これは期待じゃない。願いだ。
 そう思って走り回った。そう思って探した。僕の目の前から誰かが突然消えるのは、初めてじゃないから。


 「おーい、洋太聞いてんのか?」
 「え?ああ、聞いてるよ、彼女が同棲したいオーラを出してきたって話だろ」
 「そー。まあ、俺もいつかはって思ってんだけど、付き合ってまだ一ヶ月だぜ?流石に早い気がすんだよな〜」
 「まあ、早いなそれは」
 「だろー?」

 大木奏多、同じ会社で部署が違う友人だ。最近は頻繁にご飯に行くようになった。奏多とは、翠さんが急に姿を現さなくなってから知り合い、同じ大学で同じゼミ。そして同じ会社に入社した。 

 一年。翠さんと過ごした最後の夏休みから一年が経った。あの後、連絡がつかなくなって、トト丸さんと公園で待ってみたり、あの橋の下に行ってみたり、図書館へ足を運んだりしてみたけれど、彼女はどこにもいなかった。僕の最後の夏休みから、突然姿を消したのだ。
 きっと僕の唐突の告白がいけなかった。きっと、義母に痛いことを言われて実家に帰ったんだ。きっと、風邪が長引いているだけだ。きっと、すぐ会える。

 そんなことを思っていた僕は簡単に裏切られ、メッセージを送っても読んですらもらえなかった。そうするとだんだん僕も、送っているのが馬鹿馬鹿しくなり、休みの度に隣町に行くこともなくなった。
 そして翠さんのおかげで、あのマンションに行く癖がなくなっていることに気がついた。おばあちゃんは嬉しそうだった。いつの間にか「どこにいるの、何してるの」と頻繁にきていたメールも無くなっていった。

 「お前さ、そう言えばあの人と、どうなったんだよ」
 「もう何もないよ」

 大学最後の冬に、奏多がしつこく恋愛の話を聞いてくるもんだから、「一度だけ人を好きになった事がある」とだけ言ってしまった。根掘り葉掘り聞かれ、彼女のことを話した。「好きになった人が突然いなくなった」と、簡単に説明をした。終わった事だから、詳しく話す必要がないと思ったからだ。

 「そっか〜、でも本当今どこで何してるんだろうね。急にいなくなったらさ、忘れたいもんも忘れらんねーよな」
 「……だな」

 次の日、久しぶりに隣町へ行くことにした。奏多が言った「忘れたいもんも、忘れらんねーよな」の言葉が、意外にも僕に刺さったからだ。
 社会人になってからも相変わらず自転車に乗る事が好きで、色んなところを休日を使って訪れたけれど、やはりどこへ行っても翠さんを思い出した。隣町へは行けなかったのに、どこへ行っても翠さんを探していた。

「お、今日全部青信号だ」

 あの橋を渡る前の信号がタイミング良く青信号に変わった時、思わず僕は呟いてしまった。家からここまで、止まる事なく来れた意味を、自分にとって良いように解釈してしまいそうで、僕は「違う違う」と心の中で言葉にした。

 久々に訪れた図書館は、内装が少し変わっていて僕らがいつも座っていた机と椅子が無くなっていた。本を借りた時、司書さんの後ろにあるカレンダーを見ると、今日が丁度翠さんに初めて会った日から一年だと言う事に気がついた。あの日の翠さんを思い出すと、未だにクスッと笑える。
 図書館を出るとあまりの暑さに喉が渇き、自動販売機で水を買った。

 「トト丸さーん」

 公園に着き、久しぶりに呼びかけてみると、相変わらずの風貌でトト丸さんが現れた。家から持ってきた青いお皿にお水を入れて差し出すと、一年前に初めて会った時と同じように勢いよく飲み出した。
 すると、風に乗ってシトラスの匂いが、僕の鼻に届いた気がした。ハッとして辺りを見渡してみるけれど、誰もいない。気のせいだったと落胆する。

 「トト丸さんも、翠さんに会えてないんだもんね、寂しいね」

 トト丸さんを撫でていると、気持ちよさそうな顔をした。懐かしい。翠さんと二人でここで遊んだ日々を思い出した。

 「急に来なくなってごめんね」

 急にトト丸さんへの申し訳なさが込み上げてきて、なんだか泣きそうになった。

 そしてトト丸さんに「またくるね」と約束をして、あの橋の下に向かった。相変わらず、彼女の姿は無い。  心地いい冷たい風と、川の流れる音。
 本を読みながらも時々、あの時と同じように僕は目を閉じた。するとまた、風に乗ってシトラスの香りがした。

 「気持ちいいね」

 そう聞こえた気がして目を開けると、隣に黄色のスカートを履いた彼女が座っていた。

 「!!!翠さん…」

 驚きが隠せず、少し声が裏返った。あまりの恥ずかしさに、頬が熱くなっているのが分かる。そんな僕を覗き込むように彼女は、

 「久しぶり、洋太くん」

 と言うから、彼女から目が離せなくなった。そして彼女も頬を赤らめて言った。

 「もう一度ここから、始めていいかな」

 その言葉に僕は首を縦に振る。もちろんだと、心の中で叫びながら。
 ずっとずっとあの夏から願っていた事。
 忘れられなかったあの日々。
 期待じゃない、願っていたんだ。ずっと。

 「会いたかった…」

 なんとか絞り出した掠れた声に、彼女はにっこり笑った。
 すると猫の鳴き声がして、二人して声のする方に視線を送ると、トト丸さんが満足そうに僕らを見つめていた。
 そんな姿に、僕らは目を合わせて笑い合った。
 彼女の風になびく髪とくしゃっとした笑顔が、僕の目にはそれはそれは美しく映った。