その夜はなかなか寝つけなかった。うとうと(・・・・)はするのだが、それ以上にならないのだ。それでもなんとか眠ろうとして寝返りを繰り返したが、睡魔が訪れることはなかった。
 諦めるしかなかった。それに横になっているのが苦痛になってきたので、布団をそっと抜け出して台所へ行き、椅子に座った。電気は付けなかった。明かりが漏れて妻や子を起こしてはいけないからだ。真っ暗な中、深夜の静寂に包まれてじっとしていた。
 しばらくすると僅かに明るくなった。雲間から月が出たのか、窓を照らしていた。わたしはその明かりを頼りに冷蔵庫の取っ手を掴んで扉を開け、清酒発祥の地と言われている奈良で買った冷酒を手にした。そして、戸棚からぐい?みを取り出した。
 月光を肴に酒を飲んだが、余りのうまさに杯が進み、気持ちよくなるのに時間はかからなかった。ふぅ~っと息を吐くと眠気がやってきたが、それでも杯を進めると、ぼんやりと聖徳太子像が浮かんできた。胡坐(あぐら)をかいて鋭い眼光を投げかけていたが、僅かに口角が上がっていて、今日のわたしの不躾(ぶしつけ)なお願いに対して怒ってはいないように思えた。
「一緒にいかがですか?」
 うつらうつらとした声しか出せなかったが、冷酒を注ぎ足して月光に向かってぐい?みを掲げると、何やら声が聞こえたような気がした。しかし空耳に違いないのでこっくりこっくりしながら掲げ続けていると、「いただこう」という声に続いて、「うまい!」という声が耳に届いた。見ると、ぐい?みの酒は無くなっていた。何が起こったのか理解できずに呆然としていると、「そちも飲め」と勧められた。促されるまま並々と注いで口に付けると、芳醇な香りが広がって思わず一気に飲み干した。うまかった。例えようもないほどうまかった。その余韻に浸りながら新たに酒を注いで月光に向けて掲げた。すると「そちの覚悟を(われ)(うち)に」という低い声が聞こえ、ぐい呑みはまた空になった。それをテーブルに置いて冷酒の残りをすべて注ぐと、待っていたかのように厳かな声が発せられた。
「そちに授けよう」
 わたしはぐい?みに伸ばしていた手を引っ込めて姿勢を正した。すると、重く響く声が聞こえた。
「古からの守り人。匠の想いを伝える者。そちは『伝想家』と名乗るがよい」
 その言葉を反芻(はんすう)した瞬間、ぐい?みが空中に浮き上がり、ゴクゴクという音と共に酒が無くなった。そして、コツンという音と共にテーブルに戻った。
馳走(ちそう)になった」
 声を残して気配が消えた。