世の中奇怪な出来事というのは自分の身に起こっていないだけで、意外と身近なところで起きているのかもしれない。ただそれに気づけるかどうか、というだけだ。実際、誰一人としてその変化に気づく者はいなかった。周囲は皆変わらずこれまで通りの日常を過ごした。

 しかし僕は、変わった。誰しもが当たり前と思う、人間ではなくなったのだ。
 僕自身、自分の身に起こった出来事を正確に理解するまでにはかなりの時間を要した。深い眠りから目を覚ますと、僕は未だあの無機質な壁に囲まれた部屋で、ベッドの上に横たわっていた。相変わらず体は動かず、重力に従うようにベッドにしっかり沈み込んでいた。

 目の前には黒い服を着た男が一人、そこに立っていた。彼は警察官のような格好で、黒い丈の長いジャケット—ジャケットには意味を成さないであろう細かな装飾が施されたボタンが、九個ずつ左右に縦列していた—に黒いパンツ、そして同じく黒いロングブーツを身につけていた。
 彼は野太いバリトンの声の持ち主で、あのとき、遠くから聞こえた声の一人だったようだ。想像とは異なり、恰幅がいいとは程遠い中背より少し背の高い、どちらかと言えば華奢な男であった。彼は僕にあの日の出来事を説明してくれているようだったが、相変わらず意識が冴えていなかった僕は、その話を理解する以前に、耳に入ってきているかすら怪しかった。
 焦点の定まらない虚ろな目で天井を見つめたまま、僕は数日間、数ヶ月間をこのベッドの上で過ごした。それだけの時間が経っても僕はツリーを買いに行った日の出来事を思い出せなかった。あまりの衝撃に記憶から一時的に抹消されたらしい。自分にとって不幸で衝撃的な出来事が起こると、自己防衛のためその記憶を消してしまうことがある、とかいうやつだ。


 黒い服を着たその男は毎日三度、朝八時、正午、夜九時と同じ時間にやってきて、同じ話を繰り返した。一語一句違えることなく淡々と。一ヶ月か、二ヶ月か。その唱えを聞き続けた甲斐あって、僕は徐々に当時の記憶を呼び覚ましていった。あのクリスマスツリーを買いに出かけた日のことを。そしてあの時、僕の体の中で何が起こったのかをようやく知り得た。

「お前は『人間』としての生命を終えた。これからは『ヒト』として生きてゆくのだ」

 ある日その男は、突然そう告げた。
「変態しただけだ、正確な訓練を積めば何も恐れることはない」と。

 『人間』と『ヒト』。何を言っているのだ。変態?僕は自分の耳を疑った。僕が一体何になったというのだ。変わらず四肢は揃っており、視界も良好。いつもと違うところがあるとすれば、体がずんと重いだけだ。困惑する頭で、その意味を理解し、受け入れることなど到底出来るはずもなかった。

 変わらず男は日に三度、この部屋を訪れては人間とヒトの違いを繰り返し教え込んだ。聞けば聞くほど、人間が変態することやヒトという別の生き物の存在を知った衝撃などは些細に思えるほど、そこには恐怖だけが残っていった。人間とヒト、その二つの言葉の持つ意味を知ることは、先の見えない暗闇の中へ、僕を深く深く陥れていった。
 男は言う。

「ヒトとして生きていくにはとてつもない責任が伴う」と———。

 自分の身に降り掛からなければ知らないこと、理解し得ないことなんて、この世の中恐ろしいほどたくさんあるのだ。知ることで幸せになることもあるが、大半はその逆だ。できることならばヒトなど知りたくも関わりたくもなかった。
 もしあの日あの時間に出かけていなければ。あの道を通っていなければ。僕はあのまま人間として生きてゆけたのだろうか。ヒトという生き物の存在を知らずに済んだのだろうか。考えても仕方のないことが頭の中で虫の羽音のようにうるさく飛び回る。
 今までのごく平凡で穏やかな生活が奪われることは恐怖でしかなく、ヒトという生き物で生きていくことは絶望でしかなかった。ましてそれがこんな結末をたどろうとは、この時はまだ想像もしていなかった。
 変化も刺激も望んでいない僕が、ヒトとしての生に幸せなど何一つ見出せるはずもなく、ただただ一刻も早く、人間へ戻してくれと祈るばかりだった。


 ところで僕がヒトになったことで変わった点はいくつかある。そのどれもが僕にとっては喜ばしいものではなかった。
 一つ目。肌が青白くなった。元々肌は白い方でそこまで気にならないかと思えばそうでもない。白いと青白いは天と地ほどの差がある。これを神秘的だと言う者もいるが、僕には死人としか思えなかった—夏でも日に焼けないことだけが唯一の利点だったか———。
 二つ目。とにかく爪が伸びるのが早くなった。人間だった頃は週に一回でよかったが、毎晩欠かさず爪を切らなければならなくなった。そうでもしないと人間のなりをすることができなかったのだ。この爪を見ていると、あの日見た死の指を思い出して身震いしてしまう。
 三つ目。歳を取らなくなった。永遠に生きられる命を手に入れた。これを羨ましいと思うか、思わないか。少なくとも僕は後者だ。自分だけが何年も何十年も何百年も姿を変えることなく生き続け、親しい人が亡くなっていくさまを永遠に見送ることになるのだ。その人と共に歳を重ねてゆくことすら許されないのだ。
 四つ目。目に見える色が三色になった。目に映るもの全てが黒と白、そして青、この三色で構成されているのだ。それに伴って瞳の色も海に近い青色に変化するわけだが、もともと青色の瞳を持っていた僕にとっては、外見にさほど変化は見られなかった。
 五つ目。この世の全てを凍らせ、人間を、生き物を、殺められるようになった。それも易々と。こんなこと恐ろしくて声には出せない。だが事実。ヒトに備わっている能力、人間には決して持ち得ない、悍ましい能力なのだ。手を触れただけで、場合によっては息を吹きかけただけで、そのものは一瞬にして凍りつき、命あるものは目の前で音も立てずに呆気なく息絶えてしまう。

 あの日僕の背中に走った衝撃は、どこからともなく飛来した氷の破片にほんの一瞬触れたせいだったらしい。迸(とばし)りと呼ばれるそれは飛び火のようで、こういうことは、意図せず稀に起こるという。それを浴びた人間に訪れるのは死か、ヒトとしての生を受けるかのどちらかだと。一体どこからそんなものがこの世界に入り込んできたというのか。それを喰らった僕は、幸か不幸か、人間からヒトへ変態したというわけだ。
 そもそもなぜこんな現象が人間に起こり得るようになったのか。毎日やって来る男に尋ねてみたが、奇妙なほどぴたりと動きを止め、黙ったまま遠くを見つめるばかりで答えは返ってこなかった。都合が良すぎるじゃないか。と憤ったところで仕方のないことだとよく分かったが、僕は自分がヒトになったことを心底恨んだ。


 なぜ僕がヒトにならなければならなかったのか。誰もがなる可能性がある中で、なにゆえ僕がその対象に選ばれたのか。偶然か必然か。憤りの矛先をどこにも向けられず、ただ苛立ちが募っていった。