彼女を初めて見たのは、俺が駅前の路上で、ストリートライブをしているときだった。
 その駅は、改札を出てすぐのところに桜の木があり、春には幾重もの花びらが、風と共に舞い散っていく。
 駅前は夕暮れどき、大勢の人間で賑わう。俺は歌いだす前、いつも目を閉じて街の喧騒に耳を澄ます。喧騒は、あの頃を思い返させる。一瞬だったが、輝いていたあの頃を。
 今日は昼には外出を控えた方がよいほどの気温になる、と朝の天気予報が伝えていた。
見上げた空には、ここが今の季節は自分の居場所だと言わんばかりの太陽が、暴力的な日差しを地上に振り注いでいる。
俺がストリートライブを始める頃には、路上からはむせ返るほどの熱気が漂っていた。
 俺は桜の木の近くに設置してある木製のベンチに座って歌う。
 改札から、押し出されるように出てくる人達は、誰もが疲れているように見える。仕事に、人生に、恋に。
 その人達にとって、ストリートライブをしている人間は、邪魔者以外の何者でもないのだろう。明らかに、邪険な顔をする人間もいる。それどころか、そこには誰もいないように過ぎ去って行く人間がほとんどだ。
 俺は構わず歌い続ける。持ち歌を。同じ調子で。
 それにしても、今日は、ひどく暑い。 
 この辺で切り上げようと考えていたとき、彼女が現れた。桜の木の脇に、ふいに。
 俺の視線は、すぐに彼女に張り付いた。
 彼女が、夏に不釣り合いな格好をしていたからだ。
 冬用のコートに、コーデュロイのパンツ。それに、ニット帽を被っている。
 周りを行き交う人々は、誰もがこの暑さを凌ごうとしているのに。ひんやりグッズを使用している人も見受けられる。なかには、彼女にうろんな目を向ける者もいた。
 彼女は桜の木の下で、誰かを待っているものだと思った。
 彼女はどこか幻想的だった。触れれば、ふわり、と消えてしまいそうなほどに。
 俺はしばらく彼女を観察することにした。
 酷暑なのに、彼女はコートを脱ごうともしない。ただ、立ち尽くし、人波を見つめている。
 突然、彼女が、こちらを向いた気がした。俺はとっさに視線を逸らし、チューニングをする素振りをした。ゆっくり視線を戻すと、彼女はそこからいなくなっていた。
 辺りを見渡す。券売機の前に彼女はいた。子供の手を握って。すぐそばで、母親らしき女性が頭を下げている。人波で迷子になったのだろうか。子供は、女性にしがみつき、泣きじゃくっている。女性は、何度も頭を下げ、その場を去って行った。彼女は二人に向け、大きく手を振っている。
 次に彼女はくるりと回り、桜の木の脇に戻った。彼女の動作は華麗で、どこか品がある。
 俺は観察を止め、また歌い始めた。
 すると、彼女が、ふらふらと近くに寄って来た。人波をするりと抜けながら。
 俺のすぐ側まで来ると、演奏している俺を上から見下ろしてきた。
 俺は軽く目をやり、歌に集中した。彼女は目を閉じて聴いてくれているようだ。俺の歌を。
 彼女に少しだけ興味がわいた。
 何をしているのか。そんな格好で暑くないのか。一体、どこから来たのか。考えているうちに、俺はギターを弾く手を止めてしまった。
「いい歌だね。君の曲?」
 彼女は自然と響く澄んだ声で言った。
「俺の曲だよ。ずいぶんと暑そうな格好してる」
「いいんだ。気にしないで。この方がより暑さを感じられるから」
 俺は目を見張った。
 君は変わってるな、と言おうと思ったが、心のなかで留めた。
 彼女はそんな俺にかまわず話しかけてくる。
「ねえ、もっと、他の曲も聴かせてよ」
「今日は、もう切り上げようと思ってたんだ。悪いけど」
「そう。残念……。あなた、名前は?」
「相手の名前を知りたいなら、先に自分から名乗るもんじゃないか。普通は」
「たしかにそうだ。ごめん。わたしは……。眞白翼。次は、あなたの番」
 透き通るような白い肌に、意志の強そうな瞳。手足は、細くて長い。顔立ちも良く、美形の部類に入るだろう。俺と同じ大学生ぐらいだろうか。
「俺は、時坂晴斗」
「晴斗は、何歳? わたしは、十五歳、中学三年」
 俺はまた目を見張った。中学生にしては、翼はあまりに大人びていたからだ。
「俺は二十歳。しがない大学生だよ」
「同じ高校生かと思った、いつも、ここで歌ってるの?」
 俺は首を縦に振った。
「わかった。また、聴きに来るよ」
 彼女は薄い唇で笑みを作った。
「じゃあ」
 彼女はそう言うと、小走りで立ち去った。蜃気楼でぼやけている世界へ。俺の知らない場所へ。