それから数カ月、ソリスはスローライフを満喫していた。

 森で獲物を狩り、山菜や薬草を摘み、畑を広げ、屋根の雨漏りを直し、セリオンと朝から晩まで笑い声を響かせながらお花畑での生活を楽しんだ。食事は山の恵みを中心に、湖の幸や街の美味を組み合わせ、毎食が絶品のご馳走となる。その暮らしはまるで天国のようで、もはやここを離れることなど考えられないほど、この地に深く染まっていった。

 最初のうちこそ『輝く生きざまを見せる』という女神との聖約を必死に考えていたソリスだったが、毎日朝から晩まで忙しく、楽しいことや美味しい食事に囲まれた充実した生活の中で、徐々に思い出す機会も減っていった。

 翠蛟仙(アクィネル)に解呪をお願いして、本来の生き方に戻るべきだと何度も考えたが、セリオンの輝く笑顔を見るたびに、その最高のスローライフを手放し、再び厳しい現実に戻る決心がどうしてもつかなかったのだ。

 その日も、この季節にしか手に入らない幻の薬草を求めて、朝から森の奥深くまで探索し、険しい崖を登って貴重な薬草を手に入れた。セリオンと共に挑戦する日々は、まるで毎日が宝石のように感じてしまう。

 家に戻ってきた頃には、遠くの山に真っ赤な太陽が差し掛かり、辺りはすべて赤に染まっていた――――。

 二人はしばらくウッドデッキで、その色鮮やかな大自然のアートを眺める。

「今日も終わりね……」

「お疲れさまでした」

 セリオンはニッコリとソリスに笑いかけると、ポットのお茶をソリスの前のカップに注ぐ。

「あ、ごめんね。ありがとう……」

 ソリスは山の端に隠れていく真っ赤な太陽を眺めながら、ピンク色の酸味のあるローズヒップを静かにすすった。

 風は()ぎ、花畑は静寂に包まれ、これからやってくる夜の(とばり)にみんなが備えているような静かな緊張が感じられる。

 ここに来てから夕日を眺めるのが暮らしの一部となったが、街での生活ではそんな風景を楽しんだ記憶などなかった。街には日没を見られる場所がほとんどなく、高級住宅地の山の手ならまだしも、ソリスが暮らしていたダウンタウンでは夕日を拝むことなど不可能だった。

 それに――――。

 日々の過酷な労働の中で、そんな余裕など全くなかったのだ。陽が沈むまで狩りをしたら、ギルドへの報告、換金、夕飯の支度に道具の整備、全てが終わったころにはもうクタクタで眠ることしかできなかった。

 ローズヒップの甘酸っぱい香りが鼻腔を通り抜ける中、一体何が間違っていたのだろうか? と自問してみるソリスだったが、どこにも間違いを見つけられなかった。逆にそれがソリスの苦悩を深く刻んだ。

 ふぅ……。

 ソリスは重いため息をつくと首を振り、鋭い輝きを放ち始めた(よい)の明星を見上げた。

「夕飯作ってくるから待ってて」

 セリオンは椅子からピョンと跳びおりる。

「あ! 私も手伝うわ……、よいしょっと……」

 慌てて立ち上がろうとしたソリスだったが、足が床についていない九歳児なのでまごついてしまう。

「いいって、簡単な物すぐ用意するだけだから座ってて」

 セリオンは頑張って降りようとしているソリスを制止する。

「あ……、そう?」

「うん! 待ってて!」

 セリオンのまぶしい笑顔にソリスはニッコリとほほ笑むと、ゆっくりとうなずいた。


       ◇


「はい! できたよー!」

 セリオンがディナーをトレーに乗せてヨロヨロしながらやってくる。

「あぁ! 手伝うわ!」

 トレーを急いで受け取ったソリスの目に飛び込んできたのは、大皿に美しく盛られた生ハムのガレットだった。細切りにしたジャガイモが香ばしく揚げ焼きにされパイ生地のようになり、その上には色とりどりの野菜と生ハム、そしてとろりと溶けるチーズが絶妙なバランスで乗せられていた。

「わぁっ! 美味しそう!」

 ふんわりと立ち上ってくる揚がったポテトの食欲をそそる香りに、思わずソリスは目を輝かせた。

 早速切り分けて食べる二人。

「いっただっきまーす!」「まーす!」

 一口サイズに切ってフォークで運び、口に入れると、カリッとした香ばしい表面とほくほくした中身の絶妙なコントラストが広がり、とろけるチーズが見事に絡み合い、その美味しさに脳髄が震えた。

 さらに、生ハムの辛旨い芳醇な風味が広がってきて、ソリスはその至福の味わいに思わずため息をつく。

 ふわぁ……。

 美味しぃ……。

 二人は労働の心地よい疲労感の中、その魅惑的なディナーを堪能しながらお互いを見つめあった。

「美味しいねぇ……」

「本当に……、幸せだわ……」

 ソリスは次から次へと手が伸びてしまうガレットを心行くまで堪能し、満足しながらも深いため息をついた。

 フィリアやイヴィットにも食べさせてあげたい――――。

 こんな美味しいものを一人で楽しむのは、どうしても後ろめたい気持ちが残る。

『ズルいでゴザルよ! ソリス殿~!』『……、ズルい……』

 今にも二人の声が聞こえてきそうである。

 しかし、生き返らせるには女神に『輝く生きざま』を見せないといけない。ところが、輝く生きざまをどうやって見せたらいいのかがソリスには全く分からなかった。

 この数カ月、自分なりに精一杯生きてきたが、どうも女神の望む『輝く生きざま』とは距離があるように感じてしまう。

 もっとダンジョン奥深く冒険するのを見せる? それは確かに輝きそうではあったが、ソリスには女神が認めて喜んでくれるイメージが湧かなかった。

 茜色から群青色へと美しいグラデーションを描く夜空を見上げ、ソリスはボソッとつぶやいた。

「このままでいいはず……ないわ……」

 どういう生き方がいいかは分からなかったが、自分だけスローライフを楽しんでいる生き方では到底女神を納得させられない。

 ソリスは二人に申し訳なくて胸が押しつぶされそうになり、思わず胸を押さえ、うつむいた。

「フィリアぁ、イヴィットぉ……。ゴメン……。でも、どうしたら……」

 正解の分からなくなったソリスはポトリと涙を落とした。

「お、おねぇちゃん……、どうした……の……?」

 セリオンが心配そうにソリスの顔をのぞきこむ。

「ん……? ご、ごめんなさい。死んだ友達を思い出しちゃって……」

 ソリスは慌てて手の甲で涙をぬぐった。

 セリオンはトコトコとソリスのそばまでやってくると、ギュッとハグをした。

 え……?

 セリオンは何も言わずただ優しくソリスを抱きしめる。

 その優しい温もりに触れた瞬間、ソリスの瞳からまた涙がこぼれた。星が瞬き始める夜空の下で、二人はしばらくの間、互いの温もりを感じ合う。

 人生に迷うソリスにとって、セリオンの優しさは心の奥底に深く染み渡っていった――――。