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 その後、蓮はアキナを追い掛けて窃盗犯を引き渡した。「ごめん! またしてもうっかりミス!」と、アキナは心からすまなそうに謝った。
 被害者との女性とも別れた蓮は、路面電車に乗った。四条烏丸の駅で下りて十五メートルほどの幅の、電柱が等間隔に並んだ道を行く。両側には日本家屋が立ち並んでおり、すでに夜の帳が降りていた。
 三分ほどで、自宅の玄関に辿り着いた。左方には小さな庭があり、山茶花や南天が生い茂っている。その遥か上空には、満月に近いきれいな月が姿を見せていた。
「ただいま」と上がり框で地下足袋を脱いだ蓮は、卓袱台の置かれた六畳の和室の居間に上がった。
 居間を通り抜けて障子を開けると、六畳の台所だった。壁面は黄色掛かった砂壁で、床材は焦げ茶の木の板である。
 右側の土間には竈や流しが並んでおり、どれも石製だった。流しの上には棚が据え付けられており、笊や薬缶が置かれていた。
 竈の前には、髪型を行方不明(和髪の一種)に整えた着物の女性がおり、木の蓋を持ち上げて釜の中を確認していた。すぐに振り返り、「お帰りなさい」と柔らかな笑みを蓮に向けた。蓮の母親、雪枝(ゆきえ)である。
 高くはない小振りな鼻に、優しい印象の口元。背丈、横幅ともに平均的で、雪枝の容姿は日本女性の雛形といった感じだった。ただ食事の準備をてきぱきとこなす立ち居振る舞いには、利発さが見受けられた。
 夫である正治(せいじ)がなくなるまでは、雪枝は専業主婦だった。しかし二か月前、何者かによって正治は殺される。
 家計を支える必要に迫られた雪枝は、マネキンガール(デパートのファッションモデル)を始めた。目立ちたがりではなかったが、日本女性らしい所作が奥ゆかしいと好評で、息子を育てるための給料は充分に得られていた。
「遅くなってごめん」と小さく呟いた蓮は、土間に降りた。竈から少し離れたところに七輪があり、金網の上の二匹の鰈が火で炙られている。
 蓮は棚から菜箸を取り、鰈の焼き具合を注視し始めた。ぱちぱちと、静寂の台所に魚の焼ける音がする。
「構わないわよ、蓮。貴方は本当に親思いの子だけど、お友達との時間も大切にしないといけないからね。映画はどうだった?」
 蓋を元に戻した雪枝は、穏やかに蓮に問うた。
「興味深いというか為になる内容ではあった。戦争ってああいう風に、普通の人の普通の日常を完全に破壊するものなんだなってすごい感じたよ。映画はそこまで好きなわけじゃあないけど、今日のは見られて良かった」
「そう。良かったわ」と、少し蓮に首を向けた雪枝は、鷹揚に答えた。
 蓮が見た映画は、「欧州大戦」。およそ十五年前に終結した、初の世界的な戦争を扱ったものだった。
 蓮は一日を想起して、再び口を開いた。
「それで帰り道で、アキナ=アフィリエに会ったよ。窃盗犯を追ってたら共犯と間違えられたみたいで、本物の犯人の制圧の後に俺まで捕まりかけた。被害者の女性の取り成しで誤解は解けたけど」
 七輪から顔を上げないまま、蓮は平静に事実を告げた。外からはガタゴトと、路面電車の走る音がしていた。
「盗人を追い掛けてたのね。……うん。正義感の強さは紛れもない貴方の長所。誇るべき所だと思うわ。だけど、私は少し心配。誰かを助けるために事件に巻き込まれて。怪我はしないか、命を落としたりはしないかって」
 寂しげな調子で雪枝は呟いた。
(でも、これが俺の生き方なんだよな。危険があったって、曲げるっていう発想にはならないよ)
 蓮は神妙に思考を巡らすも、どう返答すべきか迷っていた。
「それにしても神人、か。正治さんも、よく話してたわね。『神人は強くて道徳的だけど、我々は、神人に盲目的に付き従うだけではいけない』。特に蓮が三、四歳の頃ね。って、さすがに覚えてないわよね」
 雪枝の口振りは諦めたような風だった。蓮は痛みとともに、二か月前、何者かに殺された父、正治を想起する。
 菜箸の動きを止めた蓮は、ぎゅっと唇を噛み込んだ。
「力が欲しい。父さんを殺した外道を、監獄にぶち込むだけの力が。だから俺は……」
 言葉を後に接げないでいると、両肩に温感が生まれた。横から蓮を抱きしめた雪枝の、人よりも低めの体温が原因だった。泣き出す様子こそないが、深い悲しみは身体の小刻みな震えから窺い知れた。