『人は死後、最も愛した人の記憶だけが綺麗に抜き取られる』
私に起きた実体験をフィクションとして綴っている。
物語として残す、ただそれだけのために。
目が覚めると、亡くなった妻が隣で眠っていた。
その朝のことは一瞬も忘れずに鮮明に記憶に残っている。
「え——」
前触れもなく、突然現れたその姿に私は情けなく困惑した声を出してしまった。
それでも十数年見続けてきた寝顔と、目覚める時に一度強く目を瞑る癖、眠っている時のちょっと赤く膨らんだ頬から間違いなく妻だと確信した。
不思議な気持ちになった。
あまりにも非現実的で、本当に夢の中なのではないかと。
だって、確かに目の前にいる妻に触れられないのだから。
目を覚ました妻は私のことを忘れているようで『初めまして』とでも言うような態度をとった。
ただ『子供がいた気がする』とか『旦那と一緒に行きたいレストランがあったの』と、うっすら記憶が残っているようで、それを紐解くように私は妻の言葉を受け取った。それが一時間程度続いて、妻の言葉がぴたりと止まる。
次に口を開いた妻から、私は確信的な言葉を耳にする。
——「私、未練があったから死にきれなかったの」
死にきれなかった、なんて、物語の中の話だ。それでも、妻の言うことが嘘だとは思えなかった。
そしてもうひとつ、妻は私に大切なことを教えてくれた。
——「死んだ後って、愛していた人の記憶を失っちゃうんだって」
震えた声で、涙の流れない身体で涙を堪えるような表情をしながら「私は貴方のことを覚えていないの」と。この世で最も非現実的で、ロマンチックな愛の告白を私は亡くなった妻からされてしまった。
そんな妻が未練を晴らして、僕の前から去っていく数日間を物語にしている。
死者との再会なんてありきたりだ。プロットを提出した時、担当編集からは険しい顔をされた。
私もそう思う。ただ私はこの物語を残したい、それだけは揺るがなかった。
売れないかもしれない、つまらないと叩かれてしまうかもしれない。
でもそれでいい。私と妻の記憶が形として残るのなら、それでいい。
そしてこの本を手に取った誰かが私と同じ奇跡に遭遇した時、きっとこの本はその人の中で揺るぎない真実になるはずだから。そんな願いを込めて書いた。
◇
妻との物語は、インフルエンサーの投稿が拡散された影響か、一瞬話題となった。純愛だ、感動して涙が止まらない——嬉しいけど、寄せられる感想はどれも私の物語をフィクションとして眺めたような、他人事な言葉たちばかり。
刊行から数年、私の元に一通の手紙が届いた。
ペンネームで手紙を受け取るなんて久しぶりの感覚だ。
購入サイトやレビューを書かれることはあるけれど、ファンレター、なんていつぶりだろう。
封を切り、最初に書かれていたのは『感動しました』といった内容の感想だった。
またか——そんな贅沢な気持ちが頭をよぎる。
ただ、その手紙の最後の一文に私は心臓を掴まれたような感覚を与えられた。
——私、この小説が好きです。というより不思議なんです。きっと誰にも信じてもらえないけど、全く同じ経験を私自身がしているから。
初めて、私の物語は誰かの中で揺るぎない真実になれたのかもしれない。
差出人の住所に見覚えがあった、そして名前を見て驚いた。
——生田 瞳月
この子もまた、最愛に選ばれた子なんだな、と私は遺影を隠した棚へ視線を向けた。
「私の名前、知ってる?」
日が沈み始めた夏の夕方、透き通った声が僕の鼓膜を突いた。
目の前の海面には反射した夕陽が美しく広がっている、さっきも通りすがりの誰かが「綺麗だなぁ」とスマートフォンのシャッターを切る音が聞こえた。そんな絶景すら無視して俯いていた僕の意識を、その声は一瞬にして奪った。
反射的に顔を上げると僕が在籍している高校の制服を着た一人の女子高生が僕を覗き込むようにして立っていた。
彼女は断りや遠慮のかけらもなく僕の隣にしゃがむ。そして『知ってる?』と僕からの答えを急かした。
名前どころか、顔すら知らない。
僕が休学している期間に加わった転校生か、それとも——。
「記憶にない顔だよ。もしかして訳ありな不登校生かなにか?」
言ってしまった、と少し焦った。僕の記憶が正しければ初対面の彼女に、失礼な態度を取ってしまった。
失礼さは自覚しているけれど、仕方ない。ただでさえ人付き合いが苦手な僕が、長らく人と言葉を交わしていないのだ。一人海岸で座っていたら知らない女子高生から急に距離を詰められる、こんなイレギュラーな状況で気の利いた対応なんてできるわけがない。
「そんなデリカシーのかけらもないようなこと普通言う⁉︎ いくら顔が綺麗だからって許されないからね!」
ただ、そんな僕の言葉へ彼女は、わざとらしく憤った様子で、それでもどこか楽しそうに笑って言い返した。
確かに、僕の言葉には彼女の言う通りデリカシーのかけらもないけど、突然『私の名前、知ってる?』なんて声をかけ『顔が綺麗』と初対面の相手の容姿について触れる彼女もなかなかだと思う。
そんな彼女を不思議に思ったけれど、不快だとは思わなかった。それどころか彼女の軽快な笑い声に緊張が和らいでいく。少し話をするくらいならいいかな、なんて気持ちの表れか、僕の視線は無意識に彼女に向いていた。
「ねぇ」
「なに」
「どうして海岸なんかに来たの? しかも一人で。もしかして君も友達がいないとか?」
もしかしたら彼女には、僕以上にデリカシーが備わっていないのかもしれない。
ニヤニヤ、という効果音を顔に貼り付けて僕の答えを待っている。そして——。
「あれっ、もしかして図星〜?」
そんな彼女を見ていると数分前の僕の失言がどうでもよく思えてくる。
どうして海岸なんかに来たの、か。確かにどうしてだろう、僕自身もわからない。
ただ気づいたらここにいて、異常に心地よかった。それだけ。
もしかしたらただ外へ出たかっただけなのかもしれない。
だって僕は、去年の夏に死を覚悟して以来、約一年ぶりに家の外へ出たのだから。
◇
四歳の頃、母親を病気で亡くした。そのちょうど一年後、母の身体から病魔が乗り移ったとでもいうように僕の身体に同じ病気が見つかった。
遺伝性の疾患らしい。医師からの説明を受けても、難しいことはあまり理解できなかった。ただなんとなく“お母さんみたいと同じだな“と思っていた。幼さからか、どこか他人事に事態を受け入れて僕の入院生活は始まった。
「大丈夫だからな、絶対大丈夫になるからな」
僕が病気であることを医師から告げられた日、父は酷く悲しんでいるはずなのに僕を安心させようという優しさからか、搾り出したような笑顔を見せてくれた。
震えた手と頬に伝っている涙の跡を隠しながら、父は僕の前で強がってくれた。
ただ僕は、亡くなった母の一部が身体に宿っているような気がした。急に“病気“と言われて困惑しながらも僕は本心で父に笑顔を返した。
父と二人暮らし、心細さも苦労もあったけど、なにかあれば二人で乗り越えて、母のことを思い出しては懐かしんで笑って、僕の病状が安定すると一緒に喜んで。
きっと理想的な親子関係だった。そして、僕は父のことが好きだった。
ただそれは、病を軸とした環境の変化によって崩れていく。
生前も仲が良く最愛の相手であった僕の母の死と、その原因となった病を患う息子を抱えた父の手料理は過剰なほどに健康志向で、彩り以前に味のない食べ物が食卓を埋めるようになった。
それだけじゃない。湿度や温度、室内の明るさまでも必要以上に管理された環境が父の手によって当たり前に作られるようになった。
夏場は汗をかかず、冬場は薄手のシャツでも寒さを感じさせない温度。目に負担のかからない柔らかな暖色の照明は、日が暮れると同時に自動で明るさが調節される機能付き。
不定期に訪れる自宅療養期間は、入院生活よりも不自由がなかった。それになにかあればすぐに父が来てくれる。
物を落としただけで、その小さな物音を聞き、大丈夫かと声をあげて駆けつけてくれる。
最初はありがたさを感じていた、でもだんだん——。
——生活を監視されているみたい。
僕は家にいることを窮屈に感じるようになった。
ただでさえ薬や治療によって生かされている身体なのに、父によって作られる異常に整った環境が“その身体はここまで過剰に管理しないと生かすことができない“と、僕に必要以上の現状を突きつけるようで痛かった。
過保護というか、過干渉というか。過剰な優しさや気遣いに息苦しさを覚え始めた。
そう思い始めた頃から、僕は父を避けるようになった。
そして高校二年。去年の夏、僕は死を覚悟する。
夏休みに入る手前か、入ってすぐか、日付すら曖昧な中をベッドの上で過ごしていた。そして体調のすぐれない日が続いた数日間のあと、意識が遠のいていくところで僕の記憶は止まっている。
きっと意識が遠のいてから病院に搬ばれたと思うけど、目が覚めた時には自宅にいて、僕を不思議そうに見つめる父の姿が最初に目に入った。
父の名前を呼ぶと、口を開けたまま声すら出さずに僕を見つめているのだ。
カレンダーに目をやると最後に確認した日付から数ヶ月が経っていた。いつもなら僕の通院日や服用記録の赤文字で埋まっているカレンダーは白紙のまま。冬の一歩手前、くらいの気温。
「おかえり、灰」
沈黙の後、父からそう一言だけ告げられた。
僕が目覚めたからと言って慌てる様子もない、ただまっすぐ見つめながら微笑み続けている。奇妙だった。
その表情の穏やかさから、僕はきっともう本当に長くないんだろうな、と察した。
そこからの父は変だった。過保護、という域を超えている。
自宅療養ということで休学した僕を一歩も外へ出さなかった。散歩も、必要なものがあれば伝えるように、と買い出しすら許さない。
病気であるがために、僕の残りの人生は制限に囚われた時間となった。
本来の計画なら、ありがちな『死ぬまでにしたいことリスト』を辿っているような時期だろうに。
退屈を恨みながらも時間は容赦なく進む。家に隔離された生活が始まって数ヶ月、高校三年生になった僕は母が亡くなった七月を迎えた。
そしてつい数十分前。
「お父さん、お母さんのお墓参りに行きたいから少しだけ外に出るよ」
そう、書斎でパソコンに向かう父へ告げた。
あえて『出るよ』という言葉を選んだのは、最初から許可なんて求めていなかったから。
僕は一度も、母の墓参りへ行ったことがない。母が亡くなった年は“引っ張られてしまうから“と、翌年からは僕の病状を考慮して、それこそ過保護な父が急な山道を辿る必要のある墓参りを許可しなかったから。
だから母の墓参りは外へ出る口実としてちょうどよかった。でもそれ以上に僕が母に会うまでに顔くらいは見せておきたい、と言うのが真意だ。会うまでに、は、死ぬ前に、という意味で。
「待て」
なにも言わない父との沈黙に見切りをつけてその場を去ろうとすると、父から鋭く引き止める言葉が飛んできた。
温厚な父からの「待て」という命令的な口調に呆れてしまう。僕が外へ出るということはそれほど良くないことなのか、と。
「お墓の掃除と花の交換ならお父さんが先週行ってきた。それでも行きたいなら今度一緒に行こう」
「いや、いいよ。僕は一人でお母さんに会いに行きたいんだ」
父は「待て」と言ったことを反省しているのか、必死に引き攣った笑い方のまま柔らかい言葉で僕の意思を否定する。
口角が上がっているだけで焦りと困惑が表情から隠しきれていない。
「場所ならなんとなくわかる、それに長居はしないよ。ただ行って、手を合わせてきたいだけだから」
「それなら尚更いつだっていいだろう、今はちょっと仕事が詰まっているから来週にでも——」
「どうしてそんなに過保護になるの」
言い捨ててしまった。これだけは言ってはいけないと心に留めていたのに。
父の苦労を知らないわけじゃない、いつ我が子が死ぬかわからないという恐怖を理解していないわけじゃない。でも、僕の気持ちもわかってほしい。
どう気をつけたって、正しい治療を受けたって、長くは生きられないんだ。
怒っているだろうと視線を向けた父の表情には、悲しみが広がっているように見えた。気力がないというか、なにか重いものを背負っているような、そんな表情。
「お母さんが亡くなって、僕が同じ病気で。気持ちはわかるけど僕には残りの時間がない、お父さんの心配性に縛られてる暇なんてないんだよ」
申し訳ないと思う反面、やっと吐き出せたとも思った。
父はなにか言葉を返そうと口を開きかけては閉じてを繰り返している。咎めることも、無理に引き止めることもできないまま僕を見つめている。
「僕はいつ死ぬか分からない。だから、いつ死んだっていいと思ってる。お父さんは僕の明日に期待しているかもしれないけど僕はしてない。もし、このままお墓参りの帰り道に死んじゃったら、それでも仕方ないと思っているくらいには——」
「知らないからそんな身勝手なことを言えるんだよ」
僕の言葉を遮るように父は呟く。
呆れたような表情、言葉の後にはため息が添えられているような気がした。
文字通り頭を抱えながら、視線だけがまっすぐ僕へ伸びている。
困らせてしまったな、とは思ったけど、ここで折れるような覚悟で話をしているわけではない。僕には僕の意思がある。
僕の病状なんて僕自身が一番よく知っているのに、父から吐かれた言葉が妙に心に引っかかった。
その空気感に、僕の中の糸が切れた。
「灰、どこに——」
「僕のことは僕が一番わかってる」
そう言って父の前を去った。
最後、視界の端に僕を引き留めようと数メートル先で椅子から立ち上がった父の姿が映った。それでも僕の足は止まらなかった。
飛び出すように家を出て、母の墓とは反対方向へ走る。理由は分からない、ただなんとなくそうしたいと叫んでいる僕の心に従った。
一年ぶりに、外の世界を走れている。
身体が軽い、こんなにも早く足が動く。これが生きている感覚か、と感動する。
相変わらずの田舎具合で、見渡せる範囲に人は数えるほどしかいない。どれだけ走っても景色は変わらず草ばかりで、車もほとんど通っておらず広い道路がただまっすぐ続いている。
気の向くままに角を曲がっていくと、潮の匂いがした。
初めて訪れたはずなのに感じる、この妙な懐かしさはなんだろう。
そしてたどり着いた海岸で僕はわけもなくしゃがみ込んでいて、そこで彼女に声をかけられた。
だからやっぱり僕には——。
◇
「分からないんだよね、どうしてここに来たのか」
そう答えるしかなかった。
なにそれ変なのぉ、と彼女はだらしなく語尾を伸ばしておかしそうに笑う。
初対面にしては異様に近い距離感、砕けすぎた口調、もしかしたら僕は彼女に会ったことがあるのかもしれない。
「名前は?」
「あれ、私の名前知りたくなっちゃった?」
「いきなり『私の名前、知ってる?』なんて尋ねられたら無関心ではいられないよ」
「それなら書くから読んでみて!」
そう言うと彼女は人差し指を伸ばして、砂浜に自身の名前を書き始めた。
上手く書けないと苦戦しながら僕の前に必要以上の大きさで書き進める、僕には恥ずかしくてとてもじゃないけどできない。
言動の端々から感じる無邪気さから彼女が僕より年下、後輩である可能性も頭をよぎったけれど、僕のネクタイと同じ色のリボンを身につけていたことからそれは違うとわかった。それに、あまり学校へ行っていなかった僕のことを認識している後輩なんてきっといない。
「これが私の名前! 君に読めるかな?」
書いた字を両手で指して挑発的に尋ねてくる。少し読み取りづらいけれど僕には『瞳月』と書いてあるように見えた。
「ひとみ……違う、月は『つき』だろうし、ひとみつき、なわけがないし……」
「そこまで! 時間切れ! 残念だなぁ読んでくれるって信じてたのになぁ」
わざとらしく口を尖らせる。
残念、なんて言葉は彼女の上がりきった口角と企みを含んだ目によって打ち消されている。
書いた名前を読ませるなんて不自然な教え方を選ぶあたり、きっと最初から正解させる気なんてなかっただろう。
「瞳に月って書いて『しづき』って読むの」
「瞳月さん……苗字は?」
「苗字なんて教えたら君は私のことを名前で呼んでくれない気がする」
「わかったよ、名前で呼ぶから。苗字だけ知らないなんて違和感がある」
「君、私に興味があるみたいだね?」
僕は相当めんどくさい相手に目をつけられてしまったのかもしれない。
からかうような口調で僕へ尋ねた後、はにかんで笑いながら『生田瞳月』と名乗った。
綺麗な名前だな、と直感で思った。それに綺麗なのは名前だけではない。
言動の破天荒さから霞んでしまっていたけれど瞳月さんはきっと校内でも頭ひとつ抜けているくらいに可愛い。
華奢な肩にかかる艶のある黒髪は美しくて、小さな顔にそれぞれのパーツが綺麗に収まっている。それになにより柔らかく横に流された前髪の隙間からは名前の字にも含まれている瞳が輝いていた。
綺麗なんてものじゃない、輝いている。
この世界を取り込んで全てを見透かしているような、先ほどまでの言動とはかけ離れた落ち着きを感じさせる瞳。
まっすぐと僕の方に向いている。目を合わせるだけで妙な緊張が走る。
「友達はいないの? 瞳月さん、放課後に遊ぶ人とかいないの?」
不意に視界に入った女子高生の集団を見て、そんな問いが漏れてしまった。きっとまた「デリカシーがない」と突っ込まれてしまう。
ただ、女子高生が放課後に一人で海岸を訪れている状況を不思議に思ってしまった。
「口を開けばまたデリカシー皆無な質問で呆れちゃうよ。私は君が言うように訳ありな不登校生だったからね、友達はいないわけじゃないけどきっとみんな近づきたがらないよ」
平然と答えてしまう様子とその並べられた言葉には謎が多すぎるけれど、深く触れてはいけないような気がして聞き流すように「そっか」とだけ返した。訳ありな不登校生、と言っても整った容姿と名前すら知らない異性に近づく社交性を兼ね備えているのなら友達の一人くらいいてもいいおかしくないのに、と思ってしまう。
気づくと瞳月さんの眉間には皺がよっていた、聞き流したことがよくなかったのか。僕は少しだけ首を傾げてみる。
「知りたいことがあるなら言って? 黙って考え込まれたって私には分からないから。それに君がデリカシーのかけらもないような人だってことは、この数分でわかちゃったからね」
最後に添えられた尖った補足は僕への配慮なのか。
自らが書いた名前に足で砂を被せて消しながら、僕との沈黙を埋めていく。
その横顔から伝わってくるなんとも言えない寂しさから瞳月さんのことを知りたくなった。惹き込まれてしまう、少し前とは違う理由で景色の綺麗さを無視してしまうような感覚。不純な意味ではなく、単純な好奇心として。
「瞳月さんはどうして独りでいるの?」
顔は見ない、消されていく名前を見つめながら独り言のように呟いてみる。
「難しい質問だね。強いて言うなら人と感性がズレてるから、かな。本当のところは違うけど今はそういうことにしておくよ」
へへへ、と笑いながら瞳月さんは曖昧な答えを返す。
どこまで踏み込んでいいものかわからないけれど、知りたいことがあるなら言ってなんて調子のいいことを言ったのは瞳月さんだ。それに会うのは今日が最後かもしれない、どうなっても、どう思われても問題はない。
「感性がズレてるって、そんなにひどい趣味でも持ってるの?」
「人の死後に興味があるの、死んだ後の記憶の行方とか! そういう類のことにね」
「どういう経緯で瞳月さんみたいな女子高生がそんな特殊な分野に惹かれるのか僕にはわからないよ」
「まだそんなに知識はないんだけどね、ただ偶然見つけた小説の一説に惹かれちゃってさ」
ちょっと待ってねと呟きながら、瞳月さんは鞄からなにかを取り出そうとしている。
話の流れからそのきっかけとなった小説が出てくるだろうなと予想はついていたけれど、まさか文庫本ではなく分厚い単行本が出てくるとは思わなかった。相当読み込んでいるのだろう、四隅のあたりが少し色褪せている。
そして自信満々に、僕にあるページを向けた。
ほらここ! と見せてくれているけれど、正直字が並びすぎていてどこを見ればいいのかわからない。
「ここだよ! 『人は死後、最も愛した人の記憶だけが綺麗に抜き取られる』って」
嫌だろう、そんなこと。
忘れてしまう死者も、忘れられてしまう遺された人間も、誰も幸せにならない。
物語の中のお話なら幻想的、でも現実に起こってしまったらそれはもう残酷なだけだ。瞳月さんがどうしてそんなことの惹かれているのか、言葉を聞いただけの僕にはわからない。
「そんなの悲しいだけだよ」
「生きている私からしたら“いつか記憶から抜き取ってもらえるくらい誰かから愛されてみたい“って思っちゃうんだよね」
好奇心に満ちているような言葉から切なさがはみ出ていた。
過去に辛い経験をした人が後天的に社交的な性格になることがある。とどこかで聞いたことがあるけれど、瞳月さんもその一人なのか。
僕と同じように幼い頃に家族を亡くしているのだろうか。それならどうして記憶を抜き取られてもいいなんて物語に従って夢見心地なことを思えるのだろう。
僕はどれほど愛されていたとしても母の記憶の中から消えることは嫌だ。
それに僕は死んだ後であっても、愛した人のことは誰よりも深く覚えていたい。
暗くなった夜の海岸、瞳月さんは月を見上げている。今日は満月だ。
月の光がいつもより眩しく感じる。太陽に照らされている、なんて遠慮がちな光り方じゃない。瞳月さんのように強引で、声ひとつで意識を奪ってしまうような、そんな光。
海面に反射する月は綺麗で、でもそれ以上に瞳月さんの瞳に映っている月は美しかった。瞳、月、そうか、やっぱり綺麗な名前だ。
口には出さない、それでも思った。
瞳が輝いている、と。
「悲しさはないの?」
「あるよ、でもそれでいいの。私は記憶よりも気持ちがあればいい」
わからない。
初対面の相手のことがわからないなんて当たり前だけど、あまりにもわからない。というより、理解ができない。
でも惹きつけられてしまう。瞳月さんは月を見つめ続けている。
僕はかける言葉を探しながら月明かりに照らされたその横顔と瞳に見惚れている。
瞳月さんの顔が僕の方へ向く、ニコッと口角を上げて口を開いた。
寂しさなんて一切ない、無邪気な笑顔で。
「もしかして、私に興味持ってくれてたりする?」
その言葉で確信した、釣られてしまった。
名前を知って、僕の知らない感性の持ち主であることを明かされて、なんとなく瞳月さんといる時間を心地いいと感じた。
気になって仕方がない、ちゃんとした理由なんてない。
でも僕は——。
「まだよくわからないから直感だけど、瞳月さんのことを知りたいと思ってる」
最大限考えて絞り出した答えは、どこか思わせぶりなセリフになってしまった。
瞳月さんは不思議そうにただでさえ大きな瞳を見開く。
なにかよからぬことを期待させてしまったのかもしれないと、僕はちょっとだけ申し訳なくなって目を伏せた。
波の音が途端にうるさくなる、風が吹いて、切り裂くように彼女の声が響いた。
「それなら——付き合って!」
「え」
初めましての同級生、それに容姿の整った相手との恋人関係が始まってしまうセリフ——いや、いきなり告白なんておかしい、でも瞳月さんならやりかねない。
最初から異常な距離感だった彼女なら、そう言ってもおかしくない。
「でもさ、さすがにそれはまずいんじゃない? 僕たち、さっき会ったばっかりだよ?」
「それが何? 時間なんて関係ないよ?」
「僕はあまり恋愛に詳しくないけど……恋人選びはもう少し慎重にした方がいい」
「恋愛? なんのこと?」
絶妙に噛み合っていない、不思議そうな表情を向けられる。
そしてすぐになにか閃いたように手を一度叩いて笑った。
「誰も『私と付き合って』なんて言ってないよ? 私は『私に付き合って』って言ったの!」
とんでもない聞き間違いをしてしまっていた。
君も男子高校生だね、とからかうように笑われて恥ずかしくはなったけれど、笑い過ごしてくれる相手でよかった。
瞳月さんは改まった態度で今度は身体ごと、僕の方を向く。
「私に付き合って! 独りの私の理解者になって!」
アニメや小説でよくありそうなセリフを、こんなにも自然な流れで言われる日が僕の人生に訪れるとは思っていなかった。
瞳月さんの容姿の良さのおかげだろうか、セリフに違和感がない。
「理解者?」
ただこの一言の真意を除いて、僕は瞳月さんの言葉を受け入れている。
「ちょっとそれっぽい言葉を使いたかっただけ、私の趣味に付き合ってくれるだけでいいからさ」
深い意味はなく、カッコつけたかっただけらしい。
無邪気に弾んだ口調で言い放って『どうするの?』と僕を急かす、きっと僕に与えられている選択肢は『はい』か『いいよ』、つまり一つしかない。
「まぁ、いいよ」
僕の残り短い人生、瞳月さんは僕が最後に関わる相手。
どんな人か、まだ謎が多いけれど楽しそうな人でよかった。
「じゃあまずはこの本! 知ってる?」
先ほど見せられた小説、表紙に見覚えがある。
家のどこかを探せばありそうだ、僕は曖昧な記憶のままで頷く。
「それなら読んできて! できれば明日まで! そして明日、この本に出てくる海に来て。海は海でもここじゃないないから! 間違えないでね?」
楽しそうな人だけど、それ以上に忙しい人だ。
でも、いつ終わるかわからない命の僕にとって忙しさは必要なのかもしれない。
わかったよ、とだけ返した僕へ瞳月さんは満足そうな表情を作る。
そろそろ最後のバスの時間だ! と僕へ別れを告げて駆けていった。足で名前を消した後が街灯に照らされている。
生田瞳月、知らない名前だ。
ということは、瞳月さんは僕の名前を——。
「あっ!」
バス停からの傾斜を駆け降りてくる。ローファーの音が忙しい。
すぐそこにバスが見えているのに、必死に、僕の方へ戻ってくる。
「名前!」
「え」
「改めて聞くなんてしないから! よろしくね! 東雲灰くん」
「教えてもないのにどうして僕の名前を——」
「訳ありな不登校生でもクラスメイトの名前くらい覚えてるものだよ?」
「えっ、僕と瞳月さんって同じクラスだったの——」
「そんな初歩的なことも覚えてないの⁉︎ まぁ、とりあえずもうただのクラスメイトじゃないんだから、明日からちゃんとよろしくね!」
瞳月さんはギリギリバスに間に合った。
僕は父親が寝静まった頃を見計らって帰宅するために遠回りして歩き始める。
歩き出す前に瞳月さんの乗ったバスが角を曲がるまで見届けてしまった。手を振ることもせず、ただ見つめていた。
僕の中でももう瞳月さんは『ただのクラスメイト』ではないのかもしれない。
「うわ、暑……」
七月の朝方とは思えない、身体に張り付く嫌な暑さを起きてすぐに感じた。
遮光カーテンの意味もないくらいベッド横の窓から強い日が差している。瞳月さんからの誘いに乗るかどうかは朝起きてから決めようと消極的に考えていたけど、ちょうど目も覚めたし行ってもいいかな、と思い支度を始める。入退院を繰り返してきた僕にとって異性との外出は人生で初めてのシュチュエーション。とりあえず寝癖を治して、なんとなく二度洗顔をして、服装に迷った結果、無難に制服を選んだ。他に着ていけるような私服がなかった。
デート前の支度はこんな感じなのかな、と少しだけ緊張感を覚える。
玄関へ向かう途中、朝食の支度をする父と目があってしまった。昨日のことも含めなにか言われるだろうなと身構えたけど、引き止められるどころか行き先すら尋ねられない。ただ一言だけ。
——周りをよく見て歩くんだぞ。
調理器具を洗う手を止めないまま、わざとらしく目線を僕へ向けない父から、僕はそう忠告を受けた。
返事をしない代わりに気づかれない程度に頷いて家を出る。
このまま道中で死んだらこれが父との最後の会話か——なんて漠然と少し寂しくなった。
昨晩、記憶を辿りながら倉庫を探ると奥の棚に瞳月さんから読むようにと言われた小説が五冊並べられているのを見つけた。
よく見てみると、一冊ずつに透明なブックカバーが丁寧に付けられていた。ほこりっぽくて、工具や劣化して穴の空いた毛布などが雑に置かれてた倉庫の中で、その小説だけは異様なほど綺麗に保管されていた。瞳月さんから小説の概要を教えられていたこともあって、僕は父の趣味や思想を一瞬疑ったけれど深く考えずに一冊だけ手に取り部屋へ持ち帰った。
その一冊が僕の今日の鞄の中身。
「それにしても不思議な話だったな」
というより、奇妙な話だった。
実際手にしてみると、思った以上に厚みがあった。全てを一晩で読み終えるのはなかなか気が滅入りそうで、僕は目次を辿って瞳月さんが開いて見せてくれたページあたりに軽く目を通した。
死後の記憶について、突然教えられた時は正直あまり信じていなかった。死んだこともない作者が書く死後の話なんて行きすぎた妄想だろう、まぁそういう話もあるのかもしれないけど、なんて適当に聞き流す程度。ただ、読んでいくと瞳月さんの話は思っていたよりはるかに現実的なもののように思えてきた。
人生最後に死を予習する意味でも、ちょうどいいかな、なんて思えたりもした。
だから僕は今、立っているだけでも億劫な暑さの中を歩いて海へ向かっている。まだ朝なのに日が高くて、全身に熱がこもっていく。そんな中、背後に違和感を覚えた。人の気配というか、騒がしさの予感というか。確かに聞こえる。
どこかで聞いたことのあるようなローファーの音。
「灰くんおはよう〜!」
瞳月さんもまた制服を着ていた。昨日は暗くてよく見えなかったけど、やっぱり可愛い。僕が覚えている限りのどのクラスメイトより制服が似合っている。瞳月さんはバス停から走ってきたのか涼しさを取り込もうと襟元をパタパタ扇いでいて、その姿がなんとも僕に刺さった。
「瞳月さん、おはよう」
「朝から元気がないねぇ……そんなんじゃ太陽に負けちゃうよ?」
そう言うと瞳月さんは駆け出し、十数メートル先から早く追いつくようにと僕を急かす。そんなに元気だと瞳月さんが太陽になっちゃうよ? と言い返してくなる。どうやら今日から夏休みに入ったらしく、そのせいで異様にテンションが高い。少しは歩幅を合わせてほしい。
でも悪い気はしなかった。田舎町に容姿端麗な女子高生のセーラー服姿はよく映える。暑さも太陽も全てが味方をしているような、そんな眩しさ。
そんな瞳月さんは突然走る足を止め、その勢いのまま僕の方へ振り向いた。風に揺れて崩れた前髪も気にせず、大きく息を吸い込んで口を開く。
「灰くん!」
そうして遠くからでもわかる無邪気な表情で僕の名前を呼んだ。
僕は頷く代わりに足を止めてみた、そうしたらきっと次の言葉が飛んでくる。
「この夏はとにかく私に付き合ってもらうからね!」
付き合ってもらうからね、か。それなら瞳月さんには、僕の人生最後の思い出作りに付き合ってもらおう。なんて、特になにを提案するわけでもないけど、一緒にいれば自然とそうなっていくと思って心の中でそう返してみる。
よろしくね、の代わりに僕は瞳月さんを目掛けて駆け出した。
昨日走った時より風が心地いい、僕の中に夏休みの概念なんてほぼないけれど、なんというか僕までその浮かれた雰囲気に取り込まれそうになる。
瞳月さんのことを僕はまだよく知らないけれど、二人のなにかが通じ合う感覚がこのやり取りには確かにあった。
◇
「昨日教えた小説読んでくれた?」
移動に疲れたのか数分前から歩くペースを落としていた瞳月さんの足がとうとう止まって思いついたように僕にそう尋ねた。
歩き始めて数十分、草ばかりの景色の隙間から海の青が見え始めた。
鼻に触れる匂いからも昨日の海岸とはまた違う潮の匂いを感じる。夏の入口のような、草木の雰囲気も相まってそんな言葉が僕の頭によぎる。
「全部は読んでないよ。海の場所がどこか確認したのと、瞳月さんが見せてくれた章を軽く読んだくらい」
「おお、まさかほんとに読んでくれるとは……正直灰くんが今日ここに来てくれることもちょっと疑ってたんだよね」
「僕のことを相当適当な人間だと思ってない?」
「だって初対面の異性に勧められた分厚い小説なんて普通読まないよ、少なくとも私なら読まないからね! ってか、なんで読んでくれたの?」
瞳月さんの中に割と一般的な『普通』が存在していることに驚いた。
あの小説を読んだ理由。僕の残り時間が短かったこと、あの時家を飛び出したこと、海岸にたどり着いたこと、そしてなにより瞳月さんが僕に話しかけたこと。思い返してみれば全部の偶然が重なっただけ。
ただ『偶然だよ』なんて突き放した答えは、その期待に満ちた顔が許してくれないような気がして必死に言葉を探してみる。
「瞳月さんが読んで、って勧めてくれたからかもね」
あえて理由を言葉にするなら、こう言うしかない。
偶然に従っただけの僕にとって、その偶然を作り出したのは他でもない瞳月さんなのだから。
「あっ! そういう思わせぶりなこと簡単に言っちゃうのやめた方がいいよ? 恋愛体質の子だったら勘違いしちゃってもおかしくないからね?」
そう言いながらも瞳月さんは満更でもない顔でまた歩き始めた。なんだか足が軽いなぁ、なんて数分前の項垂れた様子を振り払うように笑いながら。
僕の答えは正解だったのかな、と安心する。
波の音が近くなってきた、漂う空気には少し前より多く湿気が含まれているように感じる。背の高い木に囲まれた山道。不定期に海への方向を矢印で記された看板が建てられていて、僕たちちは示されるまま舗装された一本道を辿っている。
その一本道もあと数歩で終わる、木々に遮られていた陽が容赦なく差し込んで僕たちを照らす。
「すごい……小説に書いてあるままだ」
瞳月さんの言う通り、小説に書いてあるままの景色が広がっている。
青く染められて広がる空と、遠くまで続いている透明な海に穏やかに揺らぎ続ける白い波が浮かんでいる。海の青と空の青を遮るものはなく、見えている全ての景色で一枚の青のグラデーションが描かれているように見える。小説内で『真昼の星空』と書き表されていた海面には反射している太陽が本当に星屑のように映っていて不思議な気持ちになる。
「綺麗……」
そんな単純な言葉に頼ってしまうほど、美しい眺めだった。
ふと、隣に立っている彼女の瞳に視線を向けた。この景色を瞳月さんの瞳はどう映すのだろうと昨日の月の反射が頭をよぎる。
「あっ——」
澄んでいる、綺麗だ。でもそれより僕の意識は瞳月さんの目尻に溜まっている水滴に向いた。
確かに綺麗だけれど、この景色の美しさだけが涙が溢れる理由にはならないような気がした。
気になって数秒見つめていると、なんとなく悪いことをしているような気持ちになって視線を海へ戻した。
僕たちの間に流れる沈黙が波の音によって埋まっていく、人の声も車の騒音もない異様な空間。
「灰くん、ちょっと無神経なこと聞いてもいい?」
そうやけに慎重なトーンでそう尋ねられると少し緊張してしまう。
「いいよ、答えられることなら」
「灰くんは死んだ後、自分の遺骨をどうされたい?」
無神経、と言うより突然すぎた。
もっと海の綺麗さや太陽の眩しさに浸った会話をするものだと思っていたのに、瞳月さんから出された話題は自らの遺骨への希望について。
でもよく考えれば僕は瞳月さんの趣味に付き合う、言葉を変えるなら理解者になることが目的であり役目。それならこの唐突さすらも正しいのかもしれない。
死後についての価値観をすり合わせるための会話であることに間違いはない。
顔の向きを変えずに瞳月さんの様子を伺う。僕を急かす素振りはなく、静かに目を瞑りながら風を感じている。その閉じられた目元から水滴が消えていることになぜか安心した。
「死んだ後の自分に意思があるなんて思えないから、僕は普通にお墓に納められる形でいいかな」
少し考えた後、僕はそんなつまらない答えを出した。
そっかそっか、と目を瞑ったまま頷かれた後、漂う切なさを誤魔化すような笑顔を添えられた。そして微かに聞こえるかも怪しいほど小さな声で、瞳月さんは意味深な呟きを溢す。
——それならよかったよ。
なにが「よかった」なのか、遠回りに尋ねてみてもその真意を知ることはできなかった。ただ「なんでもないよ、ただよかったの」と言い切られてしまうだけ。空気を変えようとしたのか瞳月さんは大袈裟に背伸びをして、僕に無邪気に笑って見せた。そして——。
「私の笑った顔と海、どっちが綺麗?」
なんて質問までされてしまった。
「海と人は比べられないかな」
だから確実に求められていない答えを返した。
わかりやすく唇を尖らせた後、灰くんらしい答えだ! と器用に笑い飛ばす。
それにここまでで僕が知った瞳月さんは綺麗、と言うより可愛い、の方が似合う。
僕たちはそのまま砂浜を歩くことにした。空が青いせいか、海が澄んでいるせいか、ここの砂浜は異常なほどに白く見えて鮮やかに色づいた貝殻がよく目立つ。瞳月さんはその一つずつをしゃがみながら拾い集めて、それを手のひらに乗せるたびに僕に見せくてれた。
これは「赤いから赤ちゃんね!」なんて安直すぎる名前をいくつかつけていたけれど、両手をその貝殻たちが埋めた頃、瞳月さんはそのほとんどの名前をみごとに忘れていた。容姿がいいから、とか久しぶりに話す異性だから、とかではなく単純に可愛らしい人だなと、僕はそんなくだらない言動すら憎めずに一緒に笑ってしまっていた。
「瞳月さん、海には入らないの?」
拾った貝殻を砂浜に並べている姿を見て疑問に思った。
せっかく海に来たのに、頑なに足すら水につけようとしない。
顔を上げた瞳月さんはニヤッとして立ち上がり、上目遣いというよりは少しからかうように僕を見つめた。そして。
「灰くん、本当に軽くしか読んでないんだね?」
なんて昨日と重なる挑発的な口調で告げられた。
海には入らないの? の答えに全くと言っていいほどなっていない。
「まぁいいよ、私がこの海に入らない理由……というより入れない理由を教えてあげよう」
手についた砂を払い、瞳月さんは少し得意げに言ってみせた。
入れない理由、と聞いても僕には全く見当がつかない。少なくとも昨日読んだところにはそんなことなにも書いていなかった。
数秒間遠くを見つめてゆっくり目を瞑る。真意はわからないけれど、なにかを噛み締めるように深く一度頷いて目を開けると同時に僕を見つめた。
「ここはね、散骨が行われてる海なんだよ」
聞き馴染みのない言葉だ。
「散骨って、遺骨を撒く……」
「そうそう、灰くんが知ってる散骨のイメージで合ってるよ。海自体は序盤に登場して、後半に一つの死後の行方として散骨するシーンが描かれてるんだけど……昨日の今日じゃそこまでちゃんと読めてないよね」
瞳月さんの言う通り、この海に関して僕はただ目的地を知るために辿った目次と景色についての描写しか読んでいない。ここがどんな海か、どうして死後の物語に海が登場するのかなんて考えてすらいなかった。
浅はかだったなと、少しだけ反省する。
なにも知らずに口から出た「綺麗」という感想が不謹慎だったのかもしれないと不安になりながら、助けを求めるように彼女に視線を向ける。なにに対して助けを求めているのかはわからない。ただ、なんとなく安心できるような気がした。
「怖くなった? 散骨って言葉、聞き慣れないでしょ?」
「え、どうして——」
「顔に書いてある、って言うのは冗談で。私も気持ちだけならわかるから、静かで異様なほど綺麗な空間。あまりにも現実感がないというかさ、ちょっと怖くなるのもわかる」
安心、とまではいかなかったけれどその言葉で少しだけ僕は海へ視線を戻せるようになった。
改めてその海を見つめると感じたことのない不思議な感覚に陥った。
青い、綺麗。それは間違いない、でも違う。
海の色彩の濃淡はそれぞれの生きた時間が織り合わされているように見えて、穏やかに波打つ海面は「確かに生きていたんだ」と訴えかける声のように思えた。もしも僕が今死んで、この海に遺骨を撒かれたら——なにを思って、生きている人間になにを主張するのだろう。なんてことも頭をよぎる。
「だからこの波の音は命の音なんだよ? 悲しくなる必要も寂しく思う必要もない、ここに居続けてくれる。それがわかる海だって、あの小説は私に教えてくれた」
命の音。それが瞳月さんの言葉なのか、小説からの受け売りなのかわからないけれど素敵な考え方だなと浸ってしまう。こういう死後もいいなと思った。
「やっぱり綺麗だね、この海」
そんな僕の呟きに「深いですねぇ」なんて軽い相槌を打たれてしまった。
その後にすかさず「でもわかるよ、綺麗だよね」と切なげに返してくれた。
それから少しの間、僕たちは言葉を交わすことも視線を合わせることもせずにただ波の音を聴いて風に吹かれた。
吸い寄せられるような感覚になって、それでも無礼にならないように僕は海水が押し寄せて色が変わっている砂浜の際まで足を進めた。このまま足先の少しでも触れてしまったら、本当に海へ溶けてなくなってしまいそう。そんな感覚に襲われる。
——灰くん
瞳月さんの声が響いた。
昨日、初めて会った時と同じ感覚。
海に吸い寄せられていく意識が瞳月さんの声に奪われた。と言うより今は、その声に引き戻してもらった。
「どうしたの、瞳月さん」
「あっいや、そのまま海にいっちゃいそうだったから……まぁ、飛び込みたい! って言うなら止めないけど、せめて私の前ではやめて! 余計な責任負いたくないから!」
冗談だよ、と笑いながら瞳月さんは僕を手招いた。
なにかを話したげな様子で、小さく左右に揺れながら僕を待っている。
「小説、読んでくれたんだもんね。私が昨日話したこと少しは理解してくれた?」
自信のない様子で僕にそう尋ねた。
もしかしたら過去、誰かにあの小説を否定されたことがあるのかもしれない。人と感性がズレてるから、なんてことも言っていたしここは一応でも理解者である僕が一度瞳月さんの感性へ寄り添う必要がありそうだ。
「死後の記憶の行方、ちょっとだけだけど理屈がわかった。もっとファンタジックな話を想像してたけど、思ったより現実的だった」
「そうだね、死後の話だとしても人間の話だってことは変わらないから」
本当に、その言葉の通りだ。
もっと魔法だとか天国だとか、そういう非現実的な話を期待していた僕にとって死後の世界はよくも悪くも人間らしかった。
「生きていた時間を全うしなかった罰として、最愛の人の記憶を抜き取られるの。あくまであの小説に書かれてるお話だけどね」
ちょうど昨日の僕が読んだ部分だ。
この世には稀《まれ》に生きている意識を保ったまま命を使い果たし、自身の死を自覚できていない例があるらしい。その場合「今世を生ききれなかった」とみなされ、半端な気持ちで生きてしまったために未練が残ってしまうと考えられているらしい。未練を晴らすまで存在し続ける代わりに、その罰として最愛の人との記憶を抜き取られる。未練を晴らす代償として、意思に関係なく記憶を差し出さなければいけない。この小説での理屈はどうやらそういうものらしい。
「瞳月さんはどうする? もし今、本当は死んでいたとして……その、最愛の人の記憶だけを失った状態だったとしたら」
「きっともう一度好きになるよ、記憶がなくなっても死んじゃってたとしてもね」
考える間もなく、それが当然とでも言うように瞳月さんは答えた。
他の選択肢なんてあるかな? と僕に尋ねながら、ないよね、と自己完結するまでがセット。
「灰くんだったらどうする?」
きっと瞳月さんよりはるかに僕の方が死に近い場所にいる。
仮に今この場で僕が死んだとして、どれだけの未練が残っているだろう。
母のお墓参りに行けなかったこと、本当は普通に高校生活を送ってみたかったこと、家を出る時父に冷たい態度をとったこと。小さなことで言うなら、恋人が欲しかったとか、ジャンキーなものをなにも気にせず食べてみたいとか、遊園地に行って身体を気にせずアトラクションに乗ってみたいとか。パッと思い浮かぶだけでもいくつかある。
最愛の人、と呼べる人こそ思いつかないけれどもし僕の中から誰かの記憶が抜き取られたら——。
「気づけないと思う。それこそ本当にただ生きてるみたいな、きっとそういう感覚」
そっか、と瞳月さんはまた僕のつまらない答えを受け入れてくれた。
せっかく家を出られる生活になった、僕も一つずつこの世への未練を消していこう。
海は相変わらず穏やかで時間の流れを感じさせない、堤防にあるサビのついた時計を見るとすでに二時間が経過していた。
偶然にも同じタイミングで時計を見ていた瞳月さんは思い立ったように「いい場所だったね! 付き合ってくれてありがと!」と僕へ笑って言った。
「こちらこそありがとう、それじゃあ今日は解散?」
「そんなはずないじゃーん、まだまだこれからだよ! 次の場所、ここからまた少し歩くからちゃんとついてきてね?」
◇
涼しげな森の中を四十分ほど歩いて辿り着いた開けた場所。先ほどの海が見える空気の澄んだそこにはこれまた人の気配のない真っ白な建物があって、西洋の城のような優雅で美しい雰囲気が漂っている。近づき難いような綺麗さが漂っていて、神聖な空気がそこにはあった。
「ここは、なに?」
「ウェディングチャペル! わかりやすく言うなら、結婚式場」
雰囲気からなんとなく察していたけれど驚いた。出会ったばかりの異性と結婚式場を訪れる。異性と二人きりでの外出すら初めての僕にとってイレギュラーすぎる。それに僕たちは高校生、なにがおかしいの? とでも言うような口調で「結婚式場」と答えてしまう瞳月さんにも謎が深まる、いろいろと確認したいことが多すぎる。
「どうして、結婚式場に……?」
「灰くん、本当にちょっとしか読んでないね? ここは結構感動的な、いわゆるあの小説の『聖地』なんだけどなぁ」
僕の問いに答えることもなく、本日数回目のからかうような視線を向けられる。
緊張する素振りもなく敷地内へ踏み込み僕を手招く、受付の女性へ名前を告げるとなんの問題もなく中へ通された。
そして僕は開かれた扉の内側の美しさに息を呑む。
「ね、綺麗でしょ?」
頷くことしかできない、それほど綺麗な空間だった。
遮るものがなにもない。目の前に広がる空と海の青が同化して美しい青に包まれているような感覚になる。先ほどの海とはまた違う美しさに呑み込まれるような感覚。目を閉じると微かに潮風の匂いがして、波の音が耳を触れた。
窓から降り注ぐ陽が、優しくバージンロードを照らしている。
「本当に——すごく綺麗だよ」
結婚なんて何年先、いや、きっと僕はその年齢まで生きられないけれどそういう夢を誰かと一緒に見られる人生もいいなと思ってしまう。
それこそ最愛の人と、こんなにも美しい場所で永遠を誓い合う。綺麗だ。
「結婚かぁ、私もいつかできるのかな」
「きっと素敵な人が見つかるさ、瞳月さんは綺麗だし。あっ、変な意味で受け取らないでね」
「いや、そういうことじゃないんだよね」
「え?」
妙に真剣なトーンで言うものだから、僕の冗談が少し申し訳なくなる。
「私、この歳にして大恋愛しちゃってるからさ」
気になる、でも同時に触れていい話かと躊躇う。
そもそも大恋愛なんて言葉、なかなか使うものじゃない。それにそれほど好きな人がいるのなら結婚なんて時間が解決してくれるような気さえする。
「その人と結婚する未来は、ないの?」
「うーん灰くん、なかなか残酷なことを聞くねぇ……でもそうだね、ない」
「振られたとか、既婚者だった、とか?」
さすがに自覚している、今の僕からの質問はデリカシーのかけらもない。
「手の届かない場所にいるんだよね、だから結ばれる未来はないの。でも私はまだその人のことが大好きだから、他の人を好きになれるなんて考えられない——やっぱり私は結婚できない!」
やけに吹っ切れた口調がきっと本心ではないことくらいわかる。
手の届かない人、本当のことはわからないけれど瞳月さんのことだから芸能人に恋愛感情を抱いている、なんて夢を見ているようなことも可能性として捨てきれない。
ただ、これ以上踏み込むのは良くないような気がして流れるまま話を終わらせた。
「灰くんは? 結婚願望とかある?」
「ないかな、それほど好きになれる人すら僕はまだ出会えてないからね」
灰くんはまだ恋を知らないね、なんて瞳月さんはわざとらしく口元に手を添えて笑ってみせた。
僕が結婚願望を持たない、のではなく持病を理由に持てずにいる、のだと知ったら瞳月さんはどんな反応をするだろう。まぁ言うつもりはないけれど。
しばらくすると瞳月さんはなにか思いついたように「あっ」と声を出し、目を輝かせて僕を見つめた。
「灰くん、本当に結婚願望ない? 好きな人とかも本当にいない?」
「え、本当にいないけど……そんなに疑わしい?」
「それならいっか! いや、一つお願いしたいことがあってね」
そう言うと瞳月さんは参列者が座るであろう席の一つに腰掛けた。
右側の窓際、一番後ろの端の席。
そして僕を新郎が立つ場所へ行くよう促した。
ヴァージンロードの際を控えめに辿って、一段のぼる。距離のできた瞳月さんの方を向くと心底満足そうな表情をしていた。
「これは、一体なにがしたいの?」
「灰くんが立ってる場所は小説内で作者さんが立っていた場所、私が座ってるこの席は亡くなった奥さんがここを訪れて最初に座っていた席。今ね、あの物語の名場面を再現してるの」
亡くなった奥さんがここを訪れて最初に座っていた、という状況に理解が追いつかない。え? と首を傾げてみたけれど瞳月さんからは、ん? なんて間抜けた表情しか返ってこなかった。なにかおかしいこと言った? と、その瞳が訴えかけてくる。
「ああ、言ってなかったっけ。あの小説、フィクションって分類されてるけど本当は作者さんの実話をもとに書かれた物語なんだよね」
なんて言われても僕の頭の中は混乱するばかりだった。
ちゃんと読んでいない僕のせいもあるだろうけど、あまりに急展開すぎる。
「仕方ない、私が丁寧に教えてあげよう!」
そう言って席を立ち、僕へ近づく。
静かな式場内に響くローファーの音が余計に緊張感を積もらせる。ちゃんと話すからよく聴いて理解してね? という忠告の後、話は始まった。
「まずこの小説の作者さんは奥さんを病気で亡くしてるの」
「そう、なんだ」
「そして亡くなって一年を迎えた夏の朝、前触れもなく奥さんが作者さんの目の前に姿を現したんだって」
現実味のない話だけど、頷くことしかできない。
混乱しすぎて質問すらまともに出てこないのだ。
「奥さんは作者さんのことを忘れていたんだけど、その理由として確信的なことを教えてくれたの」
「確信的なこと……?」
見当もつかない、それに僕はまだその状況をうまく想像できていない。
それでも続きが気になってしかたなかった。初めて、僕から急かすように一言だけ「教えて」と呟いた。
——「死んだ後って、愛していた人の記憶を失っちゃうんだって」って言ったの。
瞳月さんから告げられた答えに、点と点が繋がったような感覚になる。
現実にそんなことがあり得るのかと疑ってしまうより先に、この世で最もロマンチックな愛の告白だなという感動が溢れてきた。
そしてその奥さんは未練があって死にきれなかったと、語ったらしい。
「それで、どうして結婚式場に? 結婚式くらい生前に挙げていても不思議じゃないのに——」
「本当はね、生きている間にここで愛を誓っているはずだった。でも、結婚式の前日に奥さんの容態が悪くなっちゃって緊急入院することになったらしくてね。その入院までの処置が早かったおかげで生きる時間を少しだけ延ばすことができたけど、二人の夢の一つだった結婚式は、叶わずに過ぎていっちゃったらしいんだよね」
話を聴いて、父と母の姿が僕の頭に浮かんだ。
仲がよく喧嘩をしているところなんて見たことがない、父と母はそんな夫婦だった。 父と出会う前から母は持病を抱えていて、そういえば二人も結婚式を挙げていなかった。まだ愛なんて言葉すら曖昧な幼い僕から見てもわかるほど愛し合っていたのに。そんな二人がこんなにも綺麗な場所で永遠を言葉にできていたら、父が母のウェディングドレス姿を目にしたら、祝福の中でキスをしたら——。想像するだけでわかる、この世界に存在する言葉では語りきれないほど幸せなんだろうなと。だからこの物語の作者もきっと——。
「世界で一番幸せな結婚式になっただろうね」
幸せなんて言葉じゃ足りないよ、と伏目がちに瞳月さんは言った。
僕たちはそこから深くなにかを語ることもせず、沈黙と頭に映る想像を噛み締めていく。
受付付近に飾られていたウェディングドレスを思い出す。胸元にあしらわれた上品な刺繍や華やかに広がっていくスカート、レースには透明感が宿っていて、着せられている表情すらないマネキンすら美しく見えた。
それを最愛の人が着たら——。この世の誰より愛おしくて、可愛らしくて、一生をかけて隣にいたいと思える人だきたら、それはもう、言葉なんて形には収まりきれないほど大切な瞬間になるだろうな、と。
僕には叶わない夢だなと寂しくなりながら、目の前にいる瞳月さんにはそんな美しい姿で素敵な相手の隣を歩いてほしいなんて漠然と願った。もちろん、口には出さない。
「灰くん」
「なに?」
「最後にもう一箇所だけ、付き合ってほしい場所があるんだけどいいかな」
◇
瞳月さんの様子がおかしい。
思い返せば「付き合ってほしい場所があるんだけどいいかな」なんて確認の意味を込めた誘い方をされたあたりから違和感がある。
結婚式場を出て一時間ほど、僕たちはまた新たな山道を辿っている。
「瞳月さん疲れたりしてない? 休憩とか、挟まなくて大丈夫?」
「あっ——平気平気、ほら! 私すっごい元気だから!」
嘘が下手すぎる、あからさまな空元気だ。
確かに疲れている素振りはない。歩くペースだって変わらないし、顔色が悪いわけでもない。ただなんというか怯えているような、そんな空気感を感じる。
最後にもう一箇所と誘われた時、正直「まだあるのか」と思ってしまった。その気持ちが伝わってしまったのだろうか。いや、これは僕の考え過ぎな気がする。
「ねぇ、灰くん」
「ん?」
「出会って間もない私の趣味に付き合わされるなんて面倒に感じるかもしれないけど、必要なことだから許してほしい。だから、今から私がする話もちゃんと聴いてほしいの」
顔を見せないように僕より少しだけ前を歩いて、そう言った。
不登校生だった頃の話か、それとはまた違う学校生活での話か、いくつか候補を浮かべてみた後、聴かせてよ、と返してみる。瞳月さんの足が止まった。
深呼吸すると同時に木々が一斉に揺らめくほどの風が僕たちを包んだ。
風が止んで瞳月さんから告げられた言葉は僕が予想していたよりも重く受け止めるべきことだった。
——「去年の夏にね、大切な人を失ったんだ」
反応に困った、なにを返しても正解なんてないような気がした。
「失ったって——」
「ごめん、ちゃんと言う。亡くなったの、死んじゃった」
そんな隠していた言葉を自ら剥ぐ気遣いなんてしなくていいのに。
瞳月さんは震えた声を打ち消すように不器用な口角のあげ方をする、胸が痛い。
「その人は、瞳月さんの恋人?」
「そう、私がこの世界の誰よりも愛していた恋人。今も、愛してることに変わりはないんだけどね」
「高校生が『世界の誰より愛していた』なんて大袈裟な気もするけど——」
「そんな大袈裟な言葉を並べられちゃうくらい、大切だったんだよ」
これが話していた『大恋愛』か、と頭の中で結びつく。
瞳月さんの表情がわかりやすく無くなっていく。寂しさも悲しさも切なさもない、本当に消えてしまいそうなそういう表情。僕が相槌を打ってしまうだけで、瞳月さんの中のなにかを崩してしまうのではないかと思ってしまうほど繊細な空気を纏っている。
山の空気よりも冷たくて、時々木々の隙間から僕たちを差す陽よりも鋭い。
「不器用だけど優しくて、温かい人……というより柔らかい人なの。ほら、私ってこんな性格してるでしょ? それを全部受け入れて笑ってくれる、でも頼りになるの」
不器用、優しい、温かい、柔らかい。人を褒めるときによく用いられる言葉なはずなのに、瞳月さんの口から溢れるその言葉たちには特別な想いが込められていることがわかる。本当に好きだったんだな、と。
「好きだったんだね、心の底から」
「一緒にいるだけで幸せになれるような人だった。なにも特別なことなんてしなくても、本当に一緒にいるだけで。それにね、すっごいかっこいいの! 顔がいいの! 私、別に容姿で人を選ぶタイプじゃないのに本当に綺麗な顔立ちの人だった」
表情が少し和んで安心した。最後の理由はなんだかすごく単純だったけれど、それでいいと思った。
去年の夏、まだあまり日も経っていない。傷も癒えていないだろうにどうしてこんな話をしてくれるのか不思議に思う。
「話してて辛くなったら、話すのやめていいからね」
「ありがとう。でも最初にも言った通り、この話は必要なことなんだ」
今の僕にはきっと話を聞き出すこと以上に止めることのほうが難しそうだ。
それにこれも理解者になるために必要と言われたら、僕に拒むなんて選択肢はない。
「遺伝性の疾患を患っている人でね。しばらく安定してた容態が急変して、そのまま亡くなっちゃった」
そう呟くように教えられた。僕と同年代の同性に同じ病を患っている人がいたなんて偶然だなと思ってしまう。もしかしたら入院生活中にすれ違っていた可能性もあるなと病院の廊下の風景を思い出してみたけれど当然ながら思い出すことも意味もない。
「その人がね、付き合って二年の記念日に病気のことを打ち明けてくれたの。その時は大好きな人を失っちゃうって、怖くて泣いちゃったんだ」
母親の持病を父親から告げられた日の僕と同じだ。
明確な数字なんて見えない寿命に本人以上に怯えてしまう感覚、痛いほどわかる。
もし明日、目を覚まさなかったら。電話が繋がらなかった時、もしかしたら倒れているんじゃないかと不安に襲われたり、僕が代わりに死ねたらと思ってしまったり。
想いあって結ばれた恋人が相手なら尚更辛いだろう。
「泣いてる私に向かって、彼は言ってくれたんだ」
言葉は返さない。ただ“ちゃんと聴いてるよ“とわかるように瞳月さんを見つめながら、続きを待つ。
「“僕だって置いていきたくない、失った悲しさを背負わせたくない。できることなら生きるところまで一緒に生きて、一緒に死にたい“って」
言い切った瞬間に騒がしい風が吹く。
瞳月さんは顔にかかった髪を払わずにそのまま顔を伏せた。
一緒に生きて、一緒に死にたい、か。それを自分よりはるかに残り時間の短い人間に告げられてしまったら僕はどうなってしまうだろう。
きっと一緒に死ぬどころか、相手より先に死ぬことを選んでしまう。
だから今は俯いているけど、それでも瞳月さんは——。
「そんな言葉を遺されても、生き続けるなんて強いね」
慰めにも励ましにもならない、一歩間違えれば失礼で、傷を抉ってしまう。
でも顔を上げてほしかった。瞳月さんのことはやっぱりまだよくわからないけど、俯いている姿が似合わないことは笑顔を見てきたこの時間で知ってしまったから。
「そうならいいね、強かったらいいのに。私は案外、生きているというか死にきれないだけなのかもしれないよ」
「少なくとも僕には、そう見えるから」
「そっか、それなら少しだけ生きてる今の私に自信が持てるね」
あんなに明るくて笑うのに、不思議な人だ。
生きているというか死にきれないだけ、なんて僕の中にあるここまでで作られた瞳月さん像とは結びつかないセリフだ。
でも影がある方が人間らしい、深くは触れずに今度はただ頷いた。
そして僕にはもう一つ気になっていることがある。
「それで、今はどこに向かってるの?」
不自然なほどに景色が変わらない山道。
看板も出ていないし、ただ最低限整備された砂利道を歩き続けている。
「お墓だよ、私の恋人が本来いるべき場所」
返ってきた答えは不自然で、違和感が詰め込まれたものだった。
本来いるべき場所、それなら今、その恋人はどこに——。
「その人、きっとまだちゃんとそのお墓に辿り着けてないと思うんだよね」
柔らかく笑う瞳月さんに聞きたいことが渋滞している。
山道が切り開かれている、教えられた通りそこは墓地だ。
迷路のような細い道を瞳月さんは一瞬の迷う素振りもなく進んで、そして立ち止まった。
ここだよ、と告げられた墓跡には——。
—— 東雲家
いや、さすがに。でもこんな笑えない冗談を瞳月さんが言うはずがない。
そうだよ、僕と苗字が被っただけ。
東雲、なんて名字に僕はまだ出会ったことがないけれど、それだってただの偶然だ。
苗字が同じ、同年代の、同性の、同じ病気を患った。僕と瞳月さんが出会ったように偶然が重なっただけ、それがただ行き過ぎただけ。
生きていれば信じられない偶然の一つや二つ、あるだろう。
父から言われた。
——『知らないからそんな身勝手なことを言えるんだよ』
亡くなった作者の奥さんの言葉。
——『死んだ後って、愛していた人の記憶を失っちゃうんだって』
瞳月さんが打ち明けてくれた。
——『去年の夏にね、大切な人を失ったんだ』
そして去年の夏、僕は容態が急変して意識を失って——目が覚めたのは冬の初め頃。
嫌な辻褄の合い方をしている、そんなはずがないのに。
だって僕は今もこうして言葉を交わして、歩いているのに。
ねぇ瞳月さん、教えてよ。僕は、ちゃんと生きて——。
「だって今もこうして、私の隣にいるんだもん」
彼女の言葉で全ての希望が打ち消された。
どうやら僕は——。
——去年の夏、死んでしまったらしい。
いや、さすがに冗談だろ。
今もこうして、私の隣にいるんだもん。なんて、そういった瞳月さんの視線はまっすぐ僕に向いているけど、でも、その言葉が僕に向けられたものだとは受け入れられない。
瞳月さん、そんなに切ない表情なんてしなくていいよ。わざと震えた声で嘘をつかなくていい。こうして普通に話している僕が、死んでいるなんてことないんだから。また「ドッキリでした〜! 同じ苗字のお墓の前で真剣に言われたら信じるかなって思ったんだよね〜」ってからかってよ。不謹慎だけど怒らないから、笑えない冗談だよって言いながら笑うから——だから早く、本当のことを教えて。
冗談だよ、って明かしてよ。
「嘘でしょ、ドッキリとかそういうやつでしょ……?」
「ドッキリ、ね。そう言えたらいいんだけどね」
そう言われてしまったら、僕はもうなにも言い返せない。
瞳月さんの表情から切なさが消えた。声も震えていない。
「灰くんは、去年の夏に亡くなったんだよ」
気味が悪いほど落ち着いた様子の瞳月さんから、僕は僕自身が死んでいる事実をただまっすぐ打ち明けられた。
ここで僕が「そんなの嘘でしょ」と言い返せないのは、僕の中に去年の夏から数ヶ月の記憶がないから。意識を失ってからの記憶がない。もちろんまだ信じられてはいないけど、嘘だとつき返せるほど強気にもなれない。
僕たちが登ってきた山道の横にある石段から墓参客が通りかかった。そして立ち止まり、律儀に僕たちへ会釈をする。なんだ僕のこと見えてるじゃん———。
——「一人でお墓参りなんてお嬢ちゃん偉いね、熱中症にはお気をつけて」
瞳月さんは愛想のいい会釈を返す、その隣で僕はただ現実に刺されている。一人、か——。瞳月さんから申し訳なさそうな視線が向けられているのを感じる。やめて、その視線がより僕を殺してしまうから——いや、もう死んでるらしいけど、でもそういうことじゃなくて。
蝉の声なんて聞こえなくなってしまうくらい、頭の中がうるさい。
「どうして僕に、言わなかったの?」
「言えなかった、から」
瞳月さんが慎重に言葉を選んでいる、それだけで本当のことなんだろうなと受け入れてしまう。
その様子を見て「大丈夫だよ」と僕が慰めてしまった。それほど瞳月さんが俯く姿に心が痛くなったから。なにも大丈夫じゃないよ、と返されてしまった。それはそうなんだけど、でも気休め程度にも受け取ってほしかった。なにも大丈夫じゃないことくらい、僕が一番よくわかっているから。
動かない二人を置いて、時間だけが進んでいく。年季の入ったスピーカーから割れた音で午後二時の時報が鳴った。
待っていても瞳月さんから口を開く様子はない、それなら僕がこの状況を壊すしかない。どうやら死んでいるらしい僕の話を、聞き出すしかない。
「それじゃあ、言えなかった去年の夏のこと、教えて、って言ったら教えてくれる?」
「いいよ、私に話せることならね」
「瞳月さんは、僕が死ぬ前のどこまでを知ってるの?」
「全部、だよ。元気だった時から容態が急変して、青白くなって、冷たくなるまで。全部」
妙に強気で言い放たれた。
そして「知らないことなんてない」と呟くように添えられた。
ああ、もしかしてこの人は——そういうことなのかもしれない。いや、もうほぼ確定だけど、一度確認しておこう。
「全部知ってるって、それはどうして——」
「さっきも言ったでしょ? 私は恋人だったから、灰くんのこと世界の誰より愛してたから」
なんとなく察していたけれど、やっぱりそうか。
ここに着くまでに辿っていた山道で話された大恋愛の相手は、どうやら僕だったらしい。
真剣だったけれど他人事に聴いていたから、僕自身の話だと知って思い返すと“世界の誰より愛してた“なんて正直ちょっと荷が重い。まだなにかを信じたわけではないけれど、瞳月さんの言っていることに嘘がないことはわかっている。
それに、あの一説とも重なる。
——『人は死後、最も愛した人の記憶だけが綺麗に抜き取られる』
実際僕は瞳月さんのことを名前はおろか顔すら覚えていなかったし、あの実体験をもとに描かれた物語に忠実すぎる死後だ。愛していたのだろうな、と頭で理解はできる。
それなら僕はやっぱり——。
「全部教えてほしい、僕が死んだ夏のこと」
俯いて足元へ向いていた瞳月さんの瞳が再びまっすぐ僕へ向く。
感情はない、もう逃げられないよ、とでも言いたげな瞳。だから僕も、逃げないよ、目を背けることなんてしないよ、と誓うように見つめ返す。
太陽に照り付けられて確かに暑いはずなのに身体の内側は異様に冷たい、死んでいるからではない、これは単純に怖いから。
残り短い人生、と覚悟していたものがすでに終わっていたなんて——。
「私は、あったままのことを話すよ。信じられなくてもいいから、嘘だっては思わないでほしいの。それだけ、最初に約束してくれる……?」
怯える気持ちを必死に鎮めて全てを明かす、瞳月さんからそんな覚悟を感じた。
相変わらずその瞳から感情は感じ取れないけれど、こんな状況で心の底から落ち着いていられるわけがない。少し前まで普通に接していた相手に、恋人に「実はもう死んでるの」なんて——きっと怖いし、心細いはず。
大丈夫だよ、と言うのは今なのかもしれない。恋人だったのなら尚更、安心させて、手の一つでも握ってあげるべきなのだろう。
でも違う。あれだけ最初から異常な距離感の瞳月さんは思い返せば一度も僕へ触れていない。きっと触れてしまったらなにかが崩れてしまう、それに今の僕には瞳月さんに触れられるのかすらわからない。
「約束させてほしい、僕はちゃんと僕自身のことを受け入れる」
よかった。やっと、笑ってくれた。ふふふ、と穏やか僕の答えを受け取ってくれた。
日差しはここへ着いた数分前より強くなっていて、僕たちを焼き焦がすように照らしている。先ほど通りかかった墓参客が反対側の石段から帰っていくのが見えた。見えている範囲で僕たちは二人きりになる。恋人へ死を教える者と、自らの死を明かされる者、まっすぐに交わる互いの視線に緊張感が高まっていく。
ないはずの鼓動がなっている。
「ちょうど去年の七月にね、灰くんの再入院の話が出たの。病状が悪化して、学校はおろか日常生活すら危うくなっちゃったから」
「その部分は少しだけ、僕も記憶にあるよ」
覚えてる、あの夏の苦しさは異常だったから。
薬を変えても、主治医が家まで来て診察やその場での処置をしてくれても病状は悪化していく毎日で目が覚めるたびに身体のどこかに違和感があった。立つことなんてできなくて、かと言って横になるのも座るのも辛い。
そんな状態が続く中で僕は初めて“もうすぐ死ぬんだな“と強く予感を抱いた時期だったから、特に記憶に濃い。
「それなら覚えてるかもしれないけど、灰くんは、再入院を嫌がったんだよね。灰くんのお父さんや病院の先生がどれだけ説得しても受け入れなかった」
言われてみればそうだった。その時、今まで拒んだことのなかった入院を僕は初めて断った。そしてそんな僕は生まれて初めて父から怒鳴られて、長年診続けてくれていた主治医に呆れたような表情をされた。
母のこともあって、親戚など周りの大人たちは自ら死ににいくような選択を望んだ僕を“親不孝だ“と非難した。
じゃあ瞳月さんは——当時、恋人だった瞳月さんは、そんな僕になにを思ってどう接していたのだろう。
「瞳月さんは?」
「え?」
「瞳月さんはそんな僕を見て、なにを思ったの? 入院してほしいとか、身体が危ない状態で隣にいられるのが怖い、とか」
「なんで、って正直に思った。だって入院しないなんて一つの治療を放棄するようなものでしょ? 私が灰の立場だったら、きっと少し我慢したとしても入院することを選ぶから——でもね、灰が入院を嫌がった理由を知ってからは、なんとも言えない気持ちになった」
「なんとも言えない気持ち?」
一瞬の間があった。それほど言いづらいことなのか、僕は無意識に瞳月さんと合ってしまった目を反射的に逸らして続きを待つ。
「どうせ死ぬなら病院なんかにいるより瞳月と一緒に過ごしたい、って。そう言われてから、私なにも言えなくなっちゃったんだよね」
あの時ちゃんと入院を勧めていればよかったのかな、なんて悔やむように呟く瞳月さんに、僕は頼りなく「勧められてたとしても結果は変わらなかったよ」と思いつく限りで一番励ましになりそうな言葉をかけた。こんな言葉で後悔を拭えるなんて思っていないけれど、ただ少しでも軽くなれば、と希望を込めて。
それが届いたのか、瞳月さんの俯いていた顔が少しずつ上がって、僕たちはまた目を合わせることができた。
続きを話すね、とその唇が動き出す。
「結局入院はしないまま自宅療養が始まって二週目に差し掛かった七月の終わり頃にね、灰くんのお父さんから私に連絡があったんだ」
「お父さん、から?」
「そう、初めてだった。灰くんの連絡先からの電話に出たら、お父さんの声がしてね。何度か話したことがあったからすぐにわかったけど、正直困惑した」
「その電話で、なにを伝えられたの……?」
「異様に落ち着いた声だったの「灰が緊急搬送された」って。灰くんの入院期間に何度かお見舞いに行ったことがあったから病院の場所はわかってて——生田さんが辛くなければ来てくれないかって、そう言われた」
僕の意識が遠のいた先でそんなことが起こっていたなんて、当たり前だけど知らなかった。
瞳月さんと付き合って二年が経った頃、僕の持病のこともあって父には僕たちが付き合っていることを伝えていたらしい。外出中や学校で僕の身体になにかあった時、瞳月さんが理由もわからずに困惑しないように。家で僕になにかが起きてしまった時、すぐに教えられるように。それ自体はいい判断だったけれど、本当なら、そんな必要なかったね、と二人で笑い合いたかった。そう思うとやっぱり寂しい。
「それじゃあ、瞳月さんは僕の病室に、最期、来てくれたの?」
「それは、叶わなかった——私が次に灰くんに会えたのは、このお墓だったんだ」
瞳月さんの左手が強く握りしめられる、開かれて見えた手のひらには爪が刺さった痕が薄く残っていた。
話によると、父から連絡を受けた瞳月さんはすぐに僕の病院へ駆けつけてくれたらしい。着いた頃、すでに僕は手術は終えていて目を覚ますかどうか、その狭間にいる状態だったと。
ただ父と一緒に病室へ入ろうとした時、看護師から保護者以外の面会が許可されず、すぐ近くの廊下にある椅子に座って待っていたのだそう。
たった一人で、恋人が目を覚ます瞬間を途方もなく待ち続けるなんて、どれだけ心細かっただろう。
そしてその四時間後、瞳月さんは父から僕が死んだことを告げられたらしい。
恋人の最期が迫っていることを知っていながら、顔すら見れずに終わってしまうということはきっと、それこそ未練の残ってしまうものだろう。僕がもし、幼いという理由で母の最期を隣で看取れなかったら——想像しただけで、痛いほど瞳月さんの気持ちがわかった気がした。
「私、ずっと待ってたの。日付が変わる少し前、ずっとずっと灰くんとのメッセージのやりとり、最初から見返してた——私が送ったこと全部に丁寧に返信してくれてるのにさ、最後のメッセージだけは既読すらつかないの……なんでって、ずっと言ってた。目の前の扉さえ開ければ灰くんはいるのに、触れれないどころか、姿すら見れない、勝手に中に入っちゃおうかなって思ったけど、やっぱりそんなことできなくて。なんかもう本当に、涙すら出なくてさ——」
彼女の口から止まらなく言葉が溢れてくる。
「時々ね、灰くんのお父さんが私に気を遣って声をかけてくれたの。喉を通らないかもしれないけど気を紛らわすためにも、って飲むタイプのゼリーを買って渡してくれたり、灰の数値が少しだけ正常に近づいてきたよ、って少しでもいい変化があったら教えてくれたりした——。優しくて、その優しさが灰くんの優しさに似ててさ……。ああ、早く、早く灰くんに会いたいって、頭の中がそればっかりだった」
瞳月さんが抱えていた記憶が溢れていく。
「灰くんね、搬ばれる前に私にボイスメッセージを残してくれてたんだよ? 覚えてないだろうけど——その日はね、本当なら会って海に行く予定だったの。あの海岸、昨日、私たちが会った海岸。あの海岸、私たちのデートスポットでさ。でも朝に体調が良くないって連絡が来て、延期になった。そしたらお昼頃に“また会おうね“って、その一言だけのボイスメッセージが灰くんから届いて。だから、私は夕方お家にお見舞いに行こうって思って準備してたんだ、そしたらちょうど電話がかかってきて、でも電話の声は——、言わなくても、わかってくれるよね……?」
僕の知らない、二人の間の最後が言葉になって僕に伝う。
瞳月さんからの「わかってくれるよね」は、言い表せないほど弱々しくて、寂しそうで、悲しみを蘇らせてしまっているようで、なんとも胸が痛んだ。
そうだよね、こんなこと言えるわけがないよね。
「ごめん、感情的になっちゃった。きっとわかりづらかった——」
「そんなことない、そんなことないから、だからただ、教えてくれてありがとう」
話し終えた瞳月さんは僕に背を向けていて、表情こそ見えないけれど震えた肩から泣いていることくらいわかるし、聞こえてくる途切れながら上がっていく息から苦しさを抑え込んでくれていることもわかる。
どんなに器用で丁寧な説明よりも、瞳月さんの言葉は僕から抜き取られた記憶を教えてくれた。。
瞳月さんが僕の墓石に触れる、本当なら抱きしめられる相手のはずなのに、情けない。でもそれ以上に情けないのは——。
「でも、僕、ここまでちゃんと教えてもらったのにやっぱり実感がないよ」
瞳月さんが嘘をついていないなんてことはわかっているし、疑っていない。約束した通りだ。
ただ、恋人だったことも、好きだったことも、死んだことも、僕にはどこか知らない人の人生の一部を物語として聞いているようにしか思えなかった。
それほど、現実味のない話だった。
そもそも、あの物語に書かれていた死後の記憶については本当にあり得ることなのか? 疑ってない、これは本当に、ただ僕が信じられていないだけだ。
「こんなこと言いたくないけど、瞳月さんのこと、本当に少しも覚えていないんだ」
ごめんね、ばかりが心に積もっていく。それでも口に出すことができなかった。
振り向いた瞳月さんの顔を見た時、その言葉だけは言えない、と留まった。
僕がいくら謝ったところで記憶は戻ってこないし、瞳月さんは僕の「ごめんね」を優しさで許すしかないのだから。
なにか言葉を続けないと沈黙によって心が抉られていく。瞳月さんの赤く腫れた目が僕に向く、やっぱりそうだよね、なんて笑って言ってくれているけど表情も声も全てが苦しい。
「疑ってるわけじゃないんだ、ただ本当に現実味がなくて。僕の話だって思えなくて……」
——灰はそんなところまで、お母さんとそっくりなんだな。
背後から聞き馴染みのある声がした。
静かに穏やかな低い声。朝、目すら合わせずに僕を送り出した声。
でも、そんなはずがない。僕の居場所だって、朝言わずにいたはずなのに——。
「お父さん、どうして——」
振り返った先に父が立っていた、瞳月さんが僕に教えた“あの小説“だけを持って。
「生田さんも、暑い中ありがとう。そして連絡までくれて助かったよ」
僕を一瞬見た後、言葉を返さないまま瞳月さんへ軽く頭を下げ父はそんなことを言った。
そしてゆっくりと近寄って、墓石の前へしゃがむ。慣れた手つきでマッチの火を線香へ灯す。花を供えて、見渡した後に目を瞑り手を合わせる。
僕にも瞳月さんにも構わず、ただ一人で父は母に向き合っている。
「なにから気になる、順番に話をしていこう」
目を開け、立ち上がった父は僕へ淡々と尋ねた。
どうしてそんなに冷静でいられるのか、一度愛した人を失った人間はそんな余裕すら持ててしまうのか、そんなところから気になってしまう。
僕が去年の夏に死んだなら、今まで一緒に暮らしていた時間なにを思って過ごしていた? お母さんとそっくりでどういう意味? どうしてここに僕と瞳月さんがいるってわかった?
頭に浮かんでいく疑問符をまとめきれないまま立ち尽くしていると、父が瞳月さんと意味ありげに目を合わせているのが見えた。
首を傾げてみる、きっとなにか、話し出してくれると期待してしまったから。
「この物語を書いたのは、お父さんなんだよ」
理解が追いつかない、突然すぎる告白だった。
それなら結婚式場で聞いた夫婦の話は、僕の両親の実話、そういうことになるのか。
「生田さん、ここへ来る前に式場には行ってくれたのかな?」
「はい。そこで、描かれていた再会の話もしてきたところです」
頷きながら柔らかく感謝を伝えた後、父は僕を見つめた。真意はわからない。
母が亡くなってから法事や遺品整理で忙しかったこと、まだ僕が幼く世話が大変だったことから父が会社を辞め、家で仕事をするようになったことは知っている。過去に何度かどんな仕事をしているのかと聞いたことはあって、その度に「文章を書く仕事だよ」と返されてはいたけれど小説家だとは思わなかった。
「その本、本当にお父さんとお母さんのことなの? だって僕、お母さんが亡くなってから一度もお母さんのこと見てないよ。家に一人取り残されたことだってなかったし、結婚式場に二人で行ってた記憶なんてないよ?」
「お母さんが一度戻ってきてくれたのは、亡くなってから一年が経った頃——つまり、灰の病気が見つかった頃なんだ。最初の入院期間、お父さんが家に一人だった時、お母さんは戻ってきてくれたんだよ」
それを聞けば、確かに物語に書かれていたことと辻褄が合う。
「お母さんは、お父さんのことと灰のことを忘れた状態だった。まぁちょっとは覚えていたかな、子供がいた気がする、とか、旦那と一緒に行きたいレストランがあったの、とかね。でも本当にそのくらいで、名前も顔も覚えていなかった」
本当に、今の僕と同じだ。
父の話によると、朝いつも通り目を覚ますと突然隣に母が眠っていたらしい。そして僕は、死んで三ヶ月ほど経った日の昼頃、部屋から本当に微かな物音がして駆けつけてみるとベッドにいた、とのこと。ちょっと雑な気もするけれど、父が言うには本当にそうだったらしい。
「お母さんと同じように、平然とした顔で目覚めたんだよ。さすがに困惑したけど、お母さんとのことをすぐに思い出してさ——灰の遺影を隠して、いつも通りに接しようと思ったんだ」
今の僕はただ頷いて、説明される事実を呑み込むことしかできない。
すぐ横にいる瞳月さんは、なんとも複雑そうな顔をしている。親子の会話を隣で聞くなんてただでさえ居心地が悪いだろうに、その片方が死んでいるなんて、どんな気持ちにさせてしまっているだろう。申し訳ない。
「どうして、言ってくれなかったの」
「言えなかったんだよ、お父さんにはね」
こっちもそう答えるか、と。
父は学者でも死後の研究者でもない小説家だけど、どんな数値よりも根拠のある母との実体験を持っている。だからその一例に従って、家族だから灰の実体が視えたのかもしれない。父はそう語った。
確かに、さっきの通りすがりの墓参者には瞳月さんしか見えていなかったし、父と母は家族だったから視えた、そう言われれば説明がつく。
でも、それならどうして——。
「どうして、瞳月さんには、僕が視えてるの?」
恋人だったとしても、家族ほどの関係ではないだろう。
最愛の相手だったとしても、それこそそんな物語のようなこと、本当にあるのか。
「どうしてだと思う? 私は霊感なんて持ってないし、普通の女子高生だけど、それでも灰くんのことがはっきり視えてるよ」
目の腫れが、少しだけ引いている。
少しだけ無理矢理な明るい口調で瞳月さんは僕へ問う。
どうして、わからないよ。自分が死んでいたことすらわからない人間に、そんな難しいことがわかるわけない。
——「私も灰くんと同じように、死にきれなかったからだよ」
その答えで僕は、理由を尋ねる前より遥かに瞳月さんのことがわからなくなった。
死にきれなかった、確かにそう言われた。
その言葉が聞き間違いなんかじゃないことは、瞳月さんの瞳と口調の迷いのなさがなによりの証明していた。
なにも言えないまま瞳月さんからの言葉を待つように立ち尽くしてしまう、再び僕自身に情けなさを感じた。
そして「話すね」と瞳月さんの淡白な声が響いた。
「去年の夏、灰くんは亡くなった。それからの私はね——」
「待って、ちょっと、一回止まって」
話し始めた瞳月さんの口調はあまりに淡々としていた。
僕にはそれが、一年前から抱え続けている辛さや悲しさを押し潰しているように聞こえて、不意に話を止めてしまった。
きっとこの話は誰かに聴かれるだけで心が壊れてしまうような、繊細な話だと思う。瞳月さんの言葉でしか語ってはいけないし、当事者である僕しか聴くのも許されていないような気がした。
間違っても、場の雰囲気で明かしていいことじゃない。だから——。
「申し訳ないけど、お父さん。ちょっと、瞳月さんと二人で話がしたい」
僕の言葉を受けた父は、深く一度だけ頷いてその場を去ってくれた。
瞳月さんへ軽く会釈をして、僕へはきっと、あえて目を合わせなかった。
登ってきた石段を降りていく姿を見送って、僕たちはまた二人きりになる。
「遮っちゃってごめん、続きを聴かせてほしい。でも、辛くなったら、話すのを止めていい。そこから深く問い詰めたりは、絶対にしないから」
今から聴く話はきっと、僕が死んだ夏から目覚める冬、そしてもう一度出会う昨日までの話。父のように物語に起こすのなら、純粋な瞳月さん視点の場面。
ここからは僕の知らない、瞳月さんの話だ。
「お父さんのことごめんね、でもありがとう」
「気を遣わなくていいんだだよ、僕自身も二人の方が集中して聴けるから」
僕はできる限り笑いながらそう言った。実際に心から笑っていられる状況ではないけれど、気を遣わないでほしいのは本当だから。
そんな僕の想いが伝わったかのように、瞳月さんに張り付いている不自然な緊張感が和らいでいくのがわかる。
瞳月さんは“話すね“と訴えかけるように僕へ頷き、僕はその合図を受け取った。正直怖いけれど、ここで僕が怯えるわけにはいかない。
「灰くんが亡くなって、本当なら私、お葬式に参列する予定だったんだ。でも、直前になって行けなくなっちゃったの。灰くんがもういないって認めたくなくて、実感しちゃうことがどうしても嫌で、着替えてる時に手が止まって、玄関に降りる途中の階段で崩れ落ちちゃって、行けなかった」
なにかを言おうとする唇が震えている、僕はただ急かさないように言葉を待つ。
「だからごめんね、あの日ちゃんとお別れに行けなかった——」
「いいんだよ、瞳月さんが謝ることじゃない」
扉越しに死に別れた恋人の葬儀なんて、聴くだけでも胸が痛い。想像するだけで鋭い頭痛がする。
幼かった僕でさえ、母の葬儀の後は喪失感に襲われた。見慣れた笑顔が遺影となって動かなくなっている光景も、生前はこんな人だったと懐かしんでいる親戚たちの会話が聞こえてしまうことも、瞳月さんが言うようにそれらは全て死を実感してしまう空間だったから。
だから瞳月さんは納得してくれないかもしれないけれど、僕の葬儀へは、きっと来なくて正解だったと思う。
「そう言ってくれるってわかってた、でも受け取ってほしいの。私はずっと、あの日ちゃんとお別れできなかった私自身を恨み続けてるから」
そんなことを言われてしまったら、頷くことしかできない。
そっか、わかったよ。としか返せないなんて、気が利かないにも程がある。
「灰くんが亡くなって二週間くらいが経った頃、夏休みが終わったんだ。だから学校に行かないと思って久しぶりに家の外に出たんだけどさ、外が暑いだけで灰くんが亡くなった日のことを思い出しちゃって——息すら吸えなくて、苦しくなって、そんな日が続くようになった」
こんなこと言われても困るよね、と申し訳なさそうに語る姿すら、痛々しかった。
僕が死んだ日は文字通り雲ひとつない青空で、肌が痛くなるほどの暑さだったらしい。その日に似た気温、天気、僕を連想するような単語や場所を思い出すだけで、立っていることすらできなくなってしまうんだと打ち明けられた。
どんな言葉をかけることも間違いで、頷くだけで済むような内容でもなくて、僕はただ瞳月さんからの言葉を噛み砕きながら沈黙に耐えることしかできなかった。
「私と灰くんね、学校で隣の席だったんだよ。教室の一番後ろの、窓際で二つ並んだ席。これぞ青春! みたいな席で、これぞ青春! みたいなやりとりいっぱいしたの。だから教室に入っちゃったら、楽しい記憶に襲われて、壊れちゃいそうだったから——九月の終わり頃までずっと、外には出れなかった」
瞳月さんの声が、だんだんか細く、小さくなっていく。
ゆっくりで大丈夫だよ、と気休め程度にしかなれない僕の言葉を瞳月さんは微笑みながら受け取ってくれた。
そして苦しそうに、深く息を吸う。
「ごめん! やっぱり思い出しちゃうと雰囲気重くなっちゃうね」
そう無理矢理笑ってくれた。
僕が死んだ後の苦しい日々のことなんて忘れてしまいたかっただろうに、知らぬ間に瞳月さんの全てを忘れてしまった僕のために記憶を掘り返してくれている。ごめん、を言うのは僕の方だ。
「ここからの話、今まで以上に灰くんは反応に困ると思う。それでも大丈夫なら話させてほしいんだけど——」
「僕のことなんて気遣わなくていいよ、それが瞳月さんの優しさだなんてことはわかってる。だから今だけは優しくならなくていい、あったままを教えてほしい。僕は、瞳月さんが抱えていてくれていた全部を受け取りたい」
その言葉に安心したように、瞳月さんの表情は穏やかになっていく。
そして「伝わりづらいかもしれないけど、最後まで聞いてほしい」と可愛らしく笑ってみせた。それでいい、なにも隠さずに、抑え込まずに、僕に全てを教えてほしい。
「九月の最終日、さすがにこのままじゃよくないなって思って、私、ベランダに出たんだ」
「ベランダ——」
「外の空気を吸おうと思ったの、それに高いところからの景色を見れば少しでも灰くんがいる空に近づけるって思ってね」
綺麗だったよ、気温も少しは涼しくなっててさ。と付け加える。
「本当に、ベランダに行った理由はそれだけ?」
なんとなく察している、瞳月さんがベランダに行った理由。愛する人を亡くして苦しんでいる人間が、外の空気を吸おうなんてそんな呑気な理由だけでベランダになんていくわけがない。
「灰くん鋭いね——本当の理由は、もう一つある」
相槌も返事もしない、僕はただ瞳月さんを見つめる。
「死のうと思ったの。私、六階建てのマンションの最上階に住んでてさ、ちょうどいいなって」
瞳月さんの手に力が入る。へへへ、と笑った後に「六階からなんて痛いだけだよね」とわざとらしく誤魔化した。
無理に笑う必要なんてないのに——でも、その貼り付けた笑顔で瞳月さん自身を守っているのかもしれないと思うと“無理に笑わなくていい“なんて無責任なことは言えなかった。
「不意に思い立ったんだ。もういいや、って糸が切れたみたいな——気づいたら吸い寄せられるようにベランダに出てて、半分意識なんてないような状態で、ぼーっとしてたら、そっか飛び降りちゃえばいいんだって思って——」
瞳月さんの話と“死にきれなかった“の言葉が交互に頭にちらつく。
ふざけているわけじゃない、真剣に、もしかしたら瞳月さんもすでに亡くなっているのではないか、なんてことが頭をよぎった。
でも父からも通りすがりの人からも姿が見えていたしそれは違うか、と僕の安直すぎる予想は崩れる。
それなら、あの言葉の真意はなんだ——。
「そのまま手すりに足をかけて、身体の一部が柵の外に出た時に動けなくなったの。怖さもなくて、未練なんてそれこそなかったのに、それ以上、身を乗り出せなかった」
知らないはずの光景が映像のように僕の頭に浮かぶ、どんな表情をしていたのかまで想像できてしまうくらい鮮明に。
忙しく映像が頭を駆け巡る。
「私が灰くんのいない世界で生きていくことが嫌なことも、生きていけないって思ったことも本当。初めて好きになった人で、大切な恋人だった、一緒に過ごした時間の全部が幸せで、灰くんとのことが私の全部って言ってもいいくらい。その考えは飛び降りる直前まで変わらず私の中にあったの」
「それならどうして、踏みとどまってくれたの——」
「きっとそう言うと思ったから」
「え——」
「“踏みとどまってくれた“って、灰くんはきっと私が生きることを望むだろう、もっと言うなら、私が自ら死ぬことなんて望んでないだろうって、あの一瞬で思ったから」
そう言うと瞳月さんは「ね? 当たってたでしょ?」と可愛らしく首を傾げて重くなった空気を晴らしてくれようとしている。
間違いない、生きていてくれてよかった。直前に僕の想いが頭をよぎってくれてよかった。
瞳月さんの頭に浮かんだそれはもう、恋人の勘なのかもしれない。
「誰よりも生きることに必死だった灰くんに、私が自分から死に向かっていく姿を見せたら悲しませちゃうと思ったの。涙も流せない身体で悲しむなんて辛いでしょ? 私は大好きな恋人に、そんな思いをさせたくなかったから」
「瞳月さん——」
記憶もない、いくら話されたって思い出す予感すらない。
それでもわかる、僕は確かに瞳月さんに愛されていて、二人で過ごした大切な時間があって、二人だけの想い出があって、一緒に生きたいと願っていた。
死にきれなかった、の意味もわかった。
単に踏みとどまっただけじゃなくて、恋人である僕を想うと辛さすら殺しきれなかった、生きるなんて重すぎる使命を捨てきれなかった、これはきっとそういう意味での言葉だ。
「それに私、すっごく一途なの! 灰くんしか好きじゃないし、好きになれない。キスもハグも灰くんとしたくなかったから」
吹っ切れたようにそんなことを言って見せる。
突然の告白すぎて正直理解が追いつかない。
「それは今までの話とはあんまり関係ないんじゃない?」
「飛び降りた先のアスファルトに唇が触れちゃったら灰くん以外とキスしたことになっちゃうでしょ? そんなの死ぬ直前に罪悪感ばっかりになってそれこそ死にきれないよ」
冗談まじりにも笑いながら、瞳月さんは今にも溢れそうな滴を目尻で堪えている。
実感はいまだにないけれど、僕の生前の恋人がこんなにも素敵な人でよかった。
まっすぐ僕のことを想ってくれていて、病気であることを知りながら恋人でい続けることを選んでくれて、こんなにも暖かくて、恋人のために涙を流せて、二人のために笑えて、それに可愛くて。
最後の理由はなんだかすごく単純なものになってしまったけれど、それでいいと思った。それが、今の僕の正直な気持ちだから。
「瞳月さん」
器用に相槌を打てなかった代わりにはならないけれど、今の僕の気持ちを伝えようと思う。
「僕の恋人でいてくれて、ありがとう。きっとすごく、生前の僕は幸せだったよ」
瞳月さんの瞳から堪えていた滴が止まることなく溢れている。ずるいよ、と呟きながら、それでも今度は心から笑ってくれている。
ここまで話を聞いて、死んだことを嘘だと言う方が難しい。だからそこは受け入れるとして、ここから僕はどうすればいい。
母のように未練を晴らすべきなのだろうけど、それなら僕の中にある死んだことにすら気づけないほど大きな未練はなんだ。
「瞳月さん、僕の中にある未練って、なんだと思う?」
「それは、きっと、私にわかるようなことじゃないよ」
いや、それはそうなんだけど、でも僕にもわからない。
そもそも記憶にすらなかった相手へ抱いていた未練なんて、わかるわけがない。探す方法も、誰に尋ねればいいかもわからない。母の未練は父との結婚式だった、それならどうやってそれが未練だとたどり着いたのか知りたい。
僕の最愛の人は瞳月さんで間違いないだろうから必然的に未練の対象も瞳月さんになるはずだけど——。
「わからないから、一つ提案があるの」
僕の思考を瞳月さん声が止めた。
その表情には今までとは違う種類の緊張感が張り付いていて、妙な空気を感じた。
今から告白でもされるのかもしれない、そう感じさせてしまうような可愛らしい張り詰め方。
「私たち、一日だけ恋人に戻ろう」
まさか本当に告白されるとは、思わなかった。
「僕が、瞳月さんの……?」
「私は別れた記憶も気もないけど、でも灰くん死んじゃったからさ——だから一日だけ元通りになるの。呼び方も話し方も距離感も、全部去年の夏までに戻る」
「それで、僕の未練を見つけようって、そう言うこと?」
提案を受け入れようとする僕へ、瞳月さんはニヤッとしている。必死に隠しているけれどわかってしまう、一日だけ恋人に戻るもう一つの理由。
「本当に、僕の未練を見つけるだけが目的?」
「自分が死んだことには気づけなかったのに、こういう時の勘はいいんだね」
瞳月さんはそう拗ねた口調の後「高校生活最後の夏くらい青春したいものなの!」と、無邪気に笑いながら開き直った。
たった一日恋人に戻るだけで未練の正体がわかるかは正直わからないし自信もない。でも、僕が死んでからの一年間で苦しさや悲しさを全てを抱えてきてくれた瞳月さんへの返しきれない恩の一つとして、僕はその提案を受け入れたい。
それこそ“高校生活最後の夏の青春“を叶えられたら、どんな結果になったとしても僕たちの一日は無駄になんてならない。
「でも、どうして一日なんて半端な期間なの? 夏休みならまだあるし、一日はちょっと短いような気もするけど——」
「灰くんが意識を失ってから死を迎えるまでの時間、それが一日だったから」
遮るように、そう言いきられた。
その言葉に僕は教えられたことを思い返す。
僕が死んだ日、瞳月さんの話に従うなら僕は朝に体調が悪いと伝えていて、昼頃にボイスメッセージを送っている。緊急搬送の連絡を父がしたのは夕方頃、亡くなったのは次の日の朝方四時頃。
意識を失ってから死を迎えるまでの時間が一日というのは、いろいろとズレがあるような——。
「あのメッセージとボイスメッセージ、灰くんのお父さんが代わりに送ってくれてたんだって。朝方にベッドの上で意識を失ってる灰くんをお父さんが見つけた時、急に緊急搬送されたなんてびっくりするでしょ? だから最初は“体調不良“って私に優しい嘘をついてくれた。灰くんが目を覚ますことに希望を託してた証拠だよ」
そんな話、当たり前だけど僕は知らない。
「ボイスメッセージもね、灰くんが録っていてくれた未送信のものをお父さんが気づいて送ってくれたの。だから本当はあの日、朝から灰くんの意識はなくて、そのまますぐに病院に搬ばれた——でもお父さんは灰くんが目を覚ますことを信じてたから、私に嘘をついてくれて、一人で灰くんを待っていてくれたの」
「それなら、どうして最後、瞳月さんに僕のことを教えたの——」
「もうきっと目を覚ますことはない、って言われちゃったんだって。本当に最期だって、お医者さんから言われて、そこで初めて私に連絡をくれた」
そんな新事実の後、瞳月さんは「お父さんの気持ちもあるだろうから言うつもりはなかったんだけどね」と寂しそうに付け加えた。
当時の僕は確かに一日ベッドに寝たきりだったから時間の感覚も鈍っていたのだろう、視界にも常にモヤがかかっていて、朝方に搬ばれても夕方に搬ばれても気づけない。
「それにもう一つ。私たちには果たせなかった一日に未練があるから」
「果たせなかった一日?」
「灰くんが意識を失った次の日——灰くんが亡くなった日、本当なら二人きりでの旅行を約束してた日なんだよね」
二人きりでの旅行。父との旅行すら、僕の体調を考慮して行ったことがなかったのに恋人と二人きりの旅行なんて、父が簡単に許可するはずがない。それでも約束できていたのはきっと、瞳月さんが僕の身体と病気を理解しようとして、考えて、寄り添ってくれたから——二人の思い出のために、残り時間の短い僕のために頑張ってくれたから——。
そんな大切な約束すら置いて、僕はどうして死んでしまったのだろう。
しかたのないことだったけれど話を聞けば聞くだけ悔しくなる。
「それじゃあつまり——」
「一日だけ、私たちは恋人に戻る。そして果たせなかった夏旅行の約束を果たす! ね! 最高じゃない?」
もしかしたら僕にとっての未練は、その旅行に詰まっているのかもしれない。
瞳月さんの無邪気に上がった口角をみると、変えられない事実を悔やんでいることが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
僕が置き去ってしまった大切な約束を果たす機会が来たんだ、逃すわけにはいかない。
「果たそう、そして僕と瞳月さんにとって忘れられないものにしよう。だからその前に、少しだけ時間をくれないかな」
「いいけど——なにかあった?」
「少しだけ、お父さんと話がしたいんだ。暑いから瞳月さんはそこの日陰にでも入って待っていてほしい」
僕のために嘘をつき続けてくれた、僕が死んだことを教えずに過ごさせてくれたもう一人。過保護で過干渉で、今は真っ直ぐにありがとうなんて言えないからせめて、最後にちゃんと話がしたい。
僕からのわがままを瞳月さんは引き止めることなく頷いて「ちゃんと向き合ってくるんだよ」と微笑みながら送り出してくれた。
石段を駆け降りて、来た道を辿る。時々盛り上がった石につまずいて転びそうになりながらも足を止めずに走った。途中いくつか駐車場や休憩所に繋がる分かれ道があったけれど、なんとなく父はそのどの角も曲がらないような気がして勘を頼りに走り続ける。
見えた。
少し堅苦しい白シャツの、背が高くて、一冊の小説だけを持って歩く父の背中。
——「お父さん」
振り向いて足を止めてくれた、急かすことなく僕を待っている。
転ぶからゆっくりでいいよ、なんて父はここまで来ても優しさをかけてくれる。今までは僕を生かすために優しくしてくれていた父は、死んだ僕にまで優しかった。
書斎で話した時も僕はいい加減な態度をとっていたし、久しぶりに父と真正面から向き合っている。話したいことはたくさんある、でもどこから話せばいいのか考えるだけわからなくなってなにも言えずに固まってしまう。
「お父さんから謝るのが筋なのかな——ごめん、灰」
「え」
「小説のことも、お母さんのことも、生田さんとのことも、そして灰が亡くなったことも。秘密にして、嘘をついて、隠してて悪かった」
生まれて初めて、父に頭を下げられた。
何人かの墓参客が、僕たちの横を通り過ぎた。なんだか嫌なささやきが聞こえる。
——あの人、なにに頭下げてるの?
——なんか一人で喋ってない? しかも謝ってる?
——幽霊でも見えちゃってるのかな……
そうか、この場で僕の姿が視えているのはお父さんだけ。
父を気味悪がりながら、その墓参客は通り過ぎていった。それでも動じずに僕に頭を下げ続けている。
「お父さん、いいよ、頭あげて——落ち着いて話そう、僕は話がしたくてお父さんを追いかけてきたんだから」
そう言った後も父はまだ少し俯いていて、一緒にすぐ近くにあった木製の屋根のついたベンチへ腰掛けた。
親子とは思えない、重い空気が漂っている。
僕はなにを聞きたかったっけ、話したかったっけ、思い出せるように思考を巡らせて言葉を選んで「あのさ」と一言切り出した。
「僕が死んだ日、ありがとう」
呆れてしまう、あまりにも言葉が足りなすぎる。
「僕が死んだ日——朝方から意識がなかった僕の代わりに瞳月さんに連絡してくれて、送りそびれてたボイスメッセージも送ってくれて。本当に最期ってわかった時に瞳月さんに伝えてくれて、全部一人で背負って動いてくれて、辛かっただろうに——怖かっただろうに、ありがとう」
「生田さんから、全部聴いたんだね」
頷く僕へ「よく本当のことを受け止めたね」と父は包み込むように褒めてくれた。
そして「でも全部を知られるとちょっと恥ずかしいよ」と照れくさそうに笑った。こんなふうに笑う人だったけ、と久しぶりに向き合う父の心に内心驚いてしまう。
山道のちょうど中間地点あたりにあるこのベンチを吹き抜けるように風が通り過ぎる。日差しが届かないこの場所は涼しい、人通りも落ち着いて、二人の雰囲気もこころなしか穏やかになってきた。
「それにね、お父さん。一年間、僕を家から出さなかった理由、瞳月さんから話を聞いてわかったんだ。なにも知らないまま過保護だなんて言ってごめん」
僕が生きていると思い込んでいた一年間、休学期間だと言ってくれたことも、買い出しすら許さなかったことも、全部が父の優しい嘘だった。
ああ、そうか。父が死んだ僕にまで優しかったのは今に始まったことじゃない、ただ僕が気づけていなかっただけだ。
死んだ僕の学籍はとっくに失くなっているし、僕が外へ出たところで誰からも気づいてもらえない。それこそ、不本意な形で死んだことを勘付いてしまう。
父は、それを隠してくれたんだ。僕がこの世から消えきるまで、隠し通してくれたんだ。
「偶然、あの日瞳月さんが海岸で僕を見つけてくれたけど、それすらなかったら僕は今どうなっていたんだろうって」
「あれは偶然じゃないよ。灰が家を飛び出したことを、生田さんに連絡したんだ」
「お父さんが、瞳月さんに? どうして——」
「灰が姿を現した日、生田さんに灰がいることを電話で伝えたんだ。もし会いたいと思ってくれていたらいつでも来てほしい、ってね。疑ってはいなかったけど信じてももらえなかった」
それはそうだ、死んだ人間が突然姿を現すなんて普通に生きていたら有り得ない話。
あの小説にだって、きっとその頃の瞳月さんはまだ出会っていない。
「一度電話が切れて、でもすぐに折り返しがかかってきた」
「そこで瞳月さんは、なんて言ってたの?」
「私にはまだ信じられないし、亡くなったことすら受け入れられないけど、いつか会えるのならその時まで灰くんをこの世界に居させてほしいです。って、お願いされちゃったよ」
それが、父が僕へ本当のことを隠し続けた理由だった。理由、なんて形式的なものじゃない。これは瞳月さんとお父さんの中で結ばれた約束だ。
「だから一年間灰に本当のことがバレないようにしていたんだけど、飛び出ていかれちゃったからね——慌てて生田さんに電話したんだよ、その時の生田さんの言葉は本当に頼もしかった……」
「それ、どういう意味?」
「灰くんならあの海岸にいます、間違いないです。って、すぐにその海岸に駆けつけてくれたんだ。だから灰はあの日、生田さんと出会えたんだよ」
父と瞳月さんの言葉が綺麗に重なっていく、僕の中の空白が二人の嘘と記憶によって埋められていく。
僕の知らない物語が描かれていくようで、少しずつ僕自身のこととして言葉を受け取れるようになってきた。
「瞳月さんと僕のために、必死で隠してくれていたのに——ごめん、僕、本当になにも知らなくて」
「この一年は今、灰が言ってくれた理由のままだけど——それまでの生活も思い返してみれば灰には窮屈な思いをさせてしまっていたからね。灰が謝ることじゃないさ」
「それは、確かに、不満に思ったこともあったけど……」
「でもわかってほしい。たった一度でも、愛している人を、大切な人を亡くすとな、過剰に怖くなってしまうんだよ」
父の目線がまっすぐ僕へ向く。
きっと今、父の頭の中で僕と母の姿が重なっている。
空気を読んだように蝉の声が止む、話すなら今だろう、聞けるのは今しかない。悔しいけれど僕の記憶にはあまり濃く残っていない母のこと。父が最も愛し合った相手の話を僕は消えてしまう前に知りたい。
「お父さんはさ、お母さんのどんなところが好きだった?」
「全部、って答えたら困るかな」
「困るね、すごく。でも伝わってくるよ、すごくね」
ははは、と笑う。父の取り繕わない笑顔を見たのはいつぶりだろう。
微笑み、なんて言葉には収まらない。声を出して笑う、子どものように無邪気に目を細める顔を見たのはいつぶりだろう。
「お父さん、実は一回プロポーズを断られてるんだよ」
「え、初めて知ったよ」
「お母さんは幼い頃から持病を抱えていたから、常に命の残り時間を気にしながら動く癖があったんだ——付き合ってる時からずっと。だから一回目は「私はきっと最後にあなたを悲しませてしまう」って泣きながら断られたんだよ」
そう言うと父は懐かしむように、そして“そんなこともあったよね“と問いかけるように空を見つめた。父には母のどんな表情が見えているのだろう、そんな父の視線に答えるように木々の隙間から一本の光が差し込んだ。ただの偶然が、奇跡のように思えた。父は幸せそうな表情をしている、きっともう見えてなんかいないけど、今でも心が通っているのだろうなと二人の愛情深さに感動する。
「でも諦め切れるわけもなくてな、二回目のプロポーズ。お母さんの誕生日だった、お父さん、最悪なプロポーズをしたんだよ」
「最悪なプロポーズ?」
「一生かけて幸せになって、その分最後に誰よりも一緒に悲しもう。って」
なんとなく、その言葉は父らしかった。
不器用さと優しさが詰まっていて、母ならきっと笑って受け取ってしまうような言葉。
それになんというかどこか小説に出てくるセリフみたいな、そういう人生を彩らせる恥ずかしさがあった。
「最高じゃん、そのプロポーズ」
最悪だけどなかなかいいだろう? と父は得意げに笑う。
僕も自然と笑い返す。
僕は今すごく後悔している。父ともっと母の話をしていればよかった、瞳月さんの恋人である自覚があるうちに惚気話の一つでも聞かせていればよかった、もっと父と親子としての時間を大切にしていればよかった。
父の不器用な優しさを汲み取っていればよかった——。
「灰は、生田さんとこれからどうするんだ」
「一日だけ恋人に戻る、そして果たせずに死んじゃった夏旅行に行くんだ。そこで僕の未練を見つけて、瞳月さんの青春を掴まえてくる」
そっかそっか、と柔らかく頷いてくれた。
隠し通していてくれたことも、守ってくれていたことも無駄にはしない。
僕はしっかり最後の時間を生きて、今度こそちゃんと死ななければいけない。
「それはきっと、お母さんも安心してくれるね」
「お母さん——どうして?」
「生田さんと結婚式場に行ってくれたと思うんだけど、そこでお母さんと本当にいろいろな話をしたんだよ。お母さん、お父さんと灰のことはあんまりよく覚えていなくてさ。自分の子供のことを知りたい、って言われて灰の話も結構したんだ」
「僕の話、そっか」
「優しくて気遣いのできる子で、お母さんに似た美人だよ、って。話をしているうちに「私もその子に会いたい」って言い始めてね。ちょうど灰は入院期間中だったからそれを叶えることはできなくて、我が子のことで嘘をつかれたくないだろうと思って避けていた灰の病気についての話をすることになったんだ」
初めは僕の身体について「持病がある」としか明かしていなかったらしい。それでも記憶をなくしてしまったからという理由で我が子のことを隠している状況に父は違和感を覚え、母と同じ病気であることを告げたのだそう。
父の想像通り、母は申し訳なさそうに謝った後、遺伝性の疾患ということもあり母自身の身体を悔やみ、責めたと言う。
「そしてお母さんは、あの子がもし死んじゃったら私と同じように愛していた人のことを忘れちゃうのかな、って心配してた」
忘れていたはずの母の声で、父からの言葉が頭の中で再生される。
最後に母に会ったのは僕が四歳の頃、顔は確かに覚えている、どんな人だったかも父ほどは語れないけれどわかる、その中で唯一記憶に遠かった声が一瞬で頭に蘇った。
「だからお母さんに言ったんだ。あの子は強いからきっと生きてくれるよ、って」
「お母さんは、なんて言ったの?」
「どんなに強くたって病気に負ける時は必ずくる、って。悔しそうな顔で、お母さんはそう言ってた」
残酷だけど、紛れもない事実だった。
自分が負けてしまった病気と同じものを患っている我が子にその言葉を向けた母を思うと胸が痛い。本当のことだから、尚更。
僕は知らされていなかったけれど、その当時時点で僕は高校生まで生きられないと言われていたらしい。そう考えるとよく生きたのかな、なんて思ってしまう。
「でもお父さんは「灰は未練なんて残さないよ」ってお母さんに言ったんだ。きっと毎日を必死に生きて、やり残したことなんて、伝えそびれたことなんて一つもないって言い切れる人生になるって」
「お父さん——」
「でもお母さんは、そんなことないよ、ってその時、初めてお父さんの言葉を否定したんだ。死んでからしか気づけないことがあるって——そんなこと、未練があってその場にいるお母さんに言われちゃったらなにも言い返せなかったよ」
あの結婚式場で二人の再会の話を聞いた時、綺麗な会話ばかりを想像していた。
また出会えてよかった、とか未練を晴らせてよかったとか、愛の言葉を伝えあったり、そういう幸せばかりが溢れていると思った。
でも違った、確かに幸せな瞬間もあっただろうけど、父も母も希望を捨てないように必死だった。
これもきっと、僕に言えなかったことの一つなのだろうと受け取った。
「お母さんは、その後なんて言ったの?」
「もしも未練を残してまたここへ来てしまったら、ちゃんと愛する人と向き合ってあるべき姿に戻れるように支えてあげて。ってお母さんはお父さんに灰の未来を託していったよ。それが、二人の本当の最後」
「え、本当の最後って——」
母の未練は結婚式を挙げれなかったことだけじゃない、これはあの小説にすら記されていない父の記憶の中にしまってあること。
亡くなる前、病室のベッドで寝たきりだった母は僕へなにも伝えられなかったことを悔やんでいたらしい。それは僕が、母にとって最も愛した人だった父との間に生まれた大切な存在だったから。僕もまた、一つの愛の形だったから。
だから最後、最愛の相手である父へ僕と一緒に生きていくことを託して母は姿を消した。
「本当に突然だったよ、目の前からいなくなってさ——呼びかけても声も聞こえない。でもそこにいるのかなって思えて、泣かずに笑ってみせたんだ」
父はそう語った。
よかった、もう一度僕は父と話ができてよかった。
母が記憶をなくしても僕へ抱え続けてくれていた心を知れてよかった。
だから今度は僕が、伝える番だ。
「お父さん」
面と向かって伝えるのなんていつぶりだろう、いや、この意味を込めてなら生まれて初めてかもしれない。
「お母さんのこと、愛していてくれてありがとう。そして僕のこと、ここまで大切に育ててくれて、ありがとう。僕は——」
緊張する、なんだかとても恥ずかしい。
でも伝えたい、だってこれがきっと僕と父の最後だから。
——「お父さんとお母さんの間に生まれてこれて本当に幸せだったよ」
父との生活を全て美談にはできない、きっとそれは都合が良すぎる。正直やりたいことだってまだまだあったし、一緒に行きたい場所も食べたいものもたくさんあった。お母さんのお墓参りにだって、もっと一緒に行けたらよかった。
味の薄い手料理だった父が本当は料理上手だったことも知っているし、小説家だということをもっと早く知れていたら自宅療養中に一冊でも多く父が書いた物語を読めたのに、とも思った。
でも、もうそんなことはどうでもいい。十七年間、母との約束を背負って父は必死に僕を生かしてくれた。そして十八年目は、僕が瞳月さんと出会うまで優しい嘘で二人を守ってくれた。ずっと恨んで、避けて、伝えられなかったし“幸せだった“なんて僕自身の気持ちにすら気づけていなかったけど、今そう思わせてくれたことが、この気持ちに嘘がないことのなによりの証拠だから。
「お父さん、僕の言葉受け取ってくれるかな」
父はまっすぐ僕の方を向いている、ただ微妙に目が合わない。
不思議そうな目をした後、なにかに納得したように頬が緩んだ。
「灰」
呼ばれた、面と向かって名前を呼ばれるのもこれが最後かと思うと寂しくなる。
お父さん、そう返しても反応はない。
「もう、お父さんから灰の姿は視えてないよ、もしかして今なにか喋ってる? ごめん、もう聞こえないみたいなんだ——でも、最後にちゃんと、全部を、伝えてくれてありがとう」
やっぱり——寂しい、もう一回だけ、もう一回だけでいいから、僕と目を合わせてほしい。
僕の声を聞いて、一緒に話がしたい。
お母さんのことを好きになったのはどうして? 結婚して一番嬉しかったことは? 僕が生まれてきた時になにを思ってくれたの? どうして小説家になったの? ペンネームは? その由来は? やっぱりあの物語を書いた時のこと今でも大切に記憶に残ってる?
僕の頭の中にはまだ、知りたいことが溢れてるよ——。
でも、そのひとつすら、僕はもう聴けない。
もう一回なんて何回言っても足りないけど、僕はまだ誰かと本当の意味での別れを迎えたくない。
「お父さんも、お母さんとの間に灰が生まれてきてくれて幸せだったよ」
父の言葉に器用に答える余裕なんてない。
「灰が生まれてきてくれた瞬間が、生きてきて一番嬉しかった瞬間だった」
涙は出ない、死んでるから。
でも目の奥は痛くて、涙が詰まっていくような、そんな感覚になる。
そして死んでいても心は動く、本当に、今はただ——。
——本当の意味で死ぬのが怖い。
「灰、これから生田さんと夏旅行に行くんだろ? 記憶にはないだろうけど、恋人との、大好きな子との特別な旅行だ、たくさん幸せを感じてきてほしい」
そんなのもちろん、たくさん幸せになって、そして瞳月さんに幸せを感じてもらってくるよ。
「もし生田さんが小説を書く、なんてことになったらその旅行のことをモデルに書かれることもあるかもしれないからな——たくさん笑って、二人の時間を過ごしてきてほしい。生田さん、たくさん計画して、お父さんにその都度確認をとってくれてた——あの子はいい子だ、抜けてるようでしっかりしてる。きっと一緒にいたら楽しくて一日なんてあっという間だからな」
僕と瞳月さんの夏旅行はきっと、どこの誰が読んでも幸せだと頬が緩んでしまうくらいの名場面ばっかりになるよ。
たくさん笑って、もしかしたらどちらかが泣いて、つられてもう片方も泣いて、でも最後には幸せだねって、そんな一日にしてくる。
だからそんなに泣かないで、僕を送り出して——。
「灰」
ああ、本当に別れを迎えてしまうんだ。
——「周りをよく見て、歩くんだぞ」
父の表情が晴れる、無理矢理にあげた口角が馴染んでいく。
大丈夫、瞳月さんとの旅行が終わったら、お母さんのところにいって気長にまた家族で笑い合える日を待ってるよ。何十年もかけて、ゆっくり待ってる。
だからこれから先はお父さんはお父さん自身を見て、生きていってね。
お父さん——。
——いってきます。
「灰! 忘れ物はない? って言っても一泊分の着替えだけだからそんなに多くないだろうけど!」
「しっかり全部持ってきたよ、去年の夏前に準備してたセットがそのまま部屋に残ってたからね」
「それならよかった! 楽しみだなぁ、まさか本当に二人で旅行できるなんて夢みたいだよ」
「いつにも増して瞳月さんはテンションが高いね」
「あ! また“瞳月さん“って呼んだ! この旅行中はお互い呼び捨てって決まりなのもう忘れちゃったの?」
そうだった、“呼び方も話し方も距離感も全部去年の夏までに戻る“約束だ。
昨日、僕は瞳月を最寄り駅まで送った後、日付が変わる直前に一度帰宅した。朝方に荷物だけを取りに帰るつもりでいたけれど、どうしても父の様子が気になってしまったから。
物音のする方を覗くと、ちょうど父が仏壇の横の棚からなにかを慎重に取り出しているところが見えた。深い紫の布に覆われた四角形のなにか——父が布を解いて見えたのは、僕の遺影だった。父はそれを一度包むように抱きしめた後、母の遺影の隣にそっと置いて手を合わせた。線香が二本並べられていて、煙が真っ直ぐに伸びている。自分の遺影を見るなんて、なんとも言えない気持ちになったけれど、父が僕の死を受け入れた一つの形なのかもしれないと思った。父から僕の姿は見えないから、触れてしまうほど近くへ行くこともできたけれど僕はその場をすぐに去った。
そこから少し歩いた廊下で、僕自身も父と別れたことを受け入れ始められた。
朝が来て一度この家を出れば、もうここには帰ってこない。父の姿を見るのもこれが最後だ、そんな当たり前に寂しくなりながらしばらく家の中を歩いて思い出に浸った。
そして今朝、二人がもう一度出会った海岸から少し歩いた場所にある無人駅からの始発へ乗り込み、僕と瞳月の夏旅行が始まった。
「夏休み中だからかなぁこの電車、私と灰の二人きりだよ!」
「時間もなかなか早いからね、瞳月ってバス通学だっけ?」
「さぁどっちでしょう! 恋人の勘に従ってお答えくださいっ!」
提案した瞳月本人も久しぶりの“恋人同士の距離感“に緊張しているようで、それを和らげるために必死に会話を膨らませてくれている。その中で瞳月には、なにかを説明するときに指で空中に輪郭を描いたり、手を上下に振ったりと緊張を誤魔化すための可愛らしいくせがいくつかあることを知った。
「瞳月——」
呼びかけた声に返事がない。
荒い線路を走る電車に揺られて一時間と少しが経った頃、僕の隣には瞳月の寝顔があった。返事の代わりに、荒い寝息が一度だけ返ってきたことが可愛らしくて笑ってしまいそうになる。
無邪気に話していた姿とは結びつかないほど静かに目を瞑っている。大人びた顔立ちは眠るとどこか幼く見えて、そのギャップに見惚れてしまった。
「ちょっと、ごめんね——起きないで、そのままでいて」
そう小声で告げた後、僕の呼吸が瞳月の顔にかからない性質を利用して、鼻先が触れてしまうほどの距離に顔を近づけてみる。物理的に、恋人らしい距離感になってみる。そうしたら少しは実感が湧くかな、と思って。
見つめ続けて十数秒。体温なんてないはずなのに頬が熱ったような感覚になって、僕は慌てて窓の外に視線を移した。
数センチ開けられた車窓の隙間から早朝の冷たい風が吹き込む。これから暑くなるよ、と予告を含んだ夏の朝の風。車輪に弾かれる草木や、遠くの方に見える水平線、隣から聞こえる寝息、僕以外の全てが生きている。なんて、つい、感傷的になってしまう。
『ご乗車ありがとうございました——まもなく終点——落とし物、お忘れ物ございませんよう、ご注意ください——』
いつ起こそうかとタイミングを見計らっていたけれど、終点を告げるアナウンスと同時に、瞳月は目を覚ました。
一瞬戸惑ったように周囲を見渡した後、僕を見つめて微笑む。
「おはよ、灰」
おはよう、と寝起き特有の雰囲気に少しだけ動揺して、つい無愛想に返してしまった。
そんな僕へ、瞳月は「可愛い彼女の寝顔を見るチャンスはどうだった?」とからかうように尋ねてきた。寝顔を見せるために眠っていた、とでも言うように自信に満ちた顔で。
「可愛かったよ、とってもね」
「えーそれだけ? まぁいっか、ありがと!」
寝顔も笑顔も可愛いよ、と隠さずに伝えられたらいいのに。
「瞳月」
「なに?」
いや、やっぱりいいや。
今はまだきっと、伝えられても恥ずかしさが勝って素直に伝えきれない。
「あ——なんて言おうとしたか忘れちゃった」
「あるよねぇそういう時! でも気になるから思い出したら教えて!」
いつもより少し大きめの鞄を抱えて、最後まで誰も乗っていない電車を降りた。
僕たちが住んでいる場所もかなりの田舎だけど、たどり着いたこの街はそれをはるかに超えてしまう田舎具合だった。聞こえてくる音は鳥や虫の鳴き声と、農機具を動かす時の金属の音、そしてたまに古びたスピーカーから割れた音で町内放送が響く。山、畑、田んぼ、草むら——景色は、見渡す限り緑しかない。
「ここから、僕たちはどこに行くんだっけ」
「ちょっと歩いた先にある古民家に行く! 場所はなんとなくしかわかってないんだけど……まぁなんとかなるかなって思ってる!」
あまりにも大雑把すぎる。でも、初めての道を二人で探りながら歩くことも旅行の醍醐味なのかもしれない。
瞳月の「なんとなくこっち!」という勘からくる案内に従いながら進んでいく。合っているかはわからなかった。看板も目印もなく、家の外観はどれも似ていて、見る限り緑が広がっている景色の中で“これかもしれない“というものは一向に見当たらない。
「この道で合ってるはずなんだけどなぁ……」
暑さのせいもあるのか、瞳月の声にだんだん自信がなくなっていく。
「場所、もしかしてあんまり調べてこなかった?」
「いやぁ調べたは調べたんだけど——私、極度の方向音痴でね? 平面の地図も写真が動く地図みたいなのもよくわからなくてさ」
それなら仕方ないか、と納得してしまう、
それに——。
「その古民家へのマップって、今見れたりする?」
「昨日の夜にサイトを見てたんだけど開けなくなっちゃったんだよね……」
方向音痴だけじゃない。本人に自覚はないかもしれないけど、瞳月はきっと極度の機械音痴だ。
いくら恋人と言っても、誰かのスマートフォンに触れて操作するのは抵抗があった、でもいつまでも迷っているわけにもいかないし——こうなったら、最終手段として僕の性質を利用するしかない。
「ねぇ瞳月、その古民家ってどんな見た目だった? 屋根の色とか、何階建てだったとか」
「瓦屋根で、平屋だった——昔からある家! って感じの雰囲気で、外には縁側があったよ」
僕の視界に入っている家は七軒、そのうち二軒は屋根が赤く塗られていて、もう一軒は二階建て。瞳月の記憶が合っていれば候補は残りの四軒になる。
「瞳月、ちょっとここで待っててもらってもいいかな」
「いいけど、どうして?」
「あの瓦屋根の四軒、近くまで行って見てこようと思う。そしたらどれが目的地かわかるでしょ?」
「いや、わかるかもしれないけど……! でもそんなの不審だよ——」
「大丈夫、僕のことは瞳月以外視えてないから」
我ながら、言っていて複雑な気持ちになる。
電車内で瞳月の顔に近づいたことといい、僕のしていることは利用というより悪用に近いような気さえしてきた。
僕以上に複雑そうな表情で瞳月は分かりやすく困惑したまま僕を送り出す。
一軒目はパッと見てそれっぽいけれど縁側がない、二軒目は瞳月が教えてくれた特徴とピッタリだけど民泊をやっているような雰囲気はない、三軒目の庭には伸び切った草が足の踏み場もなく生えていてすぐに候補から消えた。ということはつまり——。
「ここだ」
瓦屋根の平屋、外には縁側があって全体的に古風な雰囲気が漂っている。
ここしかない、そう確信した。
瞳月が気づいてくれる可能性にかけて叫びながら手を振ってみる。生前の僕なら周囲の目を気にして外で叫ぶなんてできなかっただろう、でも今は恥じらいを気にする必要もない。僕がどれだけ大きく手を振っていようと、瞳月の名前を叫んでいようと、誰にも見られることも聞かれることもないのだから。この身体は案外都合がいいかもしれない、なんて呑気なことを思ったりしている。
「わぁすごい! ここだよここ! 見つけてくれてありがと!」
本来予定していた倍近くの時間をかけて、僕たちは目的地へたどり着いた。
古民家の扉の横には表札が外された跡が残っていて、その隣には『みんぱく』と子供が書いたような平仮名で書かれた看板が立っている。
「すみませーん! 予約していた生田でーす!」
瞳月の弾んだ声が玄関から室内へ響き渡ると、奥の方から張りのある可愛らしい声が返ってきた後に一人の女性が顔を出した。父と同い年くらいの、僕たちの母親あたりの年齢に見えるその女性は、少しだけ慌てた様子でこちらへ駆けてくる。
「宿泊でご予約の生田瞳月様ですね! えっと——二名で予約していただいていたはずだけど——」
女性と瞳月の間に、なんとも言えない沈黙と疑問が漂っている。
僕のせいだけれど、これっばかりはどうにもできない。
機転を効かせてこの状況を突破できないか、瞳月お得意のコミュニケーション能力でどうにか“もう一人“に向けられた疑問を晴らせないか——。
「二名揃ってます! ちょっと透明感がありすぎて視えづらいんですけど——でも、確かにここにいます!」
女性は少し困った後、なにかを察したように微笑んでくれた。
なんでそんな突拍子もないような瞳月の言葉をすぐに飲み込めるのだろうと僕の方が驚いてしまう。
そして瞳月へ「もしかして去年ご予約いただいていた生田様と東雲様でいらっしゃいますか」と囁くように尋ねた。覚えてくれていたのか、と暖かい気持ちになる。
透明感がありすぎて視えづらいんですけど、なんて無理のある説明、きっと瞳月にしかできない。
「生田様、東雲様、おかえりなさい! ごゆっくり素敵な夏の一日をお過ごしください!」
先ほどまでの困惑は晴れ、女性は僕たちを眩しすぎる笑顔で宿泊部屋へ送り出してくれた。
教えられた通りに廊下を歩いている途中、瞳月はニヤッと笑って僕を見た。
なんとなく、次に言い出すことはわかっている。
「ねぇ私、なかなか天才的じゃない?」
期待を裏切らない、予想通りすぎるセリフだった。
でも確かに、あの状況を変に誤魔化さず、素直さだけで突破したのは一種の才能かもしれない。
「本当に、なかなか天才的だ。僕一人じゃ、どうにもできなかった」
「でしょー? こんなに頼もしい彼女、私以外いないからね!」
目的地を忘れてしまったことも、地図が読めなかったことも、サイトを開けなくなったことも、全てなかったことになっている。
頼もしい、か。でも確かに、否定はできない。
でもそれより僕は——。
「頼もしい、ってところより自信家なところの方が、僕は素敵だと思うよ」
あの状況を打破してくれたお礼として、そう素直に伝えよう。
わかりやすく頬を赤らめて照れている間に、告げられた部屋番号が書かれた部屋へ着いた。
二人分の布団、作業をするには小さい机、ペットボトルが数本入る程度の冷蔵庫。
民泊、と言うくらいだから旅館のような部屋を勝手に想像していたけれど、なんというかこの部屋は想像よりはるかにシンプル——いや、はっきり言って物がなさすぎる。
「これ、部屋って言うより箱じゃない?」
そんな失礼なことを呟いてしまった僕へ、瞳月は「わかってないなぁ」とまっすぐ人差し指を立てて、それを左右に動かしてみせた。
「ここはね“田舎での暮らし“を体感するための宿泊施設なの! だから“なにもない“じゃなくて“自分たちで見つける“が正解!」
必要最低限のものだけが置かれた空間、確かに言われてみれば新居のような雰囲気がある。
田舎での暮らし。僕たちが住んでいる場所もかなりの田舎だと言うのに、どうして瞳月はここを選んだのだろう。
「どうしてここを選んでくれたの?」
「私たちの未来を疑似体験するためだよ? 灰の身体、いつどうなるかわからなかったから——だから、一緒に暮らしたらこんな感じなんだろうなぁって知りたくてさ!」
僕が浅はかだった。
この宿を選んでくれた理由にまで瞳月の優しさが隠れているのか、と朝からここへ来るまでのことを思い出しながら浸ってしまう。
周囲から僕の姿は視えていないのに、電車の切符も、ここでの宿泊料も瞳月は全て“二人分“で予約をしてくれていた。
今更な気がするけれど瞳月は心から、この一日を恋人として過ごそうとしてくれていると感じた。
「瞳月」
「どうしたの?」
「今日、いっぱい恋人でいようね」
そんなこと改めて言われたら照れちゃうよ、と瞳月は嬉しそうに笑った。
素直に僕も嬉しくなった。
部屋の隅に二人分の荷物をまとめて置いた。机上にあった置き手紙に従って僕たちは外へ出る。始発に出発したはずが、時間はすでにお昼を過ぎている。そろそろ昼食を摂りたいところだけど——。
「ここの畑から好きなのを収穫して私のいる台所に持ってきてちょうだい! それを私が調理してお昼ご飯として提供させていただきますっ!」
と、先ほど僕たちを出迎えてくれた女将が張り切って教えてくれた。
口調もかなり砕け始めていて居心地がいい、本当に“宿泊施設“というより“実家“そんな雰囲気を感じる。
お母さんが生きていたら、こんな感じの日常があったのかもしれないな——なんて。
入ってきた扉の反対側にある扉から外へ出ると、話にあった通りの畑が広がっていた。雨で落ちかけた野菜のイラストが書いてある看板が可愛らしい、その横には二人分のスコップと収穫するためのハサミ、軍手とカゴが置かれていた。
「食事から自分たちで作る感じなんだね……灰くん、野菜を傷つけないで収穫する方法とか、わかったりする?」
「いや、僕も農業経験なんてないし——まぁでも、きっとゆっくり手探りでやってみればいいんだよ。それこそ、一緒に暮らしてるって感覚になれるんじゃない?」
そう言うと、やけに嬉しそうに瞳月はスコップを構えた。嫌な予感しかしないし、危うい。そして真っ先に、とうもろこしの絵が書かれた看板が建てられている畑へ駆けて、スコップの先で本当に少しずつ土を払っていく。大きく振りかぶった割に、土をかくスコップの動きは過剰に小さくて、その緊張ぶりに笑ってしまいそうになる。並ぶように僕もしゃがんで、一緒に黄色いなにかが見えるまで土をかき分ける。
「「あ——」」
みつけた、やっと、一本目の収穫に近づいた。
「私たち、とうもろこし一本に時間かけすぎだね」
そう僕たち自身の慎重さに笑ってしまった。
そのあとは互いにコツを掴んだのか、野菜を傷つけることなく土から取り出し、怪我をすることもなく無事収穫を終えた。
湯気が充満している台所にはエプロン姿の女将が僕たちを待ってくれていた。
いっぱい獲れたねぇ、と面白がりながら褒めた後に部屋で待っているようにと桶に氷と一緒に入れて冷やされたサイダーを瞳月へ手渡した。そのサイダーも、しっかり二本。
「サイダーだねぇ、夏だねぇ——でもサイダーと言えば灰だねぇ」
窓際、遠くを見つめながらそう呟いた瞳月からは僕の「どういう意味?」を待っているような視線を感じる。
気になる、とても気になるけど、そんな期待されるような視線を向けられると妙に緊張してしまう。
「私が言ったこと、どういう意味かわかる?」
僕が躊躇っている間に、待ちきれなくなって尋ねてきた。
ううん、と首を横に振る。
ふふふ、と瞳月は懐かしさに浸ったように笑う。
「高校一年生の夏頃かな、灰が入院してる時の話ね。食事の制限が厳しくなっちゃってさ、私がこっそり病院の近くにある駄菓子屋さんでサイダー買ってお見舞いに行ってたんだよね! 炭酸のシュワシュワが私はちょっと苦手だったけど灰と飲むと美味しく感じたんだよねぇ」
懐かしいなぁ、という瞳月の呟きへ。
「懐かしいね、ほんとに」
と、架空の記憶で相槌を打ってみた。
覚えてないでしょ! と鋭いツッコミが飛んでくる。そういう悪ノリはよくないよーと、笑いながら僕を指差す。
悪ノリ、確かに間違いない。でも正直な僕の気持ちは悪ノリなんてそんなものじゃなくて、瞳月からの過去の話に懐かしいと返してみたいという単純な願望だった。
すごく身勝手な形だけど、叶ったことがちょっと嬉しい。
「懐かしいよねぇ、わかるわかる。私たちにとっての青春だね!」
ちょっと嬉しい、が、嬉しい、に変わった。
そして——。
「いやぁ私ね、灰と“懐かしいね“って言い合ってみたかったんだよねぇ——夢叶っちゃったよ!」
偶然の一致にも程がある、さすが、恋人同士だ。
そう浸ってしまって僕が相槌を打てずにいた一瞬で生まれた沈黙に互いの緊張と恥じらいが昂った。
誤魔化すように笑い合う、大袈裟に、それでもその笑いが心からの笑いになって、恥ずかしいは楽しいになって、そこから少しだけ思い出話をした。僕は知らない記憶に、架空の感情を乗せて懐かしんだ。氷で冷やされて持つのもやっとだったサイダーのビンは温くなっていく。
そして——。
「あ」
「たぶん、僕も同じこと思ってる」
「「炭酸、シュワシュワしてないね」」
そう声が揃ったところで、昼食が運ばれてきた。
◇
十八時過ぎ頃、日が沈み始めて空の綺麗さが一層目立つ。
淡い朱色と遠く澄んだ青色が入り混じった幻想的な空間に、うっすらと月が姿を表し始めた。雲は出ていない、この調子だときっと星も綺麗だろう。
「お風呂上がったよー、うわぁ空綺麗! ずるい! 私も一緒に縁側に座る!」
そう言うとまだ髪が濡れていることにも構わず僕のいる方へ駆け寄ってきた。
瞳月が隣に座った瞬間、風が吹いた。お風呂上がりの熱気と、石鹸系のシャンプーの匂いが僕を刺激する。今の僕はそんな些細なことにドキドキしてしまうけれど、もし一緒に暮らしたらこれは日常のほんの一瞬になるのかな、なんて想像してみる。
「空、綺麗だよね。空気もいつも以上に澄んでるように感じるよ」
そうだね、とやけに穏やかに瞳月は空を見つめている。
その様子を見てなんとなく、なにか言いたそうにしているなぁ、と思ったけれど触れずに僕も空を見続けた。
「灰」
「なに?」
「ほんとに空、綺麗だね」
瞳月は絶望的に嘘が下手なのかもしれない。
本物の笑顔が眩しすぎる分、無理やり作った笑顔にはやっぱり隠しきれない違和感がある。
「瞳月」
「ん?」
「話したいことあるなら、聴かせてよ。恋人なんだし」
とってつけたような理由を最後に添えてしまった。
からかってくるかなと覚悟して待っていたけれど、返ってきたのは——。
「ありがと」
それだけだった。
そして何度か深呼吸をして、僕を見て頷く。本当に話しても大丈夫だよね、と確認するように。
「私、灰に話してないことがあったんだ。話してないことというか、言うタイミングを逃し続けてたことなんだけどね」
「言うタイミングを逃し続けてたこと?」
「どうして灰がいないなら私も死んじゃいたいって思うくらい好きになったか、愛してるって言えるか。ずっと話せてなかったよね」
言われてみれば確かにそうだ。
恋人を亡くすことは悲しいことだけど、それにしても瞳月が僕へ抱いている感情はどこか重すぎるような気もする。悪い意味じゃなくて、どうしてそんなにも思ってくれているのだろうという疑問を込めた意味で。
「もっと言うなら、私が灰を怒らせた日の話。してなかったよね」
僕が瞳月に怒った——記憶がないから覚えていないのは当たり前だけど、それにしても心当たりがなさすぎる。
瞳月は確かにちょっとズレたところがあって、抜けてて、たまに理解が追いつかないような言動をする人だけど、それでもそれ以上に素敵な人だ。僕が怒るなんて、そんなこと想像すらできない。
「それ、いつの話?」
「私たちが中学二年生の頃の話、国語の授業の一環で屋上に集まって百年に一度の奇跡の満月を観た日の話だよ」
百年に一度の奇跡の満月、どこかでそんな言葉を聞いたような記憶はある。
名称も、なんとなく、本当に微かに。
「その月ね“瞳月“って名前なの。百年に一度、その月が世界を見渡して、幸福を抱いている人にはそれを守り抜く力を、不幸を感じている人には幸福と巡り会う力を与える——まぁ実際は、物語の中のフィクションで実在はしないらしいんだけどね」
中学校の授業なんて正直あまり記憶にない、ただ瞳月の言っていることが嘘じゃないことはわかる。
でもそんな授業の中で僕が瞳月を怒る理由はなんだ——。
「二人一組で観察をするように言われて、ちょうど私と灰が隣の席だったからペアを組むことになったんだ」
「そう、だったんだ。それで?」
「その時の担任の先生がね、みんなに質問したの。自分は今、幸せですか、それとも不幸せですか。って、それぞれペアの相手に教え合いましょうってね」
そんな質問、ただでさえ繊細な中学二年生という年頃の生徒にするか。なんて疑問はこの際一旦置いておこう。
「瞳月は僕になんて答えたの?」
「なにも答えられなかった、幸せも不幸せもよくわからなかったからね」
中学二年生、もう幼いという年齢ではないけど、大人になるには足りないものが多すぎる時期。やっぱり、幸せか不幸せかという問いはあまりに漠然としていて、壮大なことのような気がする。
「私ね、中学校の頃はこんなに明るくなかったの。なにか理由があったわけじゃないんだけどね。友達もいなかったし、勉強も苦手で、運動もできなくて、楽しいって思えることがパッと思いつかなくて、好きな人もいなくて——だから別に不幸せって言うほど辛いわけじゃないんだけど、自信持って幸せっても言えなくてさ」
考え方が幼いよねぇ、と笑って瞳月は照れているのを隠す。
そんなことない、というより、真っ当な考え方だと思う。どれだけ健康体な人でも全てが幸せなわけじゃない、持病を抱えていても全てが不幸せなわけじゃない。中学二年生の瞳月がたどり着いた答えは、高校三年生の僕が聞いても納得して受け取れてしまうほど自然なことだ。
「え、もしかしてその瞳月の答えに僕、怒ったの?」
「そうだよ? もしかして——覚えてたりする?」
残念ながらここまで話されても全く思い出す気配はない。僕が首を横に振ると、瞳月は少し寂しそうな顔をして「そうだよね、大丈夫だよ」と頷いてくれた。
話し始めた頃より空の青が深くなっている、藍色に近づいていく。
月の輪郭がはっきりしてきて、それを瞳月は真っ直ぐ見つめている。そして「灰が覚えてなくても、私がちゃんと教えてあげるから大丈夫だよ」と言い、瞳月はなおも言葉を続けた。
「人生の残り時間があるのに幸せになろうとしないなんて人生の無駄遣いだ、って怒られちゃったんだよね。幸せって認められないなら、ずっとなにもない人生になる、そんなの命に失礼だ。って」
幼いのは、圧倒的に僕の方だろう。
中学二年生の夏頃——ああ、ちょうど僕の病状が悪化した頃だ。それに伴って治療方法も服用する薬も変わって、かろうじて学校には通えていたけれど日常生活の中での制限も増えて、次の手術についての話が主治医から出始めた時期。
五歳から続いていた闘病期間の中できっと、初めて僕自身の死を強く覚悟した時だった。だからと言って当時まだ僕の持病についてなにも知らない、ただ席が隣だっただけの瞳月にそんな言葉を浴びせるなんて、あまりに身勝手すぎる。
「ごめん、記憶にないことが余計に申し訳ないんだけど、でも言ったことは事実だから謝らせほしい。命に失礼だなんて、そんな酷いこと言ってごめ——」
「いいの、私、灰にそう言ってもらえなかったらずっと変われなかっただろうから」
「え——」
「まぁ言われた瞬間は「なんで怒られないといけないんだろう」って不思議に思ったけど、でも、気づけた。その時の私は超健康体だけど、明日が来るかなんてわからない——事故に遭うかもしれないし、突然病気になるかもしれない。その時に私自身の幸せも不幸せもわからないなんて言ったら、私は私を恨んじゃうと思う」
「それは、そうなのかもしれないけどさ」
「灰の病気について、その時の私はもちろん知らなかった。だからこそ純粋に「この人の考え方素敵だな、もっとこの人を知りたい」って思えたんだよね」
その次の日に前の席の子に話しかけたんだ、そうしたらその子の隣の席の子が苦手な教科を教えてくれて、その流れで無所属だった部活動に体験入部に行ったんだ。僕の言葉を受けてからの変化を瞳月は並べていく。話の途中で見せてくれる瞳月のスマートフォンに残された写真には笑顔が増えていく、だんだん僕がこの数日間で知った生田瞳月の姿と話が重なっていく。
「友達ができて、勉強と運動はまだあんまり得意じゃないけど別にいいって言い切れるくらい他のことが楽しい! 好きな人だっていて、その人と恋人になれて、まだまだ一緒にやりたいことも多かったけど、でも、私の中に後悔はない」
笑っている、いつもと少し違う笑い方で。
楽しいでも嬉しいでもない。奥底にある寂しいとか悲しいを、どうにか上書きしているような笑顔。
僕の名前を呟くように呼ぶ、そこに僕がいないみたいに。
そしてすぐに「今から言うことちゃんと受け取ってね」と瞳月は視線と言葉の宛先を僕へ向けた。
「灰は、私を変えてくれた人。私に幸せってこういうものだよって教えてくれた大切な人だから——だから、出会ってくれてありがとね」
やっと言えた、と瞳月は深く息を吸う。
たとえ僕のその言葉が瞳月の心を変えるきっかけになっていたとしても、変わったのは瞳月自身だ。なにも僕が感謝されるようなことじゃない、でも、そう変わってくれた瞳月の存在が僕が生きていたことを証明してくれているようで嬉しかった。
空は星の光が眩しいと感じられるほど暗くなっている。一緒に見た真昼の星空も忘れられないほど綺麗だったけど、夜空に散りばめられているこの瞬間の星空は綺麗なんて言葉では語りきれないほど美しい。
隣にいる瞳月を特別な人だと思えているからか、この時間が感じたこともないほど愛おしく思える。
——ああ、僕、この人のことが好きなんだ。
そう気づくまでが遅すぎるように感じて、進んでいく時間を惜しく思ってしまう。
「星空、綺麗だね」
「綺麗だよね、月も綺麗だよ——あっ、これ違う意味で受け取られちゃうのかな」
そう恥ずかしそうに口元を手で覆う、しばらく僕とは目を合わせてくれそうにない。
あの日海岸で観た月は、ちょうど綺麗な満月だった。だから今日は満月から少し欠けた月。でも、僕の瞳には少しだけ歪んだ満月が映っている。
それは夜空に浮かんでいる月じゃなくて——。
「いくら恋人だからって、女の子の泣き顔をじっと見るのはよくないと思うよ?」
瞳月の潤んだ瞳に反射した月だ。
白い肌が月明かりに照らされてより美しく見えて、瞳月自身が光り輝いているような、そんな幻想的な雰囲気を纏っている。
どんな意味で受け取られたっていい、だから今はただ伝えさせてほしい。
「本当に綺麗だね」
物語のフィクションから見つめた満月は、確かに僕たちの中で実在した奇跡の満月だったのかもしれない。
ひとつ訂正するのなら、それが百年に一度じゃないことくらい。
僕たちにとっての奇跡の満月は中学二年生の頃に観た“瞳月“と、名前すらない二日前に観た満月。
「私たちを結んでくれたの、一回目も二回目も綺麗な満月だったね」
心を読まれているのかと疑ってしまう、通じ合っている感覚に嬉しくなる。
でも違う、僕たちを結んでくれたのはそんな偶然じゃない。
一回目は偶然だったのかもしれないけれど二回目はそんなことないだろう。だから、本当に僕たちを結んでくれたのは——。
「僕たちを結んでくれたのは満月なんかじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
「書くから読んでみて」
あの時と同じ、浜辺の砂より地面が硬くて文字が書きづらい、それに暗くて見えづらい。部屋から溢れる暖かい灯りと月の光を頼りに書く。
ほら、きっとこれが正解だ。
——瞳月
「読める?」
「これ、どっちの意味でもきっと正解だね」
書いた字を消さないまま、僕たちは笑い合った。
ぼんやりとしか意識していなかったけれど、僕たちは縁側に座りながら日が沈み切るまでの時間を過ごしていたらしい。
瞳月の髪は毛先から乾き始めていて、肌に冷たい夜風が触れている。あの日海岸でみた横顔と重なる。綺麗だ、僕の記憶に残っている同級生の異性と比べても群を抜いて可愛い、でもそれだけじゃない。
今の僕は瞳月の表情に惹かれている。
だってこんなに恋人らしい、それこそ幸せに満ちた言葉を交わしていたのに瞳月は寂しそうに涙を堪えているから。
「瞳月、どうかした?」
「あっ、いや——空が綺麗だなぁって思って。暗くなったなぁって、一緒に見れてるの、嬉しいなぁ幸せだなぁって思ったの」
空が綺麗、か。瞳月は知っているかわからないけど、その言葉にももう一つの意味があるんだよ。
でも今はそんなことを話すより先に、その言葉と表情の間にある違和感の正体について知りたい。
「嬉しくて幸せ、な人の表情には見えないよ」
「ほんとだよね。なんか幸せなんだけど、幸せなのはいいんだけど、その気持ちに間違いはないんだけど——」
「ん?」
「“時間が進んでる“って、今日が終わるってことでしょ? なんか急に実感しちゃって、ちょっと心が痛いかも」
今日が終わる、僕たちの恋人でいられる時間が終わる。
ここで僕が「今日が終わっても一緒にいようよ」なんて言えたらいいのだけど、残念ながら僕はもう死んでいて、瞳月の隣からいずれ消えなければいけない。
この宿を探す時僕は“この身体は案外都合がいいかもしれない“なんて呑気なことを思ったけど、そんなことはなかった。
誰にも怪しまれずに敷地内に侵入できても、大切な人の隣にすらいられないのなら使い物にならないだろう。
それなら僕はまた、身勝手な言葉を瞳月に溢してみよう。きっと瞳月なら素敵に受け取ってくれるから。
「寂しいけど、自動的に終わってくれる方がきっといいよ。自分たちで終わりを決めないといけない方が、よっぽど寂しいし悲しい」
僕だって嫌だ。やっと大切だとわかった人の隣を離れなければいけないなんて、あまりに残酷すぎる。
だから気持ちはわかるから、どうか今は終わることなんて考えずに僕との今を純粋に楽しいと、幸せだと感じてほしい——そう伝えればよかったなと、僕は瞳月の涙が頬を伝った頃に気づいた。
◇
深夜三時半。
瞳月の寝息を聞くたびに、目が冴えていく。
最低限のものしかない部屋に二つ並べて布団が敷かれている、異様な緊張感が漂っていて眠れるわけがない。
ところどころ雨漏りのシミがついている天井を見つめながら、漠然とここへ来た目的を思い出した。瞳月の青春を掴む、それは達成できた。ただもう一つ、きっと一番果たさなければいけないこと——。
——僕の未練の正体を見つける。
この旅が充実していたことに間違いはない、去年の夏に果たせなかった約束を果たせたという意味では完璧だと言える。でもまだ瞳月から僕の姿が視えているということは、僕の未練が果たされていないということになる。
「恋人にやり残したこと、か」
瞳月と僕が生前やり残したこと、些細なことはあるのかもしれないけど、それはきっとこの旅の満足度で上書きされているような気がする。
それなら、伝えそびれたことか。最後の病室で顔を見れなかったこと——でもそんなこと、悔やんだってしかたがない。母の姿をみてきたこともあり常に残りの時間を気にして生きてきた僕が守れない約束なんてするわけがないし——だめだ、考えることにおいても記憶がないことが不利すぎる。
「それなら病院に運ばれる前は——」
辿れば微かに記憶が残っている、ベッドの上で僕が考えていたこと。
身体の辛さはもう頭になくて、ただただ生きていた時間を振り返っていたような気がする。
死を覚悟していたからこそ、受け入れてしまっていたような感覚だった。
時々父が様子を見にきてくれていて、なにかを語りかけてくれていたような——きっとその中に、瞳月の話もあっただろう。なにも思い出せないなら考えてみればいい、もう一度死の目の前にいると仮定して、朦朧とした意識の中で僕が恋人である瞳月に伝えたいこと。
「灰——」
起きてしまったかと顔を覗いてみる、ただの寝言だった。
そのまま少し、瞳月の寝顔を見つめてみる。電車内でも見たけれど、その時とはまた違う安心しきった顔に癒される。抱きしめたい、触れたい、でもそれはできない。
瞳月と離れたくない、そう強く思った。
でもそれはできない。僕はこれからもう一度死んで、瞳月は変わらず生き続ける。それなら、瞳月にどんなふうに生きていてほしい? もし本当に天国なんてものがあったとして、僕はそこからどんな瞳月をみれたら嬉しい——わかった、これが僕の中にあり続けた未練だ。
僕が瞳月へ向けた、たった一言がずっと心に引っかかっていたんだ。
一日あってもわからなかったのに、僕は一時間と少しという異常な速さで正体の答えへ辿り着いた。
朝五時、あと数分で瞳月のスマートフォンからアラームが鳴る。
だから僕はその音よりも早く、声を届けたかった。
「瞳月」
まだ少し眠さの残る声とあくびが返ってくる、数回目を擦って僕に焦点を合わせる。
「おはよ、灰。ゆっくり眠れた?」
柔らかく、そう尋ねられた。
一緒に暮らしたら、毎朝こんな幸せが眠った先で待っているのか——僕自身の死を受け入れたけれど、やっぱり生きていたかったなんて気持ちばかり強くなっていく。
「よく眠れたよ、隣でね」
本当は一睡もできなかったけど、でもいい、この夜には眠る以上の意味があった。
本当は嫌だけど、まだ恋人でいたいけど、隣で笑っていたいけど、でも僕の心は決まっている。
僕は、僕の死を受け入れる。だからそのために——。
「瞳月、僕のお墓についてきてくれないかな」
「お墓についてきて、ってどういう意味……? 確かに寝る前、明日の予定は起きてから決めようって言ったけど——でも、お墓って、そんな急にどうしたの——」
微かに開いていた目が、大きく、丸く開いて僕に方に向いている。
小さな手には力が入っていて、身体を覆っていた薄いタオルケットの裾をすがりつくように掴んでいる。
安らかな寝顔を、目覚めた時の柔らかな笑顔を、崩してしまったことへの悲しさが積もっていく。崩してしまったのは僕なのに。
二人で迎える初めての朝を、素敵なものにできなくてごめん。そんな身勝手な謝罪が頭を埋め尽くしていく。
でも僕は、この決断を曲げるわけにはいかない。だから——。
「そこでちゃんと、お別れしよう。恋人としてじゃなくて、一人の人間として」
そう、はっきり言い切ることしかできない。
瞳月は拒むように首を横に振りながら慌てて身体を起こした。
僕だって嫌だ。瞳月へ特別な感情を抱いてしまったんだ、お別れなんてしたくない。
寝起きで話すことじゃない、そんなことはわかっているし、申し訳ないとも思ってる。
でも今しかなかったんだ。
このまま一緒に笑い合う時間をでも過ごしてしまったら、少しでも“今が楽しい“と“一緒にいれる時間が幸せだ“と思ってしまったら、僕の決意は揺らいでしまう。そしてまた、消えきれずに終わってしまう。
「灰、なんかおかしいよ。嫌な夢でも見た? それとも——」
「僕の未練について、一晩ずっと考えてたんだ。眠れたなんて嘘ついてごめん、でも瞳月の隣で考えてみてわかったよ。僕が今なにをするべきか、答えがわかった気がしたんだ」
突然のことに瞳月はまだ信じきっていない様子のまま、僕の話を聴いてくれている。
頷きながら、否定しないように、それでも引き止めるような瞳を僕に向ける。
のどかな朝には似合わない緊張感が漂っている。
「どうしてわざわざお墓に行くの? これは私のわがままだけど、灰がいなくなること、実感しちゃって悲しいよ」
「きっとそう実感しないと、僕たちはいつまでも離れられないと思うから——だからお墓で、ちゃんと現実として受け入れたいって思ったんだ」
まだ離れなくていいじゃん、そう瞳月は力のない声で僕へこぼした後、俯いたまま固まってしまった。ちゃんと現実として受け入れたい、なんてあまりにも逃げ場がなさすぎることを言ってしまったことに少し反省する。
「瞳月、ごめ——」
「謝らないで——その代わり、ちょっと待ってね。私、ちゃんと灰が言ってくれたこと受け入れるから。受け入れられないまま行くなんて絶対に嫌だから」
珍しく瞳月の顔に笑顔がない。本心で笑っていないのは当然だけど誤魔化してすら笑わない。その姿に少し安心した。こんな時まで笑顔を張り付けられてしまったら、きっと苦しくて本当の笑顔すら純粋な心で受け取れなくなってしまう。
柱に吊るされている時計が数分遅れて進んでいることに今更気づく。それほど、僕たちは時間も気にせず二人の空間に浸っていた。その代償のように、今は最期までの時間に急かされている。
残りの命を気にして生きていた頃よりもずっと、苦しくて寂しい。
「灰」
落ち着いた声が響く、きっとそういうことだ。
言葉を発さないまま目を合わせる。ここで気の利いた言葉の一つも言えないのは、僕にもまだ怖さや名残惜しさがあるからだ。
「荷物まとめたら行こっか、だからそれまでは楽しい私たちのままでいたい」
そう言う瞳月の顔には緊張も恐怖もない、僕によく見せてくれる心からの笑いだけが浮かんでいた。
楽しいままで。確かに、二人にとって最後の記憶が楽しいものなら互いに後悔なく違う道へ行ける。まとめる荷物も少なく、僕たちは最後までの時間を引き延ばすように過剰に丁寧に布団を畳んだり、何度も忘れ物の確認をしたりした。そして名残惜しく扉を閉めて、受付口のある玄関へ向かった。
料金は先に瞳月が去年二人で集めていたものを支払ってくれていたらしく、チェックアウトの時は宿泊部屋の鍵をフックにかけるだけでいいと昨日説明を受けたのだが——。
「ちょっと待って! これ、渡しておこうと思うの——」
庭で作業をしていた女将から声がかかり引き止められた。日焼け防止のアームカバーをつけたまま駆けてくる様子から相当慌てているのが伝わる。
女将は上がった息を鎮めた後、ポケットから一枚のチケットを取り出し、それを瞳月へ手渡した。
「これ、よかったら来年の夏もまたここへ来てくれたら嬉しいなと思って——私ね、本当は子供がいたの、双子の娘と息子、ちょうど生田さんや東雲さんと同い年くらいのね」
「お子さんが——」
「でも息子は三歳の頃に川の事故、娘は五歳の頃に病気で亡くなちゃった。楽しい思い出のあとにこんな話してごめんなさいね、でも、どうしても瞳月さんの姿を見てると思い出しちゃったの——楽しそうに野菜を収穫する姿とか、縁側で二人でお話ししてる姿とかみてると「ああ、あの子たちももしかしたらこうやって笑ってる未来があったのかな」って、寂しくないのよ、ただ純粋に嬉しくなったの」
話を聞いて、ひらがなで書かれた看板と畑にあった文字のないイラストだけの目印が頭によぎった。ここを“宿泊施設“ではなく“実家“のように思えたのは、単なる演出や雰囲気によるものじゃなくて、女将の母親としての暖かさが詰まっていたからなのかもしれない。
僕の最後の思い出の場所が、ここになって本当によかった。
「生きてるって不思議で、でもそれが終わることってもっと不思議なの。悲しいし、寂しいし、受け入れたくないし——でもね、意味がないことじゃない。こうやって形として遺り続けて、初めて出会う人の生きた時間の思い出になっていくことだってある。だから生田さんも、そして東雲さんも、ちゃんと自分の道を歩んでそしてまたここに帰ってきてくれたら私は嬉しい」
生田さんも、東雲さんも、か。
昨日、ここを訪れた最初の瞳月の言葉をすぐに察して受け取ってくれた理由が、今になって分かった気がした。
瞳月の手が震えている、そして泣かないように必死に顔を上げている。
一枚のチケットを握っている親指の先が白くなっているのが見えた。
「大丈夫、私は二人に「おかえり」って言うためにここで待ってるから」
二人、という言葉に瞳月の手の震えが止まる。
「チケット、一枚——」
「二人は、必ず一緒にきてくれるって思ったから。だから勝手にだけど、一枚だけにしてみたの」
女将はそうお茶目に笑って見せた。そして——。
「引き止めちゃってごめんなさい! ここは田舎だから帰る電車、一本逃したら次に来るまで時間がかかっちゃうわね![#「!」は縦中横] 気をつけていってらっしゃい! 素敵な夏の思い出をありがとう!」
そう言って寂しさなんて一切ない表情で、僕たちを送り出した。
大丈夫よ、楽しんで。と、女将は瞳月の肩に手を置き励ますように力を込めて、そっと手を離した。
きっと僕の姿は視えていないけれど、その言葉は確かに僕たち二人に届けられているように感じた。
来年の僕は、どこから瞳月を見ているのだろう。まず、瞳月のことが見える場所にいられるだろうか。そんな不安を隠しながら、僕も瞳月に笑って見せた。
◇
「この電車、始発じゃないのに誰もいないね」
「本当だね、僕たちだけだ。駅までの道にも人は数えるほどしかいなかったし」
あんなに迷って探した駅から古民家までの道も、あっという間に通り過ぎて僕たちは帰りの電車に揺られている。
なんだか全てが終わりに向かうための手順のように思えて、寂しさが拭いきれない。瞳月の言う通り、最後の瞬間以外は心の底から楽しんでいたいのに。
「灰」
「どうしたの?」
「ううん、やっぱりなんでもない。ただ、灰がここにいるって実感したくて名前呼んじゃっただけ」
誤魔化されてしまった、目なんて合わせられない。
この距離で一緒にいられるのは、あと一時間と少ししかなくて、もう今後二人で電車に乗れることなんてないのに寂しさが僕と瞳月を邪魔してる。幸せなはずな今を見つめきれていない。
あれだけ元気を装える瞳月がそんな顔をしてしまうなら、もう今更なにも考えずに笑いあう会話なんて難しい。それなら、ちょっと深い話でもしてみよう。
突然なんの話? と思わせてしまうくら突拍子もない話題を投げ込んでみよう。
「瞳月」
「ん?」
「小説を書いてみたいって、人生で一度でも思ったことある?」
わかりやすく戸惑った表情が返ってきた。
この質問に深い意味はない。ただ旅が終わった今、父が言っていた“もし瞳月が小説を書いたら“の話を不意に思い出したのだ。
「小説、ずっと読んでばっかりだったからね——それに小説を書けるほどの語彙力も文章力も私にはないだろうし」
「そっか、まぁちょっと敷居高い感じあるよね。わかる」
「灰のお父さんは小説家だもんね、私も本当に最近知ったんだけどさ」
「えっ、ずっと前から知ってたんじゃないの? だってこの間お墓で会ったときにはすでに知ってたじゃん」
「あれはねぇ……私が海岸で灰に会った日、速達でファンレターを送ったの。そしたらちょうどお墓に着く数分前に灰のお父さんからメッセージが届いて、そこで知ったんだ。「二人で一緒にびっくりされると緊張するから、初めから知っていた設定にしてほしい」って言われて——だからあれは、ちょっと演技」
そう言うことだったのか、瞳月の立ち回りが完璧すぎて全く気づかなかった。
納得している僕にすかさず「なかなか自然な演技だったでしょ? どう? 主演女優賞とか受賞しちゃう?」と冗談を切り込む。僕はやっぱり、突然垣間見える瞳月の自信家なところも好きだ。
「でも私、灰のお父さんみたいに遭遇した奇跡を物語にして残したいってこの数日間で思ったよ」
瞳月、それはつまり——。
「いや、小説家になるとかは今のところ予定にないよ? なりかたも、書き方もわからないし——でも、忘れないでいたいんだ。私が忘れることはないだろうけど、私が死んだとき、私と灰が一緒に生きていたことをなかったことにはしたくない。変わらない形で、消えないもので残っていてくれたら嬉しいなって思うから」
瞳月らしい、優しくて綺麗な理由だ。
押し付けるようになってしまいそうで言葉にはできないけれど、僕は純粋に瞳月から見たこの数日間を綴った物語を読んでみたい。
どんな言葉で、表現で、文体で、紡がれていくのか僕の目で見てみたい。
瞳月から見た僕はどう映っているのか、言葉にできなかった心の奥底でなにを思っていたのか、そして最後にはどんな結末を作中の二人に与えるのか、それを物語として受け取ってみたい。
「灰は?」
「え?」
「灰は、小説書きたいなって思ったことある?」
僕から始めた話だけど、考えたこともなかった。
小説は、好きも嫌いもない僕にとって無関心なものの一つだったから。
でも、もし今、僕に原稿用紙が渡されたら、書き出しの四枚くらいはすぐに書けてしまうような気がする。
「考えたこともなかったけど、書きたいヒロイン像だけはパッと思いつくよ。それにすぐ書き起こせるような気がする」
興味深そうに頷いて、瞳月は僕へ続きを急かす。
「華奢で、髪は肩にかかるくらいの艶のある黒髪で、小さな顔にそれぞれのパーツが綺麗に収まっているんだ——とんでもなく綺麗で美人なんだけど、言動と寝顔はとっても可愛らしくてね。よく笑って、明るい子なのに繊細で、嘘が下手で、でもそこも可愛くて。出会って数日の異性を別れが惜しくなるくらい惚れさせちゃう、そんなヒロインを描こうと思ってるんだ」
もし僕が小説を書くとしたらね、と付け加えてみる。
途中から瞳月は僕が語るヒロイン像の正体を察したのか、頬を赤く染めた後、口元を嬉しそうに緩ませた。そういう細かに表情が変わる瞬間も、僕の言葉で描いてみたい。
そうだ、来世の夢は小説家にしよう。それか僕には老後というものがないから、その代わりに死後の趣味として小説を書いてもいいかもしれない。
「ねぇ、勘違いだったらすっごく恥ずかしいんだけど、そのヒロインって——」
「勘違いなんかじゃない、僕が描くヒロインのモデルは瞳月だよ」
いつかの機会に、僕が小説を書くとしたら間違いなくこの数日間を書き起こすだろう。そして父と同じように一つのフィクションとして、最愛の人との記憶を綴って残すんだ。
『ご乗車ありがとうございました——まもなく終点——落とし物、お忘れ物ございませんよう、ご注意ください——』
なんだかすごくロマンチックなことを考えている僕たちを、終点のアナウンスが現実へ引き戻す。瞳月は忘れ物の確認をしながら、僕からのヒロイン宣告に幸せに満ちた顔をしている。口角が上がっているせいで頬が可愛らしく丸くなっている、幸せに満ちた丸い頬——瞳月の顔に二つ満月がある、本人に言ったら怒られてしまいそうだけど。
最後までそんなことを考えながら電車を降りて、旅が始まった駅へ足を着けた。
この駅から少し歩けば、僕の墓に着く。
お別れに、確実に近づいているのがわかる。
◇
山道を辿っている、二人の間の空気は少しだけ重い。
初めてこの道を二人で歩いた時は途方もなく感じていたのに、今はもう、あとどれくらいで着いてしまうかまでわかってしまう。
今はちょうど、父が最後に僕を視たベンチを通り過ぎた。
「もうすぐ着いちゃうね」
「だね、何回もここに来てる私が選び抜いた最高に遠回りな道なのに——どうしてこんなに、早く着いちゃうんだろうねぇ」
だらしなく語尾を伸ばしてくれているのに、全然空気の重さは変わらない。それどころか余計に寂しさへ意識が向いてしまっている。
そっか、何回も来てくれていたんだ。僕が死んで家から出られなくなって、死のうとして、辛かっただろうにそれでも僕のところには来てくれていたのか——そう思うとより、僕はなにも言えなくなってしまう。
「離ればなれになんてなりたくないなぁ、私も隣にお墓建てちゃおっかなぁ……。それでその中に住んで、いつでも会いに行けるようにしちゃおうかな!」
「それ、瞳月が言うと本当にしそうで怖いから冗談でも言わないで?」
「恋人のための行動力がある彼女なんて最高じゃん! まぁ、しないから安心してよ。言ったでしょ? 私、灰が悲しむようなことをしたくないから踏みとどまったって」
安心感のある言葉の後には「心配性だねぇ、私のこと好きすぎるねぇ」と瞳月らしいからかいが添えられた。
景色が開けてきた、陽の光が眩しすぎる。あと少しまっすぐ進んで、そして曲がれば僕が帰るべき場所に着く。
瞳月の足が進むのがやけに遅い、わざとらしく迷うそぶりをしている。そして時々僕の顔色を伺うように「ちょっと待ってね」と、呟いてくる。そして——。
「いやぁ私、お葬式にすら行けない弱虫だからさ。だからちょっと今、お墓に着くの嫌だなって思っちゃってる」
それでいいよ、その方が僕も安心する。足早にたどり着かれてしまったら、なんとも言えない気持ちになってしまうだろうし。
「それに私、お墓についてもきっと時間取らせちゃう。私はなかなか灰を離そうとしないからね」
「いいと思うよ、恋人なんだし」
「そう言ってくれてよかった。でももしそれが鬱陶しくなったら私のこと振り払ってね。灰が私のこと嫌いになる前に。ほら、弱虫だから振り払ったらすぐ落ちちゃいそうだし!」
なかなか上手いことを言ったと思っているのか、寂しくも少し自慢げな表情を僕に見せてくる。瞳月が本当に想像しているような小さくて弱い虫なら、振り払っても気づかれないように服の隙間に引っ付いていそう、なんてくだらないことを考えてみる。
そうならそうでいてほしいなと、名残惜しくなってしまった。
だめだ、やっぱり急ごう。僕の覚悟が揺らいでしまう——。
「ここ、曲がるね。ついちゃうけど、私の中での覚悟は一旦決まったから」
頷いて、言葉を返すこともなく僕は角を曲がる瞳月の一歩後ろについていく。
思い出す。瞳月の恋人の話を他人事として聞いていた時のことと、僕と同じ苗字が刻まれた墓石を目の前にした瞬間の衝撃。
あの時、確かに僕は怖かったし、信じられなかった。だから嘘であってくれと瞳月からのドッキリであることを期待したけど、僕は最初から、瞳月のことを疑ってなんかいなかった。僕には記憶すらなかったけど、それは今思うと恋人だった、愛し合っていた名残なのかもしれない。そんなことを今になって気づく。海岸で出会った瞳月と会話を続けたことも、翌日の口約束を守ったことも、今なら瞳月との全ての偶然を運命と思えてしまう。
「ついちゃったね、早かったなぁ」
僕の墓石の前で、瞳月は立ち尽くしてそう言った。
もともと華奢な背中がより小さく、弱々しく見えた。笑顔に力なんてなくて、口角は下げらないことに必死だった。
なにか、少しでも笑わせられることを言いたい。そんなことを考えている間に瞳月の表情に光が戻った、そして——。
「綺麗にするよ! これから灰が住む場所、まぁそんなに目立った汚れはないけど——気持ち的にも綺麗な方がいいでしょ?」
時間を取らせちゃう、と言っていたのはこのことか。
一泊分にしては大きいと思っていた瞳月の鞄からタオルと折りたたみ式のほうきが取り出された。
「ほら! 最後の共同作業だよ?」
最後か、最期か。
そのどちらにも結びつかないほど眩しい笑顔で、瞳月は僕にタオルを手渡した。
僕の家から少し遠かったことと、なにより僕が母の死を実感したくなかったことから僕自身、瞳月に連れられるまでここを訪れたことはなかった。なんとなく、場所を知っているだけだった。
初めて墓石に触れる、なんだか不思議な感じがした。そして慣れた様子で掃除を進めていく瞳月の姿を見て複雑な気持ちになる。その手に迷いはないけれど、一つ一つの動作は過剰にゆっくりで、時々手を止めたりしている。
瞳月が一人でここを訪れてくれていた時も、こんな感じだったのかな。
「辛くなったらいいからね、僕はそんなに綺麗好きじゃないし」
「知ってる、だって灰の学校の机の中いつも散らかってたもん」
「そんなに登校できてなかったし、いつ行けなくなっても困らないように教科書は持ち帰ってたから散らかってはないはずだけど——それにいくら恋人だったとしても机の中を覗くのはあんまりじゃない?」
「散らかってたんだよ、授業中に二人で回しあってた手紙、ノートの切れ端でね」
青春要素の強いエピソードだ。
でもそれすら、どこか切なく感じてしまう。
恋人と授業中に手紙を回していた、それで机が散らかっている。そんな可愛らしいだけの話なのに、その片方はすでに死んでいて、記憶もない。
サイダーの話だって、屋上で観た瞳月の話だってそうだ。僕たちの記憶にはいつでも切なさが付きまとってくる。瞳月の笑顔や口調が振り払ってくれているはずなのに。 僕が死んでいるだけで、僕たちの楽しかった過去が変わるわけじゃないのに。
「その手紙、今、どこにある?」
「私の部屋の小さい引き出しの一つにしまってあるよ。大切な思い出だもん」
その言葉に、なんだか安心した。
僕との記憶が瞳月にとって触れることすら辛い過去じゃなくて、思い出になってくれていてよかった。
そうして、僕たちの最後の共同作業は終わった。
あとは僕が、帰るべき場所へ帰るだけ——。
「灰、ごめん、やっぱりいっちゃだめ」
もうなにを言われても、僕は最期を受け入れたつもりだった。
そんな僕へ、瞳月の声だけが刺さる。
不思議だ、あれだけ固まっていた覚悟が一瞬にして崩れてしまう気がした。
「未練を晴らせないなら、ずっとここにいればいいのに——灰だって、死にたくないでしょ? いや、消えたくない、か。周りの人から視えなくたって、私は視えるから。私はずっと好きでいるし、実体があってもなくても灰が灰であることに変わりはないでしょ?」
瞳月の言う通り。僕の未練探しには期限なんてない。
だからずっとここにい続けることだってできる、瞳月の隣にだっていられるし、それこそ瞳月の命が尽きるまで隣にいて笑い合っていることだって——。でも、それじゃだめなんだ。だってそれは——。
「瞳月の人生を僕が邪魔することになっちゃう。離れたくない気持ちも寂しさもわかる、でも、違くて。それじゃあきっと、瞳月の人生に未練が残る」
僕の言葉を聞き終わる前に、瞳月は「違うよ、それは灰が間違ってる」と呟きながら首を横に振った。
「僕だって、叶うことなら離れたくない。それに僕のいない一年間も僕のことを想い続けてくれていた瞳月となら何十年でも一緒に笑っていられると思ってる」
「それならそれでいいじゃん、私の人生とか、邪魔するとか、そんな卑屈になる必要ないよ」
「違う、卑屈なんかじゃない。瞳月は僕と一緒にいればいるだけ、なにかを失っていくんだよ」
「失ったものなんてない……それでもあるって言い張るなら、灰が亡くなってから私が失ったもの、なにか一つでも言ってみて——」
「去年の夏、始業式が始まってから立ち直るまでの時間。その間の授業内容、友達との時間。これから先の話をするなら——実体のない僕との関係は恋人から先には進めない、夫婦にもなれない、瞳月が僕の恋人でいる間は子どもだって生まれない——」
「それでもいい、それでもいいよ。私は、結婚とか子供とか、そんなこと考えてない。灰とできる限りのことをできるならそれでいい、それがいい」
「それがだめなんだ。僕は十八歳、瞳月は今が十八歳なだけできっと八十歳、いや百歳まで生きられちゃうかもね。長くて、いくらでも幸せな人生にできる。でも瞳月は僕といると幸せの選択肢が少なくなる」
「幸せの選択肢? そんなの要らない、欲張らないよ。一緒にいられればそれだけで幸せ、そのためならなにかを諦めたっていい」
「そんなの、瞳月が本当の意味で幸せになれなくなる——」
「私には、残り時間がある。なにをしたら、誰の隣にいれば幸せになれるか知ってる。それなのにそれを手放して幸せになろうとしないのは人生の無駄遣いだよ——私は大切な恋人を亡ってる、どれだけ命が恋しいかわかってる。だから、そんな命に失礼なことはしたくない」
出かかった言葉が寸前で止まった、と言うよりその揺るがない瞳に止められた。
離れたくない瞳月と、離れなければいけない僕。奥底にある願いは同じなのに、僕が死んでいるという事実に引き裂かれてしまう。もう一度出会えた偶然の運命とは違う、今の僕たちの間にある運命は残酷すぎる。
「ごめん、私はただ、離れたくないだけなんだ——」
僕の言葉を拒み続けて、瞳月らしくない捲し立ての後に聞こえたのは、そんな力のない言葉と声だった。
離れたくないなんてそんなこと、言われなくてもわかってる。
僕だって、できることなら離れたくない。
瞳月が必死に涙を堪えてくれていることも、頭では僕の言葉を受け入れなければいけないとわかっていることも、その一瞬の表情の違いで痛いほど感じとれてしまう。
「僕の話、聴いてほしい」
どれだけ説明したって、心から納得して送り出してもらうなんてことはきっと無理だ。恋人が目の前からいなくなることを引き止めるなんて普通のことだし、僕だって瞳月がいなくなってしまうその場にいたら送り出すことなんてできない。
だから納得も、理解もしなくていい、ただ一度話を聴いてほしい。
最後の最期に言い合った後、しかたなく終わりを迎えるなんて嫌だ。
そんな辛いだけなら、僕がもう一度瞳月の前に現れた意味がない。
「昨日の夜に思い出したんだ。直接的に瞳月のことじゃないんだけど、僕が最後に、意識がなくなる寸前に後悔したこと」
「後悔……もう少し長く生きていたかった、とか、そういうこと……?」
「違うよ」
「お父さんとか、お母さんへのこと?」
「それも違う」
「もっといろんな場所に行って楽しい人生にしたかったとかそういう——」
「ううん、それも、違うよ」
「じゃあ、なに?」
「僕の大切な人に、一緒に生きて一緒に死にたい、って言っちゃったこと」
僕の言葉に、瞳月はなにかを言いかけた。
数ミリ唇が動いて、そのまま止まって。俯いた後、崩れ落ちるようにしゃがんで、少しして立ち上がっても僕の顔を見てくれることはなかった。
「付き合って二年の記念日に、僕が瞳月に言ったこと。瞳月に向けた言葉だって記憶はなくて、ただうっすら、僕が伝えそびれたこととして記憶に残ってて——」
「違うよ、それは、未練なんかじゃない」
「え」
「だってそれは、灰が死んじゃうかもしれないって怖がってた私を想って言ってくれたことだから」
僕がどんな気持ちで、想いで、その言葉を瞳月へ向けたのか、記憶がないのが悔しい。
それは泣いている瞳月からしたら、慰めのように受け取れるのかもしれないけど、きっと僕はそんな綺麗な理由でその言葉を口にしたわけじゃない。安心させたいとか、笑ってほしいとか、そんな理由だったらきっと、もっと違う、こんな身勝手な言葉を選んでいるわけがない。だから——。
「ごめん瞳月。それは、きっと違うんだ」
「違うって、なにが?」
「その言葉はきっと、僕自身を安心させるための、僕自身を守るための言葉だったんだと思う」
「灰はそんな身勝手な人じゃないよ」
「僕には言った当時の記憶がないけど、でもわかる。だって今の僕が、昨日の夜に同じことを思ったから——瞳月が眠った後、離れたくない、できるならこれからも一緒に生きて一緒に死ねたらいいのにって」
「どうしてそんな大事なこと、一人で考えてたの? 起こしてでも言ってくれたらよかったのに——」
「言ったら傷つけるって、わかったから。これからも生きていく瞳月に、一緒に死ねたらいいのになんて言っていいわけがないんだよ」
言い返す言葉が見つからない、瞳月はそんな表情をしている。
それに、僕がこの言葉を未練だと言い切るにはもうひとつ理由がある。
「僕は、生きていた頃、確かに瞳月のことが好きだったんだと思う」
「どうしたの、急に——」
「海岸で声をかけられた時、まだ瞳月がどんな人かもわからなかったけど、単純に、可愛い人だなって思った」
「それは、私も単純に嬉しいよ」
「その時の僕はまだ命が残ってるって思ってた、そんな時に瞳月に出会って、僕は直感で短い人生の最後に関わる人としてこの人はいいかもしれないって思えた。口調とか雰囲気とか、すごく曖昧だけど瞳月がそう思わせてくれた」
つい三日前のことなのに、溢れてしまうくらいの景色が僕の頭に流れていく。
私の名前、知ってる? なんて尋ねながら僕の顔を覗き込む瞳月の表情、強引に交わされた翌日の約束、名前を教えようと砂浜に書いてくれた字、バス停からの傾斜を駆け降りて僕の名前を叫んだ声。
きっとその逆視点の景色が、瞳月の頭には流れている。俯いたまま、表情は見えないけど、今なら気持ちが、少しだけわかる気がする。
「人の死後に興味があるなんて変わってるって思った、けど、小説の聖地になった海は綺麗だったし、最初は戸惑ったけど、あの結婚式場に瞳月と一緒にいけてよかったと思ってる。僕が死んでるって、教えてくれたことも——」
「やめて。こんなことがあったね、って言葉にされたら私は余計に灰から離れたくなくなっちゃう」
瞳月の言葉に、今度は僕が言い返す言葉を無くした。
ただ二人の間に沈黙が生まれる、必要な無言だと思う。それに今の言葉からわかる、瞳月はちゃんと僕が離れていくことへの覚悟を固めている。受け入れたくないことを、受け止めようとしてくれている。そういうところも好きだったんだろうなと実感する。僕の持病の告白を受け入れた時もこうだったのかな、と。
今になって、生きていたことの僕が瞳月を好きになった理由が痛いくらいわかった。
瞳月は、たった三日間隣にいただけの僕でもわかってしまうほど素敵な人だ。
そんな瞳月には、その素敵さに似合う生き方をしてほしい。
塞ぎ込んでしまう気持ちもわかるけど、できるなら一緒に笑える友達を作って高校生活を楽しみ尽くしてほしい。瞳月は一緒にいる人を楽しませる特性があって、何より笑顔が可愛い。大人になって、僕の知らないことをたくさん経験してほしい。お酒の味も、帰りのバスの時間に縛られない開放感も、全て感じてほしい。新しく好きな人を見つけたら、その人と恋人になってほしい。瞳月が幸せに生きてくれるなら、僕は心からそれを幸せと思える、未来の恋人に嫉妬なんてしない——きっと。
そして、いつか寿命を迎えて、いい人生だった、なんて最後まで笑って眠りについてほしい。
「瞳月」
今更、僕が思っていることを改めて伝えるなんてことはしない。
きっと話せば話すだけ別れが惜しくなって、これからを生きていく瞳月を苦しめてしまう。それに、僕にはわかる。瞳月はもう、僕との別れを受け止める準備ができている。
「あの時、瞳月を置いて、先に死んじゃってごめん」
「灰——」
「そして今も、何度も別れを感じさせてごめん」
「ほんとだよ、私、灰のせいで泣いてばっかりになっちゃう」
瞳月の瞳から涙が溢れていく、頬を伝って、左手の甲に落ちる。
拭う素振りはない、まっすぐ僕を見つめたまま言葉を返していく。
最後の瞬間を、一瞬も逃さないと言われているようで妙な緊張感と寂しさが入り混じる。
「だから、僕が死んだから証明できた事実で、そのうちのひとつでも許してほしい」
「死んだから証明できたこと……?」
「僕は、記憶から綺麗に抜き取られてしまうくらい——いや、きっとそれ以上に、瞳月のことを愛してた」
「そんなの、灰が生きてる間にもたくさん伝えてもらったよ。好き、とか、そういう言葉で——」
「それともうひとつ」
「え——」
「記憶もないし、死んじゃってるけど、僕は確かに、また瞳月を好きになったよ」
それが、僕の人生最後の愛の告白だった。
ロマンチックだね、と瞳月は笑って受け取ってくれた。病魔も愛の伝え方も、僕の人生を締めくくるものは全て母譲りのものだった、なんて最期らしいことを思ったりする。
そして最後に、これを言ったらきっと僕は瞳月の前から消えてしまうけど——。
「これから僕と瞳月は隣で生きられない。それはすごく寂しくて悲しいことだけど、僕は瞳月に今を生きてほしいんだ。明日もし瞳月が死んでも、なにひとつ未練が残らないような今を過ごしてほしい」
「そんなこと——灰に言われたら守るしかないじゃん」
「ここまで一緒に生きた分、これからは瞳月の人生を命が尽きるまで生き切ってほしい」
そう告げた瞬間、瞳月から遠のいていくような感覚に包まれた。
僕の身体が誰かに操られているような、意識から引き剥がされてしまうような感覚。
捉えることすら難しい速さで意識と身体が蝕まれていく、これがきっと本当に消える瞬間の感覚なのかもしれない——僕は、最後に渡す言葉を選ぶ。
ありがとう。
好き。
愛してる。
生きて。
どれも違う——瞳月が僕との日々を忘れることはできないだろう、でも、だからこそ、瞳月から僕の存在を断ち切れるような一言を——。
「瞳月」
「灰」
「最後に、聴いて——僕との全てを終わらせてほしい」
「灰——」
瞳月がなにかを言いかけて、やめた。
きっと、もう時間がないことを察したのだと思う。
ただ僕からの言葉を待っている。
ああ、本当に僕は消えてしまうんだ。
これからはその震えた手を握れないどころか、僕は瞳月の視界にすら入れない。
声だって聞こえない。
どれだけ楽しい時間を過ごしても、それ以上に悲しませて、寂しい思いをさせてしまって本当にごめん。でも、もう、僕が隣にいられる時間は終わらせないといけない。
だからこれは、僕との別れを受け入れるための言葉として——。
最期に、最愛の人へ。
瞳月——。
——「サヨナラ」