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「おかえり〜胡桃」
「ただいま、お母さん」
私は口で言った。と言っても、実際に音は出ていない。余程難しいことを言わない限り、家族にはこれでだいたい伝わるのだ。もうこうなって長いからな。
「今日の夕飯はハンバーグよ。早く手を洗って着替えてきてね」
「うん」
今日は珍しく、お父さんの仕事が早く終わったみたいで、3人で食卓を囲む。
「いやぁ、こんな風に3人で食べるのも久しぶりだなぁ」
お父さんが機嫌よく言った。
「お父さん、出世しちゃったからね」
「そうそう。まさか、会社を作っちゃうとは思わなかったわ」
数年前までただの会社員だったお父さんは、会社の先輩にその技量を認められて一緒にIT系の会社を立ち上げたのだ。
その会社は大きなトラブルもなく、順調に軌道に乗っている。
「でも会社も落ち着いてきたし、これからはもっとこういう時間が増えるかもな」
「そうなの?」
私は期待を込めて尋ねる。
実は、慎重なお父さんが企業したのは私の治療費の為なんじゃないかと疑っていたのだ。
一度聞いてみたことがあるけれど、その時は「そんなことはない。心配するな」という趣旨のことを言われた。
でも、少なからずそういう面はあるんじゃないかと思っている。何せ私の「病気」は身体的というよりは、精神的なもので、試行錯誤しなければ治療方法がわからない。出口の見えないトンネルのようなものだ。
すぐそこに非常口があって、そんなことかというくらいに出られるのかもしれないし、ともすれば何十年もただひたすらに歩き続けてやっと出られるのかもしれない。いや、永遠と暗闇の中を彷徨うしかない可能性もある。
別に、私はそれでもいいと思っている。でも喋れないことで、周りの人に迷惑をかけていて、将来仕事ができるかさえ危ういという現実は確かにあって。両親に大人になってまで迷惑をかけるわけにはいかないと思っているけれど、治すにはきっとさらに二人に苦行を強いることになるのだろう。
だから、今の私はどうすればいいのかわからない。自分ひとりで、生きていくにはどうすればいいのか。
私はあの日からずっと、トンネルの中を彷徨っている。