ビュービューと吹く風が窓をキシキシと鳴らす。冬用の着物に羽織を着た橙花はキツネが眠る部屋へと足を運んでいた。
寒さが厳しい中で未だ眠り続けているキツネ。ストーブがないこの世界では火鉢を使って暖をとっている。
近くに入れば暖かいが、それでもキツネが寒くないかと心配になっていた。
「今日も寒いね」
橙花は毎日キツネに話しかけている。時折うなされているキツネは橙花が話しかけると、悪夢から時離れたかのようにまた深い眠りへとつく。
看病を初めてから日課となっていた。菖たちが居ない寂しさも少しは気が紛れていた。
「菖たちは今日も調査で居ないんだ。私とあなたの2人っきり」
この世界に来てから1か月の時が経った。元の世界に帰る方法は未だ見つかっていない。それでも菖たちは人間の世界に通じる道と黒いキツネについて調べている。
あやかしの世界の生活には慣れてきたが、夜は決まって不安になる日が多い。家族や友人を思い出して時折寝不足になるが、菖が時間を割いて話し相手になってくれる。
橙花は部屋に戻ろうと立ち上がった。襖に手を置いたその時、何かモゾモゾと動く音が聞こえてきた。振り返るとキツネが薄っらと目を開けていた。
「…くぅん。うぅ…ここは?」
ゆっくりと立ち上がろうとするキツネ。しかし、本調子ではないキツネはすぐに倒れてしまう。急いで駆け寄る橙花。
キツネはその足音を驚いて部屋の隅に逃げてしまい、フゥーっと橙花に向かって威嚇をする。
「目を覚ましたんだね。良かった」
「人間の娘、ここは何処だ!?」
興奮して荒い息を漏らすキツネは牙を剥く。落ち着かせようとするが、一歩でも近づくとガゥと唸りをあげる。
「ここは北条家の屋敷です。あなたは倒れてずっと眠っていたんですよ」
「北条家?なるほど、白龍の屋敷か。だが何故、オレを助けた?貴様は人間だ。あやかしなど助けるに値しないはずだ」
「傷ついているあなたをほっとけなかった。私は人間もあやかしも同じ生き物だと思っているから」
「あやかしに恩を売って何になる。あやかしは人間を襲い、喰う。そんな野蛮な生き物に恩を売って何になる!?」
声を荒らげるキツネに橙花は一瞬ビクッとした。しかし橙花はそれ以上怖がりはしなかった。キツネは橙花の身の安全を心配しているように感じたからだ。
このあやかしが本当に自分のことを襲おうとしているなら、橙花はもうこの世にはいないからだ。
初めてあやかしに襲われたあの日を思い出す。人間である橙花にあやかしは本能に抗うことなく牙を剥き、襲いかかってきた。
人間はあやかしには勝てない。そんな現実を目の当たりにしたからこそ、キツネの言葉に違和感を感じていた。
「あなたは私を襲う気なんてない。威嚇をしているのは自分から私を遠ざけたいからなんでしょ?大あやかしから守ってくれたあなたは本当は優しいあやかしだって私は信じてる」
「何を言っている。貴様、本当に死にたいのか。オレはあやかしだ。不吉と呼ばれている黒いあやかしだ。人間など、この牙で一瞬のうちに噛み殺すことだってできる」
「人間とあやかしの力には大きな差があるのは、この世界に来て最初に知ったこと。だからこそ、私はあなたのことを知りたいと思った」
橙花はキツネと目線を合わせるようにその場にしゃがみこんだ。そして手を差し出してキツネに寄り添おうとした。
「キツネさん。私とお友達になってください。もっと知りたいの。あやかしのことも、この世界のことも。そして、あなたのことも」
「知って何になる。お前とあやかしは違うんだ。理解など出来るはずがない」
「だからこそ、私は知らなくちゃいけない。人間って、あやかしってそんなに違う生き物なのか。私はその答えを知りたい。理解しないと見えないことだってあるから」
真っ直ぐ捕らえられた紫がかった瞳がゆれた。キツネの中で人間である橙花に何かを感じた。
キツネは威嚇をやめてその場に座る。
「お前のような人間にオレたちのことが本当に理解出来るのか?」
「出来ます。私はあやかしのように力を持たない人間だからこそ、知れることがあるはず。その為にはあなたにも友達になってくれないと困ります」
「はっ、結局はそれが目的か。まぁ、いい。気が済むまで“友達”としていてやるよ」
キツネは橙花に歩み寄って前脚を差し伸べられた手を置く。
「いいの?」
「何度も言わせるな。お前の気が済むまで居てやる。妙な真似したら喰ってやるからな?」
「ありがとうキツネさん」
「…紫苑」
「紫苑?それが名前なの?」
キツネは答えなかった。それ以上言うのはめんどくさいと思ったのだろう。
「よろしくね紫苑。私は笠井 橙花」
「知ってる」
「え?」
「あの銀髪がそう呼んでいただろう。それくらいの記憶はある」
「そっか。あ、お腹すいてない?そろそろお昼だからご飯もらってくるね」
「…あぁ」
どこか寂しそうに窓の外を見つめる紫苑。目を覚ましたばかりで疲れが出たのだろうか。橙花は少しでも元気なってもらうために屋敷の台所に向かった。
お手伝いさんに紫苑のことを話して食事を一人分追加で作ってもらった。
料理を届けるために部屋に向かうと紫苑はまた寝ていた。そばに食事を置いて静かに部屋を出る。
(まだ完全に回復してないのかな。異能の力ってそれだけ大きいってことだよね)
人間には無い異能は橙花の想像を遥かに超える力だ。あやかしによって違う特殊なもので、紫苑や瑞紀のように攻撃に特化したものや菖のように傷を癒すものと様々だ。
紫苑の異能はケガをしているとはいえ、その強さはとても恐ろしいほどだった。もしも回復した状態で攻撃を仕掛けていたのなら大あやかしはひとたまりもなかっただろう。
それを想像したらゾクッと寒気が起こってしまう。
橙花は紫苑はそんな事しないと信じているが飢えたあやかしたちが襲ってくるのを目の当たりにし、可能性は0とは限らないと心のどこかで思っていた。
菖も瑞紀も当主である璃央も例外ではない。
(北条家の皆のことは一番に信じたい。けど…)
相手はあやかし。いつ、下級あやかしのようになるか分からない。お守りの力は万能ではないが、いざという時のためにしっかり懐にしまっておこう。
橙花は罪悪感を抱えながら部屋への廊下を歩いていく。
ーー再び台所前を通る橙花。通り過ぎようとするとお手伝いさんに呼び止められる。
「橙花様」
「藤さん。先程は無理を言ってすいません」
「いいんですよ。それより紫苑様のご様子はいかがでしたか?」
北条家に使える使用人の中でも最長である藤は璃央が幼少期の頃からこの屋敷で働いている。
周りへの気配りは全使用人の憧れ。皆が慕う家族のような存在だ。
「部屋に行ったらまた眠りについてました。しばらくしたらまた様子を見に行く予定です」
「そうですか。何かありましたらいつでもお申し付けください」
「ありがとうございます。あれ?藤さん、その食事はどなたのですか?」
現在北条家の屋敷には橙花と紫苑、それと屋敷の使用人しかいない。橙花は既に食事を取っているため必要はない。
そして使用人は台所にある東側の通路から休憩する部屋を設けられているため、南側の通路を通ることはほとんどない。
「ああ、これは璃央様の分の食事です」
「璃央様のですか…?」
「そろそろ戻って来られるのでお届けしようと。そうですわ。橙花様、恐れ入りますがこちらの食事を璃央様に届けてはもらえないでしょうか?」
「私がですか?それはもちろん構いません。藤さんも自分の食事を取って休んでいてください」
「ふふ、橙花様はお優しいですね。では、こちらをお願いします」
橙花は藤から璃央の食事を受け取り、屋敷の奥へと進む。当主である璃央の部屋は屋敷の真南の方向にある。
一度だけ訪れたことがあるが、それ以降は足を踏み入れていない。部屋の入口に彫られていた二体の龍神は今の記憶に残っている。
白龍と黒龍。大昔に人間と同じ世界で生きていたあやかしたち。その二体が世界を分けてふたつの世界を作った。
そのうちの白龍の子孫である璃央と菖はその太古の力を秘めている。
屋敷内で黒いあやかしと交戦になった時は璃央の導きと菖の一撃で事なきを得ることができた。
初めは攻撃を与えることすらままならない状況だったが、二人の息のあった連携が勝利へと近づけた。
(あれだけ苦戦していたのに璃央様が指示を出した瞬間に菖さんの攻撃は黒いあやかしに当たるようになったんだよね。あれが北条家当主の力。いつかは菖さんも璃央様のような指揮をとる日が来るってことだよね)
未来の菖を想像して笑みを浮かべた橙花は璃央の部屋へと続く渡り廊下にたどり着いた。
この場所は屋敷の中で最も冷気が頻繁に侵入して建物を一気に冷やしている。初めて訪れた時も季節以上に寒さを感じていた。
「璃央様、橙花です。食事をお持ちしました」
藤から帰っていると聞いていたが、声をかけても返事がない。一度戻ろうかと立ち上がった時だった。部屋の奥から何らかの物音が聞こえてきた。
気になった橙花はゆっくり襖を開ける。すると温かな風が吹き込んできた。
そのまま部屋に入り、璃央を探す。しかし姿は無く、机の上に当主愛用の眼鏡だけが部屋に残されていた。
「璃央様どこにいるんだろう」
食事を一旦机に置いて部屋をもう少し詳しく調べてみることにした橙花はもうひとつ襖があることに気づく。
襖に手をかけると先程と同じ風が隙間から吹き込んでいた。開けて最初に飛び込んできた景色は草木や花で覆われた中庭だった。
部屋に入ると寒かったのが嘘みたいに暖かい陽気が橙花の身体を包み込んできた。そこはまるで春のような暖かさだった。
(ここって璃央様の部屋?外に出る時に着ている羽織がある。やっぱり帰ってきているんだ)
姿が見えぬ璃央を探そうも橙花は庭へ出た。今の季節にはない柔らかな土と草花の匂いはどこか懐かしい気持ちにさせる。
空を見上げてお日様の光を全身に浴びていると、あることに気づいた。
(同じ外なのに雪が降ってない…?)
橙花が渡り廊下を歩いていた時はたしかに雪は降っていた。しかしこの庭は雪が降っていなく晴天で冬とは思えない程暖かい。
入ってすぐに気づかなかったのは元の世界では冬になるとストーブを使うのが習慣となっていたからだ。
あやかしの世界では火鉢や暖炉を使って暖を取るため、橙花には馴染みがなかった。
久々に浴びる日光に眠気を誘われる。目を閉じかけたその時、最初に部屋から聞こえてきた物音がしてきた。
それは部屋の中ではなく、橙花の頭上。驚いて空を見上げた先に飛び込んできたのは龍だった。
「あれって夢に見た…!」
夢の中でであった龍にそっくりだった。龍は橙花に気づき、勢いよく下降してきた。突風が吹き荒れ、咄嗟に目を瞑る。
突風がおさまり、ゆっくりと目を開けるとそこにいたのは北条家当主である璃央だった。
「ようこそ春の間へ。心より歓迎します橙花さん」
「璃、央様?いつからそこに」
「ずっとここにいました。気付かぬのも仕方ない。私はさっきまで本来の姿に戻っていたのだからな」
本来の姿と聞いて橙花はハッとする。そう、先程見た龍は璃央だったのだ。白龍の血を受け継ぐ北条家は人間の姿を仮として、本来は龍の姿をしている。
「立ち話も良いが、ここは座って話をしよう。ちょうど腹も空いてきた」
「…っ!食事なら藤さんに頼まれて持ってきました。取ってきます」
「おお、それはそれは。藤さんも粋なことをするのう。橙花さん、手数をかけることを承知だが机の上に置いてある眼鏡を持ってきてくれないか」
「眼鏡ですね。分かりました」
寒さが厳しい中で未だ眠り続けているキツネ。ストーブがないこの世界では火鉢を使って暖をとっている。
近くに入れば暖かいが、それでもキツネが寒くないかと心配になっていた。
「今日も寒いね」
橙花は毎日キツネに話しかけている。時折うなされているキツネは橙花が話しかけると、悪夢から時離れたかのようにまた深い眠りへとつく。
看病を初めてから日課となっていた。菖たちが居ない寂しさも少しは気が紛れていた。
「菖たちは今日も調査で居ないんだ。私とあなたの2人っきり」
この世界に来てから1か月の時が経った。元の世界に帰る方法は未だ見つかっていない。それでも菖たちは人間の世界に通じる道と黒いキツネについて調べている。
あやかしの世界の生活には慣れてきたが、夜は決まって不安になる日が多い。家族や友人を思い出して時折寝不足になるが、菖が時間を割いて話し相手になってくれる。
橙花は部屋に戻ろうと立ち上がった。襖に手を置いたその時、何かモゾモゾと動く音が聞こえてきた。振り返るとキツネが薄っらと目を開けていた。
「…くぅん。うぅ…ここは?」
ゆっくりと立ち上がろうとするキツネ。しかし、本調子ではないキツネはすぐに倒れてしまう。急いで駆け寄る橙花。
キツネはその足音を驚いて部屋の隅に逃げてしまい、フゥーっと橙花に向かって威嚇をする。
「目を覚ましたんだね。良かった」
「人間の娘、ここは何処だ!?」
興奮して荒い息を漏らすキツネは牙を剥く。落ち着かせようとするが、一歩でも近づくとガゥと唸りをあげる。
「ここは北条家の屋敷です。あなたは倒れてずっと眠っていたんですよ」
「北条家?なるほど、白龍の屋敷か。だが何故、オレを助けた?貴様は人間だ。あやかしなど助けるに値しないはずだ」
「傷ついているあなたをほっとけなかった。私は人間もあやかしも同じ生き物だと思っているから」
「あやかしに恩を売って何になる。あやかしは人間を襲い、喰う。そんな野蛮な生き物に恩を売って何になる!?」
声を荒らげるキツネに橙花は一瞬ビクッとした。しかし橙花はそれ以上怖がりはしなかった。キツネは橙花の身の安全を心配しているように感じたからだ。
このあやかしが本当に自分のことを襲おうとしているなら、橙花はもうこの世にはいないからだ。
初めてあやかしに襲われたあの日を思い出す。人間である橙花にあやかしは本能に抗うことなく牙を剥き、襲いかかってきた。
人間はあやかしには勝てない。そんな現実を目の当たりにしたからこそ、キツネの言葉に違和感を感じていた。
「あなたは私を襲う気なんてない。威嚇をしているのは自分から私を遠ざけたいからなんでしょ?大あやかしから守ってくれたあなたは本当は優しいあやかしだって私は信じてる」
「何を言っている。貴様、本当に死にたいのか。オレはあやかしだ。不吉と呼ばれている黒いあやかしだ。人間など、この牙で一瞬のうちに噛み殺すことだってできる」
「人間とあやかしの力には大きな差があるのは、この世界に来て最初に知ったこと。だからこそ、私はあなたのことを知りたいと思った」
橙花はキツネと目線を合わせるようにその場にしゃがみこんだ。そして手を差し出してキツネに寄り添おうとした。
「キツネさん。私とお友達になってください。もっと知りたいの。あやかしのことも、この世界のことも。そして、あなたのことも」
「知って何になる。お前とあやかしは違うんだ。理解など出来るはずがない」
「だからこそ、私は知らなくちゃいけない。人間って、あやかしってそんなに違う生き物なのか。私はその答えを知りたい。理解しないと見えないことだってあるから」
真っ直ぐ捕らえられた紫がかった瞳がゆれた。キツネの中で人間である橙花に何かを感じた。
キツネは威嚇をやめてその場に座る。
「お前のような人間にオレたちのことが本当に理解出来るのか?」
「出来ます。私はあやかしのように力を持たない人間だからこそ、知れることがあるはず。その為にはあなたにも友達になってくれないと困ります」
「はっ、結局はそれが目的か。まぁ、いい。気が済むまで“友達”としていてやるよ」
キツネは橙花に歩み寄って前脚を差し伸べられた手を置く。
「いいの?」
「何度も言わせるな。お前の気が済むまで居てやる。妙な真似したら喰ってやるからな?」
「ありがとうキツネさん」
「…紫苑」
「紫苑?それが名前なの?」
キツネは答えなかった。それ以上言うのはめんどくさいと思ったのだろう。
「よろしくね紫苑。私は笠井 橙花」
「知ってる」
「え?」
「あの銀髪がそう呼んでいただろう。それくらいの記憶はある」
「そっか。あ、お腹すいてない?そろそろお昼だからご飯もらってくるね」
「…あぁ」
どこか寂しそうに窓の外を見つめる紫苑。目を覚ましたばかりで疲れが出たのだろうか。橙花は少しでも元気なってもらうために屋敷の台所に向かった。
お手伝いさんに紫苑のことを話して食事を一人分追加で作ってもらった。
料理を届けるために部屋に向かうと紫苑はまた寝ていた。そばに食事を置いて静かに部屋を出る。
(まだ完全に回復してないのかな。異能の力ってそれだけ大きいってことだよね)
人間には無い異能は橙花の想像を遥かに超える力だ。あやかしによって違う特殊なもので、紫苑や瑞紀のように攻撃に特化したものや菖のように傷を癒すものと様々だ。
紫苑の異能はケガをしているとはいえ、その強さはとても恐ろしいほどだった。もしも回復した状態で攻撃を仕掛けていたのなら大あやかしはひとたまりもなかっただろう。
それを想像したらゾクッと寒気が起こってしまう。
橙花は紫苑はそんな事しないと信じているが飢えたあやかしたちが襲ってくるのを目の当たりにし、可能性は0とは限らないと心のどこかで思っていた。
菖も瑞紀も当主である璃央も例外ではない。
(北条家の皆のことは一番に信じたい。けど…)
相手はあやかし。いつ、下級あやかしのようになるか分からない。お守りの力は万能ではないが、いざという時のためにしっかり懐にしまっておこう。
橙花は罪悪感を抱えながら部屋への廊下を歩いていく。
ーー再び台所前を通る橙花。通り過ぎようとするとお手伝いさんに呼び止められる。
「橙花様」
「藤さん。先程は無理を言ってすいません」
「いいんですよ。それより紫苑様のご様子はいかがでしたか?」
北条家に使える使用人の中でも最長である藤は璃央が幼少期の頃からこの屋敷で働いている。
周りへの気配りは全使用人の憧れ。皆が慕う家族のような存在だ。
「部屋に行ったらまた眠りについてました。しばらくしたらまた様子を見に行く予定です」
「そうですか。何かありましたらいつでもお申し付けください」
「ありがとうございます。あれ?藤さん、その食事はどなたのですか?」
現在北条家の屋敷には橙花と紫苑、それと屋敷の使用人しかいない。橙花は既に食事を取っているため必要はない。
そして使用人は台所にある東側の通路から休憩する部屋を設けられているため、南側の通路を通ることはほとんどない。
「ああ、これは璃央様の分の食事です」
「璃央様のですか…?」
「そろそろ戻って来られるのでお届けしようと。そうですわ。橙花様、恐れ入りますがこちらの食事を璃央様に届けてはもらえないでしょうか?」
「私がですか?それはもちろん構いません。藤さんも自分の食事を取って休んでいてください」
「ふふ、橙花様はお優しいですね。では、こちらをお願いします」
橙花は藤から璃央の食事を受け取り、屋敷の奥へと進む。当主である璃央の部屋は屋敷の真南の方向にある。
一度だけ訪れたことがあるが、それ以降は足を踏み入れていない。部屋の入口に彫られていた二体の龍神は今の記憶に残っている。
白龍と黒龍。大昔に人間と同じ世界で生きていたあやかしたち。その二体が世界を分けてふたつの世界を作った。
そのうちの白龍の子孫である璃央と菖はその太古の力を秘めている。
屋敷内で黒いあやかしと交戦になった時は璃央の導きと菖の一撃で事なきを得ることができた。
初めは攻撃を与えることすらままならない状況だったが、二人の息のあった連携が勝利へと近づけた。
(あれだけ苦戦していたのに璃央様が指示を出した瞬間に菖さんの攻撃は黒いあやかしに当たるようになったんだよね。あれが北条家当主の力。いつかは菖さんも璃央様のような指揮をとる日が来るってことだよね)
未来の菖を想像して笑みを浮かべた橙花は璃央の部屋へと続く渡り廊下にたどり着いた。
この場所は屋敷の中で最も冷気が頻繁に侵入して建物を一気に冷やしている。初めて訪れた時も季節以上に寒さを感じていた。
「璃央様、橙花です。食事をお持ちしました」
藤から帰っていると聞いていたが、声をかけても返事がない。一度戻ろうかと立ち上がった時だった。部屋の奥から何らかの物音が聞こえてきた。
気になった橙花はゆっくり襖を開ける。すると温かな風が吹き込んできた。
そのまま部屋に入り、璃央を探す。しかし姿は無く、机の上に当主愛用の眼鏡だけが部屋に残されていた。
「璃央様どこにいるんだろう」
食事を一旦机に置いて部屋をもう少し詳しく調べてみることにした橙花はもうひとつ襖があることに気づく。
襖に手をかけると先程と同じ風が隙間から吹き込んでいた。開けて最初に飛び込んできた景色は草木や花で覆われた中庭だった。
部屋に入ると寒かったのが嘘みたいに暖かい陽気が橙花の身体を包み込んできた。そこはまるで春のような暖かさだった。
(ここって璃央様の部屋?外に出る時に着ている羽織がある。やっぱり帰ってきているんだ)
姿が見えぬ璃央を探そうも橙花は庭へ出た。今の季節にはない柔らかな土と草花の匂いはどこか懐かしい気持ちにさせる。
空を見上げてお日様の光を全身に浴びていると、あることに気づいた。
(同じ外なのに雪が降ってない…?)
橙花が渡り廊下を歩いていた時はたしかに雪は降っていた。しかしこの庭は雪が降っていなく晴天で冬とは思えない程暖かい。
入ってすぐに気づかなかったのは元の世界では冬になるとストーブを使うのが習慣となっていたからだ。
あやかしの世界では火鉢や暖炉を使って暖を取るため、橙花には馴染みがなかった。
久々に浴びる日光に眠気を誘われる。目を閉じかけたその時、最初に部屋から聞こえてきた物音がしてきた。
それは部屋の中ではなく、橙花の頭上。驚いて空を見上げた先に飛び込んできたのは龍だった。
「あれって夢に見た…!」
夢の中でであった龍にそっくりだった。龍は橙花に気づき、勢いよく下降してきた。突風が吹き荒れ、咄嗟に目を瞑る。
突風がおさまり、ゆっくりと目を開けるとそこにいたのは北条家当主である璃央だった。
「ようこそ春の間へ。心より歓迎します橙花さん」
「璃、央様?いつからそこに」
「ずっとここにいました。気付かぬのも仕方ない。私はさっきまで本来の姿に戻っていたのだからな」
本来の姿と聞いて橙花はハッとする。そう、先程見た龍は璃央だったのだ。白龍の血を受け継ぐ北条家は人間の姿を仮として、本来は龍の姿をしている。
「立ち話も良いが、ここは座って話をしよう。ちょうど腹も空いてきた」
「…っ!食事なら藤さんに頼まれて持ってきました。取ってきます」
「おお、それはそれは。藤さんも粋なことをするのう。橙花さん、手数をかけることを承知だが机の上に置いてある眼鏡を持ってきてくれないか」
「眼鏡ですね。分かりました」


