トイレから戻ると、彼女はスマホで何かをチェックしていた。少しして顔を上げると、スマホの画面とわたしを交互に見つめ、「こんなこと聞いていいかどうか……」と躊躇いがちに口を開いた。
「何?」
 なんでもどうぞ、と掌を上に向けると、「あの~、才高さんって有名な小説家だったんですよね」と遠慮がちな口調ながら予想外の質問を投げかけてきた。
「有名かどうかはわからないけど……」
 ちょっと面食らったのでぼそぼそっと返すと、「もう、小説は書かないのですか」とわたしの目を覗き込むようにした。
「ん……」
 わたしは彼女から目を逸らし、空になったジョッキを見つめた。
「もう……書かない」
 ジョッキに映る自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうですか……」
 ため息のような彼女の声が聞こえた。しかし残念というようなニュアンスは感じられなかったので彼女へと視線を移すと、何故かにこやかに笑っていた。
「おめでとうございます」
 突然、彼女がジョッキを掲げた。
「えっ?」
 何がめでたいのかわからなかったが、「小説家卒業、おめでとうございます」と自分のビールをわたしのジョッキに注ぎ、「乾杯」と言ってジョッキを合わせてきた。
 カチーンという強い音がした。その瞬間、わたしの中で何かが砕けたように感じた。それは潜在意識の中に残っている小説家への未練のように思えた。
 卒業か~、
 呟きと共に小説家という言葉をごくりと飲み込むと、2つの言葉が胃の中で分解されてどこかに吸収されていった。すると生まれ変われそうな気がしてきた。彼女がいてさえくれれば新しい自分になれるような気がしてきた。結城の笑顔が、結城の優しさが、結城の存在が、わたしに新しい何かをもたらそうとしていた。