翼は話し終えると、俺の双眸をじっと見つめてきた。
「それで、心の病気になったのか?」
「うん、自分を責めて、責めて、責めた。ずっと、いい子でいようと思って、生きてきたのに」
 翼は目を伏せた。
「ずっと、自分を押し殺してきたんだ。それで、心に負担がかかった……」
「うん、もうどうしたらいいか分からなくて。自分を傷つけたこともある。それで、母に連れられて病院に行ったら、入院することになったの」
「そっか……」
 俺はそれ以上何も言えなかった。簡単に言葉を紡いではいけない気がしたからだ。
 翼は肩を震わせながら泣いている。
 何かしてあげたかった。自分にしかできないことを。俺の歌を聴いてくれた翼のために。
 俺は思い出していた。
 俺も不器用だったじゃないか。自分の気持ちを上手く相手に伝えられない。そのせいで、何度も相手と衝突したことがある。
 だけど、俺には歌があった。歌を歌っているときは、すべてを忘れられた。心を揺さぶる音楽と出会えたときの喜びは、自分にしか分からない。代わり映えない日常に、光が差し込む。
 俺にできることは、歌を届けることだ。これしかない。
 何を歌えばいいだろう。翼に聴いてもらったことのある曲ではだめだ。まだ、聴いてもらっていない曲。でも、今から、新曲を作るのでは遅い。
 今、届けなければいけない。そうでなければ、意味が無い。
 そうだ。あの曲しかない。
 メジャーデビューした曲。
 喜怒哀楽のすべてが詰まった曲。
 一曲で契約解除になった因縁の曲。
 今こそ、もう一度、歌うときだ。
 俺の歌を必要としてくれている翼のために。
 あの当時は、輝いていた。大して売れていなくても、俺の歌を必要としてくれているファンがいた。
 翼もファンだ。歌い手はファンのために歌わなければいけない。自分のためだけではだめだ。ストリートライブをしているときは、自分のためだけに歌っていた。
 翼が思い出させてくれた。人のために歌うことを。一人一人に向けて歌うことの大切さを。
「なあ、聴いてほしい曲があるんだ。聴いてもらえるか?」
「えっ……うん、もちろん聴くよ。聴かせて」
 真っ直ぐ、俺を見つめる瞳。
「じゃあ、今から、俺についてきて」
「わかった」
 カフェを出て向かった先は、小さなライブハウスだ。
「ここで、昔、歌ってたんだ」
「そうなんだ。いいライブハウスだね。お客さんがいなくても、熱気が伝わってくる」
「じゃあ、そこに座って」
 客席の真ん中に置いた椅子に、翼を座らせた。
「俺はプロの歌手だった。と言っても、全然、売れなかったけど。でも、ライブに来てくれた観客の顔を見ると、ほんとにいい顔してたんだ。俺の歌で、そんな顔してくれてると思うと、ほんと幸せだった。ずっと、歌い続けていたいと思ったよ。でも、一枚、CDをリリースしただけで、契約切られて、歌うことを辞めようと何度も思った。結局、辞められずに、ずるずると、今まできてしまった。そんなとき、翼が俺の歌を聴いてくれるようになって、人のために歌うことの大切さを思い出させてくれた。ほんとにありがとう。だから、翼に俺のデビュー曲を聴いて欲しいんだ。ずっと、歌わなかった曲、ずっと、歌えなかった曲」
「もちろん」
 様々な思いが駆け巡る。
 すべての出来事が、今の自分に繋がっている。
 翼を見ると、目を閉じている。
 この曲は、アップテンポではない。バラードだ。
 翼に届くだろうか。
 届いていて欲しい。心の奥底まで。
 俺は、いつも以上に思いを込めた。強く。強く。
 ライトに照らされ、翼の目元に光が灯った。それは、二筋流れていった。
 歌い終えると、小さなライブ会場の中に、一つだけ拍手の花が咲いた。翼は席を立ち、俺に向けて拍手を送ってくれている。
「よかった。今までで一番。ありがとう。神代瞬さん」
「どうして……その名前を?」
「ファンだったから。前に、CDを買ったんだ。それも、サインを入れてもらってね。晴斗のデビューライブに、母と一緒に行ったんだよ。ストリートライブをしているあなたを見て、すぐに神代瞬だって気づいた。まだ、歌ってたんだって」
「そうか、それで、翼は立ち止まって聴いてくれたんだ……」
「でも、それだけではない。晴斗、変わっていなかったから。あの頃と。路上でも、輝いていた。晴斗が変わっていたなら、わたし、立ち止ってないよ」
「もう、誰も俺の歌を聴いてくれないんだと思ってた。毎日、毎日、流されそうになるほどの人波のなかで歌っていたら。でも、歌うことはやめなかった。それしか、俺にはなかったから。翼が立ち止まって聴いてくれたときは、ほんとに嬉しかった。ありがとう」
「わたしこそ、お礼を言わないと。ありがとう。晴斗のおかげで、もう一度、前に向かおうと思えた。わたしは病気を治す。きちんと、自分と向き合う。だから、晴斗も、もう一度、挑戦してほしい」
 翼にそう言われ、俺の鼓動がどくん、と鳴った。
 一度駄目でも、もう一度挑戦すればいいんだ。
 新曲を作ろう。
 また、オーディションを受ければいいんだ。
「一からだけど、もう一度、メジャーを目指して頑張ってみる。少しでも、多くの人に聴いてもらいたいからな」
「うん。応援するよ。そのときは、また、CDにサインして」
「もちろん」
 ライブ会場を出ると、月が夜空に浮かんでいた。
 生温い風が、俺達の髪を揺らした。
 駅前まで翼と歩き、駅前で翼と別れた。
 翼は何度も振り返り、俺に手を振ってくれた。
 俺も何度も、それに応えた。
 翼が見えなくなり、俺はいつもの木製のベンチに座り目を閉じた。
 喧騒は聞こえなくなっていた。メロディーだけが、体中を駆け巡っている。
 俺は瞼を開け、もう一度、立ち上がった。