菖さんは短くため息をついて、小さく頷く。
「今回は大あやかしに免じて許そう。だが橙花、これだけは忘れるな。おのれの命、簡単に手放していいほど、軽いものでないという事を」
「はい。肝に免じます」
「分かればよい。大あやかし、お前の傷を治そう。こちらへ」
「すまない」
そういえば黒いあやかしは?あとキツネも。どこに…あっ!
黒いあやかしは私たちから離れている所にいた。足元がおぼつかない様子で、よろけながら歩いていく。私はそれを追って、引き止めようとした。
「待って!」
「俺に関わるな」
「どうして?」
「“黒いあやかし”は不吉な存在だ。近くに居れば、災いが起こる」
立っているのもやっとなんだろう。どんどん声に力が無くなっていき、今にも倒れそうだ。大あやかしに付けられた傷からさ大量に出血している。
早く手当てしないと命が危ない…!
「不吉なんかじゃない!」
「は?何を言って……」
「あなたは私を助けてくれた。そんな人が不吉だなんて私は思わない。あやかしの間ではそうかもしれない。けど、私はあなたの優しさを信じる」
「信じる?人間があやかしを?はっ、笑わせるな。お前は知らないだけだ。あやかしの本当の恐ろしさを」
「あやかしも人間も同じだよ。同じ命で、今もこうして生きている。助けたいって思うのも、信じたいって思うのも、同じだってここに来て、短い間だけど知ることができた」
「知って何になる?あやかしと人間はお前が考えているのとは違う。力も見た目も何もかも違うバケモノだ!」
「バケモノじゃないよ!同じように生きてるの…!誰かに喜んでもらったり、危険なことをすれば叱ったり、悲しい時も苦しい時はこうして手を差し伸べてくれた」
私は黒いあやかしの前に手を差し出した。振り返ったあやかしは一度手に触れようとしたが、躊躇って戻してしまう。
すると、私の手平に違う手が重なった。
「俺たちはこの手をとって誓った。彼女を護ると。お前が伸ばさぬのなら、こっちから行くとしよう…!」
菖さんが黒いあやかしの手をとって、私の手に重ねた。傷だからの手からは温かい体温が伝わってくる。
「ほら、人間の私と同じ。命のぬくもり」
手に微かに響く鼓動。トクントクんと鳴って、私の鼓動に音が重なる。
「やはり理解できない。人間とは何だ?どうしてここまで俺を知ろうとする?」
「私は知りたいの。あやかしのことも人間のことも。大昔、強い絆で結ばれたあの日を取り戻すために…!」
「あやかしと人間の絆など所詮、偽りだ」
「偽りじゃない。人間と交流したあやかしの中には今もその事を大切にしている人もいる」
着物屋さんの店主、菓子屋さんの瑞紀さんのご両親。突然人間の私が来たにも関わらず、快く歓迎してくれた。ちゃんと残ってるんだよ。あやかしと人間の絆は。
「あなたにも知ってほしい。あやかしのことも人間のことも。ねっ?黒いキツネさん」
気づけば黒いあやかしはキツネの姿になって眠っていた。
菓子屋さんで見たキツネのあやかしは前脚を庇いながら私たちに威嚇していた。走り去る時もやや重心が傾いていたのに気づいた。
初めてキツネを見た時の違和感はその時のものだった。
草むらでキツネを見つけ、予想していたものが確信に変わる。そして人間の姿になったキツネは同じように深く傷ついた腕を庇っていた。
大あやかしにつけられた傷は後ろ脚にあった。だからこの傷は“別の誰か”につけられたものだと考えられる。
誰がこんな酷いことを…。
私はキツネのあやかしを抱えて、北条家の屋敷へ急ぐ。
私は願った。
もし助かったら、あなたのことをもっと知りたい。許されるのなら、あなたと友達になりたい。
菓子屋の前で出会った黒いキツネは深い傷を負っていた。
私は消耗しているキツネを北条家の屋敷に連れ帰り、当主である璃央様に承諾を得て、看病を続けている。
北条家に仕える医師からは傷は数週間で治ると言われほっと一安心する。だけど、それ以上にキツネの異能の力は戻るまでにかなりの時間がかかると告げられた。
キツネは人間の姿になることが出来る。でもそれは力が回復して出来るもので、消耗すれば本来の姿に戻ってしまうという。
傷のひとつは大あやかしに付けられたもの。そして、一番状態が悪い前脚の傷は他のあやかしに付けられたもの…。
医師からは下級のあやかしが付けたものとは考えにくく、より力の強いあやかしが付けたものだと推測された。
このキツネが何処から来たのか、誰によって怪我を負ったのか。目覚めるまで分からない状態だ。
ここに連れてきてから一度も目を覚ましていない。話によると眠ることで回復しているとのこと。
大体は数日で目を覚ますらしいけど、この子は眠り続けている。
時折、苦しい表情を見せるキツネ。悪い夢にうなされているのだろうか。
そういう時は優しく撫でると落ち着いてまた眠りについてくれる。
「大丈夫だよ。私たちがついてる」
キツネは応えるように「クゥ…」と鳴く。私も笑顔で返事をした。
柔らかい毛を再び撫で、穏やかな昼下がりの午後がゆっくりと過ぎていった。
ーー菖さん、瑞紀さん、そして当主様は連日、屋敷を留守にすることが多くなった。
私が元の世界に帰る方法や黒いキツネが何処から来たのか調べている。
そのため、北条家の屋敷には使用人と私、キツネのみ。黒いあやかしの襲撃が警戒されている中で、無防備の状態の北条家。
当主様が結界を強化くれているとはいえ、北条家の強者たちが適わなかった相手。その不安が日に日に積み上がっていく。
最初の襲撃以降、屋敷に変化はない。良いことではあるけど、同時に不気味に感じた。
まるでいつでも襲撃出来ると言われんばかりの気配を漂わせているような…。
そんな心が落ち着かない状況が続き、私はここ何日か寝不足になっていた。
日中は使用人たちが屋敷の中を行ったり来たりしているけど、夜になれば皆眠りにつき、静まり返っている。
シーンとした空気が不安を高め、眠ってもすぐに覚めてしまう。ようやく眠れてもすぐに太陽が昇り、朝食とキツネの看病をして一日が過ぎる。
寂しいというのもあるかもしれない。いきなり違う世界で、出会ったばかりの人との生活を共にして。
家族や友人はいま、どうしているか…。不意に考えてしまう。
菖さんたちが居ればお喋りをして、少しは気持ちが和らぐと思うけど、私たちのために動いてくれている手前、中々それを口に出せない。
「ちょっと、寂しい…」
私は目を閉じた。考えれば考えるほど悲しくなるから。寝れば忘れる。寝不足もあってか意外にあっさりと眠りにつくことが出来た。
ーー眠りの中、また夢を見た。
黒いキツネが私をどこかに導こうとした。暗い道を歩き、キツネの背中に着いていく。
何度も振り返って私がちゃんと着いてきているか確認している。
『何処に行くの?』
その問いに答えることはなかった。すると急に立ち止まり、その場に座る。
『どうしたの?』
遠くを見て『クゥーン』と哀しそうに泣く。隣にしゃがんでキツネを抱きかかえた。
『大丈夫、私も一緒だから。悲しまないで』
『こわい』
キツネは震えていた。背中をゆっくり撫でても震えは止まらない。
私には想像も出来ないほどの恐怖に見舞われてきたのだろうか。
黒いあやかしはこの世界にとって災いそのもの。大昔、光と闇が戦いを繰り広げていたあの日から。
けどこの子は違う。誰かを守ろうとする意思がある。今の時代のあやかしは自分の身を守ることが精一杯だ。
そんな中でこの子は私を守ろうとしてくれた。自分が傷ついているにも関わらず。ちょっと強引にも思えたけど、私には伝わったよ。あなたの優しさ。
私があなたの悲しみを受け止める。だから、笑って?今度は私が守りたい。
すると次第にキツネの震えは収まっていった。落ち着きを取り戻し、スースーと寝息を立てて穏やかに眠る。
『おやすみ』
ーー襖からの冷たい隙間風が吹く。ひんやりとした空気に身を縮こませて暖を逃すまいとした。
すると膝元に和らい布があるのに気づく。ゆっくり目を開けると目と鼻の先に菖さんの顔があった。
「すまない。起こしたか」
「えっ!?あ、菖さん!?」
驚いて離れると柱に頭をぶつけれしまい、ゴン!っという音をたてる。
「いったー……」
ぶつけた部分はなかなか痛く、ジンジンと脈を打つ。
「平気か?驚かしてすまない。眠っていたから毛布をかけようとしたんだが…」
「だ、大丈夫です。毛布ありがとうございます」
菖さんが掛けてくれた毛布を肩までかける。次第にポカポカと温かくなっていく。
「くしゅん」
「菖さん大丈夫ですか?良かったら隣どうぞ」
私の隣のスペースをあけて毛布をふわっと広げる。一人じゃ少し大きいからもう一人入るくらいどうってことない。
「俺は大丈夫だ。これ見えて寒さには強い」
着物に羽織を着ているとはいえ、屋敷に入る隙間風は冷たく耐え難い。いくら寒さに強くても手足は冷えきるだろう。
「私の隣はイヤですか?」
「そうではない。…後悔しても知らないぞ?」
立ち上がって隣に座る菖さん。毛布を掛けてあげるといきなり肩を抱かれる。
「きゃっ!」
「間が空くと寒い。もっと寄れ」
ジリジリと近づく距離。身体の半分は菖さんに密着する。2人分の体温は火傷するのかと思うくらい熱い。
髪にかかる菖さんの吐息があたる。
…近い。
「橙花、君は人思いで時に無茶をする。そんな君に明らかに足りないのは想像力だ」
声の甘さに加え囁くように話す菖さん。胸の鼓動がトクントクンと加速していく。片腕で私の肩をガッチリと抑え逃げる隙を与えない。
「ごめんなさい。そこまで考えていませんでした」
「だから言ったんだ。“後悔しても知らない”と。これに懲りて、男を簡易に誘わないことだな」
「はい」
「分かればいい。言いたいことは言った。俺は部屋に戻る。何かあったら呼んでくれ」
菖さん毛布から出ると再び冷気が入り込む。さっきまでの温かさは心のどこかで求めていたもの。だからか、私は離れがたくて彼の着物の袖を掴んだ。
「あっ…」
「橙花?」
忙しい菖さんの貴重な時間を奪いたくない。そんなの分かっているはずなのに、溢れんばかりの感情が止められない。
「ここに居てください」
「だが、それでは橙花が休むことができない。あまり眠れていないのだろう?」
菖さんは私の体調の変化に気づいていた。いつもなら引き下がるのが私なんだろうけど、不思議と菖さんを求めている。傍にいて。私はずっと不安で怖かった。
ようやく顔を合わせることができたのに…このまま一人になるのはイヤ。
「傍にいてください。私のわがまま、聞いてください」
「また、後悔することになってもか?」
「後悔なんてしません。私は、菖さんに傍にいてほしい」
自分が何を言っているのか。それは後できっと後悔するだろう。
「その言葉、忘れるな?」
言葉の後悔よりも菖さんとの時間を過ごせない方がよっぽど後悔する。
隣に座る菖さんは私の肩を再び抱く。さっき打った頭を優しくさすり「まだ痛むか?」と聞いてきた。私は「もう平気です」と答えた。
安心しきった私は彼の腕の中で再び目を閉じ、心地よい夢の中へと誘うのだった。
「困ったな、どうも気が緩んでしまう。…胸をざわつかせるこの感覚を人間は何と呼ぶ?いつか教えてくれ。それまで、おやすみ橙花」