。
そして「伝わりづらいかもしれないけど、最後まで聞いてほしい」と可愛らしく笑ってみせた。それでいい、なにも隠さずに、抑え込まずに、僕に全てを教えてほしい。
「九月の最終日、さすがにこのままじゃよくないなって思って、私、ベランダに出たんだ」
「ベランダ——」
「外の空気を吸おうと思ったの、それに高いところからの景色を見れば少しでも灰くんがいる空に近づけるって思ってね」
綺麗だったよ、気温も少しは涼しくなっててさ。と付け加える。
「本当に、ベランダに行った理由はそれだけ?」
なんとなく察している、瞳月さんがベランダに行った理由。愛する人を亡くして苦しんでいる人間が、外の空気を吸おうなんてそんな呑気な理由だけでベランダになんていくわけがない。
「灰くん鋭いね——本当の理由は、もう一つある」
相槌も返事もしない、僕はただ瞳月さんを見つめる。
「死のうと思ったの。私、六階建てのマンションの最上階に住んでてさ、ちょうどいいなって」
瞳月さんの手に力が入る。へへへ、と笑った後に「六階からなんて痛いだけだよね」とわざとらしく誤魔化した。
無理に笑う必要なんてないのに——でも、その貼り付けた笑顔で瞳月さん自身を守っているのかもしれないと思うと“無理に笑わなくていい“なんて無責任なことは言えなかった。
「不意に思い立ったんだ。もういいや、って糸が切れたみたいな——気づいたら吸い寄せられるようにベランダに出てて、半分意識なんてないような状態で、ぼーっとしてたら、そっか飛び降りちゃえばいいんだって思って——」
瞳月さんの話と“死にきれなかった“の言葉が交互に頭にちらつく。
ふざけているわけじゃない、真剣に、もしかしたら瞳月さんもすでに亡くなっているのではないか、なんてことが頭をよぎった。
でも父からも通りすがりの人からも姿が見えていたしそれは違うか、と僕の安直すぎる予想は崩れる。
それなら、あの言葉の真意はなんだ——。
「そのまま手すりに足をかけて、身体の一部が柵の外に出た時に動けなくなったの。怖さもなくて、未練なんてそれこそなかったのに、それ以上、身を乗り出せなかった」
知らないはずの光景が映像のように僕の頭に浮かぶ、どんな表情をしていたのかまで想像できてしまうくらい鮮明に。
忙しく映像が頭を駆け巡る。
「私が灰くんのいない世界で生きていくことが嫌なことも、生きていけないって思ったことも本当。初めて好きになった人で、大切な恋人だった、一緒に過ごした時間の全部が幸せで、灰くんとのことが私の全部って言ってもいいくらい。その考えは飛び降りる直前まで変わらず私の中にあったの」
「それならどうして、踏みとどまってくれたの——」
「きっとそう言うと思ったから」
「え——」
「“踏みとどまってくれた“って、灰くんはきっと私が生きることを望むだろう、もっと言うなら、私が自ら死ぬことなんて望んでないだろうって、あの一瞬で思ったから」
そう言うと瞳月さんは「ね? 当たってたでしょ?」と可愛らしく首を傾げて重くなった空気を晴らしてくれようとしている。
間違いない、生きていてくれてよかった。直前に僕の想いが頭をよぎってくれてよかった。
瞳月さんの頭に浮かんだそれはもう、恋人の勘なのかもしれない。
「誰よりも生きることに必死だった灰くんに、私が自分から死に向かっていく姿を見せたら悲しませちゃうと思ったの。涙も流せない身体で悲しむなんて辛いでしょ? 私は大好きな恋人に、そんな思いをさせたくなかったから」
「瞳月さん——」
記憶もない、いくら話されたって思い出す予感すらない。
それでもわかる、僕は確かに瞳月さんに愛されていて、二人で過ごした大切な時間があって、二人だけの想い出があって、一緒に生きたいと願っていた。
死にきれなかった、の意味もわかった。
単に踏みとどまっただけじゃなくて、恋人である僕を想うと辛さすら殺しきれなかった、生きるなんて重すぎる使命を捨てきれなかった、これはきっとそういう意味での言葉だ。
「それに私、すっごく一途なの! 灰くんしか好きじゃないし、好きになれない。キスもハグも灰くんとしたくなかったから」
吹っ切れたようにそんなことを言って見せる。
突然の告白すぎて正直理解が追いつかない。
「それは今までの話とはあんまり関係ないんじゃない?」
「飛び降りた先のアスファルトに唇が触れちゃったら灰くん以外とキスしたことになっちゃうでしょ? そんなの死ぬ直前に罪悪感ばっかりになってそれこそ死にきれないよ」
冗談まじりにも笑いながら、瞳月さんは今にも溢れそうな滴を目尻で堪えている。
実感はいまだにないけれど、僕の生前の恋人がこんなにも素敵な人でよかった。
まっすぐ僕のことを想ってくれていて、病気であることを知りながら恋人でい続けることを選んでくれて、こんなにも暖かくて、恋人のために涙を流せて、二人のために笑えて、それに可愛くて。
最後の理由はなんだかすごく単純なものになってしまったけれど、それでいいと思った。それが、今の僕の正直な気持ちだから。
「瞳月さん」
器用に相槌を打てなかった代わりにはならないけれど、今の僕の気持ちを伝えようと思う。
「僕の恋人でいてくれて、ありがとう。きっとすごく、生前の僕は幸せだったよ」
瞳月さんの瞳から堪えていた滴が止まることなく溢れている。ずるいよ、と呟きながら、それでも今度は心から笑ってくれている。
ここまで話を聞いて、死んだことを嘘だと言う方が難しい。だからそこは受け入れるとして、ここから僕はどうすればいい。
母のように未練を晴らすべきなのだろうけど、それなら僕の中にある死んだことにすら気づけないほど大きな未練はなんだ。
「瞳月さん、僕の中にある未練って、なんだと思う?」
「それは、きっと、私にわかるようなことじゃないよ」
いや、それはそうなんだけど、でも僕にもわからない。
そもそも記憶にすらなかった相手へ抱いていた未練なんて、わかるわけがない。探す方法も、誰に尋ねればいいかもわからない。母の未練は父との結婚式だった、それならどうやってそれが未練だとたどり着いたのか知りたい。
僕の最愛の人は瞳月さんで間違いないだろうから必然的に未練の対象も瞳月さんになるはずだけど——。
「わからないから、一つ提案があるの」
僕の思考を瞳月さん声が止めた。
その表情には今までとは違う種類の緊張感が張り付いていて、妙な空気を感じた。
今から告白でもされるのかもしれない、そう感じさせてしまうような可愛らしい張り詰め方。
「私たち、一日だけ恋人に戻ろう」
まさか本当に告白されるとは、思わなかった。
「僕が、瞳月さんの……?」
「私は別れた記憶も気もないけど、でも灰くん死んじゃったからさ——だから一日だけ元通りになるの。呼び方も話し方も距離感も、全部去年の夏までに戻る」
「それで、僕の未練を見つけようって、そう言うこと?」
提案を受け入れようとする僕へ、瞳月さんはニヤッとしている。必死に隠しているけれどわかってしまう、一日だけ恋人に戻るもう一つの理由。
「本当に、僕の未練を見つけるだけが目的?」
「自分が死んだことには気づけなかったのに、こういう時の勘はいいんだね」
瞳月さんはそう拗ねた口調の後「高校生活最後の夏くらい青春したいものなの!」と、無邪気に笑いながら開き直った。
たった一日恋人に戻るだけで未練の正体がわかるかは正直わからないし自信もない。でも、僕が死んでからの一年間で苦しさや悲しさを全てを抱えてきてくれた瞳月さんへの返しきれない恩の一つとして、僕はその提案を受け入れたい。
それこそ“高校生活最後の夏の青春“を叶えられたら、どんな結果になったとしても僕たちの一日は無駄になんてならない。
「でも、どうして一日なんて半端な期間なの? 夏休みならまだあるし、一日はちょっと短いような気もするけど——」
「灰くんが意識を失ってから死を迎えるまでの時間、それが一日だったから」
遮るように、そう言いきられた。
その言葉に僕は教えられたことを思い返す。
僕が死んだ日、瞳月さんの話に従うなら僕は朝に体調が悪いと伝えていて、昼頃にボイスメッセージを送っている。緊急搬送の連絡を父がしたのは夕方頃、亡くなったのは次の日の朝方四時頃。
意識を失ってから死を迎えるまでの時間が一日というのは、いろいろとズレがあるような——。
「あのメッセージとボイスメッセージ、灰くんのお父さんが代わりに送ってくれてたんだって。朝方にベッドの上で意識を失ってる灰くんをお父さんが見つけた時、急に緊急搬送されたなんてびっくりするでしょ? だから最初は“体調不良“って私に優しい嘘をついてくれた。灰くんが目を覚ますことに希望を託してた証拠だよ」
そんな話、当たり前だけど僕は知らない。
「ボイスメッセージもね、灰くんが録っていてくれた未送信のものをお父さんが気づいて送ってくれたの。だから本当はあの日、朝から灰くんの意識はなくて、そのまますぐに病院に搬ばれた——でもお父さんは灰くんが目を覚ますことを信じてたから、私に嘘をついてくれて、一人で灰くんを待っていてくれたの」
「それなら、どうして最後、瞳月さんに僕のことを教えたの——」
「もうきっと目を覚ますことはない、って言われちゃったんだって。本当に最期だって、お医者さんから言われて、そこで初めて私に連絡をくれた」
そんな新事実の後、瞳月さんは「お父さんの気持ちもあるだろうから言うつもりはなかったんだけどね」と寂しそうに付け加えた。
当時の僕は確かに一日ベッドに寝たきりだったから時間の感覚も鈍っていたのだろう、視界にも常にモヤがかかっていて、朝方に搬ばれても夕方に搬ばれても気づけない。
「それにもう一つ。私たちには果たせなかった一日に未練があるから」
「果たせなかった一日?」
「灰くんが意識を失った次の日——灰くんが亡くなった日、本当なら二人きりでの旅行を約束してた日なんだよね」
二人きりでの旅行。父との旅行すら、僕の体調を考慮して行ったことがなかったのに恋人と二人きりの旅行なんて、父が簡単に許可するはずがない。それでも約束できていたのはきっと、瞳月さんが僕の身体と病気を理解しようとして、考えて、寄り添ってくれたから——二人の思い出のために、残り時間の短い僕のために頑張ってくれたから——。
そんな大切な約束すら置いて、僕はどうして死んでしまったのだろう。
しかたのないことだったけれど話を聞けば聞くだけ悔しくなる。
「それじゃあつまり——」
「一日だけ、私たちは恋人に戻る。そして果たせなかった夏旅行の約束を果たす! ね! 最高じゃない?」
もしかしたら僕にとっての未練は、その旅行に詰まっているのかもしれない。
瞳月さんの無邪気に上がった口角をみると、変えられない事実を悔やんでいることが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
僕が置き去ってしまった大切な約束を果たす機会が来たんだ、逃すわけにはいかない。
「果たそう、そして僕と瞳月さんにとって忘れられないものにしよう。だからその前に、少しだけ時間をくれないかな」
「いいけど——なにかあった?」
「少しだけ、お父さんと話がしたいんだ。暑いから瞳月さんはそこの日陰にでも入って待っていてほしい」
僕のために嘘をつき続けてくれた、僕が死んだことを教えずに過ごさせてくれたもう一人。過保護で過干渉で、今は真っ直ぐにありがとうなんて言えないからせめて、最後にちゃんと話がしたい。
僕からのわがままを瞳月さんは引き止めることなく頷いて「ちゃんと向き合ってくるんだよ」と微笑みながら送り出してくれた。
石段を駆け降りて、来た道を辿る。時々盛り上がった石につまずいて転びそうになりながらも足を止めずに走った。途中いくつか駐車場や休憩所に繋がる分かれ道があったけれど、なんとなく父はそのどの角も曲がらないような気がして勘を頼りに走り続ける。
見えた。
少し堅苦しい白シャツの、背が高くて、一冊の小説だけを持って歩く父の背中。
——「お父さん」
振り向いて足を止めてくれた、急かすことなく僕を待っている。
転ぶからゆっくりでいいよ、なんて父はここまで来ても優しさをかけてくれる。今までは僕を生かすために優しくしてくれていた父は、死んだ僕にまで優しかった。
書斎で話した時も僕はいい加減な態度をとっていたし、久しぶりに父と真正面から向き合っている。話したいことはたくさんある、でもどこから話せばいいのか考えるだけわからなくなってなにも言えずに固まってしまう。
「お父さんから謝るのが筋なのかな——ごめん、灰」
「え」
「小説のことも、お母さんのことも、生田さんとのことも、そして灰が亡くなったことも。秘密にして、嘘をついて、隠してて悪かった」
生まれて初めて、父に頭を下げられた。
何人かの墓参客が、僕たちの横を通り過ぎた。なんだか嫌なささやきが聞こえる。
——あの人、なにに頭下げてるの?
——なんか一人で喋ってない? しかも謝ってる?
——幽霊でも見えちゃってるのかな……
そうか、この場で僕の姿が視えているのはお父さんだけ。
父を気味悪がりながら、その墓参客は通り過ぎていった。それでも動じずに僕に頭を下げ続けている。
「お父さん、いいよ、頭あげて——落ち着いて話そう、僕は話がしたくてお父さんを追いかけてきたんだから」
そう言った後も父はまだ少し俯いていて、一緒にすぐ近くにあった木製の屋根のついたベンチへ腰掛けた。
親子とは思えない、重い空気が漂っている。
僕はなにを聞きたかったっけ、話したかったっけ、思い出せるように思考を巡らせて言葉を選んで「あのさ」と一言切り出した。
「僕が死んだ日、ありがとう」
呆れてしまう、あまりにも言葉が足りなすぎる。
「僕が死んだ日——朝方から意識がなかった僕の代わりに瞳月さんに連絡してくれて、送りそびれてたボイスメッセージも送ってくれて。本当に最期ってわかった時に瞳月さんに伝えてくれて、全部一人で背負って動いてくれて、辛かっただろうに——怖かっただろうに、ありがとう」
「生田さんから、全部聴いたんだね」
頷く僕へ「よく本当のことを受け止めたね」と父は包み込むように褒めてくれた。
そして「でも全部を知られるとちょっと恥ずかしいよ」と照れくさそうに笑った。こんなふうに笑う人だったけ、と久しぶりに向き合う父の心に内心驚いてしまう。
山道のちょうど中間地点あたりにあるこのベンチを吹き抜けるように風が通り過ぎる。日差しが届かないこの場所は涼しい、人通りも落ち着いて、二人の雰囲気もこころなしか穏やかになってきた。
「それにね、お父さん。一年間、僕を家から出さなかった理由、瞳月さんから話を聞いてわかったんだ。なにも知らないまま過保護だなんて言ってごめん」
僕が生きていると思い込んでいた一年間、休学期間だと言ってくれたことも、買い出しすら許さなかったことも、全部が父の優しい嘘だった。
ああ、そうか。父が死んだ僕にまで優しかったのは今に始まったことじゃない、ただ僕が気づけていなかっただけだ。
死んだ僕の学籍はとっくに失くなっているし、僕が外へ出たところで誰からも気づいてもらえない。それこそ、不本意な形で死んだことを勘付いてしまう。
父は、それを隠してくれたんだ。僕がこの世から消えきるまで、隠し通してくれたんだ。
「偶然、あの日瞳月さんが海岸で僕を見つけてくれたけど、それすらなかったら僕は今どうなっていたんだろうって」
「あれは偶然じゃないよ。灰が家を飛び出したことを、生田さんに連絡したんだ」
「お父さんが、瞳月さんに? どうして——」
「灰が姿を現した日、生田さんに灰がいることを電話で伝えたんだ。もし会いたいと思ってくれていたらいつでも来てほしい、ってね。疑ってはいなかったけど信じてももらえなかった」
それはそうだ、死んだ人間が突然姿を現すなんて普通に生きていたら有り得ない話。
あの小説にだって、きっとその頃の瞳月さんはまだ出会っていない。
「一度電話が切れて、でもすぐに折り返しがかかってきた」
「そこで瞳月さんは、なんて言ってたの?」
「私にはまだ信じられないし、亡くなったことすら受け入れられないけど、いつか会えるのならその時まで灰くんをこの世界に居させてほしいです。って、お願いされちゃったよ」
それが、父が僕へ本当のことを隠し続けた理由だった。理由、なんて形式的なものじゃない。これは瞳月さんとお父さんの中で結ばれた約束だ。
「だから一年間灰に本当のことがバレないようにしていたんだけど、飛び出ていかれちゃったからね——慌てて生田さんに電話したんだよ、その時の生田さんの言葉は本当に頼もしかった……」
「それ、どういう意味?」
「灰くんならあの海岸にいます、間違いないです。って、すぐにその海岸に駆けつけてくれたんだ。だから灰はあの日、生田さんと出会えたんだよ」
父と瞳月さんの言葉が綺麗に重なっていく、僕の中の空白が二人の嘘と記憶によって埋められていく。
僕の知らない物語が描かれていくようで、少しずつ僕自身のこととして言葉を受け取れるようになってきた。
「瞳月さんと僕のために、必死で隠してくれていたのに——ごめん、僕、本当になにも知らなくて」
「この一年は今、灰が言ってくれた理由のままだけど——それまでの生活も思い返してみれば灰には窮屈な思いをさせてしまっていたからね。灰が謝ることじゃないさ」
「それは、確かに、不満に思ったこともあったけど……」
「でもわかってほしい。たった一度でも、愛している人を、大切な人を亡くすとな、過剰に怖くなってしまうんだよ」
父の目線がまっすぐ僕へ向く。
きっと今、父の頭の中で僕と母の姿が重なっている。
空気を読んだように蝉の声が止む、話すなら今だろう、聞けるのは今しかない。悔しいけれど僕の記憶にはあまり濃く残っていない母のこと。父が最も愛し合った相手の話を僕は消えてしまう前に知りたい。
「お父さんはさ、お母さんのどんなところが好きだった?」
「全部、って答えたら困るかな」
「困るね、すごく。でも伝わってくるよ、すごくね」
ははは、と笑う。父の取り繕わない笑顔を見たのはいつぶりだろう。
微笑み、なんて言葉には収まらない。声を出して笑う、子どものように無邪気に目を細める顔を見たのはいつぶりだろう。
「お父さん、実は一回プロポーズを断られてるんだよ」
「え、初めて知ったよ」
「お母さんは幼い頃から持病を抱えていたから、常に命の残り時間を気にしながら動く癖があったんだ——付き合ってる時からずっと。だから一回目は「私はきっと最後にあなたを悲しませてしまう」って泣きながら断られたんだよ」
そう言うと父は懐かしむように、そして“そんなこともあったよね“と問いかけるように空を見つめた。父には母のどんな表情が見えているのだろう、そんな父の視線に答えるように木々の隙間から一本の光が差し込んだ。ただの偶然が、奇跡のように思えた。父は幸せそうな表情をしている、きっともう見えてなんかいないけど、今でも心が通っているのだろうなと二人の愛情深さに感動する。
「でも諦め切れるわけもなくてな、二回目のプロポーズ。お母さんの誕生日だった、お父さん、最悪なプロポーズをしたんだよ」
「最悪なプロポーズ?」
「一生かけて幸せになって、その分最後に誰よりも一緒に悲しもう。って」
なんとなく、その言葉は父らしかった。
不器用さと優しさが詰まっていて、母ならきっと笑って受け取ってしまうような言葉。
それになんというかどこか小説に出てくるセリフみたいな、そういう人生を彩らせる恥ずかしさがあった。
「最高じゃん、そのプロポーズ」
最悪だけどなかなかいいだろう? と父は得意げに笑う。
僕も自然と笑い返す。
僕は今すごく後悔している。父ともっと母の話をしていればよかった、瞳月さんの恋人である自覚があるうちに惚気話の一つでも聞かせていればよかった、もっと父と親子としての時間を大切にしていればよかった。
父の不器用な優しさを汲み取っていればよかった——。
「灰は、生田さんとこれからどうするんだ」
「一日だけ恋人に戻る、そして果たせずに死んじゃった夏旅行に行くんだ。そこで僕の未練を見つけて、瞳月さんの青春を掴まえてくる」
そっかそっか、と柔らかく頷いてくれた。
隠し通していてくれたことも、守ってくれていたことも無駄にはしない。
僕はしっかり最後の時間を生きて、今度こそちゃんと死ななければいけない。
「それはきっと、お母さんも安心してくれるね」
「お母さん——どうして?」
「生田さんと結婚式場に行ってくれたと思うんだけど、そこでお母さんと本当にいろいろな話をしたんだよ。お母さん、お父さんと灰のことはあんまりよく覚えていなくてさ。自分の子供のことを知りたい、って言われて灰の話も結構したんだ」
「僕の話、そっか」
「優しくて気遣いのできる子で、お母さんに似た美人だよ、って。話をしているうちに「私もその子に会いたい」って言い始めてね。ちょうど灰は入院期間中だったからそれを叶えることはできなくて、我が子のことで嘘をつかれたくないだろうと思って避けていた灰の病気についての話をすることになったんだ」
初めは僕の身体について「持病がある」としか明かしていなかったらしい。それでも記憶をなくしてしまったからという理由で我が子のことを隠している状況に父は違和感を覚え、母と同じ病気であることを告げたのだそう。
父の想像通り、母は申し訳なさそうに謝った後、遺伝性の疾患ということもあり母自身の身体を悔やみ、責めたと言う。
「そしてお母さんは、あの子がもし死んじゃったら私と同じように愛していた人のことを忘れちゃうのかな、って心配してた」
忘れていたはずの母の声で、父からの言葉が頭の中で再生される。
最後に母に会ったのは僕が四歳の頃、顔は確かに覚えている、どんな人だったかも父ほどは語れないけれどわかる、その中で唯一記憶に遠かった声が一瞬で頭に蘇った。
「だからお母さんに言ったんだ。あの子は強いからきっと生きてくれるよ、って」
「お母さんは、なんて言ったの?」
「どんなに強くたって病気に負ける時は必ずくる、って。悔しそうな顔で、お母さんはそう言ってた」
残酷だけど、紛れもない事実だった。
自分が負けてしまった病気と同じものを患っている我が子にその言葉を向けた母を思うと胸が痛い。本当のことだから、尚更。
僕は知らされていなかったけれど、その当時時点で僕は高校生まで生きられないと言われていたらしい。そう考えるとよく生きたのかな、なんて思ってしまう。
「でもお父さんは「灰は未練なんて残さないよ」ってお母さんに言ったんだ。きっと毎日を必死に生きて、やり残したことなんて、伝えそびれたことなんて一つもないって言い切れる人生になるって」
「お父さん——」
「でもお母さんは、そんなことないよ、ってその時、初めてお父さんの言葉を否定したんだ。死んでからしか気づけないことがあるって——そんなこと、未練があってその場にいるお母さんに言われちゃったらなにも言い返せなかったよ」
あの結婚式場で二人の再会の話を聞いた時、綺麗な会話ばかりを想像していた。
また出会えてよかった、とか未練を晴らせてよかったとか、愛の言葉を伝えあったり、そういう幸せばかりが溢れていると思った。
でも違った、確かに幸せな瞬間もあっただろうけど、父も母も希望を捨てないように必死だった。
これもきっと、僕に言えなかったことの一つなのだろうと受け取った。
「お母さんは、その後なんて言ったの?」
「もしも未練を残してまたここへ来てしまったら、ちゃんと愛する人と向き合ってあるべき姿に戻れるように支えてあげて。ってお母さんはお父さんに灰の未来を託していったよ。それが、二人の本当の最後」
「え、本当の最後って——」
母の未練は結婚式を挙げれなかったことだけじゃない、これはあの小説にすら記されていない父の記憶の中にしまってあること。
亡くなる前、病室のベッドで寝たきりだった母は僕へなにも伝えられなかったことを悔やんでいたらしい。それは僕が、母にとって最も愛した人だった父との間に生まれた大切な存在だったから。僕もまた、一つの愛の形だったから。
だから最後、最愛の相手である父へ僕と一緒に生きていくことを託して母は姿を消した。
「本当に突然だったよ、目の前からいなくなってさ——呼びかけても声も聞こえない。でもそこにいるのかなって思えて、泣かずに笑ってみせたんだ」
父はそう語った。
よかった、もう一度僕は父と話ができてよかった。
母が記憶をなくしても僕へ抱え続けてくれていた心を知れてよかった。
だから今度は僕が、伝える番だ。
「お父さん」
面と向かって伝えるのなんていつぶりだろう、いや、この意味を込めてなら生まれて初めてかもしれない。
「お母さんのこと、愛していてくれてありがとう。そして僕のこと、ここまで大切に育ててくれて、ありがとう。僕は——」
緊張する、なんだかとても恥ずかしい。
でも伝えたい、だってこれがきっと僕と父の最後だから。
——「お父さんとお母さんの間に生まれてこれて本当に幸せだったよ」
父との生活を全て美談にはできない、きっとそれは都合が良すぎる。正直やりたいことだってまだまだあったし、一緒に行きたい場所も食べたいものもたくさんあった。お母さんのお墓参りにだって、もっと一緒に行けたらよかった。
味の薄い手料理だった父が本当は料理上手だったことも知っているし、小説家だということをもっと早く知れていたら自宅療養中に一冊でも多く父が書いた物語を読めたのに、とも思った。
でも、もうそんなことはどうでもいい。十七年間、母との約束を背負って父は必死に僕を生かしてくれた。そして十八年目は、僕が瞳月さんと出会うまで優しい嘘で二人を守ってくれた。ずっと恨んで、避けて、伝えられなかったし“幸せだった“なんて僕自身の気持ちにすら気づけていなかったけど、今そう思わせてくれたことが、この気持ちに嘘がないことのなによりの証拠だから。
「お父さん、僕の言葉受け取ってくれるかな」
父はまっすぐ僕の方を向いている、ただ微妙に目が合わない。
不思議そうな目をした後、なにかに納得したように頬が緩んだ。
「灰」
呼ばれた、面と向かって名前を呼ばれるのもこれが最後かと思うと寂しくなる。
お父さん、そう返しても反応はない。
「もう、お父さんから灰の姿は視えてないよ、もしかして今なにか喋ってる? ごめん、もう聞こえないみたいなんだ——でも、最後にちゃんと、全部を、伝えてくれてありがとう」
やっぱり——寂しい、もう一回だけ、もう一回だけでいいから、僕と目を合わせてほしい。
僕の声を聞いて、一緒に話がしたい。
お母さんのことを好きになったのはどうして? 結婚して一番嬉しかったことは? 僕が生まれてきた時になにを思ってくれたの? どうして小説家になったの? ペンネームは? その由来は? やっぱりあの物語を書いた時のこと今でも大切に記憶に残ってる?
僕の頭の中にはまだ、知りたいことが溢れてるよ——。
でも、そのひとつすら、僕はもう聴けない。
もう一回なんて何回言っても足りないけど、僕はまだ誰かと本当の意味での別れを迎えたくない。
「お父さんも、お母さんとの間に灰が生まれてきてくれて幸せだったよ」
父の言葉に器用に答える余裕なんてない。
「灰が生まれてきてくれた瞬間が、生きてきて一番嬉しかった瞬間だった」
涙は出ない、死んでるから。
でも目の奥は痛くて、涙が詰まっていくような、そんな感覚になる。
そして死んでいても心は動く、本当に、今はただ——。
——本当の意味で死ぬのが怖い。
「灰、これから生田さんと夏旅行に行くんだろ? 記憶にはないだろうけど、恋人との、大好きな子との特別な旅行だ、たくさん幸せを感じてきてほしい」
そんなのもちろん、たくさん幸せになって、そして瞳月さんに幸せを感じてもらってくるよ。
「もし生田さんが小説を書く、なんてことになったらその旅行のことをモデルに書かれることもあるかもしれないからな——たくさん笑って、二人の時間を過ごしてきてほしい。生田さん、たくさん計画して、お父さんにその都度確認をとってくれてた——あの子はいい子だ、抜けてるようでしっかりしてる。きっと一緒にいたら楽しくて一日なんてあっという間だからな」
僕と瞳月さんの夏旅行はきっと、どこの誰が読んでも幸せだと頬が緩んでしまうくらいの名場面ばっかりになるよ。
たくさん笑って、もしかしたらどちらかが泣いて、つられてもう片方も泣いて、でも最後には幸せだねって、そんな一日にしてくる。
だからそんなに泣かないで、僕を送り出して——。
「灰」
ああ、本当に別れを迎えてしまうんだ。
——「周りをよく見て、歩くんだぞ」
父の表情が晴れる、無理矢理にあげた口角が馴染んでいく。
大丈夫、瞳月さんとの旅行が終わったら、お母さんのところにいって気長にまた家族で笑い合える日を待ってるよ。何十年もかけて、ゆっくり待ってる。
だからこれから先はお父さんはお父さん自身を見て、生きていってね。
お父さん——。
——いってきます。
その言葉が聞き間違いなんかじゃないことは、瞳月さんの瞳と口調の迷いのなさがなによりの証明していた。
なにも言えないまま瞳月さんからの言葉を待つように立ち尽くしてしまう、再び僕自身に情けなさを感じた。
そして「話すね」と瞳月さんの淡白な声が響いた。
「去年の夏、灰くんは亡くなった。それからの私はね——」
「待って、ちょっと、一回止まって」
話し始めた瞳月さんの口調はあまりに淡々としていた。
僕にはそれが、一年前から抱え続けている辛さや悲しさを押し潰しているように聞こえて、不意に話を止めてしまった。
きっとこの話は誰かに聴かれるだけで心が壊れてしまうような、繊細な話だと思う。瞳月さんの言葉でしか語ってはいけないし、当事者である僕しか聴くのも許されていないような気がした。
間違っても、場の雰囲気で明かしていいことじゃない。だから——。
「申し訳ないけど、お父さん。ちょっと、瞳月さんと二人で話がしたい」
僕の言葉を受けた父は、深く一度だけ頷いてその場を去ってくれた。
瞳月さんへ軽く会釈をして、僕へはきっと、あえて目を合わせなかった。
登ってきた石段を降りていく姿を見送って、僕たちはまた二人きりになる。
「遮っちゃってごめん、続きを聴かせてほしい。でも、辛くなったら、話すのを止めていい。そこから深く問い詰めたりは、絶対にしないから」
今から聴く話はきっと、僕が死んだ夏から目覚める冬、そしてもう一度出会う昨日までの話。父のように物語に起こすのなら、純粋な瞳月さん視点の場面。
ここからは僕の知らない、瞳月さんの話だ。
「お父さんのことごめんね、でもありがとう」
「気を遣わなくていいんだだよ、僕自身も二人の方が集中して聴けるから」
僕はできる限り笑いながらそう言った。実際に心から笑っていられる状況ではないけれど、気を遣わないでほしいのは本当だから。
そんな僕の想いが伝わったかのように、瞳月さんに張り付いている不自然な緊張感が和らいでいくのがわかる。
瞳月さんは“話すね“と訴えかけるように僕へ頷き、僕はその合図を受け取った。正直怖いけれど、ここで僕が怯えるわけにはいかない。
「灰くんが亡くなって、本当なら私、お葬式に参列する予定だったんだ。でも、直前になって行けなくなっちゃったの。灰くんがもういないって認めたくなくて、実感しちゃうことがどうしても嫌で、着替えてる時に手が止まって、玄関に降りる途中の階段で崩れ落ちちゃって、行けなかった」
なにかを言おうとする唇が震えている、僕はただ急かさないように言葉を待つ。
「だからごめんね、あの日ちゃんとお別れに行けなかった——」
「いいんだよ、瞳月さんが謝ることじゃない」
扉越しに死に別れた恋人の葬儀なんて、聴くだけでも胸が痛い。想像するだけで鋭い頭痛がする。
幼かった僕でさえ、母の葬儀の後は喪失感に襲われた。見慣れた笑顔が遺影となって動かなくなっている光景も、生前はこんな人だったと懐かしんでいる親戚たちの会話が聞こえてしまうことも、瞳月さんが言うようにそれらは全て死を実感してしまう空間だったから。
だから瞳月さんは納得してくれないかもしれないけれど、僕の葬儀へは、きっと来なくて正解だったと思う。
「そう言ってくれるってわかってた、でも受け取ってほしいの。私はずっと、あの日ちゃんとお別れできなかった私自身を恨み続けてるから」
そんなことを言われてしまったら、頷くことしかできない。
そっか、わかったよ。としか返せないなんて、気が利かないにも程がある。
「灰くんが亡くなって二週間くらいが経った頃、夏休みが終わったんだ。だから学校に行かないと思って久しぶりに家の外に出たんだけどさ、外が暑いだけで灰くんが亡くなった日のことを思い出しちゃって——息すら吸えなくて、苦しくなって、そんな日が続くようになった」
こんなこと言われても困るよね、と申し訳なさそうに語る姿すら、痛々しかった。
僕が死んだ日は文字通り雲ひとつない青空で、肌が痛くなるほどの暑さだったらしい。その日に似た気温、天気、僕を連想するような単語や場所を思い出すだけで、立っていることすらできなくなってしまうんだと打ち明けられた。
どんな言葉をかけることも間違いで、頷くだけで済むような内容でもなくて、僕はただ瞳月さんからの言葉を噛み砕きながら沈黙に耐えることしかできなかった。
「私と灰くんね、学校で隣の席だったんだよ。教室の一番後ろの、窓際で二つ並んだ席。これぞ青春! みたいな席で、これぞ青春! みたいなやりとりいっぱいしたの。だから教室に入っちゃったら、楽しい記憶に襲われて、壊れちゃいそうだったから——九月の終わり頃までずっと、外には出れなかった」
瞳月さんの声が、だんだんか細く、小さくなっていく。
ゆっくりで大丈夫だよ、と気休め程度にしかなれない僕の言葉を瞳月さんは微笑みながら受け取ってくれた。
そして苦しそうに、深く息を吸う。
「ごめん! やっぱり思い出しちゃうと雰囲気重くなっちゃうね」
そう無理矢理笑ってくれた。
僕が死んだ後の苦しい日々のことなんて忘れてしまいたかっただろうに、知らぬ間に瞳月さんの全てを忘れてしまった僕のために記憶を掘り返してくれている。ごめん、を言うのは僕の方だ。
「ここからの話、今まで以上に灰くんは反応に困ると思う。それでも大丈夫なら話させてほしいんだけど——」
「僕のことなんて気遣わなくていいよ、それが瞳月さんの優しさだなんてことはわかってる。だから今だけは優しくならなくていい、あったままを教えてほしい。僕は、瞳月さんが抱えていてくれていた全部を受け取りたい」
その言葉に安心したように、瞳月さんの表情は穏やかになっていく。
そして「伝わりづらいかもしれないけど、最後まで聞いてほしい」と可愛らしく笑ってみせた。それでいい、なにも隠さずに、抑え込まずに、僕に全てを教えてほしい。
「九月の最終日、さすがにこのままじゃよくないなって思って、私、ベランダに出たんだ」
「ベランダ——」
「外の空気を吸おうと思ったの、それに高いところからの景色を見れば少しでも灰くんがいる空に近づけるって思ってね」
綺麗だったよ、気温も少しは涼しくなっててさ。と付け加える。
「本当に、ベランダに行った理由はそれだけ?」
なんとなく察している、瞳月さんがベランダに行った理由。愛する人を亡くして苦しんでいる人間が、外の空気を吸おうなんてそんな呑気な理由だけでベランダになんていくわけがない。
「灰くん鋭いね——本当の理由は、もう一つある」
相槌も返事もしない、僕はただ瞳月さんを見つめる。
「死のうと思ったの。私、六階建てのマンションの最上階に住んでてさ、ちょうどいいなって」
瞳月さんの手に力が入る。へへへ、と笑った後に「六階からなんて痛いだけだよね」とわざとらしく誤魔化した。
無理に笑う必要なんてないのに——でも、その貼り付けた笑顔で瞳月さん自身を守っているのかもしれないと思うと“無理に笑わなくていい“なんて無責任なことは言えなかった。
「不意に思い立ったんだ。もういいや、って糸が切れたみたいな——気づいたら吸い寄せられるようにベランダに出てて、半分意識なんてないような状態で、ぼーっとしてたら、そっか飛び降りちゃえばいいんだって思って——」
瞳月さんの話と“死にきれなかった“の言葉が交互に頭にちらつく。
ふざけているわけじゃない、真剣に、もしかしたら瞳月さんもすでに亡くなっているのではないか、なんてことが頭をよぎった。
でも父からも通りすがりの人からも姿が見えていたしそれは違うか、と僕の安直すぎる予想は崩れる。
それなら、あの言葉の真意はなんだ——。
「そのまま手すりに足をかけて、身体の一部が柵の外に出た時に動けなくなったの。怖さもなくて、未練なんてそれこそなかったのに、それ以上、身を乗り出せなかった」
知らないはずの光景が映像のように僕の頭に浮かぶ、どんな表情をしていたのかまで想像できてしまうくらい鮮明に。
忙しく映像が頭を駆け巡る。
「私が灰くんのいない世界で生きていくことが嫌なことも、生きていけないって思ったことも本当。初めて好きになった人で、大切な恋人だった、一緒に過ごした時間の全部が幸せで、灰くんとのことが私の全部って言ってもいいくらい。その考えは飛び降りる直前まで変わらず私の中にあったの」
「それならどうして、踏みとどまってくれたの——」
「きっとそう言うと思ったから」
「え——」
「“踏みとどまってくれた“って、灰くんはきっと私が生きることを望むだろう、もっと言うなら、私が自ら死ぬことなんて望んでないだろうって、あの一瞬で思ったから」
そう言うと瞳月さんは「ね? 当たってたでしょ?」と可愛らしく首を傾げて重くなった空気を晴らしてくれようとしている。
間違いない、生きていてくれてよかった。直前に僕の想いが頭をよぎってくれてよかった。
瞳月さんの頭に浮かんだそれはもう、恋人の勘なのかもしれない。
「誰よりも生きることに必死だった灰くんに、私が自分から死に向かっていく姿を見せたら悲しませちゃうと思ったの。涙も流せない身体で悲しむなんて辛いでしょ? 私は大好きな恋人に、そんな思いをさせたくなかったから」
「瞳月さん——」
記憶もない、いくら話されたって思い出す予感すらない。
それでもわかる、僕は確かに瞳月さんに愛されていて、二人で過ごした大切な時間があって、二人だけの想い出があって、一緒に生きたいと願っていた。
死にきれなかった、の意味もわかった。
単に踏みとどまっただけじゃなくて、恋人である僕を想うと辛さすら殺しきれなかった、生きるなんて重すぎる使命を捨てきれなかった、これはきっとそういう意味での言葉だ。
「それに私、すっごく一途なの! 灰くんしか好きじゃないし、好きになれない。キスもハグも灰くんとしたくなかったから」
吹っ切れたようにそんなことを言って見せる。
突然の告白すぎて正直理解が追いつかない。
「それは今までの話とはあんまり関係ないんじゃない?」
「飛び降りた先のアスファルトに唇が触れちゃったら灰くん以外とキスしたことになっちゃうでしょ? そんなの死ぬ直前に罪悪感ばっかりになってそれこそ死にきれないよ」
冗談まじりにも笑いながら、瞳月さんは今にも溢れそうな滴を目尻で堪えている。
実感はいまだにないけれど、僕の生前の恋人がこんなにも素敵な人でよかった。
まっすぐ僕のことを想ってくれていて、病気であることを知りながら恋人でい続けることを選んでくれて、こんなにも暖かくて、恋人のために涙を流せて、二人のために笑えて、それに可愛くて。
最後の理由はなんだかすごく単純なものになってしまったけれど、それでいいと思った。それが、今の僕の正直な気持ちだから。
「瞳月さん」
器用に相槌を打てなかった代わりにはならないけれど、今の僕の気持ちを伝えようと思う。
「僕の恋人でいてくれて、ありがとう。きっとすごく、生前の僕は幸せだったよ」
瞳月さんの瞳から堪えていた滴が止まることなく溢れている。ずるいよ、と呟きながら、それでも今度は心から笑ってくれている。
ここまで話を聞いて、死んだことを嘘だと言う方が難しい。だからそこは受け入れるとして、ここから僕はどうすればいい。
母のように未練を晴らすべきなのだろうけど、それなら僕の中にある死んだことにすら気づけないほど大きな未練はなんだ。
「瞳月さん、僕の中にある未練って、なんだと思う?」
「それは、きっと、私にわかるようなことじゃないよ」
いや、それはそうなんだけど、でも僕にもわからない。
そもそも記憶にすらなかった相手へ抱いていた未練なんて、わかるわけがない。探す方法も、誰に尋ねればいいかもわからない。母の未練は父との結婚式だった、それならどうやってそれが未練だとたどり着いたのか知りたい。
僕の最愛の人は瞳月さんで間違いないだろうから必然的に未練の対象も瞳月さんになるはずだけど——。
「わからないから、一つ提案があるの」
僕の思考を瞳月さん声が止めた。
その表情には今までとは違う種類の緊張感が張り付いていて、妙な空気を感じた。
今から告白でもされるのかもしれない、そう感じさせてしまうような可愛らしい張り詰め方。
「私たち、一日だけ恋人に戻ろう」
まさか本当に告白されるとは、思わなかった。
「僕が、瞳月さんの……?」
「私は別れた記憶も気もないけど、でも灰くん死んじゃったからさ——だから一日だけ元通りになるの。呼び方も話し方も距離感も、全部去年の夏までに戻る」
「それで、僕の未練を見つけようって、そう言うこと?」
提案を受け入れようとする僕へ、瞳月さんはニヤッとしている。必死に隠しているけれどわかってしまう、一日だけ恋人に戻るもう一つの理由。
「本当に、僕の未練を見つけるだけが目的?」
「自分が死んだことには気づけなかったのに、こういう時の勘はいいんだね」
瞳月さんはそう拗ねた口調の後「高校生活最後の夏くらい青春したいものなの!」と、無邪気に笑いながら開き直った。
たった一日恋人に戻るだけで未練の正体がわかるかは正直わからないし自信もない。でも、僕が死んでからの一年間で苦しさや悲しさを全てを抱えてきてくれた瞳月さんへの返しきれない恩の一つとして、僕はその提案を受け入れたい。
それこそ“高校生活最後の夏の青春“を叶えられたら、どんな結果になったとしても僕たちの一日は無駄になんてならない。
「でも、どうして一日なんて半端な期間なの? 夏休みならまだあるし、一日はちょっと短いような気もするけど——」
「灰くんが意識を失ってから死を迎えるまでの時間、それが一日だったから」
遮るように、そう言いきられた。
その言葉に僕は教えられたことを思い返す。
僕が死んだ日、瞳月さんの話に従うなら僕は朝に体調が悪いと伝えていて、昼頃にボイスメッセージを送っている。緊急搬送の連絡を父がしたのは夕方頃、亡くなったのは次の日の朝方四時頃。
意識を失ってから死を迎えるまでの時間が一日というのは、いろいろとズレがあるような——。
「あのメッセージとボイスメッセージ、灰くんのお父さんが代わりに送ってくれてたんだって。朝方にベッドの上で意識を失ってる灰くんをお父さんが見つけた時、急に緊急搬送されたなんてびっくりするでしょ? だから最初は“体調不良“って私に優しい嘘をついてくれた。灰くんが目を覚ますことに希望を託してた証拠だよ」
そんな話、当たり前だけど僕は知らない。
「ボイスメッセージもね、灰くんが録っていてくれた未送信のものをお父さんが気づいて送ってくれたの。だから本当はあの日、朝から灰くんの意識はなくて、そのまますぐに病院に搬ばれた——でもお父さんは灰くんが目を覚ますことを信じてたから、私に嘘をついてくれて、一人で灰くんを待っていてくれたの」
「それなら、どうして最後、瞳月さんに僕のことを教えたの——」
「もうきっと目を覚ますことはない、って言われちゃったんだって。本当に最期だって、お医者さんから言われて、そこで初めて私に連絡をくれた」
そんな新事実の後、瞳月さんは「お父さんの気持ちもあるだろうから言うつもりはなかったんだけどね」と寂しそうに付け加えた。
当時の僕は確かに一日ベッドに寝たきりだったから時間の感覚も鈍っていたのだろう、視界にも常にモヤがかかっていて、朝方に搬ばれても夕方に搬ばれても気づけない。
「それにもう一つ。私たちには果たせなかった一日に未練があるから」
「果たせなかった一日?」
「灰くんが意識を失った次の日——灰くんが亡くなった日、本当なら二人きりでの旅行を約束してた日なんだよね」
二人きりでの旅行。父との旅行すら、僕の体調を考慮して行ったことがなかったのに恋人と二人きりの旅行なんて、父が簡単に許可するはずがない。それでも約束できていたのはきっと、瞳月さんが僕の身体と病気を理解しようとして、考えて、寄り添ってくれたから——二人の思い出のために、残り時間の短い僕のために頑張ってくれたから——。
そんな大切な約束すら置いて、僕はどうして死んでしまったのだろう。
しかたのないことだったけれど話を聞けば聞くだけ悔しくなる。
「それじゃあつまり——」
「一日だけ、私たちは恋人に戻る。そして果たせなかった夏旅行の約束を果たす! ね! 最高じゃない?」
もしかしたら僕にとっての未練は、その旅行に詰まっているのかもしれない。
瞳月さんの無邪気に上がった口角をみると、変えられない事実を悔やんでいることが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
僕が置き去ってしまった大切な約束を果たす機会が来たんだ、逃すわけにはいかない。
「果たそう、そして僕と瞳月さんにとって忘れられないものにしよう。だからその前に、少しだけ時間をくれないかな」
「いいけど——なにかあった?」
「少しだけ、お父さんと話がしたいんだ。暑いから瞳月さんはそこの日陰にでも入って待っていてほしい」
僕のために嘘をつき続けてくれた、僕が死んだことを教えずに過ごさせてくれたもう一人。過保護で過干渉で、今は真っ直ぐにありがとうなんて言えないからせめて、最後にちゃんと話がしたい。
僕からのわがままを瞳月さんは引き止めることなく頷いて「ちゃんと向き合ってくるんだよ」と微笑みながら送り出してくれた。
石段を駆け降りて、来た道を辿る。時々盛り上がった石につまずいて転びそうになりながらも足を止めずに走った。途中いくつか駐車場や休憩所に繋がる分かれ道があったけれど、なんとなく父はそのどの角も曲がらないような気がして勘を頼りに走り続ける。
見えた。
少し堅苦しい白シャツの、背が高くて、一冊の小説だけを持って歩く父の背中。
——「お父さん」
振り向いて足を止めてくれた、急かすことなく僕を待っている。
転ぶからゆっくりでいいよ、なんて父はここまで来ても優しさをかけてくれる。今までは僕を生かすために優しくしてくれていた父は、死んだ僕にまで優しかった。
書斎で話した時も僕はいい加減な態度をとっていたし、久しぶりに父と真正面から向き合っている。話したいことはたくさんある、でもどこから話せばいいのか考えるだけわからなくなってなにも言えずに固まってしまう。
「お父さんから謝るのが筋なのかな——ごめん、灰」
「え」
「小説のことも、お母さんのことも、生田さんとのことも、そして灰が亡くなったことも。秘密にして、嘘をついて、隠してて悪かった」
生まれて初めて、父に頭を下げられた。
何人かの墓参客が、僕たちの横を通り過ぎた。なんだか嫌なささやきが聞こえる。
——あの人、なにに頭下げてるの?
——なんか一人で喋ってない? しかも謝ってる?
——幽霊でも見えちゃってるのかな……
そうか、この場で僕の姿が視えているのはお父さんだけ。
父を気味悪がりながら、その墓参客は通り過ぎていった。それでも動じずに僕に頭を下げ続けている。
「お父さん、いいよ、頭あげて——落ち着いて話そう、僕は話がしたくてお父さんを追いかけてきたんだから」
そう言った後も父はまだ少し俯いていて、一緒にすぐ近くにあった木製の屋根のついたベンチへ腰掛けた。
親子とは思えない、重い空気が漂っている。
僕はなにを聞きたかったっけ、話したかったっけ、思い出せるように思考を巡らせて言葉を選んで「あのさ」と一言切り出した。
「僕が死んだ日、ありがとう」
呆れてしまう、あまりにも言葉が足りなすぎる。
「僕が死んだ日——朝方から意識がなかった僕の代わりに瞳月さんに連絡してくれて、送りそびれてたボイスメッセージも送ってくれて。本当に最期ってわかった時に瞳月さんに伝えてくれて、全部一人で背負って動いてくれて、辛かっただろうに——怖かっただろうに、ありがとう」
「生田さんから、全部聴いたんだね」
頷く僕へ「よく本当のことを受け止めたね」と父は包み込むように褒めてくれた。
そして「でも全部を知られるとちょっと恥ずかしいよ」と照れくさそうに笑った。こんなふうに笑う人だったけ、と久しぶりに向き合う父の心に内心驚いてしまう。
山道のちょうど中間地点あたりにあるこのベンチを吹き抜けるように風が通り過ぎる。日差しが届かないこの場所は涼しい、人通りも落ち着いて、二人の雰囲気もこころなしか穏やかになってきた。
「それにね、お父さん。一年間、僕を家から出さなかった理由、瞳月さんから話を聞いてわかったんだ。なにも知らないまま過保護だなんて言ってごめん」
僕が生きていると思い込んでいた一年間、休学期間だと言ってくれたことも、買い出しすら許さなかったことも、全部が父の優しい嘘だった。
ああ、そうか。父が死んだ僕にまで優しかったのは今に始まったことじゃない、ただ僕が気づけていなかっただけだ。
死んだ僕の学籍はとっくに失くなっているし、僕が外へ出たところで誰からも気づいてもらえない。それこそ、不本意な形で死んだことを勘付いてしまう。
父は、それを隠してくれたんだ。僕がこの世から消えきるまで、隠し通してくれたんだ。
「偶然、あの日瞳月さんが海岸で僕を見つけてくれたけど、それすらなかったら僕は今どうなっていたんだろうって」
「あれは偶然じゃないよ。灰が家を飛び出したことを、生田さんに連絡したんだ」
「お父さんが、瞳月さんに? どうして——」
「灰が姿を現した日、生田さんに灰がいることを電話で伝えたんだ。もし会いたいと思ってくれていたらいつでも来てほしい、ってね。疑ってはいなかったけど信じてももらえなかった」
それはそうだ、死んだ人間が突然姿を現すなんて普通に生きていたら有り得ない話。
あの小説にだって、きっとその頃の瞳月さんはまだ出会っていない。
「一度電話が切れて、でもすぐに折り返しがかかってきた」
「そこで瞳月さんは、なんて言ってたの?」
「私にはまだ信じられないし、亡くなったことすら受け入れられないけど、いつか会えるのならその時まで灰くんをこの世界に居させてほしいです。って、お願いされちゃったよ」
それが、父が僕へ本当のことを隠し続けた理由だった。理由、なんて形式的なものじゃない。これは瞳月さんとお父さんの中で結ばれた約束だ。
「だから一年間灰に本当のことがバレないようにしていたんだけど、飛び出ていかれちゃったからね——慌てて生田さんに電話したんだよ、その時の生田さんの言葉は本当に頼もしかった……」
「それ、どういう意味?」
「灰くんならあの海岸にいます、間違いないです。って、すぐにその海岸に駆けつけてくれたんだ。だから灰はあの日、生田さんと出会えたんだよ」
父と瞳月さんの言葉が綺麗に重なっていく、僕の中の空白が二人の嘘と記憶によって埋められていく。
僕の知らない物語が描かれていくようで、少しずつ僕自身のこととして言葉を受け取れるようになってきた。
「瞳月さんと僕のために、必死で隠してくれていたのに——ごめん、僕、本当になにも知らなくて」
「この一年は今、灰が言ってくれた理由のままだけど——それまでの生活も思い返してみれば灰には窮屈な思いをさせてしまっていたからね。灰が謝ることじゃないさ」
「それは、確かに、不満に思ったこともあったけど……」
「でもわかってほしい。たった一度でも、愛している人を、大切な人を亡くすとな、過剰に怖くなってしまうんだよ」
父の目線がまっすぐ僕へ向く。
きっと今、父の頭の中で僕と母の姿が重なっている。
空気を読んだように蝉の声が止む、話すなら今だろう、聞けるのは今しかない。悔しいけれど僕の記憶にはあまり濃く残っていない母のこと。父が最も愛し合った相手の話を僕は消えてしまう前に知りたい。
「お父さんはさ、お母さんのどんなところが好きだった?」
「全部、って答えたら困るかな」
「困るね、すごく。でも伝わってくるよ、すごくね」
ははは、と笑う。父の取り繕わない笑顔を見たのはいつぶりだろう。
微笑み、なんて言葉には収まらない。声を出して笑う、子どものように無邪気に目を細める顔を見たのはいつぶりだろう。
「お父さん、実は一回プロポーズを断られてるんだよ」
「え、初めて知ったよ」
「お母さんは幼い頃から持病を抱えていたから、常に命の残り時間を気にしながら動く癖があったんだ——付き合ってる時からずっと。だから一回目は「私はきっと最後にあなたを悲しませてしまう」って泣きながら断られたんだよ」
そう言うと父は懐かしむように、そして“そんなこともあったよね“と問いかけるように空を見つめた。父には母のどんな表情が見えているのだろう、そんな父の視線に答えるように木々の隙間から一本の光が差し込んだ。ただの偶然が、奇跡のように思えた。父は幸せそうな表情をしている、きっともう見えてなんかいないけど、今でも心が通っているのだろうなと二人の愛情深さに感動する。
「でも諦め切れるわけもなくてな、二回目のプロポーズ。お母さんの誕生日だった、お父さん、最悪なプロポーズをしたんだよ」
「最悪なプロポーズ?」
「一生かけて幸せになって、その分最後に誰よりも一緒に悲しもう。って」
なんとなく、その言葉は父らしかった。
不器用さと優しさが詰まっていて、母ならきっと笑って受け取ってしまうような言葉。
それになんというかどこか小説に出てくるセリフみたいな、そういう人生を彩らせる恥ずかしさがあった。
「最高じゃん、そのプロポーズ」
最悪だけどなかなかいいだろう? と父は得意げに笑う。
僕も自然と笑い返す。
僕は今すごく後悔している。父ともっと母の話をしていればよかった、瞳月さんの恋人である自覚があるうちに惚気話の一つでも聞かせていればよかった、もっと父と親子としての時間を大切にしていればよかった。
父の不器用な優しさを汲み取っていればよかった——。
「灰は、生田さんとこれからどうするんだ」
「一日だけ恋人に戻る、そして果たせずに死んじゃった夏旅行に行くんだ。そこで僕の未練を見つけて、瞳月さんの青春を掴まえてくる」
そっかそっか、と柔らかく頷いてくれた。
隠し通していてくれたことも、守ってくれていたことも無駄にはしない。
僕はしっかり最後の時間を生きて、今度こそちゃんと死ななければいけない。
「それはきっと、お母さんも安心してくれるね」
「お母さん——どうして?」
「生田さんと結婚式場に行ってくれたと思うんだけど、そこでお母さんと本当にいろいろな話をしたんだよ。お母さん、お父さんと灰のことはあんまりよく覚えていなくてさ。自分の子供のことを知りたい、って言われて灰の話も結構したんだ」
「僕の話、そっか」
「優しくて気遣いのできる子で、お母さんに似た美人だよ、って。話をしているうちに「私もその子に会いたい」って言い始めてね。ちょうど灰は入院期間中だったからそれを叶えることはできなくて、我が子のことで嘘をつかれたくないだろうと思って避けていた灰の病気についての話をすることになったんだ」
初めは僕の身体について「持病がある」としか明かしていなかったらしい。それでも記憶をなくしてしまったからという理由で我が子のことを隠している状況に父は違和感を覚え、母と同じ病気であることを告げたのだそう。
父の想像通り、母は申し訳なさそうに謝った後、遺伝性の疾患ということもあり母自身の身体を悔やみ、責めたと言う。
「そしてお母さんは、あの子がもし死んじゃったら私と同じように愛していた人のことを忘れちゃうのかな、って心配してた」
忘れていたはずの母の声で、父からの言葉が頭の中で再生される。
最後に母に会ったのは僕が四歳の頃、顔は確かに覚えている、どんな人だったかも父ほどは語れないけれどわかる、その中で唯一記憶に遠かった声が一瞬で頭に蘇った。
「だからお母さんに言ったんだ。あの子は強いからきっと生きてくれるよ、って」
「お母さんは、なんて言ったの?」
「どんなに強くたって病気に負ける時は必ずくる、って。悔しそうな顔で、お母さんはそう言ってた」
残酷だけど、紛れもない事実だった。
自分が負けてしまった病気と同じものを患っている我が子にその言葉を向けた母を思うと胸が痛い。本当のことだから、尚更。
僕は知らされていなかったけれど、その当時時点で僕は高校生まで生きられないと言われていたらしい。そう考えるとよく生きたのかな、なんて思ってしまう。
「でもお父さんは「灰は未練なんて残さないよ」ってお母さんに言ったんだ。きっと毎日を必死に生きて、やり残したことなんて、伝えそびれたことなんて一つもないって言い切れる人生になるって」
「お父さん——」
「でもお母さんは、そんなことないよ、ってその時、初めてお父さんの言葉を否定したんだ。死んでからしか気づけないことがあるって——そんなこと、未練があってその場にいるお母さんに言われちゃったらなにも言い返せなかったよ」
あの結婚式場で二人の再会の話を聞いた時、綺麗な会話ばかりを想像していた。
また出会えてよかった、とか未練を晴らせてよかったとか、愛の言葉を伝えあったり、そういう幸せばかりが溢れていると思った。
でも違った、確かに幸せな瞬間もあっただろうけど、父も母も希望を捨てないように必死だった。
これもきっと、僕に言えなかったことの一つなのだろうと受け取った。
「お母さんは、その後なんて言ったの?」
「もしも未練を残してまたここへ来てしまったら、ちゃんと愛する人と向き合ってあるべき姿に戻れるように支えてあげて。ってお母さんはお父さんに灰の未来を託していったよ。それが、二人の本当の最後」
「え、本当の最後って——」
母の未練は結婚式を挙げれなかったことだけじゃない、これはあの小説にすら記されていない父の記憶の中にしまってあること。
亡くなる前、病室のベッドで寝たきりだった母は僕へなにも伝えられなかったことを悔やんでいたらしい。それは僕が、母にとって最も愛した人だった父との間に生まれた大切な存在だったから。僕もまた、一つの愛の形だったから。
だから最後、最愛の相手である父へ僕と一緒に生きていくことを託して母は姿を消した。
「本当に突然だったよ、目の前からいなくなってさ——呼びかけても声も聞こえない。でもそこにいるのかなって思えて、泣かずに笑ってみせたんだ」
父はそう語った。
よかった、もう一度僕は父と話ができてよかった。
母が記憶をなくしても僕へ抱え続けてくれていた心を知れてよかった。
だから今度は僕が、伝える番だ。
「お父さん」
面と向かって伝えるのなんていつぶりだろう、いや、この意味を込めてなら生まれて初めてかもしれない。
「お母さんのこと、愛していてくれてありがとう。そして僕のこと、ここまで大切に育ててくれて、ありがとう。僕は——」
緊張する、なんだかとても恥ずかしい。
でも伝えたい、だってこれがきっと僕と父の最後だから。
——「お父さんとお母さんの間に生まれてこれて本当に幸せだったよ」
父との生活を全て美談にはできない、きっとそれは都合が良すぎる。正直やりたいことだってまだまだあったし、一緒に行きたい場所も食べたいものもたくさんあった。お母さんのお墓参りにだって、もっと一緒に行けたらよかった。
味の薄い手料理だった父が本当は料理上手だったことも知っているし、小説家だということをもっと早く知れていたら自宅療養中に一冊でも多く父が書いた物語を読めたのに、とも思った。
でも、もうそんなことはどうでもいい。十七年間、母との約束を背負って父は必死に僕を生かしてくれた。そして十八年目は、僕が瞳月さんと出会うまで優しい嘘で二人を守ってくれた。ずっと恨んで、避けて、伝えられなかったし“幸せだった“なんて僕自身の気持ちにすら気づけていなかったけど、今そう思わせてくれたことが、この気持ちに嘘がないことのなによりの証拠だから。
「お父さん、僕の言葉受け取ってくれるかな」
父はまっすぐ僕の方を向いている、ただ微妙に目が合わない。
不思議そうな目をした後、なにかに納得したように頬が緩んだ。
「灰」
呼ばれた、面と向かって名前を呼ばれるのもこれが最後かと思うと寂しくなる。
お父さん、そう返しても反応はない。
「もう、お父さんから灰の姿は視えてないよ、もしかして今なにか喋ってる? ごめん、もう聞こえないみたいなんだ——でも、最後にちゃんと、全部を、伝えてくれてありがとう」
やっぱり——寂しい、もう一回だけ、もう一回だけでいいから、僕と目を合わせてほしい。
僕の声を聞いて、一緒に話がしたい。
お母さんのことを好きになったのはどうして? 結婚して一番嬉しかったことは? 僕が生まれてきた時になにを思ってくれたの? どうして小説家になったの? ペンネームは? その由来は? やっぱりあの物語を書いた時のこと今でも大切に記憶に残ってる?
僕の頭の中にはまだ、知りたいことが溢れてるよ——。
でも、そのひとつすら、僕はもう聴けない。
もう一回なんて何回言っても足りないけど、僕はまだ誰かと本当の意味での別れを迎えたくない。
「お父さんも、お母さんとの間に灰が生まれてきてくれて幸せだったよ」
父の言葉に器用に答える余裕なんてない。
「灰が生まれてきてくれた瞬間が、生きてきて一番嬉しかった瞬間だった」
涙は出ない、死んでるから。
でも目の奥は痛くて、涙が詰まっていくような、そんな感覚になる。
そして死んでいても心は動く、本当に、今はただ——。
——本当の意味で死ぬのが怖い。
「灰、これから生田さんと夏旅行に行くんだろ? 記憶にはないだろうけど、恋人との、大好きな子との特別な旅行だ、たくさん幸せを感じてきてほしい」
そんなのもちろん、たくさん幸せになって、そして瞳月さんに幸せを感じてもらってくるよ。
「もし生田さんが小説を書く、なんてことになったらその旅行のことをモデルに書かれることもあるかもしれないからな——たくさん笑って、二人の時間を過ごしてきてほしい。生田さん、たくさん計画して、お父さんにその都度確認をとってくれてた——あの子はいい子だ、抜けてるようでしっかりしてる。きっと一緒にいたら楽しくて一日なんてあっという間だからな」
僕と瞳月さんの夏旅行はきっと、どこの誰が読んでも幸せだと頬が緩んでしまうくらいの名場面ばっかりになるよ。
たくさん笑って、もしかしたらどちらかが泣いて、つられてもう片方も泣いて、でも最後には幸せだねって、そんな一日にしてくる。
だからそんなに泣かないで、僕を送り出して——。
「灰」
ああ、本当に別れを迎えてしまうんだ。
——「周りをよく見て、歩くんだぞ」
父の表情が晴れる、無理矢理にあげた口角が馴染んでいく。
大丈夫、瞳月さんとの旅行が終わったら、お母さんのところにいって気長にまた家族で笑い合える日を待ってるよ。何十年もかけて、ゆっくり待ってる。
だからこれから先はお父さんはお父さん自身を見て、生きていってね。
お父さん——。
——いってきます。