「瑠花、悪い……ここだけど、さ」
「え、うん……」
話し掛けるのが気まずそうに、辿々しくこちらに近付きプランナーファイルを開いて見せる男。
少し日に焼けた小麦肌に、奥二重の猫目とアッシュブラウンの癖っ毛が特徴の彼がそう、私の彼氏《《だった》》相手。“鷹松 凪”
私はこの男に、捨てられた。
昨日、何が起きたかなんて私自身が教えて欲しいくらい―――――
***
「は? 急に何言ってんの?」
申し訳なさそうに、だけどどこかスッキリとした表情で私に『別れたい』と言った男を目の前に、こっちは状況が掴めず愕然と目を見開くしか出来ずにいる。
「本当、ごめん」
彼の口から発せられるのは謝罪の台詞ばかり。
交際2年が経ったけど、仲は良かった……と思っている。2人ともアウトドア派だから旅行やキャンプに行っていたし、お酒が好きでよく居酒屋で飲んだりもした。喧嘩だってした事なかったのに。
結婚を視野に同棲する話を出したのは私の方。お互いなかなか休みが合わないから、日程を調整しながら賃貸会社をまわろうって話していたはず。
それで?その続きがこれって、どういう事?
「ごめん」
「謝るんじゃなくて説明が欲しいんだけど」
もう何度目かの『ごめん』にウンザリした私は、それよりも『好きな人が出来たって、いったい誰? いつから?』と、知りたい気持ちの方が上のせいか少し語尾が強まる。
けれど彼はそれ以上頑なに話そうとせず、複雑に私を見つめたまま口を閉ざしている。
それで何となく察しがついてしまうのは、“女の勘”というものが働いているからなのかもしれない。
そしてその直感って、強ち間違ってない。
「もしかしてその相手って、私も知ってる人だったりして」
遠まわしに聞き出そうとズルい方法で問い掛けると、沈黙を続ける彼が一瞬ピクリと眉を動かして反応を示した。私はそれを見逃せるはずがない。だってそれがつまり《《答え》》だから。
「だから言いたくないわけか……」
思わず口に出してしまったのは無意識。そんな漫画みたいな事ってあるんだな……って、かなりガッカリしているのが正直なところで。そして同時に、もう1つ疑問が残る。
「いつから? その人を好きになったのは」
答えなんて聞けば聞く程ショックが重なるだけなのに、気になって聞きたくなるのはフラれる側の複雑な心情だと思う。
別れを切り出すこの男がこんな私の気持ちを理解出来るとは到底思えなくて、馬鹿正直にちゃんと応えてくれる。
「……先月の飲み会、から」
やはり答えづらいらしく、この男にしてはハキハキしない。って、ん? 待って。飲み会って今言った?
「飲み会で急接近して仲良くなったんだ」
曖昧に答える彼とは裏腹に、私は嫌味ったらしい直球を投げつけた。
すると彼は私のストレートな質問に対し、わかりやすく動揺して目を逸らす。そういう反応をするって事はやっぱりビンゴか。
本当、2年だけでも付き合っていると、些細な仕草だけで何を言いたいのかわかるものね。
先月の飲み会というのは、ウチの会社の支配人が退職してしまう関係で、お疲れ様会も兼ねての席として開催したもの。だからもちろん私も出席だし、なんなら幹事として忙しく動いていた側。
そんな席で自分の彼氏に新しい恋が始まっていたなんて、誰が想像するよ?
そしてその相手がまさか同じ職場の子だなんてーーー
「ねぇ……その彼女と《《寝た》》とか言わないよね?」
「えっ」
ハッとしたような反応は、まさに肯定そのもの。この話題に触れれば触れるほど本音が態度に現れるし、比例して私に衝撃が走る。
“寝た”なんて、なんとなくの胸騒ぎからで口にしたものだったけど、まさか事実だったとはな。
「ヤッちゃって好きになったんだね……」
「それは違うっ!」
食い気味にハッキリと否定する彼からは、さっきまでの曖昧さなど無く『勘違いをするな』とでも言いたいように聞こえる。
何がどう違うの?ヤる前から好きだったとでも言いたいの?……なんて聞いたところで、言い訳を受け入れられる余裕なんて今の私に持ち合わせていないんだけど。
怒りとショックが入り混じる複雑な気持ち。本当は物凄く責め立てたいよ、当たり前。
けれどそれを言葉にして『私はずっと好きだったのに』なんて言いたくない。そんな未練がましく言ったところで現状が変わるわけでもないし、余計に惨めになるだけだから。
もう、潔く良く身を引くしかないって……理解してる。
「……そういう事なんだね、わかったよ」
一言だけ、精一杯に声を絞り出した。
『わかった』って言いながら正直思う。負けたんだな、私はって。
気持ちが冷めたって言われるより、他に好きな人が出来たって言われる方が傷は深いものだって痛感させられたな。身体まで重ねてしまえば尚更――
「ねぇ、凪?」
「……?」
「私は楽しかったよ、毎日がとても……」
『とても……』の後に言葉が詰まる。気の利いた事が言えれば良いのに、何も出て来ない。悔しさ半分、苛立ちが半分で泣きそうになってしまったのが本音。
指先が食い込んで痛いくらいに、私はグッと拳を握る。
素直に受け入れるほど苦しいものなんて、ない。
***
「瑠歌、聞いてる?」
「あ、うん」
……聞いてなかった。
私とした事が《《その元カレ》》と仕事の話をしていながら、昨日の出来事をフラッシュバックするなんて。
でも頭に入ってくるわけない。だって無理よ。フラれた翌日で一緒に仕事とか。
「それでこれなんだけど」
そう言いながら、凪は自分が担当する方達の当日の日程を真剣な表情で私に説明してくる。立ち話のままだけど、その距離は肩が触れ合うギリギリくらいに近い。
顔が近付く度にこっちの心臓は鼓動が早くなって困っているのに、この男はさすがだな。最初の気まずさなんてもう微塵も感じさせないくらい平然としている。そう、仕事として割り切れているみたいに。
「うん……それでいいと思う……」
仕事だからって私も割り切っている。……はずなのに、そんな簡単に上手くいくはずなんてなくて、内心あたふたしている。だから発言に動揺が隠し切れない。
なのにこの元カレは、後腐れなんてなく見える。
「そっか、これでいいのか! さすが瑠歌!ありがーー」
忖度なんて全くない屈託のない笑顔でいつもみたいに喜んでいたのに、急に『ヤバい、付き合ってる時の癖が出た』とでも思ったんだろう。言い終わる前に明らかにハッとした様子で、急ブレーキが掛かったように最後の方の言葉をプツンと切る。
そういう所だ。そういう笑顔が1番困る。
そして。
「じゃ、じゃぁ俺、仕事に戻るから」
言った自分が現実に戻るその瞬間がこっちはキツいし、急に現実に戻って距離を空けようと目を逸らして逃げようとする。
気まずそうなのがバレバレ。
こっちの方が気まずいんですけど。
「こんなの……忘れたくても無理じゃん」
見送った元カレの後ろ姿を目で追いながら、はぁ……と小さく溜め息が溢れてしまう。
あとどのくらい時間が経てば、この想いが冷めるんだろうか……と遣る瀬無い気持ちになるばかり。
「仕事仕事。働いて忘れよ」
スーツの下衿を両手で軽く掴んでキュッと直して、気持ちを入れ直す。こうして自分に言い聞かせないと前に進めないなんて私らしくないけど、今はこれが最強だと思ってる。
それしか方法が見つからないからーーー
***
結婚式に人気の季節は、主に秋。5月も比較的に天候や気温が穏やかもあって予約が入りやすいく、特に大安の土曜日はすぐに埋まる。だからこの時期、私の仕事も忙しい。
「おめでとうございます!」
挙式を終え、チャペルから出た新郎新婦を階段両端からフラワーシャワーと共に祝福の声を掛けると、『ありがとうございます!』とキラキラ眩い笑みを向けてくれる。
幸せそうなその笑顔が見たくて、私達プランナーは日々真っ直ぐに向き合っているし、この為にやってきてるんだって幸せに感じる。
それは本当なのに、どうして今はこんなにも切ないんだろうーーー
「みんな、お疲れ様」
式が全て終わり来客も見送って後片付けも終了した後、スタッフを集めて私はいつものように声を掛ける。
これは反省会の意味もあって、担当したスタッフを始め全員の意見を参考に次に繋げるようにと、各自が新しい発見だったり次に活かすべき事を勉強している。
今日だってそれで終わるはずだったよ。
でも、今夜に限ってそんなに甘くなかった――――
太陽が完全に沈み、辺りが暗くなった頃。
いつもは残業で遅くなるけれど、今日の私は思った以上に昨日の失恋の尾が引いてたせいか、メンタル的にも早く帰りたくて残った仕事を早急に終わらせ帰る身支度をしていた。
「お疲れ様、凪くん!」
「待たせてごめん、茉莉愛」
仲睦まじいやり取りが聞こえてきたのは、更衣室から出た先の廊下から。誤魔化しようのない紛れもなく聞き覚えのある声と、その《《名前》》。
「今日は凪くんの家に行ってもいい?」
「うん、大丈夫」
確実に“鷹松 凪”と女性社員のイチャイチャ配信。そんな風にしか思えない。
聞きたくない。知ったらきっとまたショックを受けるから。でも知りたい……
私は葛藤の狭間の中、扉の陰から、そっと2人の様子を覗いてみてしまったーーー
「嘘……」
そこにいたのは、元カレの凪と女性社員。互いに向き合い目を見つめ合わせ、男の方は優しく女の髪を撫で、空いているもう片方の手でその手を繋いでいる。
私がいる事なんて、たぶん気付いていない。完全に自分達の世界に浸っているのが証拠だ。
彼女の方は私より5歳下で、この仕事に就いて3年目。
名前は“桜林 茉莉愛”
おっとりした性格で人当たりや面倒見がとても良く、担当するお客様にも非常に印象が良い。腰まであるダークブラウンのストレートの髪に、眼鏡を掛けている清楚な女性。その見た目からも男性社員に人気があるらしい。
身体が弱いみたいで、いつも蒼白い顔をしている。だからか何度か具合が悪くなって、休憩しているところを見掛けた事があったな。
入社してからの教育係は別の女性社員が担当していたから、私との絡みは直接的にはそれほど多くはなかったけど。そんな2人が……?
***
見つからないようにと息を潜め、ジッと目を凝らして様子を窺ってしまう。
凪が言ってた好きな人って、たぶんこのコで間違いないと思う。目の前で見せつけられているんだから信じるしかない。
飲み会の席からとは言っていたけど、本当にそこから? 以前から特別な感情があったんじゃないの?……って、そんな疑問が浮かぶくらい親しさを感じる。
今にもキスをしそうなその距離。
待って。ここ、まだ職場なんだけどな。ヤるなら家でやってくれ。
「なんで元カレの《《そんなの》》見てんだろ、アホらし」
思った本音を心の中だけに留めておけなくて、思わず凄く小さな声で漏らしてしまったけど、たぶん2人には聞こえていない。はず。
なんかむしろ、聞こえていてもいいんじゃない?私が見てた、なんて知ったら向こう、どんな顔するかな。
「はぁー……」
結婚式後の祝福する幸福の気持ちから一転、フッた元カレのラブラブ現場を見てしまったが為にテンションがドン底に付き合おとされた私は、2人が出ていった後しばらくしてから重めの溜め息を吐きつつ退勤を押して外に出た。
気分転換に飲みにでも行こうかな。ちょうど明日は休みだし。
職場と自宅とのちょうど中間の、大通りから外れた路地裏を入った所に、ひっそりと佇むオーセンティックバー。店自体はそれほど大きくなく看板もないから、目立つ訳でもない。その店は、まさに隠れ家。
つい最近、偶然ここを知ってから数回ほど1人で訪れている私の憩いの場だ。
「こんばんはぁ」
そっと扉を開けると、カラカラ〜と入店を合図するドアベルの音が耳に入る。
良かった、営業しているみたい。
いつも静かに穏やかなこのBARは、クラシックが流れていて大人の雰囲気を醸し出している。
「いらっしゃいませ」
BARカウンターでグラスを拭きながらニコっと私に爽やかな笑顔を向けてくれたのが、この店のマスター。髭もなければ黒髪で体型は細めの色白。若い見た目から年齢がわかりづらいけれど、聞くと41歳らしい。
こういう仕事をしていると、若くいられるのかな――――