しばらく静かに泣いた後、彼女は涙を拭ってまた笑顔になった。

 「ごめんね!みっともないところ見せたね!」
 「いや、みっともないなんて思ってないです」
 「優しいな〜。もーこんなに優しい人に出会えて、これはまたトト丸さんの恩返しだな〜。大したことしてないのに貰いすぎだなぁ」
 「貰っておきましょう。貰えるものは」
 「あはは、だね…じゃあ、ちょっとだけ甘えてもいいかな」

 今から『彼』の話をされるということが分かっているのに、少しドキッとしてしまった僕は、本当にどうしようもない奴かもしれない。まだ会って2回目、名前も住んでいる所も仕事も知らない。年齢だけしか知らないのに、彼女に惹かれているということは、僕の中で隠したい事実だった。

 「もちろんです」
 「ありがと。少し重たい話になるから、受け止めなくていいよ。聞いてるだけでいいからね」

 そう前置きをした上で、彼女は話し始めた。彼女の固く凝り固まっていた心の中の話を、僕はひたすら頷きながら聞いた。

「私ね、19で結婚してるの。今では『おめでた婚』?とか言うみたいだけど、私たちは完全に『できちゃった婚』だった。彼、蓮って言うんだけど、蓮くんが3歳年上で、『一緒に育てよう』って言ってくれたんだ。嬉しかったなぁ。周りには『男はみんな逃げるよ』って言われてたから、もちろん打ち明ける時も怖くて、別れる覚悟だったから、本当に嬉しかったの。堕ろすっていう選択肢もあったはずなのに、蓮くんの口からは一度もその言葉はでなかった。19歳で妊娠して、すごく怖かったし、近所の人にも変な目で見られたけど、私たちが幸せならそれでいいって、元気に生まれてきてくれたらそれでいいよねって、二人でよく話してた。でもね、上手くいかなかった」

「…流産しちゃったんだ。これは誰のせいでもないって言われたし、そうとは思うけど、自分を責めちゃって、ベビーグッズとか子供部屋とか作ってたから余計に?苦しくて、蓮くんもきっと苦しかったはずなのに、私ばかり支えてもらっちゃってさ、今思うと本当情けなかったな〜なんて思うわけ。なんとか普通の生活が出来るようになって、仕事もできるようになっていったけど、二人の中で妊娠の話ができなくなったの。子供がほしいってきっと蓮くんも思ってたし私も思ってたけど、なかなか勇気が出なくて。それでも話し合って、子供欲しいねって。そしたら蓮くん泣いて喜んでくれてさ。この人との子供を私が産まないと、私が産みたいって思った。でもまたね、神様は私の見方をしてくれなかったの」

「バイクの事故だった。趣味のバイク。仕事が休みの時に気分転換程度でツーリング行ってて、まさかそれで呆気なく逝っちゃうなんて、蓮くん本人が一番驚いただろうなって思う。これからだって時だったのに」

「それが2年前。もう2年も経ってるんだけどね。今でもたまに居るみたいに話しちゃうんだ。おかしいよね、居ないのに」
 
 彼女の人生は24歳という若さでは背負いきれない程のものだ。「うん」と相槌をしていたけれど、本当は「うん」とし言えなかった。人の話には基本興味がない。そんな僕が珍しく、1から10まで真剣に聞いた。

 「おかしくないよ」

 話し出すつもりなんてなかった。けどこれだけは言いたい。

 「居るみたいに話すの、おかしくない。居たんだもん、そこにずっと。何も、おかしくないよ」

 父さんが宝くじを買いに行ってから、母さんが近所の人に、父さんが今までと変わらず居るみたいに話しているのを聞いたことがある。家でも、居るみたいにベットシーツを変えたり、服にアイロンをかけていた。突然大切な人がいなくなったら、人はそうなるんだ。当たり前なことだ。居ないみたいに話すと、居ないことが刃になって現実に突き刺してくるんだ。それはあまりにも、怖いことなんだ。

「君と私は似てるのかな」
「え?」

 想像していなかったことを言われ、つい声に出して驚いた。

 「同じような気持ち、知ってるんでしょう?」  

 そう言われて、僕は唾を飲み込んだ。見透かされているような気がする。でも自然と嫌な気はしない。クラスの奴らに噂されたり、可哀想な目で見られていたあの時の感情とは裏腹だ。

 「僕じゃない。母さんが…」

 固く繋がった唇が開いていく。胸のざわつきもない。

 「父さんが、10年前に出て行った。宝くじ買いに行ってくるって、僕の頭撫でて、そのまま。僕なんかより母さんが、ずっと父さんに会いたがってた。けど、こないだ母さんが病気で…。この10年居るように話してたことあったし、待ってたんだと思う。もうきっとどっかで別の家庭持ってたりするんだろうけど、母さんずっと待ってた。居るって信じたかったし、父さんに期待してたんだと思う。」

 僕の話を静かに聞いた彼女は、

 「そっか」

 とだけ呟いた。
 二人の間に少しだけ時間が流れて、最初に話し出したのは彼女だった。

 「ねえ知ってる?期待と願いって違うんだよ」
 「期待と願い?」
 「そう、期待はね、相手に望んでること。こうして欲しい、ああして欲しいって、やってほしいと思うことなの。でも願いは、自分だけの思いなの。相手を忘れないことで思い続けることもあるし、ダメだって、居ないって分かってるから、願ってるんだよ。私はまだ好きだよって。お母さんはきっと、この10年、願ってきたんじゃないかな。好きだよって」

 ずっと、もう期待するのやめなよって言いたかった。どうせ帰ってこないからシーツ洗うだけ無駄だよって。どうせ帰ってこないから、覚えてるだけ無駄だって。それなのに自分でも、マンションに行くのはやめられなかった。理由なんてわかんない。帰ってきてないかななんて期待しても、どうせ帰ってこないって知っているのに、母さんのことを思うとやめられなかった。
 そうか、僕も願っていたんだ。父さん好きだよって。肩車してくれた時は、誰よりも強くなった気になった。キャッチボールを褒められた時は、本気で野球選手になれるかもって思った。帰ってくる父さんを期待していたんじゃない。想いが届けばいいと願っていたんだ。
 気がついたら涙がこぼれ落ち、僕は10年ぶりに泣いた。

 「母さん…」

 そんな僕を彼女は優しく抱きしめてくれた。背中を一定のリズムで叩く手のひらが暖かかった。

 「ご、ごめんなさい。僕こそみっともないところを」
 「ううん、お互い様。あ、そういえば名前は?まだ聞いてなかった」
 「あ、今ですか」
 「確かに、こんなすごい話してんのにお互い名前知らないなんて面白いね。いっそのこともう知らずにいる?」
 「や、それはなんか嫌です」
 「あはは、だよね。はい、お名前は?」
 「高野洋太です」
 「洋太ってどういう漢字?」
 「大平洋の洋に、太いです」
 「ほー!どうりで今のその水色のTシャツが似合うわけだー!」
 「なんですかそれ。じゃあ、名前は?」
 「私は夏井(みどり)!」
 「すごい、夏!って感じの名前」
 「でもね、好きな季節は冬だし、好きな色は黄色なんだ〜」
 「全部違うんだ。いつも黄色のスカート履いてるから、好きなのかなとは思ってました」
 「昔蓮くんに、翠は黄色のスカートがよく似合うねって言われたことがあって。休みの日に外出る時はこれって決めてるの。空からでも見つけられやすそうでしょう?」
 「確かに、すぐ見つかりそう」
 「でしょ〜」

 黄色のスカートにそんな意味が込められていたなんて考えてもみなかった。確かに目立つし、遠くから見ても、彼女だって気がつきそうだ。彼女に惹かれているなんてちょっとでも思った自分をぶん殴ってやりたい。

 「洋太くんでいいのかな。呼び方」
 「はい、なんでも」
 「じゃあ私は翠さんか翠ちゃんで!」
 「流石にまだ翠さんでお願いします…」
 「ははは、りょうかーい!」

 彼女はまた目を閉じて息を吸った。そんな姿を見て僕も隣で真似をした。