「じゃあくるみん、写真はお願いね!」
『了解です』
鈴花先輩は部室へ遠ざかって行った。
今日はここ、翠清(すいせい)高校の入学式。
二年生になった私は、緊張の面持ちで真新しい制服に身を包んだ後輩たちを体育館の袖から眺めた。
懐かしい。私も一年前、こんな風に入学式を迎えた。あのときは緊張でなにも考えられなかった私が、今では一年生を迎える側だと思うと感慨深い。
私は新聞部に所属していて、今日は入学式の記事のため、写真を取る役割だ。
しっかりいい写真をとって役に立ちたいという気持ちが、自然と背筋を伸ばす。
式はつつがなく進行していった。私もそれぞれの場面のいい写真が取れて、なかなか気分がいい。これなら新聞部に貢献できるだろう。
「これで入学式を終わります」
その言葉のあとから、だんだんと周囲がざわめき始める。初めて会う子がたくさんいるなかで、友達を作るのはよほどのコミュニケーション能力がなければ簡単ではない。と、少なくとも私は思っている。こういう僅かな時間でも、交流しておくのは安寧に高校生活を送る上でとても大事だ。
リラックスした表情の一年生を見渡していると、ある一箇所に目が留まった。
2組の列の、中央あたり。そこだけ妙に人が集まっている。それに笑い声もたくさん聞こえるみたい。あ、これは……人気者の予感だ。
なんとなくそれを眺めていると、一瞬、人の壁に隙間ができて。
その中央にいる人物と、目があったような気がした。
それは一瞬、本当に一秒にも満たなかった。
またすぐに、その目は人に隠れてしまう。
けど、なぜだろう。その目に私は、なにか違和感を覚えた。別におかしくはなかったけれど、感覚的に、なにかが引っかかった感じ。
一年生が退場し、部室に戻る最中も、その感覚は窓の水滴の跡みたいに、尾を引いて私の中に残っていた。
そのせいか、私は不注意になっていたのだろう。ふいにさっと血の気が引くのを感じた。あとから、地面の感覚がないことに気づく。私、階段から落ちたんだ。頭がその結論に至ったときには、もうどうにもできない体勢になっていた。あとは床が再び迫っているのを待つばかりだ。ぎゅっと目を閉じて、覚悟を決める。ああ、私って本当に馬鹿だ。
「………………」
いくら待っても、痛みは一向にやってこない。
恐る恐る目を開ける。視界に飛び込んできたのは、さっきからずっと気にかかっていた、あの目だった。
「………!」
「あっ、大丈夫ですか?どこか痛いところは?」
茶色がかった柔らかそうな髪の毛に、大きな瞳。綺麗に通った鼻筋と、形のいい唇。
「あの……」
遠慮がちに声をかけられて、はっとする。まだ私は彼の腕に支えられたままだ。
それに気づいて、脱兎のごとく彼から離れる。
急いでスマホを取り出し、文字を打って彼の前に掲げた。
『大丈夫です!ありがとう』
それをみた彼は、一瞬戸惑ったような表情をみせたが、すぐににっこりわらって、「よかった」と呟いた。
中性的な見た目の彼が笑うと、かっこよさよりもかわいさが際立つ。
「あっ、そうだ。僕は橘日向っていいます。今日入学したばっかりの、ほやほや一年生です!」
何だその自己紹介は…。
「先輩は、なんていうんですか?」
『私は、白川胡桃。2年だよ』
「えっと……、しらかわ、…」
すると彼はうーん……と唸り始めた。
暫く目を閉じていたかと思うと、突然ぱっと目を見開いてこっちに近づいてくる。
さっき私が作った1メートルほどの距離はあっという間に消えてしまう。
「ごめんなさい!名前の読み方がわかりません……」
まるで悪戯がばれて怒られるのを怖がっている子犬のような、ばつが悪そうな瞳だ。
その姿がちょっと可笑しくて、思わず微笑んでしまう。
『くるみだよ』
「……え」
その瞬間、彼の表情が凍りついた。でもそれは本当に瞬きほどの時間で、気付いたときには元の笑顔に戻っていた。
「くるみせんぱい!かわいい名前」
そんなに読み方がわかって嬉しかったのか、にこにこと機嫌良さそうにそう言う。
簡単に女の子に言ったら駄目な言葉だよ、それ。
「ん?くるみ先輩。どうかしましたか?」
あまりにも見つめすぎただろうか。軽く首を傾げて、彼がこちらを見ている。
「あ!そうだ、先輩何だから名字じゃないと駄目だよね……。ごめんなさい!」
あっ、いらぬ誤解を与えてしまった。
『違うよ、そんなこと気にしないで。寧ろ名前で読んでくれた方が嬉しい』
勢いで文字を打ってから、はっと気づく。
う、嬉しいなんて、言葉選びが悪かった…。
「え、ほんとにいいんですか?じゃあ、くるみ先輩。これからよろしくお願いします」
思いの外彼は私の〝嬉しい〟発言を気にしていないらしい。
ぺこりと頭を下げられて、私も反射的に同じ仕草をする。
「それじゃあくるみ先輩。またいつか!あ、階段には気をつけて!」
うっ、そういえば落ちかけたんだった。恥ずかしい…。
そんなことを思っている間に、彼は一年の教室がある、教室棟の二階の方へ階段を上っていった。
またいつかというか、あのタイプの、しかも同級生でもない人とはもう関わる機会もないだろう。
ふとスマホの時刻を見ると、予定していた時間を少し過ぎてしまっていた。急いで部室に向かわなくては。