「この建物は、日本特有の工夫が沢山施されており――」
講義に耳を傾けながら、私は忘れないようメモを取った。
文章で紹介するだけでなく、写真でもその工夫がわかるように、予め注目すべきポイントを纒めておく。
「そしてなんといっても一番のおすすめは、この風景です」
そう言って、着物姿の彼女は窓の薄いカーテンを開けた。
ばっと一気に明るくなる部屋。
僅かな時間の後、窓の外へ目を向ける。
そこには、庭園が広がっていた。
見渡す限り緑あふれる風景。敷き詰められた石の道が続くのは、小さな池。あの中ではきっと鯉が泳いでいることだろう。
「今回は一泊していただく間に、この旅館の素敵なところを沢山集めて記事にしていってください。なにか困ったことがあればいつでも言ってくださいね」
今回の新聞部研修の場所。それは、由緒ある旅館だった。
高校生の研修にしては、少し立派な場所だけれど。
部室での部長と鈴花先輩の会話を思い出す。
「なんか今回は、やけに豪華じゃない?」
「他の高校と合同でやるようになったから、例年より費用があるみたいだな」
「へぇ、そういうもん?」
という訳で、今年はいつもよりちょっといい研修先というわけだ。
「じゃあ、それぞれ担当に分かれて作業に入りましょう。他校の人と協力するのもオッケーです。むしろ、どんどん交流しちゃいましょう!それでは解散!」
先生の声でみんな動き始める。
私は日向くんの姿を探した。 
他校の生徒も多いから、見つけるのに一苦労だ。
「あの」
不意に声をかけられる。見ると、セーラー服を着た三編みの女の子が話しかけてきてきていた。
「写真担当ですよね?もし良ければ、一緒に撮りにいきませんか」
私の持っているカメラを見ていった。そういうことならぜひ、と思ってスマホを取り出そうとしたその時。

「胡桃ちゃんは普通じゃない。おかしい」

「なんも喋らないじゃん。俺、なんか悪いことしたかなって思ってさ」

スマホが手から離れる。床に衝突する音は敷かれたカーペットに吸収されて、くぐもった音が鼓膜を揺らした。
「あ、大丈夫ですか?」
スマホを拾う様子のない私を訝しげに見つめる視線が、いつかの軽蔑の目と重なる。
痛い。目の前の彼女がなにか言っている。聞きたくなかった。だって、きっと私を――。
「くるみ先輩」
隣から、聞き慣れた声。差し出されたのは、私のスマホ。

「はい、どうぞ」
受け取って見上げたその顔に、私は酷く安堵した。
「こんにちは。僕らは翠清(すいせい)高校の生徒です。僕は橘日向で、こちらは一年先輩の白川胡桃さん」
笑顔で紹介されて、彼女の不審そうな瞳はきょとんとしたものに変わった。
「あ、私が先に自己紹介しなきゃでしたね!えっと、私は原西女子学園二年の、七瀬優菜です」
「あ、先輩だったんですね!」
「うん。でも、気軽に話してね。よろしく!」
「よろしくです!」
あっという間に凍りついていた雰囲気は陽だまりのように暖かくなる。でも、私の、心はざわめいていた。
七瀬優菜?その名前に、嫌な記憶が蘇りそうになる。
まさか、そんなわけ……。
その時、背中がふわりと温かくなる。日向くんが私の背を軽く押した。
「ごめんなさい。翠清(すいせい)は一旦部屋に戻る約束なので、また後ででもいいですか?」
「あ、うん。引き止めてごめんね。じゃあ、また」
日向くんにつられて歩き出す。
「先輩、大丈夫ですか?」
人気のない廊下に出ると、日向くんが心配そうにきいてきた。
こくりと頷く。申し訳ないけど、話す気にはなれなかった。
ありがとうもごめんなさいも、道具がなければ伝えられない自分が嫌だ。
もう、話せないことの辛さなんて、とっくに乗り越えたと思っていたのに。強くなれたと思っていたのに。
「先輩は休んでいてください。僕、みんなに適当に言っておきますから」
部屋の前までついたとき、日向くんが言った。
「なにかあったら、すぐに呼んでくださいね」
そして、立ち去っていくその瞬間まで、私は日向くんの顔を見られなかった。