神様に愛された者達

 六月のある日、僕は死のうと思ってそこに居た。真っ白な太陽が輝く午後二時だった。河川敷、高架橋の下が人生最後の景色だと決めていた。ただし死に損ねたのは、もう少し先の話。

 木々が青に染まっている。競争を勝ち抜いた葉の数々は、白い光を目一杯享受していた。周囲にはアオスジアゲハが、自身の持つその華麗な色を見せびらかすように飛んでいる。それを目で追って、蝶が背の高い草に隠れたので負けた。
 気が付けば長袖が少し暑く感じるようになった。袖を捲れば、柔らかく爽やかな風が肌を舐める。ふと上を見上げれば目に入る、淡い色の空とレースのみたい薄い雲に、微かに残った春の面影を見た。夏が来る。そう感じたのは、いつもより街が明るく見えたから。
 こんな日に死ねたら幸せだな。
 希死念慮が興じて衝動的にここへ来たが、どこかで死を怖がる自分がいて、未だコンクリートの上で足踏みをしている。死ぬ勇気も無いが、勿論、生きる勇気なんぞ端から持っていない。生きる資格も死ぬ資格もないならば、何をしたら神は赦してくれる?
 額に手の甲を当てている。考える。思案する。蘇る。自殺の動機。愛する者達への懺悔。産まれたことへの後悔。自身への深い失望。信じることをしなくなった僕じゃ人の生活なんてこなせない。車が通る。バイクが通る。エンジン音が小気味良い。子供の声がする。犬の鳴き声。風が草木を揺らす。のどかな風景に、()()()に似合わない僕が一人ここに居る。普段は水の少ない川。あれが僕だった。
 太陽に曝された、陽光がちらちらと反射する水面はまるで絵画みたいだ。モネが水面を多く描いた気持ちも今なら分かる気がする。視線を戻して目の前にある川は、あれは冷たそうだ。水深は三十センチも無く水底の苔の色が透けていて、流水はそれの色。口に入れたら腹を壊しそうだなとか呑気に思った。
 溜息を一つ。思考の種などいくらでもある。赦せないことがある。愛すると言ったのに愛さないこと。あれは罪だった。そう思って疑わなかったから僕は今まで、沢山の咎人を作ってきた。だから僕は、愛することを一瞬でも放棄した僕は、罪人になった。
「死ね」
 零れた言葉は自身に向けて。
「いっそ殺してくれ」
 ペットボトルの水を飲む。冷たいそれが身体に流れ落ちていくのを丁寧に感じた。一緒にこの場所まで来た重い重いリュックサックを身体に引き寄せる。パンパンに詰められたノートの一冊をランダムに手に取った。油性ペンで簡素に書かれた『創作』の文字を指でなぞる。同じような表紙のノートが過去五年分、十二冊がそこにある。ただ違うのは、右上に振られた番号と日付だけ。僕はこれらの、一度は深く愛した作品達と共に、心中しようとしている。
「懐かしいな」
 今ページを捲っているのは、三年前のノート。丁度、小説投稿サイトで作品を公開し始めた頃のものを読み始めた。田舎を舞台にした短編の純文学。荒削りだが上手く主人公の心情を表せている、なんて自惚れてみるが、設定も構成も弱く、今ならこう書くのになと過去の自分を見下げた。
 次は春の詩だ。詩は僕の原点。創作の原点。読み始めれば、季節はつい数ヶ月前の春になる。甘い香りを孕んだ柔らかな風と陽射しの全てがこの空間に飽和しているんだと錯覚する。淡い恋と空模様。かなり上手く書けている。この時はきっと気分が良かったのだろう。
「なんだっけこれ」
 書きかけの文章を見つける。それは家族愛への嫉妬がまるで呪いのように綴られていた。無償の愛への憧れ。安定した生活への羨望。愛を自覚できないことへの失望。三年前の苦悩、希死念慮なんてものと出会った頃か。あの時植え付けた希死念慮の種は、僕の感情を貪り喰いながらすくすくと成長していた。
 思案する。自殺の動機。そんなものいくらでもある。不安定な母親への諦め。ヒーローなんていないこの世界への深い絶望。愛されない。愛されない。愛されない。いつかに貰った小さな愛でさえ自覚できない愚かな自分。女手一つで育ててくれた母親を置いていく親不孝。僕の欲求は二歳で止まっているみたいだ。
 思案する。作品と死ぬ訳。たった一つ、明確な理由。作品の存在意義を疑ったこと。これこそが僕の罪状だった。誰にも届かない作品の、存在意義。これをバカ真面目に考えてしまった僕は、愛していたはずの作品達を裏切った。それはいけないことだから、我が子達をを、贖罪としてもう一度愛そうとしている。それは大変、利己的な行為。自己満足の境地。知っている、夏芽梓は神ではない! 断罪をするのは僕ではない。赦すのは僕ではない。早く死んで、神に裁いてもらおう。

 早く逝かなければと思いつつ、過去作を読む手を止められなかった。気付けば周囲にはノートが散乱していて、それでも尚読み耽っている。
「ねぇ、隣座っても良い?」
 突然右側から声をかけられた。驚いて振り向くと、そこには若い女が立っていた。
「あ、はい。どうぞ」
 少々躊躇ったが、丁度この場所を発つ理由ができたので散らかったノートを片付け始める。薄い水色のワンピースを着たその人は、一言お礼を述べてから僕の隣に腰を下ろした。
 綺麗な人だな。ノートをかき集めながら盗み見るようにして確認したその人の顔は、驚くほど整っていた。線の細い輪郭に切れ長の目と、小さな鼻、薄い口唇がくっついている。まるで完璧な彫刻のように美しい。肩に付かない長さで切り揃えられた黒髪が風に靡いていた。何かの映像作品みたいだ。
 流した前髪を触った後、その人は「ごめんね」と言った。色素の薄い瞳は、どこに行っても見たことのない儚さを纏っていた。つい見惚れてしまったその瞳が見つめる先を辿る。そこには開きっぱなしのノートが一冊。僕は慌ててそれを閉じた。
「ねぇ、それ君が書いたの?」
 どうせまた笑われるんだろう。
「日記みたいなものです」
 だからそれっぽい嘘をつく。表紙に書いてある文字はとっくのとうに見られているんだろうが。
「違うよね。……私にも読ませてよ」
 冷静にその人は言った。心からの好奇心のようだった。清潔な声で要求された僕は、数秒迷ってから口を開く。
「全部、駄作ですよ」
 罪が増えた。愛しの作品を駄作という行為。これは僕にとって万死に値するような重罪だ。また裏切った。傷付けた。ごめんなさい。早く謝らなければ、作品が泣く。
「そんなこと言わないでよ。君が産んだ子達でしょ。愛してるなら、駄作だなんて言わないで」
 その人と僕は、作品に対する価値観が似ていた。優しい口調とその目の奥に、何か確かな芯が見え隠れしている。この人も創作をしている人だ。たった数回の会話でそれを確信した。
「すみません。でも、今まで作品を他人に読まれることなんて殆どなかったので、小っ恥ずかしいというかなんというか」
 僕が言葉を選んで言い淀んでいると、彼女は頬杖をつきながら柔らかな笑顔で次の言葉を待っている。
「大切な作品達は僕の生き写しみたいなものだから、顔を合わせながら読まれるのが怖いんです」
「私も同じ書き方をしていたことがある。だからその怖さも嫌なぐらいよく分かる。大丈夫、私は敵じゃない。ただ君と、少し話をしてみたかっただけなの」
 小説の人だったか。少し笑ってゆっくりと言葉を紡ぐその人の姿は、天女のような、ヴィーナスのような、そんな感じ。僕は今、神様に会っているのだ!
「もちろん無理強いはしない。見せたくないなら見せないで」
「いえ、見せます。読んでください」
「いいの? ありがとう」
 さっき隠したノートを広げる。片付けた物も、僕と彼女の間に置いた。彼女の顔からは一切の表情が消え、ただ黙々と、僕の小説を読み始めた。