「先ほどから思っていたが、どうして俺のことを月橋さんと呼ぶ」
「……え」

 一瞬言葉の意味が分からなくて、ぽかんとしてしまった。和史はじっと姫子を見つめている。

「俺のことを忘れたわけじゃないんだろう。なら、どうして名前で呼ばない」
「……そ、それは」

 狼狽えた。

 自分が彼を名前で呼ぶ権利など、もうないと思っていたから。

「それとも、なんだ。もう、俺のことなどどうでもいいと。そう思っているのか?」

 だが、彼の言葉に必死に頭を横に振る。そんなはずない。辛い日々の中で、和史のことを忘れたことは一度もない。

「そういうことでは、ありません。……ただ、私は、もうあなたさまのお名前を軽々しく呼べる立場では」

 姫子は以前の姫子じゃない。もう子爵家の娘でもない。和史との間にも、たくさんの距離が開いてしまった。

「軽々しく呼んでいい立場かどうかは、俺が決める」
「……は、い」
「だから、呼べばいい」

 刺々しい言葉。なのに、言葉自体は優しい。

 震える唇を動かして、震えた声で「和史、さん」と呼んでみる。和史がふっと口元を緩めたのがわかった。

「それでいい。今後も、そう呼ぶように」
「……はい」

 目を伏せて、彼の言葉に肯定の返事をする。和史はそれに反応を示すことはなかった。