『人は死後、最も愛した人の記憶だけが綺麗に抜き取られる』
 
 私に起きた実体験(ノンフィクション)をフィクションとして綴っている。
 物語として残す、ただそれだけのために。
 
 目が覚めると、亡くなった妻が隣で眠っていた。
 その朝のことは一瞬も忘れずに鮮明に記憶に残っている。
 
「え——」
 
 前触れもなく、突然現れたその姿に私は情けなく困惑した声を出してしまった。
 それでも十数年見続けてきた寝顔と、目覚める時に一度強く目を(つむ)る癖、眠っている時のちょっと赤く膨らんだ頬から間違いなく妻だと確信した。
 不思議な気持ちになった。
 あまりにも非現実的で、本当に夢の中なのではないかと。
 だって、確かに目の前にいる妻に触れられないのだから。
 
 目を覚ました妻は私のことを忘れているようで『初めまして』とでも言うような態度をとった。
 ただ『子供がいた気がする』とか『旦那と一緒に行きたいレストランがあったの』と、うっすら記憶が残っているようで、それを紐解くように私は妻の言葉を受け取った。それが一時間程度続いて、妻の言葉がぴたりと止まる。
 次に口を開いた妻から、私は確信的な言葉を耳にする。
 
 ——「私、未練があったから死にきれなかったの」
 
 死にきれなかった、なんて、物語の中の話だ。それでも、妻の言うことが嘘だとは思えなかった。
 そしてもうひとつ、妻は私に大切なことを教えてくれた。
 
 ——「死んだ後って、愛していた人の記憶を失っちゃうんだって」
 
 震えた声で、涙の流れない身体で涙を堪えるような表情をしながら「私は貴方のことを覚えていないの」と。この世で最も非現実的で、ロマンチックな愛の告白を私は亡くなった妻からされてしまった。
 
 そんな妻が未練を晴らして、僕の前から去っていく数日間を物語にしている。
 死者との再会なんてありきたりだ。プロットを提出した時、担当編集からは険しい顔をされた。
 私もそう思う。ただ私はこの物語を残したい、それだけは揺るがなかった。
 売れないかもしれない、つまらないと叩かれてしまうかもしれない。
 でもそれでいい。私と妻の記憶が形として残るのなら、それでいい。
 そしてこの本を手に取った誰かが私と同じ奇跡に遭遇した時、きっとこの本はその人の中で揺るぎない真実になるはずだから。そんな願いを込めて書いた。
 
 ◇
 
 妻との物語は、インフルエンサーの投稿が拡散された影響か、一瞬話題となった。純愛だ、感動して涙が止まらない——嬉しいけど、寄せられる感想はどれも私の物語をフィクションとして眺めたような、他人事な言葉たちばかり。
 刊行から数年、私の元に一通の手紙が届いた。
 ペンネームで手紙を受け取るなんて久しぶりの感覚だ。
 購入サイトやレビューを書かれることはあるけれど、ファンレター、なんていつぶりだろう。
 封を切り、最初に書かれていたのは『感動しました』といった内容の感想だった。
 またか——そんな贅沢な気持ちが頭をよぎる。
 ただ、その手紙の最後の一文に私は心臓を掴まれたような感覚を与えられた。
 
 ——私、この小説が好きです。というより不思議なんです。きっと誰にも信じてもらえないけど、全く同じ経験を私自身がしているから。
 
 初めて、私の物語は誰かの中で揺るぎない真実になれたのかもしれない。
 差出人の住所に見覚えがあった、そして名前を見て驚いた。
 
 ——生田(いくた) 瞳月(しづき)

 この子もまた、最愛に選ばれた子なんだな、と私は遺影を隠した棚へ視線を向けた。