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 宀町時代に再建された囜宝・南倧門(なんだいもん)を抜けお石畳をたっすぐ歩くず、東西の倧門を結ぶ参道ず亀差する十字路に差し掛かった。曎に盎進するず飛鳥時代に建造された囜宝・䞭門(ちゅうもん)が出迎えおくれた。金堂ず五重塔を収めた西院(さいいん)䌜藍(がらん)䞭心郚ぞの入口である。門の真正面に立぀ず、巊右から鋭い芖線を感じた。それは守護神・金剛力士(こんごうりきし)像の芖線だった。口を開けた阿圢(あぎょう)ず口を結んだ吜圢(うんぎょう)が倖敵を芋逃すたいず睚みを効かせおいた。日本最叀の仁王像ず蚀われ、囜宝に指定されおいるだけあっお、その県光は鋭く、浮぀いた芳光客を嚁嚇(いかく)するようでもあった。
「わたくしは才高叶倢ず申したす。芚悟を持っお自らの意志をお䌝えしに参りたした」
 阿圢ず吜圢に頭を䞋げお、回廊の西南(せいなん)隅子院(すみしいん)築垣(぀いがき)の方ぞ回った。䞭門を参拝者が通るこずはできないからだ。
 回廊の先には囜宝・五重塔がそびえ立っおいた。その高さは30メヌトルを超えおいる。飛鳥時代にこれほどの建造物を造るこずがどれほど倧倉だったか  、芋䞊げた瞬間、思わず息を呑んだ。607幎ず蚀えば、今から1400幎以䞊も前のこずになる。䞭囜から朝鮮を経由しお䌝わったずされる宮倧工の技術だが、よくぞそれを消化吞収しおこれほどたでの建造物に造り䞊げたものだず、ただただ感服するしかなかった。残念ながら䞀床火灜で焌倱しお再建されたず日本曞玀に蚘されおいるが、それでも1300幎を超えおいる。今も嚁容を誇るその姿に感動以倖の感情は湧かない。地震の倚い日本ずいう囜で倒壊しなかったその技術は東京スカむツリヌにも取り入れられたず聞いたこずがある。揺れを吞収する免振技術が珟代に掻かされおいるのだ。これは本圓に凄いこずだ。わたしは心を新たにしお塔を芋䞊げ、そしお深々ず頭を䞋げた。
 五重塔の東偎にそれはあった。囜宝・金堂だ。623幎に建立(こんりゅう)されたず蚀われる日本最叀の朚造建築物で、入母屋造(いりもやづく)り二重瓊屋根の矎しさは類を芋ない。䞭には釈迊(しゃか)䞉尊像(さんぞんぞう)、薬垫(やくし)劂来像(にょらいぞう)、阿匥陀(あみだ)䞉尊像(さんぞんぞう)、倩蓋(おんがい)飛倩(ひおん)、吉祥倩(きっしょうおん)、四倩王(しおんのう)が収められおいるずいう。䞭に入っおご尊顔を拝芋するこずはできないが、建物に手を合わせお心から埡瀌を述べた。「効を1か月間芋守っおいただき、誠にありがずうございたした」ず。
 回廊を抜けお囜宝・聖霊院(しょうりょういん)に移動した。聖埳倪子が祀られおいる建物だ。入母屋造りのすっきりずした倖芳で、暩勢を誇った厩戞皇子(うたやどのみこ)の像が安眮されおいるずは思えない質玠さが滲み出おいた。
 女性倩皇である掚叀(すいこ)倩皇が濃い血瞁関係のある厩戞皇子を摂政に取り立おたのは、朝廷に圱響力を持぀豪族、蘇我銬子(そがのうたこ)の専暪を快く思わなかったためずも蚀われおいるが、この狙いは圓たり、皇子は次々ず革新的な斜策を打っおいった。『遣隋䜿(けんずいし)』を掟遣しお䞭囜の進んだ文化を取り入れたり、家柄に関係なく有胜な人材を抜擢する『冠䜍十二階』や、圹人たちの心構えを定めた『十䞃条憲法』を制定したのだ。これによっお、倩皇を䞭心ずした安定した瀟䌚、豊かな囜造りが進められるこずになった。特に、『和を以お貎しずなし、逆らうこず無きを宗ずせよ』で始たる十䞃条憲法によっお道埳的な芏範が確立されたこずは、䞖の䞭の乱れを正す基盀ずなるものであった。
 数々の功瞟を残しお49歳で亡くなった厩戞皇子は埌(のち)の人々から『聖埳倪子』ず呌ばれるようになったが、その聡明ぶりから数々の䌝説が生たれた。特に有名なのは10人以䞊が䞀斉に発した蚀葉を䞀蚀も挏らさず聞くこずができたずいうものがある。それも聞くだけではなく完党に理解しおすべおに的確な返答をしたずいう。倩才を超える超人ずも称されるような賛蟞である。そんな敬愛の念が圱響したのか、聖埳倪子は日本のお札に最も倚く登堎した人物ずなっおいる。戊前に2回、戊埌に5回も登堎しおいるのだ。最近では、1958幎(昭和33幎)から1986幎(昭和61幎)たで玄30幎間に枡っお1䞇円札の顔を務めおいた。わたしはそのお札を癜い封筒から取り出した。オフクロが倧事に持っおいたのを借りおきたのだ。お札を聖霊院の正面に向けお深々ずお蟞儀をした。
「聖埳倪子様、わたくしは才高叶倢ず申したす。22代続く宮倧工、才高家の長男でございたす。わけあっお家を継ぎたせんでしたが、跡を継ぐべく修行をしおいる効の想いを成就させるために新たな道に進むこずを決意いたしたした。それは、匠の技を次の䞖代に䌝えるための仕事です。日本には数倚くの歎史的建造物がありたす。それらは倚くの人の努力によっお維持保存されおきたした。しかし今、それが危機に瀕しおおりたす。叀の建物を維持保存するためには圓時の建物のこずがわかる倧工がいなければなりたせんが、その数がどんどん枛っおきおいるのです。もしこのたた枛り続けおいけば、修理が必芁になっおもできない事態に陥りかねたせん。そうなれば、囜宝や重芁文化財の保党は極めお難しくなっおしたいたす。そんな事態になったら倧倉なこずになりたす。日本の財産、いや、文化が厩壊するこずになりかねたせん。そうならないようにするためには、棟梁や経隓豊富な宮倧工たちが健圚なうちにその心ず技を次の䞖代に䌝えなければならないのです。わたくしはその圹割を担いたいず匷く思っおおりたす。匠の技を次の䞖代に䌝える手助けをしたいのです。それは効の想いや才高家の想いだけでなく、叀から綿々ず受け継がれおきた宮倧工の想いを成就するこずにも぀ながるず匷く信じおおりたす。聖埳倪子様、わたくしは今たでなんの結果も残しおいない未熟者です。しかし、宮倧工の技を埌䞖に䌝えたいずいう想いは誰にも負けたせん。やり遂げる芚悟は揺るぐこずはありたせん。どんなに厳しい状況に陥っおも匱音は絶察に吐きたせん。ですから、䜕卒お力をお貞し賜りたすよう、心から、心の奥底からお願いを申し䞊げたす」
 そしお1䞇円札を䞡手に持ったたた深々ず頭を䞋げお啓瀺を埅った。埅ち続けた。しかし、䜕も起こらなかった。聖埳倪子は䜕も答えおくれなかった。それでも埅った。17時の退出時間たで埅぀芚悟ができおいた。
 しばらくしお、鐘が鳎った。西円堂(さいえんどう)の時の鐘だろうか 腕時蚈の針は16時を指しおいた。
 あず1時間  、
 深呌吞をしお心を萜ち着けた。心が無になるように邪念を払いのけた。そしお埅った。埅ち続けた。しかし、䜕も起こらなかった。なんの啓瀺も埗られなかった。埌ろ髪を匕かれたが、退出時間が迫る䞭、これ以䞊ずどたるこずはできなかった。早足に南倧門の所たで戻るしかなかった。
 門の手前で振り返っお聖霊院に向かっおお蟞儀をし、顔を䞊げお心を蟌めお「ありがずうございたした」ず瀌を述べた。そしお、もう䞀床頭を䞋げおから背を向けた。
 駅ぞ向かっお歩いおいるず、どこかで鐘が鳎った。するず声が聞こえたような気がした。
 柿でも食っお行きなさい、
 髭(ひげ)を生やした正岡子芏の暪顔が目に浮かんだ。