「どこ行ってたの〜心配したんだから〜」
家のドアを開けると、おばあちゃんが玄関まで慌てて迎えにきた。眉が下がった心配の顔。最近この表情を見るとため息が出る。
「ちょっと隣町まで行ってただけだよ」
「隣町って…もしかして」
「大丈夫!あそこには行ってないから。図書館に行ってただけ。あそこにしかない本があるんだよ」
「そう…ならいいけど…」
おばあちゃんは、こっちに引っ越してきてからも、僕が度々あのマンションに行っているのを知っていた。それを知ったのは母さんが亡くなった時。
「美幸、洋ちゃんがあのマンション行ってたの知ってたのよ。光一さんが帰ってこなくても、あの家に住むべきだったのかもってずっと後悔してたわ。もう、光一さんはこれからも帰って来るつもりなんてないのよ。今日だって来てないんだし…。洋ちゃんもいい加減分かってね…」
お通夜が終わった後、母さんの前でそう言われた。でも僕は知っている。父さんを待っていたのは、僕よりも母さんの方だったということ。父さんの誕生日の十二月二十五日。クリスマスケーキと間違えて誕生日ケーキを昔のように買ってしまっていたこと。結婚記念日にはどこか遠くを眺めていたこと。唐突なインターホンに少しの期待を込めていたこと。
結局、母さんは父さんと会えずに死んだ。父さんはそんなことも知らずにどこかで笑いながら生きているんだろう。母さんと僕がどれだけ父さんを待ったか。それでも世の中は進んでいく。誰かが幸せを得たら、誰かが不幸を味わうようにできている。
「死にた…」
火葬から帰ってきて、骨になってしまった母さんを見つめながら、思わず口に出てしまった言葉を、きっとおばあちゃんは聞いていたのだと思う。あれから、おばあちゃんの僕を見るときの顔に、心配だ不安だと書いてある。
別に本気で言ったわけではないし、実行するつもりもない。でもなんだか毎日やる気がなくて、何を目標に生きているのかもわからない。生きている意味がどんどん分からなくなっていく。廃になってく感覚だった。
「洋ちゃん!どうしたのぼーっとして」
「ああ、ごめん」
「美味しくなかった?コロッケ」
「いや、美味しいよ」
「そう?ならよかった。あ、今日隣の朝倉さんと茶道クラブ行ってくるから、お昼いないからね〜」
「うん、分かったよ」
夏休みが本当に暇で、毎日何をするということもなく過ごしているけれど、おばあちゃんと二人の家は少し窮屈だ。いないと知ると少し安心する。夏休みにわざわざ予定を立てて遊ぶ友達もほとんどいないし、とことんつまらない人間だと思い知る。
そういえば、トト丸は元気なんだろうか。こんなに暑い中外にいて、熱中症にでもなっていないだろうか。
僕はふとした瞬間によくトト丸のことを思い出すようになっていた。あれから一ヶ月。「またおいで」と言われたけれど、結局行けなかった。トト丸のことだと思い込みながら、同時に黄色のスカートを履いた彼女のことを思い出していたからだ。涼しげなシトラスの香りは、僕の好みだった。
「またおいで、かあ…」
考えてみると、「またおいで」と誰かに歓迎されたことは人生で初めてだ。大学一年の時の新歓で、勇気を振り絞って行ってみたけれど結局場に馴染めずに、「あいつ地味すぎね?」とトイレで陰口を叩かれていたことがあった。その帰りは確か、「じゃあな」だった。
キッチンの棚から、プラスチックのお皿を取り出して鞄に入れた。制汗スプレーをして、爽やかな香水を一振り。向かっている途中でコンビニに寄って、水とキャットフードを買った。
この前トト丸に会った公園に到着し、少し歩いていると、あの木影に彼女がいるのが見えた。覗き込むと、足元にはトト丸。猫じゃらしで遊んでいるようだった。
「あの…」
恐る恐る声をかけると、
「あ!やっときた!!」
と、パッと明るい笑顔で僕を見上げてきた。
「またおいでって言ったのに全然来ないから、トト丸さんも寂しがってたんだよ」
「あ、えっと、すいません」
「ふふ、ま、いいんだけどね!約束じゃないし」
「そうだ。お水」
僕は持ってきたお皿にお水を出してトト丸さんの前に置き、キャットフードも開封して並べた。
「すごい。このキャットフードトト丸さんが好きなやつだよ!」
「そうなんですか」
「知ってたわけじゃなくて、たまたま?」
「たまたまです」
「わ〜こりゃ運命だね〜」
彼女の慣れた手つきで撫でられているトト丸はとても気持ち良さそうだ。心地いい風が吹き、木陰にいるからか、今日は蒸し暑いはずなのに不思議と涼しさすらあった。
「いつもここにいるんですか?」
「んー、仕事があるからいつもではないけど、暇なときは来てるって感じかな」
「お仕事…おいくつなんですか」
「何歳だと思う?」
「え?あー、うーん…」
「あはは、これ嫌な質問だよね。ごめんね意地悪して!昨日誕生日だったから、24歳!」
彼女はそう言って、何かがおかしいのかケラケラ笑っている。
「君は?何歳?」
「22です」
「へ〜大人っぽいね〜大学生?」
「はい、今夏休みで」
「いいな〜夏休み!学生の頃はこんなに休みなくてもって思ってたけど、社会人になって一気に夏休み恋しいもんな〜」
「やっぱり、そういうもんなんですね」
「そうだよ!大事にしないとだよ〜!」
僕らが二人で盛り上がってしまったからか、トト丸はムクっと起きてスタスタどこかへ行ってしまった。
「え?トト丸さん?どこいくのー!」
「どうしちゃったんですかね」
「トト丸さんってね、究極の気分屋なの。居たり居なかったり。懐いたり、懐かなかったり?気分屋って言うか、自由って言った方がいいのかな。何にも縛られてなくて、自由なんだよね。だから、こうやってどこかへ行ってもそれでいいんだ。行きたいところに行って、また帰ってくるから!」
「へ〜。トト丸のことよく知ってるんですね」
「もう5年くらいこうやって会ってるからね」
「5年?!?!」
「そう!びっくりした?ほぼ飼い主でしょ?」
「それはもう…ほぼそうです」
笑いながらすっと立ち上がった彼女は、座っている僕を見下ろしながら言った。
「ちょっと歩かない?」
唐突な誘いに、僕は考えるよりも先に体が動いた。立ち上がると、彼女はニコッと笑って、黄色いスカートを風に靡かせながら歩き始めた。
彼女の背中を追いかけて5分くらいがたった。僕と話がしたいと思ってくれたのかと思い上がってしまっていた僕は、この5分の間先程思わず立ち上がった自分に恥ずかしさを覚えていた。
「ここ」
その二文字だけ口にして立ち止まった場所は、僕がさっき、あの公園に向かうために使った『沖の橋』という大きな橋の下だった。今まで特に気にしたことがなかった場所。どうしてこんなところに僕を連れてきたんだろうと不思議に思っていると、彼女が日陰に座り込んで目を閉じた。
「な、何してるんですか」
慌てて僕がそう問いかけると、彼女は大きく息を吸って答えた。
「ここ、すごく空気が気持ちいいんだよね。すぐそこに川があるから、水の音も聞こえて心地いいの」
確かに、彼女の表情は満足そうだ。僕も彼女の隣に座って、目を閉じて息を吸った。
「確かに。気持ちいいかも」
橋の下なのに、意外と空気が気持ちいい。
「でしょ」
「でも急になんでここに?」
「ここで、トト丸さんに初めて会ったの」
「え、ここで?」
「そう、初めて会った時、すごく弱ってて、さっき君が持ってきたキャットフードとかお水とかをコンビニで買ってきてね。あげたらモリモリ食べたんだ」
「へ〜、トト丸とそんな始まりだったんですね」
「そう!それからトト丸さんを通して仲良くなった人のことをね、『猫の恩返しだ!』なんて彼が言い始めて…」
昔のトト丸を思い出しながら笑顔を浮かべて話していた彼女は『彼』というワードを出した瞬間、しまったと言わんばかりの表情で黙り込んだ。その表情は僕が知っているものだった。母さんが父さんの話を僕に『つい』してしまった時に浮かべていた、あの表情と同じだ。
「ごめん、なんでもないや!」
彼女はすぐに笑顔になり、『彼』を誤魔化すように、
「ほんと暑いね〜」
と呟いた。
彼女はどこか母さんと似ている。
「『彼』の話、してもいいですよ」
「え?」
「しないようにって普段気をつけてるんですよね。気を張って生きるのは疲れます。今みたいにボロだって出る。楽しい記憶を思い出さないようになんて、人間そうそうできないってこと、僕は知ってます」
特に頭で考えたわけでもない言葉がスラスラと口から出て、静かになった彼女をみると、そこには、大きな涙をこぼし声を抑えながら泣いている、一人の少女が座っていた。