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「いいのよ、会社を辞めても」
 突然だったので、何を言っているのか一瞬わからなかった。
「宮さんから頼まれているんでしょ」
 妹は妻にも話をしていた。
「そんな簡単に決められることじゃない」
 わたしは突き放した。
「そう? でも、やりたいって顔に書いてあるわよ」
 覗き込むように顔を近づけてきたので、視線を外して昼寝をしている匠の方に目を向けた。すると匠が目を開けて大きなあくびをして〈抱っこ〉というように両手を伸ばしてきた。抱くとほっぺを胸にぺたんと付けてきたが、その仕草が余りに可愛かったのでたまらなくなって髪に唇を押し当てると、ミルクのようなほの甘い匂いがした。世界で一番好きな匂いだった。
「この子に辛い思いをさせるわけにはいかない」
 視線を妻に戻して強く首を振ったが、「一生ライターを続けるつもり?」と鋭い視線が返ってきた。
「それはわからないけど……」
 耐えられなくなって視線を外した。
「そう……」
 声のトーンが落ちた妻のことが気になったのか、匠が妻の方に手を伸ばした。受け取った妻が匠の頭を撫でると、ニコッと笑って妻の胸にぺたんと顔を付けた。
「この子を宮さんの後継者にしたいんでしょ」
 いきなりの直球に息が止まりそうになった。
「だから匠という名前を付けたのよね」
 うんしょ、というふうに匠を抱き上げてその顔を見つめた。
「ね、匠ちゃん」
 すると、匠がニコッと笑った。
「ほら、匠ちゃんもわかっているのよね」
 そして鼻先を付けてすりすりした。すると匠が声を上げて喜んだ。
「知ってたのか……」
 隠していたわけではなかったが、気づかれていたことにきまりの悪さを覚えた。妻はそれに対して直接答えなかったが、意外なことを口にした。
「親の背を見て子は育つって言うじゃない」
 匠に視線を向けたまま言葉を継いだ。
「良くも悪くも子供は親のすることを見て取り入れていくのよ」
 妻が言いたいことがなんとなくわかったような気がした。
「チャンスだと思うんだけどな~」
 チラッとわたしを見たあと、匠をあやしながら台所の方へ向かった。
 匠に背中を見せろか、
 呟いてはみたものの、頭の中に具体的な何かが浮かんでくることはなかった。