寄せては返す波の音。午後3時もとっくに過ぎ、照らされ過ぎた砂から熱が引いていく。
この時間になると海風も少し肌寒い。
遠くのほうで葵は裸足で浅い海に入って、なつくんと遊んでいる。その笑顔から目を背けた。
「先輩は、行かなくていいんですか?」
うん。小さく頷く。
「……先輩、どうかしましたか?」
『別に、どうもしないよ。気にしないで』
私個人の感情の問題で、日向くんの気持ちを暗くさせてしまったのかもしれない。うまく切り替えられない自分に辟易する。
日向くんも、遊んできなよ。私、荷物番してるから
そう打とうとする前に。
「さっきの、なつの言ったこと、聞こえてたんですよね」
液晶に滑らせた指が、凍りついた。
「……くるみ先輩。あれは、悪気があったわけじゃないんです。僕から、ちゃんと言っておきますから――」
『いいの』
3文字だけを打って、話を遮る。
『日向くんが、そんなふうに心配する必要はないよ。実際私、話せないし』
自分で言っておきながら、涙が出そうだった。久しぶりだ。こんなに、声を望んだのは。でも、笑わなくちゃ。声が出せないことで散々迷惑をかけているんだから、これ以上かけないように。精一杯の笑顔を作る。
「……それは、違います」
え?返ってきたのは、予想もしない言葉だった。
「くるみ先輩は、ちゃんと話せています。今だって」
でもそれは、ただの文字で。
「僕、《話す》って、口で発音して伝えるって意味じゃないと思うんです」
「話すっているのは、《心を伝える》ってことなんだって、くるみ先輩に出会って、思いました」
心を、伝える?
「だから、先輩はちゃんと話せてますよ。だって僕に、先輩の気持ちが伝わったんですから」
『日向くん、』
画面に、雫が落ちて。
その続きは打てなかったけれど。
「大丈夫だよ、くるみ先輩」
頬に温かい手が触れて、私の涙を拭っていった。
「本当の意味で話せてなかったのは、僕の方だ」
      ─────
意識が浮上する。私は、泣きつかれて眠ってしまったようだ。
沈みゆくオレンジ色の太陽を反射して、海が燃えている。
「くるみ先輩?」
寄りかかっていたわたしが身じろぎしたのに気づいて、日向がわたしの顔を覗き込む。
「あ……くるみちゃん、だよね」
見た目でわかるはずもないのに、日向には一瞬でわかったみたいだった。
「そうか、もうそんな時間だったんだ」
眩しいほどのオレンジを見上げて、日向はどこか寂しげに呟いた。空を透過するようなその目には、とても深い諦めの色が浮かんでいるように見えた。
どうしてだろう。この人は、ときに誰よりも苦しそうに見える。
「声を失くしてすぐの頃」 
彼に、知っていて欲しいことがあった。
「あの子は、学校でいじめられてた」
メモ帳に書く言葉をちゃんと受け取ってくれる人はいなかった。
小学校低学年の頃だ。周りもまだ小さくて、理解がないのも当然だとは思う。
でもあの子にとって、これほど辛いことはなかった。生きる為に声を失くしたのに、それでも辛い現実が耐えられなくて、あの子はよくわたしを頼った。
家にいる時間以外は殆どの時間、あの子は現実には来なかった。
「幼稚園のころから、ずっと仲のいい子がいたの。あの子は、誰もが自分を嫌ったとしても、その友達だけは裏切らないでいてくれるって思ってた。でもね」
その先を想像できたのだろう。
日向は小さく息をついた。
「『胡桃ちゃんは普通じゃない。おかしい』って言われた。だからあの子は、自分を受け入れてくれていない人の前では話せないんだ」
「……本当に、なんにも知らないな」
自嘲気味に、日向は呟く。
「また、教えてくれる?君たちのこと」
いつもの笑顔で、彼は言った。
「情けないけど実は、幸せにする具体的な方法思いついてないんだ」
あれだけ調子いいこと言っておいて、最低だよね、と笑う。
「今は、ただ側にいることくらいしかできない」
「それで、いいんじゃないかな」
「え?」
虚をつかれたように、日向がわたしの目をみる。
「少なくともあの子は、日向が自分を受け入れてくれてるって思ってるみたいだから」
「あ……」
あれだけ初対面の人とは話さないあの子が、日向とはまるで旧友のように話しているのだから。
それも、会ってすぐに。
「ごめん。僕が弱気になってたら駄目だよね。よし!そろそろ行こう、くるみちゃん」
差し伸べられた手をとる。
集合場所に戻るまでずっとわたしの手を握っていたその手は、今までで一番優しい手だった。
もしかしたらあの子も、心の何処かで覚えているのかもしれない。遠い昔、日向と会ったことがある、と。