「もうなかなか会えなくなるんだね」
私より小さな男の子は、悲しそうに呟く。そんな顔を見たくなくて、私は彼の頬を両手で包んだ。
「わっ、な、なに」
「そんなに悲しい顔しないの!お隣さんなんだから、また遊べるよ。だから、私がいなくってもちゃんと幼稚園いくんだよ」
「う、うん……」
返事とは裏腹に変わらない不安そうな表情に、私は笑いかける。
「大丈夫!なにかあったら、すぐに言うんだよ。小学校からでも、すぐに駆けつけるから!」
そうしたら、やっと彼はいつものように温かい笑顔を浮かべてくれた。
「前から思ってたけど、君って柴犬みたいだよね」
「えっ、なんで?」
「私にくっついてくるし、小さいし、かわいいし」
おばあちゃんの家にいる、まだ小さな柴犬と遊んだ時を思い出す。
まあ、ちょっと人見知りなところは柴犬っぽくないけどね。
むう、と手の中の顔が不機嫌になる。
「なんでよ。やだ」
「え?いいじゃん。褒めてるんだよ?」
「でも、僕だって……」
ふいに、その顔が赤くなる。
「え、どうしたの?」
手を離して、うつむいてしまった顔を覗き込む。
「なっ、なんでもない!」
ぷいっと横を向いてしまう。
なんだかそれが可笑しくて、笑った。彼はいつも、私を笑顔にしてくれる。

気がつくと、私は部屋の机に腕を置いて頭を預けていた。
眠ってしまったようだ。なにか、とても幸せな夢を見た気がする。
夢というのはいつも、思い出そうとするほどぼやけてしまう。ピントの合わない記憶のなかを探るうちに、ノックの音に気付いた。
「胡桃先輩、失礼します」
同じ部屋の弥生ちゃんが部屋に入ってくる。
「すみません。お邪魔でしたか」
ううん、大丈夫。私は首を振った。
「体調は大丈夫ですか?やはりあの揺れの酷いバスが原因ですよね」
訴えられるレベルでした、と真顔で言う弥生ちゃん。
「薬を持ってきていたのを思い出したんです。人の薬をもらうのは、体質の違いがあるといけないので良くないとは言いますが、辛いのなら飲みますか?」
『大丈夫。だいぶ良くなってきたから。ありがとね』
すると、弥生ちゃんは私の横に腰をおろした。
「失礼ですが、なにかあったのですか?」
いつも無表情に見える弥生ちゃんに、心配の色が見えた。
本当はいつだって、色々な表情を出してくれていたのかもしれない。私が気付けなかっただけで。
自分に向けられて初めて気づく変化に、自分がいかに人に注意を向けられていないか実感する。
成長して、大人に近づいて、周りを見れていると思っていた。
私は私が思っているよりずっと未熟だ。
『はなし、ながいかもしれない。きいてくれる?』
変換する間もなく、弥生ちゃんは「もちろんです」と言ってくれた。
『さっき、小学校の頃仲が良かった子がいたの。本当に、たまたま。向こうは気づいてないみたいだったけど』
七瀬優菜。小学校の入学式で話し掛けてきてくれて、一番に友達になった子。ほんの少しの間だったけど、間違いなく親友だと私はおもっていた。あの時までは。
『私、生まれつき声が出ないんじゃなくて、きっかけがあったんだ。優菜ちゃんと仲が良かったのは、まだ喋れる頃だった……』
それだけで、弥生ちゃんは察したようだった。
少し目を伏せて、物思いにふけるような仕草。
『おかしいって言われたんだ。悪気はなかったんだと思う。小さな頃だから、思ったことをそのままいっただけで。でも私は』
画面を弾く指が止まる。文字にまとまらない、よくわからない感情で。やっぱり、言葉は難しい。文字だけでは、伝えられない気持ちがある。
『小さな頃のことをまだ根に持っているなんて、器の小さい人だと思ったよね』
でも、実際そうなんだ。小さなことを気に病んでしまう、これが私だったんだ。私が私を、強くなったと勘違いしていただけで。本当は周りの人が、優しくしてくれていたから強くなったと思えていただけだった。
「私の話を、してもいいですか?」
唐突な言葉。平坦な口調に、今は沈んだ感情を見ることができる。私は首肯した。
「私はずっとこういう性格でした。つまり、無表情で、なにを考えているかわからないということです。自分でも自覚しているのですが、どうしても変えられなかったんです。いえ、戻れない、ですかね。……実は、もともと私はもっとわかりやすい性格だったんです」
目線を外したまま、けれど声にはどんどん感情がこもっていく。
「他の子と同じように、よく笑う子だったと両親には言われます。……きっかけは、小学校五年生くらいの頃でしょうか。私には、とても仲良くしていた友人がいました。けれどある日、転校生がきました」
その子は私よりもずっと友人と気が合う子で、たちまち私は仲間はずれになりました。
邪魔をしてはいけないと思い、私も距離を取っていたのが悪かったのでしょう。時間をもてあますうち、私は読書をするようになっていきました。私にとって本は、どんなときも味方でいてくれる心強い存在です。寂しい時は側にいてくれて、ひとりでいたい時はそっとしておいてくれる。
気が付いたときには、もう私は友達と遊ぶことに興味をなくしていました。誘ってくれても、そっけなく断わるばかりで。
そうやって生まれたのが、今の私です。
「でも、無理に昔の自分に戻る必要はないと、私は思っています」
その時、
弥生ちゃんは顔を上げて私の目をしっかりと見つめた。
「試験と違い、人生において、問題全てを解決しなければいけないわけではありません。少なくとも、そのままにしておいても不自由なく生きられるのならば、放っておいていいのだと思います」
そしてふっと笑った。それは意識したものではない、思わず零れてしまった涙のような笑顔。
「その証拠に、今私には最高のゲーム仲間がいますから」
まさか、本の後にゲームにハマるとは思っていませんでしたが。
「胡桃先輩も、無理にご友人と話す必要はありません。というのが、私の勝手な意見です。自分語りをすみません」
では、と弥生ちゃんは立ち上がった。
「私は、そろそろ戻ります」
去っていくその後ろ姿を見つめて、衝動的にその腕を掴んだ。
「どうかしました?」
『私も行く。ありがとう』
きっと、話しにくいことだっただろう。それなのに、私を励ますために口にしてくれた。
「いいえ。では、行きましょうか。皆さん、首を長くして待っていますよ」