僕の勇気を外に出さないように抑え込んでいるのは、大抵僕の恐怖心と不安感だ。

 終業式とホームルームを終えた騒々しい教室。
 忘れ物が無いように念入りに確認しながら帰り支度をしていると、突然肩を叩かれて、驚きで身体が硬直した。
 
三上(みかみ)、マジでカラオケ来ねぇの? 一学期お疲れ的な感じでよ、結構みんな来るぜ」

「うん。行かない。家の手伝いあるし」

 僕はろくに振り向くこともせず答えた。感じが悪いと分かっていても直せない悪癖だ。人の目を見て喋れない。
 声から話しかけてきたのはクラスメイトの山本君だと分かる。男女問わず人望のある、嫌味の無いクラスの中心人物だ。

「あー、民宿だっけ? 今日くらい何とかならんと?」

 山本君は方言混じりの明るい声でさらに詰めてくる。
 手伝いは夕方からだから、行こうと思えば行ける。彼らが嫌いなわけでもない。クラスに馴染めていない僕にも声を掛けてくれて、優しい人達だと思う。カラオケだって興味はある。
 だから、これは完全に僕の問題だ。どうしたって僕が行っても場を白けさせてしまうイメージしか湧かない。その瞬間を想像しただけで身震いしてしまう。

「——ごめん、無理だから」

 自分の語気が実際の感情よりも刺々しくなっていることに気が付いたときにはもう後の祭り。
 せっかく遊びに誘ってくれた相手に強く当たってしまった申し訳なさと、自分の感情のコントロールすらままならない情けなさで頭がごちゃごちゃになる。視界が歪み、耳鳴りがする。喉に何か異物が引っかかったように息が苦しい。
 そして、「とにかくこの場から逃げ出したい」というひときわ強い想いに突き動かされるように、教室を飛び出してしまった。

「やっぱダメだったかー今日はいけると思ったんだけどな」

「残念だけどしゃーないわ。お前の笑顔が胡散臭かったんじゃねー?」
 
 背中に聴こえたその声は決して僕を責めるようなものではなかった。せめて僕の失礼な態度を咎めてくれたら良かったのに。
 
 この場で悪いのは僕ただ一人だった。

 足元だけを見て、人混みの隙間を縫うように遮二無二歩く。
 廊下を過ぎ下駄箱を過ぎ校門を抜けて、不快な暑さと夏空の下、蜃気楼を纏う灼熱のアスファルトの道を行けば、やがて寂れた駅が目の前に現れる。
 速やかに改札を通り、運が良いことに丁度停まっていた電車に滑り込む。これを逃すとクラスメイト達とホームで鉢合わせていたかもしれない。
 心底から安堵の息が漏れ、座席に腰を下ろすと強張っていた全身の力が抜けていく。そして、さっきまでの運動を思い出したように全身に嫌な汗がじんわりと滲んでくる。弱々しいクーラーの冷風も今はありがたい。

 ほとんど学生の登下校にしか使われないオンボロ電車は、二両しか無いが利用者は高校の生徒ばかり。その遠慮の無いおしゃべりのせいで乗車率の割にはワイワイと賑やかだ。明日から夏休みということもあって普段の三割増しで騒がしい。
 陰気な顔をしているのは僕くらいなものだ。

 周囲の雑音を遠ざける為にイヤホンを両耳に装着する。特別音楽が好きなわけではない、本当に耳栓代わりだ。
 適当な曲を再生して外の世界と自分を隔絶してから、カバンから一冊の文庫本を取り出す。本命はこっちだ。
 今読んでいるのは俗に言うボーイミーツガール的な高校生の恋愛話だ。あまり読んでこなかったジャンルだが、サブテーマが“好きな事と現実の板挟み”というもので何となく感情移入して読めている。作者が女子大生だとかで電撃デビュー作として少し話題になっていたから手に取ってみたが、良い買い物だった。

(僕には縁遠いものだな。青春)

 読むたびにそんな思考がフッと脳裏を過るが、それも読書体験の一環だ。
 物語の世界に没入している時間は、ある種のモラトリアムだ。

 頭の中で喧しく騒ぎ立てる現実の問題も将来の不安も、この瞬間ばかりは停滞せざるを得ない。

〈——終点です。お忘れ物ございませんようお気を付けください〉

 ハッと顔を上げると、周りに居た生徒達の姿は疎らになっていて、残った人達もそそくさとホームへ降りて行くところだった。
 いつの間にそんな時間が経っていたのかと驚く暇もなく、大慌てで荷物を抱えて電車から飛び出した。

「おい、兄ちゃん!」

 突然、背後からイヤホンをしていてもハッキリと聞こえる大声がして、反射的に足を止めて振り返ると、車掌のおじいさんがこちらに走ってきている。
 顔に刻まれた加齢の溝の数と深さに対して体格はがっしりしていて、その威圧感に思わず僕は硬直してしまった。

「これ、うっちゃかしとっぱい。気ばつかれ」

「うっちゃ? あ、お守り……ありがとうございます」

 方言が強くて何を言っているのかよく分からなかったが、車掌さんの手には僕が両親に持たされた交通安全祈願のお守りが握られていた。焦ってカバンを持った拍子に紐が切れて落としてしまったらしい。
 差し出されるそれを恐る恐る受け取ると、車掌さんは陽気に僕の背中を叩いて言った。

「なんじゃオドオドして、もっと胸ば張れ!」

「うっ、あ、はは……すみません」

 ああ、この人に悪気はないのだろうし、むしろ頼りない僕を心配してくれている“親切な人”だ。
 頭ではそう受け止められても、腹の底からはどうしても不快感が湧き出てしまう。そして他人の親切を素直に受け取ることもできない自分にまた嫌気がさす。

 駅を出た僕の足は無意識にある場所へ向かっていた。何かから逃げるようにひたすらに足を前に前に動かした。
 歩を進める度に緑の匂いに混ざって潮の香りが強まっていく。もう役目の終わったイヤホンを取ると、草木が風に揺れる軽やかな音が鼓膜をくすぐる。
 どんどん人の営みは遠ざかり、遠くに聴こえる波の音と海鳥たちの声が心地いい。

「もっと家から近ければ最高なんだけ、どっ!」

 土手の階段を上り切ると幅広で流れの穏やかな大河川が姿を現す。一陣の爽やかな風が吹き抜けて熱の籠った身体を優しく包み込んでくれる。

「自由だ」

 喉元で引っ掛かっていたものがやっと吐き出せた感覚がした。
 ここから海の方へ更に少し歩けば、一つの橋がある。その下は緩やかな斜面がアスファルトで階段状に舗装されていて座り込みやすく、雨風も気にしなくて良い、そして何よりも誰も来ない。ここが僕にとって最高の“安息の地”だ。
 
 親の都合で中学入学と同時に、東京からこの海沿いの町に越してきて四年。いつからか辛くなるとこの場所で心を落ち着けるようになった。
 海と川の境界——汽水域の緩やかな水流を前にすると不思議と心が落ち着いた。ここで本を読めば大抵のことは忘れられる。いつもそうやって誤魔化し誤魔化し生きてきた。

「カラオケ、行きたかったな」
 
 ただ今日は茹だるような暑さのせいか、頭に残ったしこりが中々消えてくれなかった。