真夏の日差しが本格的に強く照し始めたある河川敷の橋の下。
 こめかみから噴き出た汗が頬を伝い顎から滴り落ちる。青いTシャツに水玉模様のような黒い点が幾つか出来上がった。
 後ろの壁にしがみつく蝉の鳴き声がヤカンの沸騰した音のようで、暑さを余計に増幅させられている気がする。この暑さだとコンビニで買ったペットボトル1本だけでは足りなくなりそうだ。持ち運びに困難でも2リットルの方を選べばよかったと後悔した。
 少しでも体を冷やそうと親指と人差し指で服を摘んでパタパタ動かし内側に外気を取り込んでも、夏の粘っこい空気が余計に纏わるだけだった。
 張り付いてくるこの鬱陶しい布を今すぐに脱ぎ捨てて目の前で微睡むよつに流れている川へ思い切りザブンッ!と飛び込んだらさぞかし気持ちいいだろうな。
 風の吹かない橋の下に僕、津々裏浦(つつうらうら)”一人だけ”だったなら、もしかしたら何かしらの犯罪に引っ掛かりそうな、そんな悪徳を実行していたかもしれない。
 先程から地面に転がっている石を掴んでは川に投げ込み、魚が飛び跳ねたような音を立てているそこの女性がいなければ。
 何度その音のせいで台本から顔を上げたことか。自慢の集中力もいつの間にか目の前の綺麗な川と一緒に流れてしまった。文字を目で追うだけになった脳には台詞や物語の内容は何も入ってこない。

 ポチャン。
 また。早く帰ってくれないかな。
 ポチャン。
 はぁ。
 ポチャン。
 ………
 ポチャン。

 「…………………………私、我儘なの」

 無風の部屋に風鈴の音が響いたように聞こえた。その一瞬の音を女性の声だと認識するのに数秒かかった。
 「え?」と顔を上げると女性の白くてうっすらとしたその掌には”小石”が握られていた。

 「お金は沢山欲しいし、美味しいものいっぱい食べたいし、可愛いお洋服は全部着てみたいし、チヤホヤだってされたい………それでも、結婚はいや」

 握り締めていた石が昨夜に浮かんだ三日月みたいに綺麗な弧を描きながら川に不時着した。
 空っぽになった左手の薬指に指輪は無かった。
 どう答えれば正解なのかわからない、けれど何か言わなければいけない雰囲気を察した。溶けた脳をもう一度固め直し、スーっと不自然に息を吸い込む。その唇で男の僕には返しにくいそれの答案を言葉に変える。

 「人間は…弱いから。だから友達とか恋人とか家族とか仲間とか、誰かと寄り添って自分の居場所を必死に作るんだと思います。なので…そのー、貴女は多分強い人だから。だから……」

 言葉は女性に届いいているのだろうか。背後の蝉が邪魔していないだろうか。また小石を投げたくなっていないだろうか。怪訝そうな顔をしていないだろうか。
 おでこから噴き出た汗が睫毛に引っ掛かり、女性の顔が良く見えない。緊張のせいか急激に体温が上がった。それでも余計なことを口走らないよう細心の注意を払う。
 
 「だから、周りからしたら当たり前の事でも、本人からしたら難しいことを言われてるんだと思う。それは『普通』のことなんだって」
 
 初めて出会った相手に僕は何を言っているんだろう。
 深く長い瞬きをすると睫毛の汗が涙のように頬を伝いTシャツに落ちる。水玉模様がまた一つふえた。

 「………………クック……クックック………」

 癖のある笑い方だった。女性の薄くて触れたら柔らかそうな唇の端が上がっている。変な生き物のような鳴き声が女性にとって『普通』な笑い方なのだろう。
 隠さないのではなく隠すことを知らない。抑々、隠す必要が無い暮らしをしていたのかもしれない。
 笑い方一つで女性の家庭は裕福だったのだと勝手に決めつけてしまうのは、僕が無意識に行ってしまう人間観からくる偏見だった。

 「君、面白い子だね。初めて言われたよ。私結婚するのが『普通』の事だなんて思ってないよ。それに貴女は強い人だー。なんて。んふふ……」

 恥ずかしくて恥ずかしくて、今すぐ川に飛び込んでしまいたくなった。
 手に持った台本の中から選んで抜き取り、ただ適当に繋げた言葉に女性が笑ってくれたことが、たまらなく恥ずかしい。
 僕は結局、”こうした生き方”しか出来ないのか。

 「なんだか事前に用意された台詞みたいね。まるで何か舞台の台本見たい。君はもしかして未来から来たのかしら?だとしたら似た者同士ね」

 グラスの中にある氷がぶつかり合う音、或いは口に含んだ飴玉が歯に当たった音か。
 女性の放つ一言一言はこの場にそぐわない。とにかく涼しくて、とにかく甘かった。

 「未来のパイロットでも過去のデータでもないです」
 「ふーん……。それも何かの台詞?」
 「………………はい」
 「いいわね!もっと聞かせて」