「私の名前、知ってる?」
日が沈み始めた夏の夕方、透き通った声が僕の鼓膜を突いた。
目の前の海面には反射した夕陽が美しく広がっている、さっきも通りすがりの誰かが「綺麗だなぁ」とスマートフォンのシャッターを切る音が聞こえた。そんな絶景すら無視して俯いていた僕の意識を、その声は一瞬にして奪った。
反射的に顔を上げると僕が在籍している高校の制服を着た一人の女子高生が僕を覗き込むようにして立っていた。
彼女は断りや遠慮のかけらもなく僕の隣にしゃがむ。そして『知ってる?』と僕からの答えを急かした。
名前どころか、顔すら知らない。
僕が休学している期間に加わった転校生か、それとも——。
「記憶にない顔だよ。もしかして訳ありな不登校生かなにか?」
言ってしまった、と少し焦った。僕の記憶が正しければ初対面の彼女に、失礼な態度を取ってしまった。
失礼さは自覚しているけれど、仕方ない。ただでさえ人付き合いが苦手な僕が、長らく人と言葉を交わしていないのだ。一人海岸で座っていたら知らない女子高生から急に距離を詰められる、こんなイレギュラーな状況で気の利いた対応なんてできるわけがない。
「そんなデリカシーのかけらもないようなこと普通言う⁉︎ いくら顔が綺麗だからって許されないからね!」
ただ、そんな僕の言葉へ彼女は、わざとらしく憤った様子で、それでもどこか楽しそうに笑って言い返した。
確かに、僕の言葉には彼女の言う通りデリカシーのかけらもないけど、突然『私の名前、知ってる?』なんて声をかけ『顔が綺麗』と初対面の相手の容姿について触れる彼女もなかなかだと思う。
そんな彼女を不思議に思ったけれど、不快だとは思わなかった。それどころか彼女の軽快な笑い声に緊張が和らいでいく。少し話をするくらいならいいかな、なんて気持ちの表れか、僕の視線は無意識に彼女に向いていた。
「ねぇ」
「なに」
「どうして海岸なんかに来たの? しかも一人で。もしかして君も友達がいないとか?」
もしかしたら彼女には、僕以上にデリカシーが備わっていないのかもしれない。
ニヤニヤ、という効果音を顔に貼り付けて僕の答えを待っている。そして——。
「あれっ、もしかして図星〜?」
そんな彼女を見ていると数分前の僕の失言がどうでもよく思えてくる。
どうして海岸なんかに来たの、か。確かにどうしてだろう、僕自身もわからない。
ただ気づいたらここにいて、異常に心地よかった。それだけ。
もしかしたらただ外へ出たかっただけなのかもしれない。
だって僕は、去年の夏に死を覚悟して以来、約一年ぶりに家の外へ出たのだから。
◇
四歳の頃、母親を病気で亡くした。そのちょうど一年後、母の身体から病魔が乗り移ったとでもいうように僕の身体に同じ病気が見つかった。
遺伝性の疾患らしい。医師からの説明を受けても、難しいことはあまり理解できなかった。ただなんとなく“お母さんみたいと同じだな“と思っていた。幼さからか、どこか他人事に事態を受け入れて僕の入院生活は始まった。
「大丈夫だからな、絶対大丈夫になるからな」
僕が病気であることを医師から告げられた日、父は酷く悲しんでいるはずなのに僕を安心させようという優しさからか、搾り出したような笑顔を見せてくれた。
震えた手と頬に伝っている涙の跡を隠しながら、父は僕の前で強がってくれた。
ただ僕は、亡くなった母の一部が身体に宿っているような気がした。急に“病気“と言われて困惑しながらも僕は本心で父に笑顔を返した。
父と二人暮らし、心細さも苦労もあったけど、なにかあれば二人で乗り越えて、母のことを思い出しては懐かしんで笑って、僕の病状が安定すると一緒に喜んで。
きっと理想的な親子関係だった。そして、僕は父のことが好きだった。
ただそれは、病を軸とした環境の変化によって崩れていく。
生前も仲が良く最愛の相手であった僕の母の死と、その原因となった病を患う息子を抱えた父の手料理は過剰なほどに健康志向で、彩り以前に味のない食べ物が食卓を埋めるようになった。
それだけじゃない。湿度や温度、室内の明るさまでも必要以上に管理された環境が父の手によって当たり前に作られるようになった。
夏場は汗をかかず、冬場は薄手のシャツでも寒さを感じさせない温度。目に負担のかからない柔らかな暖色の照明は、日が暮れると同時に自動で明るさが調節される機能付き。
不定期に訪れる自宅療養期間は、入院生活よりも不自由がなかった。それになにかあればすぐに父が来てくれる。
物を落としただけで、その小さな物音を聞き、大丈夫かと声をあげて駆けつけてくれる。
最初はありがたさを感じていた、でもだんだん——。
——生活を監視されているみたい。
僕は家にいることを窮屈に感じるようになった。
ただでさえ薬や治療によって生かされている身体なのに、父によって作られる異常に整った環境が“その身体はここまで過剰に管理しないと生かすことができない“と、僕に必要以上の現状を突きつけるようで痛かった。
過保護というか、過干渉というか。過剰な優しさや気遣いに息苦しさを覚え始めた。
そう思い始めた頃から、僕は父を避けるようになった。
そして高校二年。去年の夏、僕は死を覚悟する。
夏休みに入る手前か、入ってすぐか、日付すら曖昧な中をベッドの上で過ごしていた。そして体調のすぐれない日が続いた数日間のあと、意識が遠のいていくところで僕の記憶は止まっている。
きっと意識が遠のいてから病院に搬ばれたと思うけど、目が覚めた時には自宅にいて、僕を不思議そうに見つめる父の姿が最初に目に入った。
父の名前を呼ぶと、口を開けたまま声すら出さずに僕を見つめているのだ。
カレンダーに目をやると最後に確認した日付から数ヶ月が経っていた。いつもなら僕の通院日や服用記録の赤文字で埋まっているカレンダーは白紙のまま。冬の一歩手前、くらいの気温。
「おかえり、灰」
沈黙の後、父からそう一言だけ告げられた。
僕が目覚めたからと言って慌てる様子もない、ただまっすぐ見つめながら微笑み続けている。奇妙だった。
その表情の穏やかさから、僕はきっともう本当に長くないんだろうな、と察した。
そこからの父は変だった。過保護、という域を超えている。
自宅療養ということで休学した僕を一歩も外へ出さなかった。散歩も、必要なものがあれば伝えるように、と買い出しすら許さない。
病気であるがために、僕の残りの人生は制限に囚われた時間となった。
本来の計画なら、ありがちな『死ぬまでにしたいことリスト』を辿っているような時期だろうに。
退屈を恨みながらも時間は容赦なく進む。家に隔離された生活が始まって数ヶ月、高校三年生になった僕は母が亡くなった七月を迎えた。
そしてつい数十分前。
「お父さん、お母さんのお墓参りに行きたいから少しだけ外に出るよ」
そう、書斎でパソコンに向かう父へ告げた。
あえて『出るよ』という言葉を選んだのは、最初から許可なんて求めていなかったから。
僕は一度も、母の墓参りへ行ったことがない。母が亡くなった年は“引っ張られてしまうから“と、翌年からは僕の病状を考慮して、それこそ過保護な父が急な山道を辿る必要のある墓参りを許可しなかったから。
だから母の墓参りは外へ出る口実としてちょうどよかった。でもそれ以上に僕が母に会うまでに顔くらいは見せておきたい、と言うのが真意だ。会うまでに、は、死ぬ前に、という意味で。
「待て」
なにも言わない父との沈黙に見切りをつけてその場を去ろうとすると、父から鋭く引き止める言葉が飛んできた。
温厚な父からの「待て」という命令的な口調に呆れてしまう。僕が外へ出るということはそれほど良くないことなのか、と。
「お墓の掃除と花の交換ならお父さんが先週行ってきた。それでも行きたいなら今度一緒に行こう」
「いや、いいよ。僕は一人でお母さんに会いに行きたいんだ」
父は「待て」と言ったことを反省しているのか、必死に引き攣った笑い方のまま柔らかい言葉で僕の意思を否定する。
口角が上がっているだけで焦りと困惑が表情から隠しきれていない。
「場所ならなんとなくわかる、それに長居はしないよ。ただ行って、手を合わせてきたいだけだから」
「それなら尚更いつだっていいだろう、今はちょっと仕事が詰まっているから来週にでも——」
「どうしてそんなに過保護になるの」
言い捨ててしまった。これだけは言ってはいけないと心に留めていたのに。
父の苦労を知らないわけじゃない、いつ我が子が死ぬかわからないという恐怖を理解していないわけじゃない。でも、僕の気持ちもわかってほしい。
どう気をつけたって、正しい治療を受けたって、長くは生きられないんだ。
怒っているだろうと視線を向けた父の表情には、悲しみが広がっているように見えた。気力がないというか、なにか重いものを背負っているような、そんな表情。
「お母さんが亡くなって、僕が同じ病気で。気持ちはわかるけど僕には残りの時間がない、お父さんの心配性に縛られてる暇なんてないんだよ」
申し訳ないと思う反面、やっと吐き出せたとも思った。
父はなにか言葉を返そうと口を開きかけては閉じてを繰り返している。咎めることも、無理に引き止めることもできないまま僕を見つめている。
「僕はいつ死ぬか分からない。だから、いつ死んだっていいと思ってる。お父さんは僕の明日に期待しているかもしれないけど僕はしてない。もし、このままお墓参りの帰り道に死んじゃったら、それでも仕方ないと思っているくらいには——」
「知らないからそんな身勝手なことを言えるんだよ」
僕の言葉を遮るように父は呟く。
呆れたような表情、言葉の後にはため息が添えられているような気がした。
文字通り頭を抱えながら、視線だけがまっすぐ僕へ伸びている。
困らせてしまったな、とは思ったけど、ここで折れるような覚悟で話をしているわけではない。僕には僕の意思がある。
僕の病状なんて僕自身が一番よく知っているのに、父から吐かれた言葉が妙に心に引っかかった。
その空気感に、僕の中の糸が切れた。
「灰、どこに——」
「僕のことは僕が一番わかってる」
そう言って父の前を去った。
最後、視界の端に僕を引き留めようと数メートル先で椅子から立ち上がった父の姿が映った。それでも僕の足は止まらなかった。
飛び出すように家を出て、母の墓とは反対方向へ走る。理由は分からない、ただなんとなくそうしたいと叫んでいる僕の心に従った。
一年ぶりに、外の世界を走れている。
身体が軽い、こんなにも早く足が動く。これが生きている感覚か、と感動する。
相変わらずの田舎具合で、見渡せる範囲に人は数えるほどしかいない。どれだけ走っても景色は変わらず草ばかりで、車もほとんど通っておらず広い道路がただまっすぐ続いている。
気の向くままに角を曲がっていくと、潮の匂いがした。
初めて訪れたはずなのに感じる、この妙な懐かしさはなんだろう。
そしてたどり着いた海岸で僕はわけもなくしゃがみ込んでいて、そこで彼女に声をかけられた。
だからやっぱり僕には——。
◇
「分からないんだよね、どうしてここに来たのか」
そう答えるしかなかった。
なにそれ変なのぉ、と彼女はだらしなく語尾を伸ばしておかしそうに笑う。
初対面にしては異様に近い距離感、砕けすぎた口調、もしかしたら僕は彼女に会ったことがあるのかもしれない。
「名前は?」
「あれ、私の名前知りたくなっちゃった?」
「いきなり『私の名前、知ってる?』なんて尋ねられたら無関心ではいられないよ」
「それなら書くから読んでみて!」
そう言うと彼女は人差し指を伸ばして、砂浜に自身の名前を書き始めた。
上手く書けないと苦戦しながら僕の前に必要以上の大きさで書き進める、僕には恥ずかしくてとてもじゃないけどできない。
言動の端々から感じる無邪気さから彼女が僕より年下、後輩である可能性も頭をよぎったけれど、僕のネクタイと同じ色のリボンを身につけていたことからそれは違うとわかった。それに、あまり学校へ行っていなかった僕のことを認識している後輩なんてきっといない。
「これが私の名前! 君に読めるかな?」
書いた字を両手で指して挑発的に尋ねてくる。少し読み取りづらいけれど僕には『瞳月』と書いてあるように見えた。
「ひとみ……違う、月は『つき』だろうし、ひとみつき、なわけがないし……」
「そこまで! 時間切れ! 残念だなぁ読んでくれるって信じてたのになぁ」
わざとらしく口を尖らせる。
残念、なんて言葉は彼女の上がりきった口角と企みを含んだ目によって打ち消されている。
書いた名前を読ませるなんて不自然な教え方を選ぶあたり、きっと最初から正解させる気なんてなかっただろう。
「瞳に月って書いて『しづき』って読むの」
「瞳月さん……苗字は?」
「苗字なんて教えたら君は私のことを名前で呼んでくれない気がする」
「わかったよ、名前で呼ぶから。苗字だけ知らないなんて違和感がある」
「君、私に興味があるみたいだね?」
僕は相当めんどくさい相手に目をつけられてしまったのかもしれない。
からかうような口調で僕へ尋ねた後、はにかんで笑いながら『生田瞳月』と名乗った。
綺麗な名前だな、と直感で思った。それに綺麗なのは名前だけではない。
言動の破天荒さから霞んでしまっていたけれど瞳月さんはきっと校内でも頭ひとつ抜けているくらいに可愛い。
華奢な肩にかかる艶のある黒髪は美しくて、小さな顔にそれぞれのパーツが綺麗に収まっている。それになにより柔らかく横に流された前髪の隙間からは名前の字にも含まれている瞳が輝いていた。
綺麗なんてものじゃない、輝いている。
この世界を取り込んで全てを見透かしているような、先ほどまでの言動とはかけ離れた落ち着きを感じさせる瞳。
まっすぐと僕の方に向いている。目を合わせるだけで妙な緊張が走る。
「友達はいないの? 瞳月さん、放課後に遊ぶ人とかいないの?」
不意に視界に入った女子高生の集団を見て、そんな問いが漏れてしまった。きっとまた「デリカシーがない」と突っ込まれてしまう。
ただ、女子高生が放課後に一人で海岸を訪れている状況を不思議に思ってしまった。
「口を開けばまたデリカシー皆無な質問で呆れちゃうよ。私は君が言うように訳ありな不登校生だったからね、友達はいないわけじゃないけどきっとみんな近づきたがらないよ」
平然と答えてしまう様子とその並べられた言葉には謎が多すぎるけれど、深く触れてはいけないような気がして聞き流すように「そっか」とだけ返した。訳ありな不登校生、と言っても整った容姿と名前すら知らない異性に近づく社交性を兼ね備えているのなら友達の一人くらいいてもいいおかしくないのに、と思ってしまう。
気づくと瞳月さんの眉間には皺がよっていた、聞き流したことがよくなかったのか。僕は少しだけ首を傾げてみる。
「知りたいことがあるなら言って? 黙って考え込まれたって私には分からないから。それに君がデリカシーのかけらもないような人だってことは、この数分でわかちゃったからね」
最後に添えられた尖った補足は僕への配慮なのか。
自らが書いた名前に足で砂を被せて消しながら、僕との沈黙を埋めていく。
その横顔から伝わってくるなんとも言えない寂しさから瞳月さんのことを知りたくなった。惹き込まれてしまう、少し前とは違う理由で景色の綺麗さを無視してしまうような感覚。不純な意味ではなく、単純な好奇心として。
「瞳月さんはどうして独りでいるの?」
顔は見ない、消されていく名前を見つめながら独り言のように呟いてみる。
「難しい質問だね。強いて言うなら人と感性がズレてるから、かな。本当のところは違うけど今はそういうことにしておくよ」
へへへ、と笑いながら瞳月さんは曖昧な答えを返す。
どこまで踏み込んでいいものかわからないけれど、知りたいことがあるなら言ってなんて調子のいいことを言ったのは瞳月さんだ。それに会うのは今日が最後かもしれない、どうなっても、どう思われても問題はない。
「感性がズレてるって、そんなにひどい趣味でも持ってるの?」
「人の死後に興味があるの、死んだ後の記憶の行方とか! そういう類のことにね」
「どういう経緯で瞳月さんみたいな女子高生がそんな特殊な分野に惹かれるのか僕にはわからないよ」
「まだそんなに知識はないんだけどね、ただ偶然見つけた小説の一説に惹かれちゃってさ」
ちょっと待ってねと呟きながら、瞳月さんは鞄からなにかを取り出そうとしている。
話の流れからそのきっかけとなった小説が出てくるだろうなと予想はついていたけれど、まさか文庫本ではなく分厚い単行本が出てくるとは思わなかった。相当読み込んでいるのだろう、四隅のあたりが少し色褪せている。
そして自信満々に、僕にあるページを向けた。
ほらここ! と見せてくれているけれど、正直字が並びすぎていてどこを見ればいいのかわからない。
「ここだよ! 『人は死後、最も愛した人の記憶だけが綺麗に抜き取られる』って」
嫌だろう、そんなこと。
忘れてしまう死者も、忘れられてしまう遺された人間も、誰も幸せにならない。
物語の中のお話なら幻想的、でも現実に起こってしまったらそれはもう残酷なだけだ。瞳月さんがどうしてそんなことの惹かれているのか、言葉を聞いただけの僕にはわからない。
「そんなの悲しいだけだよ」
「生きている私からしたら“いつか記憶から抜き取ってもらえるくらい誰かから愛されてみたい“って思っちゃうんだよね」
好奇心に満ちているような言葉から切なさがはみ出ていた。
過去に辛い経験をした人が後天的に社交的な性格になることがある。とどこかで聞いたことがあるけれど、瞳月さんもその一人なのか。
僕と同じように幼い頃に家族を亡くしているのだろうか。それならどうして記憶を抜き取られてもいいなんて物語に従って夢見心地なことを思えるのだろう。
僕はどれほど愛されていたとしても母の記憶の中から消えることは嫌だ。
それに僕は死んだ後であっても、愛した人のことは誰よりも深く覚えていたい。
暗くなった夜の海岸、瞳月さんは月を見上げている。今日は満月だ。
月の光がいつもより眩しく感じる。太陽に照らされている、なんて遠慮がちな光り方じゃない。瞳月さんのように強引で、声ひとつで意識を奪ってしまうような、そんな光。
海面に反射する月は綺麗で、でもそれ以上に瞳月さんの瞳に映っている月は美しかった。瞳、月、そうか、やっぱり綺麗な名前だ。
口には出さない、それでも思った。
瞳が輝いている、と。
「悲しさはないの?」
「あるよ、でもそれでいいの。私は記憶よりも気持ちがあればいい」
わからない。
初対面の相手のことがわからないなんて当たり前だけど、あまりにもわからない。というより、理解ができない。
でも惹きつけられてしまう。瞳月さんは月を見つめ続けている。
僕はかける言葉を探しながら月明かりに照らされたその横顔と瞳に見惚れている。
瞳月さんの顔が僕の方へ向く、ニコッと口角を上げて口を開いた。
寂しさなんて一切ない、無邪気な笑顔で。
「もしかして、私に興味持ってくれてたりする?」
その言葉で確信した、釣られてしまった。
名前を知って、僕の知らない感性の持ち主であることを明かされて、なんとなく瞳月さんといる時間を心地いいと感じた。
気になって仕方がない、ちゃんとした理由なんてない。
でも僕は——。
「まだよくわからないから直感だけど、瞳月さんのことを知りたいと思ってる」
最大限考えて絞り出した答えは、どこか思わせぶりなセリフになってしまった。
瞳月さんは不思議そうにただでさえ大きな瞳を見開く。
なにかよからぬことを期待させてしまったのかもしれないと、僕はちょっとだけ申し訳なくなって目を伏せた。
波の音が途端にうるさくなる、風が吹いて、切り裂くように彼女の声が響いた。
「それなら——付き合って!」
「え」
初めましての同級生、それに容姿の整った相手との恋人関係が始まってしまうセリフ——いや、いきなり告白なんておかしい、でも瞳月さんならやりかねない。
最初から異常な距離感だった彼女なら、そう言ってもおかしくない。
「でもさ、さすがにそれはまずいんじゃない? 僕たち、さっき会ったばっかりだよ?」
「それが何? 時間なんて関係ないよ?」
「僕はあまり恋愛に詳しくないけど……恋人選びはもう少し慎重にした方がいい」
「恋愛? なんのこと?」
絶妙に噛み合っていない、不思議そうな表情を向けられる。
そしてすぐになにか閃いたように手を一度叩いて笑った。
「誰も『私と付き合って』なんて言ってないよ? 私は『私に付き合って』って言ったの!」
とんでもない聞き間違いをしてしまっていた。
君も男子高校生だね、とからかうように笑われて恥ずかしくはなったけれど、笑い過ごしてくれる相手でよかった。
瞳月さんは改まった態度で今度は身体ごと、僕の方を向く。
「私に付き合って! 独りの私の理解者になって!」
アニメや小説でよくありそうなセリフを、こんなにも自然な流れで言われる日が僕の人生に訪れるとは思っていなかった。
瞳月さんの容姿の良さのおかげだろうか、セリフに違和感がない。
「理解者?」
ただこの一言の真意を除いて、僕は瞳月さんの言葉を受け入れている。
「ちょっとそれっぽい言葉を使いたかっただけ、私の趣味に付き合ってくれるだけでいいからさ」
深い意味はなく、カッコつけたかっただけらしい。
無邪気に弾んだ口調で言い放って『どうするの?』と僕を急かす、きっと僕に与えられている選択肢は『はい』か『いいよ』、つまり一つしかない。
「まぁ、いいよ」
僕の残り短い人生、瞳月さんは僕が最後に関わる相手。
どんな人か、まだ謎が多いけれど楽しそうな人でよかった。
「じゃあまずはこの本! 知ってる?」
先ほど見せられた小説、表紙に見覚えがある。
家のどこかを探せばありそうだ、僕は曖昧な記憶のままで頷く。
「それなら読んできて! できれば明日まで! そして明日、この本に出てくる海に来て。海は海でもここじゃないないから! 間違えないでね?」
楽しそうな人だけど、それ以上に忙しい人だ。
でも、いつ終わるかわからない命の僕にとって忙しさは必要なのかもしれない。
わかったよ、とだけ返した僕へ瞳月さんは満足そうな表情を作る。
そろそろ最後のバスの時間だ! と僕へ別れを告げて駆けていった。足で名前を消した後が街灯に照らされている。
生田瞳月、知らない名前だ。
ということは、瞳月さんは僕の名前を——。
「あっ!」
バス停からの傾斜を駆け降りてくる。ローファーの音が忙しい。
すぐそこにバスが見えているのに、必死に、僕の方へ戻ってくる。
「名前!」
「え」
「改めて聞くなんてしないから! よろしくね! 東雲灰くん」
「教えてもないのにどうして僕の名前を——」
「訳ありな不登校生でもクラスメイトの名前くらい覚えてるものだよ?」
「えっ、僕と瞳月さんって同じクラスだったの——」
「そんな初歩的なことも覚えてないの⁉︎ まぁ、とりあえずもうただのクラスメイトじゃないんだから、明日からちゃんとよろしくね!」
瞳月さんはギリギリバスに間に合った。
僕は父親が寝静まった頃を見計らって帰宅するために遠回りして歩き始める。
歩き出す前に瞳月さんの乗ったバスが角を曲がるまで見届けてしまった。手を振ることもせず、ただ見つめていた。
僕の中でももう瞳月さんは『ただのクラスメイト』ではないのかもしれない。
日が沈み始めた夏の夕方、透き通った声が僕の鼓膜を突いた。
目の前の海面には反射した夕陽が美しく広がっている、さっきも通りすがりの誰かが「綺麗だなぁ」とスマートフォンのシャッターを切る音が聞こえた。そんな絶景すら無視して俯いていた僕の意識を、その声は一瞬にして奪った。
反射的に顔を上げると僕が在籍している高校の制服を着た一人の女子高生が僕を覗き込むようにして立っていた。
彼女は断りや遠慮のかけらもなく僕の隣にしゃがむ。そして『知ってる?』と僕からの答えを急かした。
名前どころか、顔すら知らない。
僕が休学している期間に加わった転校生か、それとも——。
「記憶にない顔だよ。もしかして訳ありな不登校生かなにか?」
言ってしまった、と少し焦った。僕の記憶が正しければ初対面の彼女に、失礼な態度を取ってしまった。
失礼さは自覚しているけれど、仕方ない。ただでさえ人付き合いが苦手な僕が、長らく人と言葉を交わしていないのだ。一人海岸で座っていたら知らない女子高生から急に距離を詰められる、こんなイレギュラーな状況で気の利いた対応なんてできるわけがない。
「そんなデリカシーのかけらもないようなこと普通言う⁉︎ いくら顔が綺麗だからって許されないからね!」
ただ、そんな僕の言葉へ彼女は、わざとらしく憤った様子で、それでもどこか楽しそうに笑って言い返した。
確かに、僕の言葉には彼女の言う通りデリカシーのかけらもないけど、突然『私の名前、知ってる?』なんて声をかけ『顔が綺麗』と初対面の相手の容姿について触れる彼女もなかなかだと思う。
そんな彼女を不思議に思ったけれど、不快だとは思わなかった。それどころか彼女の軽快な笑い声に緊張が和らいでいく。少し話をするくらいならいいかな、なんて気持ちの表れか、僕の視線は無意識に彼女に向いていた。
「ねぇ」
「なに」
「どうして海岸なんかに来たの? しかも一人で。もしかして君も友達がいないとか?」
もしかしたら彼女には、僕以上にデリカシーが備わっていないのかもしれない。
ニヤニヤ、という効果音を顔に貼り付けて僕の答えを待っている。そして——。
「あれっ、もしかして図星〜?」
そんな彼女を見ていると数分前の僕の失言がどうでもよく思えてくる。
どうして海岸なんかに来たの、か。確かにどうしてだろう、僕自身もわからない。
ただ気づいたらここにいて、異常に心地よかった。それだけ。
もしかしたらただ外へ出たかっただけなのかもしれない。
だって僕は、去年の夏に死を覚悟して以来、約一年ぶりに家の外へ出たのだから。
◇
四歳の頃、母親を病気で亡くした。そのちょうど一年後、母の身体から病魔が乗り移ったとでもいうように僕の身体に同じ病気が見つかった。
遺伝性の疾患らしい。医師からの説明を受けても、難しいことはあまり理解できなかった。ただなんとなく“お母さんみたいと同じだな“と思っていた。幼さからか、どこか他人事に事態を受け入れて僕の入院生活は始まった。
「大丈夫だからな、絶対大丈夫になるからな」
僕が病気であることを医師から告げられた日、父は酷く悲しんでいるはずなのに僕を安心させようという優しさからか、搾り出したような笑顔を見せてくれた。
震えた手と頬に伝っている涙の跡を隠しながら、父は僕の前で強がってくれた。
ただ僕は、亡くなった母の一部が身体に宿っているような気がした。急に“病気“と言われて困惑しながらも僕は本心で父に笑顔を返した。
父と二人暮らし、心細さも苦労もあったけど、なにかあれば二人で乗り越えて、母のことを思い出しては懐かしんで笑って、僕の病状が安定すると一緒に喜んで。
きっと理想的な親子関係だった。そして、僕は父のことが好きだった。
ただそれは、病を軸とした環境の変化によって崩れていく。
生前も仲が良く最愛の相手であった僕の母の死と、その原因となった病を患う息子を抱えた父の手料理は過剰なほどに健康志向で、彩り以前に味のない食べ物が食卓を埋めるようになった。
それだけじゃない。湿度や温度、室内の明るさまでも必要以上に管理された環境が父の手によって当たり前に作られるようになった。
夏場は汗をかかず、冬場は薄手のシャツでも寒さを感じさせない温度。目に負担のかからない柔らかな暖色の照明は、日が暮れると同時に自動で明るさが調節される機能付き。
不定期に訪れる自宅療養期間は、入院生活よりも不自由がなかった。それになにかあればすぐに父が来てくれる。
物を落としただけで、その小さな物音を聞き、大丈夫かと声をあげて駆けつけてくれる。
最初はありがたさを感じていた、でもだんだん——。
——生活を監視されているみたい。
僕は家にいることを窮屈に感じるようになった。
ただでさえ薬や治療によって生かされている身体なのに、父によって作られる異常に整った環境が“その身体はここまで過剰に管理しないと生かすことができない“と、僕に必要以上の現状を突きつけるようで痛かった。
過保護というか、過干渉というか。過剰な優しさや気遣いに息苦しさを覚え始めた。
そう思い始めた頃から、僕は父を避けるようになった。
そして高校二年。去年の夏、僕は死を覚悟する。
夏休みに入る手前か、入ってすぐか、日付すら曖昧な中をベッドの上で過ごしていた。そして体調のすぐれない日が続いた数日間のあと、意識が遠のいていくところで僕の記憶は止まっている。
きっと意識が遠のいてから病院に搬ばれたと思うけど、目が覚めた時には自宅にいて、僕を不思議そうに見つめる父の姿が最初に目に入った。
父の名前を呼ぶと、口を開けたまま声すら出さずに僕を見つめているのだ。
カレンダーに目をやると最後に確認した日付から数ヶ月が経っていた。いつもなら僕の通院日や服用記録の赤文字で埋まっているカレンダーは白紙のまま。冬の一歩手前、くらいの気温。
「おかえり、灰」
沈黙の後、父からそう一言だけ告げられた。
僕が目覚めたからと言って慌てる様子もない、ただまっすぐ見つめながら微笑み続けている。奇妙だった。
その表情の穏やかさから、僕はきっともう本当に長くないんだろうな、と察した。
そこからの父は変だった。過保護、という域を超えている。
自宅療養ということで休学した僕を一歩も外へ出さなかった。散歩も、必要なものがあれば伝えるように、と買い出しすら許さない。
病気であるがために、僕の残りの人生は制限に囚われた時間となった。
本来の計画なら、ありがちな『死ぬまでにしたいことリスト』を辿っているような時期だろうに。
退屈を恨みながらも時間は容赦なく進む。家に隔離された生活が始まって数ヶ月、高校三年生になった僕は母が亡くなった七月を迎えた。
そしてつい数十分前。
「お父さん、お母さんのお墓参りに行きたいから少しだけ外に出るよ」
そう、書斎でパソコンに向かう父へ告げた。
あえて『出るよ』という言葉を選んだのは、最初から許可なんて求めていなかったから。
僕は一度も、母の墓参りへ行ったことがない。母が亡くなった年は“引っ張られてしまうから“と、翌年からは僕の病状を考慮して、それこそ過保護な父が急な山道を辿る必要のある墓参りを許可しなかったから。
だから母の墓参りは外へ出る口実としてちょうどよかった。でもそれ以上に僕が母に会うまでに顔くらいは見せておきたい、と言うのが真意だ。会うまでに、は、死ぬ前に、という意味で。
「待て」
なにも言わない父との沈黙に見切りをつけてその場を去ろうとすると、父から鋭く引き止める言葉が飛んできた。
温厚な父からの「待て」という命令的な口調に呆れてしまう。僕が外へ出るということはそれほど良くないことなのか、と。
「お墓の掃除と花の交換ならお父さんが先週行ってきた。それでも行きたいなら今度一緒に行こう」
「いや、いいよ。僕は一人でお母さんに会いに行きたいんだ」
父は「待て」と言ったことを反省しているのか、必死に引き攣った笑い方のまま柔らかい言葉で僕の意思を否定する。
口角が上がっているだけで焦りと困惑が表情から隠しきれていない。
「場所ならなんとなくわかる、それに長居はしないよ。ただ行って、手を合わせてきたいだけだから」
「それなら尚更いつだっていいだろう、今はちょっと仕事が詰まっているから来週にでも——」
「どうしてそんなに過保護になるの」
言い捨ててしまった。これだけは言ってはいけないと心に留めていたのに。
父の苦労を知らないわけじゃない、いつ我が子が死ぬかわからないという恐怖を理解していないわけじゃない。でも、僕の気持ちもわかってほしい。
どう気をつけたって、正しい治療を受けたって、長くは生きられないんだ。
怒っているだろうと視線を向けた父の表情には、悲しみが広がっているように見えた。気力がないというか、なにか重いものを背負っているような、そんな表情。
「お母さんが亡くなって、僕が同じ病気で。気持ちはわかるけど僕には残りの時間がない、お父さんの心配性に縛られてる暇なんてないんだよ」
申し訳ないと思う反面、やっと吐き出せたとも思った。
父はなにか言葉を返そうと口を開きかけては閉じてを繰り返している。咎めることも、無理に引き止めることもできないまま僕を見つめている。
「僕はいつ死ぬか分からない。だから、いつ死んだっていいと思ってる。お父さんは僕の明日に期待しているかもしれないけど僕はしてない。もし、このままお墓参りの帰り道に死んじゃったら、それでも仕方ないと思っているくらいには——」
「知らないからそんな身勝手なことを言えるんだよ」
僕の言葉を遮るように父は呟く。
呆れたような表情、言葉の後にはため息が添えられているような気がした。
文字通り頭を抱えながら、視線だけがまっすぐ僕へ伸びている。
困らせてしまったな、とは思ったけど、ここで折れるような覚悟で話をしているわけではない。僕には僕の意思がある。
僕の病状なんて僕自身が一番よく知っているのに、父から吐かれた言葉が妙に心に引っかかった。
その空気感に、僕の中の糸が切れた。
「灰、どこに——」
「僕のことは僕が一番わかってる」
そう言って父の前を去った。
最後、視界の端に僕を引き留めようと数メートル先で椅子から立ち上がった父の姿が映った。それでも僕の足は止まらなかった。
飛び出すように家を出て、母の墓とは反対方向へ走る。理由は分からない、ただなんとなくそうしたいと叫んでいる僕の心に従った。
一年ぶりに、外の世界を走れている。
身体が軽い、こんなにも早く足が動く。これが生きている感覚か、と感動する。
相変わらずの田舎具合で、見渡せる範囲に人は数えるほどしかいない。どれだけ走っても景色は変わらず草ばかりで、車もほとんど通っておらず広い道路がただまっすぐ続いている。
気の向くままに角を曲がっていくと、潮の匂いがした。
初めて訪れたはずなのに感じる、この妙な懐かしさはなんだろう。
そしてたどり着いた海岸で僕はわけもなくしゃがみ込んでいて、そこで彼女に声をかけられた。
だからやっぱり僕には——。
◇
「分からないんだよね、どうしてここに来たのか」
そう答えるしかなかった。
なにそれ変なのぉ、と彼女はだらしなく語尾を伸ばしておかしそうに笑う。
初対面にしては異様に近い距離感、砕けすぎた口調、もしかしたら僕は彼女に会ったことがあるのかもしれない。
「名前は?」
「あれ、私の名前知りたくなっちゃった?」
「いきなり『私の名前、知ってる?』なんて尋ねられたら無関心ではいられないよ」
「それなら書くから読んでみて!」
そう言うと彼女は人差し指を伸ばして、砂浜に自身の名前を書き始めた。
上手く書けないと苦戦しながら僕の前に必要以上の大きさで書き進める、僕には恥ずかしくてとてもじゃないけどできない。
言動の端々から感じる無邪気さから彼女が僕より年下、後輩である可能性も頭をよぎったけれど、僕のネクタイと同じ色のリボンを身につけていたことからそれは違うとわかった。それに、あまり学校へ行っていなかった僕のことを認識している後輩なんてきっといない。
「これが私の名前! 君に読めるかな?」
書いた字を両手で指して挑発的に尋ねてくる。少し読み取りづらいけれど僕には『瞳月』と書いてあるように見えた。
「ひとみ……違う、月は『つき』だろうし、ひとみつき、なわけがないし……」
「そこまで! 時間切れ! 残念だなぁ読んでくれるって信じてたのになぁ」
わざとらしく口を尖らせる。
残念、なんて言葉は彼女の上がりきった口角と企みを含んだ目によって打ち消されている。
書いた名前を読ませるなんて不自然な教え方を選ぶあたり、きっと最初から正解させる気なんてなかっただろう。
「瞳に月って書いて『しづき』って読むの」
「瞳月さん……苗字は?」
「苗字なんて教えたら君は私のことを名前で呼んでくれない気がする」
「わかったよ、名前で呼ぶから。苗字だけ知らないなんて違和感がある」
「君、私に興味があるみたいだね?」
僕は相当めんどくさい相手に目をつけられてしまったのかもしれない。
からかうような口調で僕へ尋ねた後、はにかんで笑いながら『生田瞳月』と名乗った。
綺麗な名前だな、と直感で思った。それに綺麗なのは名前だけではない。
言動の破天荒さから霞んでしまっていたけれど瞳月さんはきっと校内でも頭ひとつ抜けているくらいに可愛い。
華奢な肩にかかる艶のある黒髪は美しくて、小さな顔にそれぞれのパーツが綺麗に収まっている。それになにより柔らかく横に流された前髪の隙間からは名前の字にも含まれている瞳が輝いていた。
綺麗なんてものじゃない、輝いている。
この世界を取り込んで全てを見透かしているような、先ほどまでの言動とはかけ離れた落ち着きを感じさせる瞳。
まっすぐと僕の方に向いている。目を合わせるだけで妙な緊張が走る。
「友達はいないの? 瞳月さん、放課後に遊ぶ人とかいないの?」
不意に視界に入った女子高生の集団を見て、そんな問いが漏れてしまった。きっとまた「デリカシーがない」と突っ込まれてしまう。
ただ、女子高生が放課後に一人で海岸を訪れている状況を不思議に思ってしまった。
「口を開けばまたデリカシー皆無な質問で呆れちゃうよ。私は君が言うように訳ありな不登校生だったからね、友達はいないわけじゃないけどきっとみんな近づきたがらないよ」
平然と答えてしまう様子とその並べられた言葉には謎が多すぎるけれど、深く触れてはいけないような気がして聞き流すように「そっか」とだけ返した。訳ありな不登校生、と言っても整った容姿と名前すら知らない異性に近づく社交性を兼ね備えているのなら友達の一人くらいいてもいいおかしくないのに、と思ってしまう。
気づくと瞳月さんの眉間には皺がよっていた、聞き流したことがよくなかったのか。僕は少しだけ首を傾げてみる。
「知りたいことがあるなら言って? 黙って考え込まれたって私には分からないから。それに君がデリカシーのかけらもないような人だってことは、この数分でわかちゃったからね」
最後に添えられた尖った補足は僕への配慮なのか。
自らが書いた名前に足で砂を被せて消しながら、僕との沈黙を埋めていく。
その横顔から伝わってくるなんとも言えない寂しさから瞳月さんのことを知りたくなった。惹き込まれてしまう、少し前とは違う理由で景色の綺麗さを無視してしまうような感覚。不純な意味ではなく、単純な好奇心として。
「瞳月さんはどうして独りでいるの?」
顔は見ない、消されていく名前を見つめながら独り言のように呟いてみる。
「難しい質問だね。強いて言うなら人と感性がズレてるから、かな。本当のところは違うけど今はそういうことにしておくよ」
へへへ、と笑いながら瞳月さんは曖昧な答えを返す。
どこまで踏み込んでいいものかわからないけれど、知りたいことがあるなら言ってなんて調子のいいことを言ったのは瞳月さんだ。それに会うのは今日が最後かもしれない、どうなっても、どう思われても問題はない。
「感性がズレてるって、そんなにひどい趣味でも持ってるの?」
「人の死後に興味があるの、死んだ後の記憶の行方とか! そういう類のことにね」
「どういう経緯で瞳月さんみたいな女子高生がそんな特殊な分野に惹かれるのか僕にはわからないよ」
「まだそんなに知識はないんだけどね、ただ偶然見つけた小説の一説に惹かれちゃってさ」
ちょっと待ってねと呟きながら、瞳月さんは鞄からなにかを取り出そうとしている。
話の流れからそのきっかけとなった小説が出てくるだろうなと予想はついていたけれど、まさか文庫本ではなく分厚い単行本が出てくるとは思わなかった。相当読み込んでいるのだろう、四隅のあたりが少し色褪せている。
そして自信満々に、僕にあるページを向けた。
ほらここ! と見せてくれているけれど、正直字が並びすぎていてどこを見ればいいのかわからない。
「ここだよ! 『人は死後、最も愛した人の記憶だけが綺麗に抜き取られる』って」
嫌だろう、そんなこと。
忘れてしまう死者も、忘れられてしまう遺された人間も、誰も幸せにならない。
物語の中のお話なら幻想的、でも現実に起こってしまったらそれはもう残酷なだけだ。瞳月さんがどうしてそんなことの惹かれているのか、言葉を聞いただけの僕にはわからない。
「そんなの悲しいだけだよ」
「生きている私からしたら“いつか記憶から抜き取ってもらえるくらい誰かから愛されてみたい“って思っちゃうんだよね」
好奇心に満ちているような言葉から切なさがはみ出ていた。
過去に辛い経験をした人が後天的に社交的な性格になることがある。とどこかで聞いたことがあるけれど、瞳月さんもその一人なのか。
僕と同じように幼い頃に家族を亡くしているのだろうか。それならどうして記憶を抜き取られてもいいなんて物語に従って夢見心地なことを思えるのだろう。
僕はどれほど愛されていたとしても母の記憶の中から消えることは嫌だ。
それに僕は死んだ後であっても、愛した人のことは誰よりも深く覚えていたい。
暗くなった夜の海岸、瞳月さんは月を見上げている。今日は満月だ。
月の光がいつもより眩しく感じる。太陽に照らされている、なんて遠慮がちな光り方じゃない。瞳月さんのように強引で、声ひとつで意識を奪ってしまうような、そんな光。
海面に反射する月は綺麗で、でもそれ以上に瞳月さんの瞳に映っている月は美しかった。瞳、月、そうか、やっぱり綺麗な名前だ。
口には出さない、それでも思った。
瞳が輝いている、と。
「悲しさはないの?」
「あるよ、でもそれでいいの。私は記憶よりも気持ちがあればいい」
わからない。
初対面の相手のことがわからないなんて当たり前だけど、あまりにもわからない。というより、理解ができない。
でも惹きつけられてしまう。瞳月さんは月を見つめ続けている。
僕はかける言葉を探しながら月明かりに照らされたその横顔と瞳に見惚れている。
瞳月さんの顔が僕の方へ向く、ニコッと口角を上げて口を開いた。
寂しさなんて一切ない、無邪気な笑顔で。
「もしかして、私に興味持ってくれてたりする?」
その言葉で確信した、釣られてしまった。
名前を知って、僕の知らない感性の持ち主であることを明かされて、なんとなく瞳月さんといる時間を心地いいと感じた。
気になって仕方がない、ちゃんとした理由なんてない。
でも僕は——。
「まだよくわからないから直感だけど、瞳月さんのことを知りたいと思ってる」
最大限考えて絞り出した答えは、どこか思わせぶりなセリフになってしまった。
瞳月さんは不思議そうにただでさえ大きな瞳を見開く。
なにかよからぬことを期待させてしまったのかもしれないと、僕はちょっとだけ申し訳なくなって目を伏せた。
波の音が途端にうるさくなる、風が吹いて、切り裂くように彼女の声が響いた。
「それなら——付き合って!」
「え」
初めましての同級生、それに容姿の整った相手との恋人関係が始まってしまうセリフ——いや、いきなり告白なんておかしい、でも瞳月さんならやりかねない。
最初から異常な距離感だった彼女なら、そう言ってもおかしくない。
「でもさ、さすがにそれはまずいんじゃない? 僕たち、さっき会ったばっかりだよ?」
「それが何? 時間なんて関係ないよ?」
「僕はあまり恋愛に詳しくないけど……恋人選びはもう少し慎重にした方がいい」
「恋愛? なんのこと?」
絶妙に噛み合っていない、不思議そうな表情を向けられる。
そしてすぐになにか閃いたように手を一度叩いて笑った。
「誰も『私と付き合って』なんて言ってないよ? 私は『私に付き合って』って言ったの!」
とんでもない聞き間違いをしてしまっていた。
君も男子高校生だね、とからかうように笑われて恥ずかしくはなったけれど、笑い過ごしてくれる相手でよかった。
瞳月さんは改まった態度で今度は身体ごと、僕の方を向く。
「私に付き合って! 独りの私の理解者になって!」
アニメや小説でよくありそうなセリフを、こんなにも自然な流れで言われる日が僕の人生に訪れるとは思っていなかった。
瞳月さんの容姿の良さのおかげだろうか、セリフに違和感がない。
「理解者?」
ただこの一言の真意を除いて、僕は瞳月さんの言葉を受け入れている。
「ちょっとそれっぽい言葉を使いたかっただけ、私の趣味に付き合ってくれるだけでいいからさ」
深い意味はなく、カッコつけたかっただけらしい。
無邪気に弾んだ口調で言い放って『どうするの?』と僕を急かす、きっと僕に与えられている選択肢は『はい』か『いいよ』、つまり一つしかない。
「まぁ、いいよ」
僕の残り短い人生、瞳月さんは僕が最後に関わる相手。
どんな人か、まだ謎が多いけれど楽しそうな人でよかった。
「じゃあまずはこの本! 知ってる?」
先ほど見せられた小説、表紙に見覚えがある。
家のどこかを探せばありそうだ、僕は曖昧な記憶のままで頷く。
「それなら読んできて! できれば明日まで! そして明日、この本に出てくる海に来て。海は海でもここじゃないないから! 間違えないでね?」
楽しそうな人だけど、それ以上に忙しい人だ。
でも、いつ終わるかわからない命の僕にとって忙しさは必要なのかもしれない。
わかったよ、とだけ返した僕へ瞳月さんは満足そうな表情を作る。
そろそろ最後のバスの時間だ! と僕へ別れを告げて駆けていった。足で名前を消した後が街灯に照らされている。
生田瞳月、知らない名前だ。
ということは、瞳月さんは僕の名前を——。
「あっ!」
バス停からの傾斜を駆け降りてくる。ローファーの音が忙しい。
すぐそこにバスが見えているのに、必死に、僕の方へ戻ってくる。
「名前!」
「え」
「改めて聞くなんてしないから! よろしくね! 東雲灰くん」
「教えてもないのにどうして僕の名前を——」
「訳ありな不登校生でもクラスメイトの名前くらい覚えてるものだよ?」
「えっ、僕と瞳月さんって同じクラスだったの——」
「そんな初歩的なことも覚えてないの⁉︎ まぁ、とりあえずもうただのクラスメイトじゃないんだから、明日からちゃんとよろしくね!」
瞳月さんはギリギリバスに間に合った。
僕は父親が寝静まった頃を見計らって帰宅するために遠回りして歩き始める。
歩き出す前に瞳月さんの乗ったバスが角を曲がるまで見届けてしまった。手を振ることもせず、ただ見つめていた。
僕の中でももう瞳月さんは『ただのクラスメイト』ではないのかもしれない。