今日から人生で最後の夏休みが始まった。意味もなく自転車を走らせるのが好きな僕は、今日も特に意味もなく風を感じながら走る。ちょっと今日はいつもより遠くに行ってみようと理由を付けて、昔住んでいた隣町までやってきた。
 小さい頃よく行っていた駄菓子屋のおばさんは今日も元気そう。母の帰りを待ちきれず、いつも夕飯を食べにきていた蕎麦屋のおじさんも常連の人とお店の前で笑顔で話していた。あの頃と何も変わっていない道。何も変わっていない公園。何も変わっていない学校。何も変わっていないマンション。変わってしまったのは、今ここにいる僕だけだった。 

 携帯にメッセージが入った。おばあちゃんからだ。

 『どこ行ってるの?今日は暑いから、ざる麺一緒に食べよう』

 大学生なのに、いつもどこにいるのか心配をしてくる。大丈夫だよ、死んだりしないから。なんて言ったら、きっとおばあちゃんは泣くと思う。
 3ヶ月前、母親が病気で他界し、おばあちゃんと二人暮らしが始まった。父親は宝くじを買いに行ったきり帰ってこない。もう10年も帰ってこないから、きっと当たったのだと思う。父親がいない家で母と住むにはあまりにも広すぎた。家賃だって無駄だ。母はきっと父親が帰ってくる場所でありたかったのだろうけど、おばあちゃんの助言もあってか、この街を離れることにした。
 あれから10年。見慣れたマンションのエントランスを通り抜け、ポストの前まで来た。1202号室。僕らの家だった場所には相変わらずガムテープが貼られていて、未だに父親は帰ってきていないのだと思い知らされた。
 数年前に一度、このガムテープが剥がされた時があった。そこには僕らとは違う家族が住んでいて、仲のいいその家族を見ると、僕らの幸せを吸い取られたような気分になった。 

 「あっつ…」

 自転車に跨り、一気に日光に照らされると、あまりの暑さに独り言が溢れた。目の前に見える公園の自動販売機で水を買い、口に運ぼうとした時、一匹の猫が視界に入ってきた。じっと僕を見つめている。誰かの飼い猫…ではなさそうだ。僕が少し近づいてみても逃げない。人間に慣れているのに首輪は付いていない。

 「あ、水?」

 僕が持っていた水が欲しいということなのかと話しかけてみた。
 
 「水、欲しいの?」

 もちろん反応はないけれど、なんとなく欲しいのだろうと思った。器は持っていないから、キャップに水を満タンに入れて、地面に置いてみた。僕のこの行動を待っていたかのように、猫は勢いよく水に飛びつきあっという間に飲み干した。器さえあれば…と周りを見渡していると、公園の砂場に子供の忘れ物であろう青い容器が落ちていた。

 「ちょっと、待ってて」

 僕は猫にそう声をかけて、小走りで取りに行った。その場で青い容器を持っていた水で洗い、急いで戻ろうと振り向くと、すぐそこにあの猫がいた。

 「ついてきたのか?どんだけ喉乾いてんだよ」

 青い容器に水を沢山入れて地面に置くと、また勢いよく水に飛びついた。

 「暑いよな〜喉乾くよな」

 美味しそうに水を飲む猫が可愛いと思えた。昔、友達の飼っていた猫に引っかかれてから、若干のトラウマを抱えていたけれど、どうやらもう平気なようだ。
 あまりにも日光が直当たりする場所だと思い、水に夢中の猫を抱えて大きな桜の木の木陰に移動した。そして、さっき買ったばかりの水を全て青い容器に入れた。

 「…うち来る?」

 おばあちゃんが猫アレルギーだということを知っていながら、つい願望が口に出てしまった。いっそ内緒で連れて帰ってしまおうかと思っていた時、後ろから声がした。

 「あれ、トト丸さん?」

 振り返ると、黄色いスカートを履いた女性が一人、軽やかに立っていた。髪の毛が風に靡いている。僕より年上だろうか。同級生からは感じない「大人」という雰囲気を感じた。

 「ト、トト丸?」
 「そう、トト丸。その猫の名前!」
 「あ〜。なんだ、飼い主いるんだよかった」
 「あ、違うよ!私飼い主じゃないの。名付け親ではあるけど、飼ってない。ていうか、トト丸さんは誰にも飼われてない野良猫!でもここら辺の人に愛されてる、アイドルなんだよね〜」

 彼女はそう言って、慣れた手つきでトト丸を撫で始めた。

 「今日暑いからと思って水持ってきたけど、いらなかったね〜」
 「あ…ごめんなさい」
 「なんで謝るの?いいことだよいいこと」

 風に乗って彼女の香りが鼻に届く。涼しげなシトラスの香り。僕は…絶対に汗臭い。自転車を漕いでいる時に結構汗をかいたし、制汗スプレーも面倒くさくてやらなかった。思わず立ち上がり、

 「じゃあ僕はこれで」

 とだけ一言告げて、その場を離れた。「帰っちゃうの?」という声が微かに聞こえて、呼び止めてもらえた嬉しさもあったけれど、臭いと思われたのではないかという恥ずかしさの方が優っていた。
 自転車に跨ると、また後ろから声がした。

 「またおいで!!!」

 振り返ると、彼女がこちらに手を振っている。ああ、恥ずかしくてたまらない。僕は会釈だけをして、一度も振り返ることなく、いつもより早い速度でその場を後にした。