かすかに耳へ届く、窓越しの小鳥のおしゃべりに目を覚ます。
まだあたりは薄暗く、夜は明けていない。見慣れない天井。知らない空気。一瞬の後、ここが家ではなく研修先だと思い出す。
枕元をまさぐりスマホを手に取る。午前4時32分。昨日割と遅くまで起きていたのに、いつもより早く目が冷めてしまうなんて。
二度寝する気になれなくて、私は布団から這い出た。
弥生ちゃんを起こさないよう注意しながら窓の側の椅子まで移動する。
部屋の中に光が入らないように、ほんの少しだけカーテンをめくってみると、空はうすい桃色に染まっていた。もうすぐ日が昇る。
その時、ふと視界に動くものを見た。
視線をむける。昨日行った庭に、見慣れた後ろ姿があった。
私はすぐに身を翻すと、急いで庭へ向かう。なぜかはわからないけれど、今すぐ行けなければいけない気がして。

庭に出てすぐ、池の側にしゃがみ込む日向くんの姿を見つけた。
近づいていっても全くこちらに気づいておらず、ぼんやりとわずかに揺らめく水面を見つめている。
そっとその袖を引っ張ると、ようやく彼は私に気付いた。
「えっ、あ、くるみ先輩?」
彼は目を丸くして、私に焦点を合わせる。
『おはよう。随分早起きだね』
「先輩こそ、眠くないですか?」
『うん。もうすっかり目が覚めちゃったみたい』
「あはは。僕もです」
少し、歩きますか?そう問われて、頷く。なんとなく今なら、親しみやすいのになぜか掴めない、日向くんのことが少しわかるような気がした。
違和感の正体。それを確かめたい。
「昨日は暗くてちゃんと景色を見れなかったから、今度は川の方に行ってみましょうか」
うん。
昨日の人生初めてのバーベキューを思い出して、早朝の静けさが寂しくなる。今日で研修も終わり。そしたら、部長と鈴花先輩はもう引退だ。
楽しい時間は一瞬だってよく言うけれど、本当に楽しい時は、今がその瞬間なんだって気付けないことが一番悲しい。大切にしなきゃいけない時間だってことを、意識しないまま無為に過ごしてしまうから。
「山の朝って、いつもの朝とは違う空気な気がしませんか?」
『わかる。新鮮っていうか…住宅街の空気とはまた違った良さがあるよね』
それから私はちょっとからかいたくなって、口角を上げて文字を打つ。
『新聞部に入って良かったでしょ?』
ですね!って、いつもみたいに明るい笑顔と声が帰って来るものだと思っていた。
「……そうですね」
小さく、低く呟かれたそれは、空気をわずかに揺らす。儚く伏せられた長いまつげの下の瞳は、さっきの池の水面みたいに静かで、虚しい。微笑んでいるのに、泣いているみたいだった。
聞こうと思っていたことが、頭から抜け落ちる。
なんで、私…言いたくないだろうことを、無理に聞き出そうとしてたんだろう。今、日向くんがちゃんと笑ってくれて、生きているなら、それでいい。その筈だ。私が首を突っ込む必要はない。
だって私だって…日向くんにたくさんの隠し事をしていて、それでも今楽しいんだから。
「あっ、見てください先輩!魚が泳いでますよ!」
えっ、本当だ! 
さらさらと流れる川の中、小さな魚の影が群になっている。
「あっ、ほらこっちにも」
急に、日向くんが私の手を引く。
どきりと胸が音を立てた。
「早起きして良かったですね〜」
そうだね…。
それより、未だに繋がったままの手に彼は気づいているのかいないのか。
時間が経って旅館に戻るまで、私は手の温かさに気が気でなかった。何気なく離された手に、名残惜しく思っている自分に気づいて、さらに恥ずかしくなる。

「今日で記事の内容をまとめなきゃならないし、急がないとね」
朝の集合時間、初めに説明を受けた広い部屋に生徒全員が集まる中、優菜ちゃんが私に言った。
『そうだね。たしか、最終的に一面にするのは帰ってからなんだよね?』
「うん。ここで内容を軽く纏めておいて、あとは各々の学校で自由に壁新聞を作る予定」
学校によって色々な特色が出るんだろうな。私の学校は特にコンセプト的なものはなく、それぞれ好きなものを題材にして後で持ち寄ろう、というなんとも雑な計画だったんだけど、大丈夫かな…。
「あれっ、部長ひなたんと同じ部屋だよね?ひなたん知らない?見当たらないんだけど…」
鈴花先輩の声に、ふと周囲を見渡す。確かにどこにも日向くんの姿がない。朝二人で旅館に戻ってきた時は、一旦部屋に戻ってから集合時間にはここに来るって言ってたけれど…。
今は朝の8:40。帰ってきてから3時間半くらい経つけど、その間になにかあったのかな。
「ああ、日向くんなら、体調が優れないと言っていたからまだ部屋で寝てると思うぞ」
「えっ、まじ?大丈夫なの?」
鈴花先輩が身を乗り出して聞く。
「多分。ちゃんと話せたし、熱もなかったから大丈夫だとは思うが」
と、言いながらも心配そうな表情を浮かべる部長。
体調が悪い…?朝会ったときは、全然そんな感じはしなかったけど。
「あのっ、様子を見に行ってもいいですか?」
突然、私の横にいる優菜ちゃんがそう声をかけた。鈴花先輩と部長が一斉にこちらを向く。
優菜ちゃん?顔を見ると、目配せされる。
「行きたいんでしょ?」
あ、優菜ちゃん…。
そうだ。昔、まだよく一緒に遊んでいた頃、優菜ちゃんはいつも私のやりたいことを汲んで、肝心なときに勇気の出ない私を引っ張っていってくれた。
幼い面影が優菜ちゃんに重なる。
『部長、私、行きたいです』