「うわー! 何をするんじゃ!」
財布を奪われ、うろたえながら取り戻そうと暴れる司教。
「ちょっと、あなた! 止めなさい!」
シスターもソリスを押さえにかかる。しかし、レベル124の圧倒的なパワーに一般人が敵うわけがない。
ソリスは二人をはねのけるとピョンとテーブルの上に飛び乗り、金貨十枚を財布から抜き取った。
「こんないい加減な祈祷してたら、女神様から罰が当たるわよ!」
司教に財布を投げつけるソリス。
「くぅぅぅ……。この異端者が!! 曲者だ! 出会え出会えーー!」
司教は怒りで顔を真っ赤にしながらピーピー! と笛を吹きならした。
バタバタと廊下を誰かが駆けてくる足音が響いてくる。
「ちっ! 何が『異端者』だ! 生臭坊主が!!」
ソリスは辺りを見回し、窓を開けるとそのままピョンと外に飛び出した。
へっ!? キャァァァ!
五階の窓から飛び降りる少女を見て、司教もシスターも息をのむ。しかし、ソリスにとってはこの高さはもはやただの『小さな挑戦』にすぎなかった。彼女はバサバサっと葉を散らしながら庭木の枝をうまくつかむと、クルリと軽やかに空中を舞い、次々と枝を渡り歩きながら高度を下げていく。その流れるような動きは、まるで森を躍動するサルのよう。最後には、三メートルはあろうかという高い塀を軽々と飛び越え、消えていく。
司教とシスターはお互い顔を見合わせ、人間技とは思えないソリスの身のこなしに首をかしげていた。
◇
「困ったわ……。司教ですらあのザマなんて……。この街じゃダメだわ……」
石畳の通りを、ソリスは人波をかき分けながら唇を噛みしめた。この街は中堅の地方都市で、その賑わいは王都に劣る訳ではない。しかし、高度な魔法が息づくのはどうしても魔塔のある王都になってしまう。ソリスが求める解呪の術も、遠い王都でしか見つからないのだろう。
街の中心部を抜け、城門のそばの馬車のターミナルまで来ると、ソリスは王都の方向にある隣街【リバーバンクス】行きの馬車を探してみる。王都は遠いので直行便はあまりなく、街をいくつか経由していくのが普通だと聞いていたのだ。
ずらりと並ぶ馬車には行先がボードに掲げてあるので、ソリスはそれを見ながら隣街の名前を探した。
「おや、お嬢ちゃんどうしたんだい?」
人のよさそうなひげを蓄えた小太りの中年男が声をかけてくる。
「え? リバーバンクスに行きたいんだけど……」
「お嬢ちゃん一人で?」
中年男はけげんそうにソリスの顔をのぞきこんだ。
「え、ええ……」
「ふぅん、じゃあ、乗せてってやるよ。丁度そっちへ荷物を届ける用事があってな」
ニコッと笑う中年男。
「えっ……? いいんですか?」
「乗合馬車では荒くれ者と一緒になると大変だしね」
男はウインクして向こうに停めてある自分の馬車を指さした。
◇
ソリスは白パンとチーズを買い込むと男の馬車に乗りこんだ。
「よーし! では出発だ!」
男は御者台に乗り、手綱をビシッと波打たせる。
ブルルッ!
車輪が軋む音を響かせながら、二頭の馬が栗毛の輝きを放ちつつ、古びた茶色の馬車を引きだした。
パッカパッカという小気味の良い蹄鉄のリズムが石造りの街並みに響き、心地よい揺れにソリスはゆったりとため息をつく。
やがて馬車は立派な石造りの城門をくぐり、ソリスは後ろの窓から小さくなっていく街の姿を眺めていた。
生まれてからずっと三十九年間過ごしてきた故郷。いいことも嫌な事もたくさんあった思い出あふれる街。それがこんなことで去らねばならなくなるとは……。ソリスは自然と湧いてくる涙を手の甲で拭い、濡れた目に街の最後の光景を焼き付けていた。
◇
どこまでも続く麦畑の一本道をのどかに進んでいく馬車。さわやかな風が吹き、麦畑にウェーブを描いていく。
ソリスは白パンにチーズを挟み、空腹をいやす。
少し奮発して買った白パンは柔らかく、チーズの芳醇な旨味と相まって至福の時をもたらしてくれた。
「やっぱり白パンは美味いわ……」
いつも茶色いパンで我慢して三人で分け合っていたことを思い出し、ふぅと大きくため息をつくソリス。そんな暮らしをしていたのはたった一週間前の話。今では遠い昔のように感じてしまう。
「ふわぁぁ……」
お腹もいっぱいとなってうつらうつらしてくるソリス。あまりにも濃すぎた一日に、疲労は限界を超えていたのだった――――。
◇
ガタガタガタッ!
いきなり馬車が揺れ、ソリスは慌てて目を開けた。
さっきとは打って変わって鬱蒼とした森が広がっている。どうやら麦畑を抜け、森に入ってきたようだったが、どうも様子がおかしい。道幅が妙に狭いし、ひどく凸凹だった。
「オジサン! この道は何なの?」
ソリスは御者台の男に聞いてみる。
「この道がね、近道なんだ。ちょっと揺れるけど辛抱してね」
男は振り向きもせずそう言って淡々と凸凹道を進んでいった。
「いいから、ちょっと止まって!」
ソリスは叫んだが、男は無視して進んでいく。明らかに怪しい。
やがて道の先に男たちが五、六人待ち受けているのが見えてきた。皮鎧に身を包んだボサボサ頭に無精ひげのむさくるしい男たちだった。山賊だ。
ドウ! ドウ!
御者は男たちのところで馬を止める。
「おう、今日は小娘一匹だ」
「ご苦労、どれどれ……?」
男たちがゾロゾロと近づいてきて馬車のドアを開け、ニヤニヤしながらソリスを値踏みした。
ソリスはまんまと騙された自分のバカさ加減にホトホト嫌になる。若い娘がフラフラしていたら捕まって売り飛ばされる。それは孤児院の頃何度もきつく言われていたことだった。改めて自分はもうアラフォーではないことを思い知らされる。
とはいえ、レベル124の自分であれば山賊など恐くもなんともない。面倒なのは手加減ができないことだった。
もちろん、山賊など殺してしまえばいいのだが、まだ人を殺したことがないソリスにとっては今、その判断をするのは荷が重かった。
この時ふと『この世界の人間はシンプル』と、言っていた筋鬼猿王の言葉が頭をよぎる。確かに普通の冒険者なら、山賊に襲われたら何の躊躇もなく殺しているだろう。自分は本当はこの世界の者では……ない? ソリスは背筋がゾクッとした。
「おう、嬢ちゃん。両手を前に出しな」
ほほに大きな傷跡のあるバンダナした男が刃物をチラチラさせ、ニヤニヤしながら声をかけてくる。
ソリスは仏頂面で、すっと両腕を前に出す。
「よーしいい子だ……」
男が縄を出して手を縛ろうとした時だった。
パァン!
衝撃音がして、男はすっ飛んでゴロゴロと森の方へと転がり落ちていった。
へ? は?
山賊たちは何が起こったのか分からず、目を丸くしてソリスを見つめる。
軽く平手打ちをしただけなのにすっ飛んで行ってしまった男を見て、ソリスはふぅとため息をついた。
「死にたくなきゃ道を開けな!」
ソリスはムッとしながらそう叫ぶと、ピョンと馬車を飛びおりる。
「ふざけんなガキが!」
男たちがソリスを捕まえようと腕を伸ばしてきたが、それらをパシパシっとはたきながらかいくぐるソリス。
「追いかけてきたら殺す、分かったな?」
ソリスは男たちにすごんだが、十歳の少女がすごんでも可愛いだけである。
「ガキが!」「大人をなめんなよ?」
激高した山賊たちがソリスに突っ込んできた。
ソリスはヒョイっと躱すと森の中へと駆けこむ。こうなったら逃げるしかない。むさい男たちの内臓が飛び散るようなシーンは見たくないのだ。
「逃げたぞ! 追え!」
男たちはいっせいに追いかけてくる。
「捕まるか、バーカ!」
ソリスは俊足を生かし、タタタッと加速すると枝に飛びつき、サルのように枝から枝へ飛び移る。
「へへん! それそれーー!」
まるでアトラクションを楽しむように、ソリスは森の奥へと進んでいった。
「あっちだ! 逃がすな!」
しかし、山賊たちもしつこく追いかけてくる。子供に逃げられたということになるとボスの怒りに触れるからなのか、諦めもせず森の中を猛進してくるのだ。森の中で暮らしている山賊たちの行動力は予想以上のものがあり、いつまでたっても追いかけてくる。
「しつっこいなぁ……」
ソリスはハァとため息を漏らすと、気合を入れなおし、本気で逃げ始める。
沢を飛び越え、滝をヒョイヒョイとよじ登り、池の水面を駆け抜け、森の奥へとすさまじい速度で突っ込んでいった。
大自然の中を駆け抜ける至福に心を奪われたソリスは、やがて逃げるという目的をすっかり忘れてしまう。歓喜に満ちながら小一時間駆け巡り、最後には壮大な断崖絶壁を力強く駆け上がった。
「はぁ……楽しかった! 山賊は……、さすがにいない……か……」
ソリスは崖の端に立ち、広がる原生林を一望した。どこまでも続く壮大な原生林の向こうに日は傾いて、森を柔らかなオレンジ色に染め上げている。
「いっけない! もう夕暮れだわ……」
ソリスは焦った。こんなところで野宿なんてとんでもない。野営の道具など持ち合わせていないのだ。人里に戻ろうとしてもどちらに向かえばいいかもわからないし、日没には間に合いそうになかった。
ぐぅぅぅ……。
お腹も鳴ってソリスは顔をしかめた。パンはすでに食べてしまって食料などもう無い。
「もっとたくさん買っておけばよかったわ……白パン……」
途端に心細くなって肩を落とすソリス。
ガサッ!
その時、森の奥で何かが動いた。
ガサガサと草が揺れ、その中から巨大なクマが現れる。
体長三メートルはあろうかという、とんでもなくでかいクマだった。
グルルルル……。
クマはソリスをにらみ、のどを鳴らす。
しかし、ソリスにとってはそれは食料にしか見えなかった。
「おぉ、クマ肉もいい……ねぇ」
ソリスはニヤッと笑うとファイティングポーズをとる。ぶわっと立ちのぼる凄まじい闘気。対筋鬼猿王戦で培った拳闘術を早速試してみようと思ったのだ。
しかし、クマはソリスから立ち上る恐ろしい闘気に当てられ、ビクッと身体を震わせると慌てて逃げ出した。本能的に戦ってはならないと悟ったのだ。
「え? おい……肉……」
まさか逃げるとは思わなかったソリスは、呆然としてしまう。
もちろん追いかけて殺す手もあるのだが、負けを認めて逃げる相手を追い詰めてまで殺すのは筋が違うように感じてしまう。
「はぁ……肉……」
ソリスはがっくりと肩を落とした。食べ物を得られなかったこともそうだが、まさかあんな巨大なクマにすら恐れられる存在になっていたとはショックだったのだ。
しかし、日没まで時間がない。ソリスはトボトボと今晩の寝床を探しに歩き出す。
食料と、一晩露をしのげる安全なところを、日没までに何とか探さねばならなかった。
◇
しばらく巨木の屹立する鬱蒼とした原生林を進んだが、なかなかお目当てのものは見つからない。そうこうしているうちに徐々に暗くなってきて寒くなり、心細くなってきた。
「しまったなぁ……」
こんな森の奥でどうやって夜を過ごせばいいのだろうか? 遠くで響くウルフの遠吠えが夕暮の静寂を破り、不安をかき立てる。
はぁ……。
身を縮こまらせ、しょぼくれながら重い足を引きずっていると霧が出てきた。
「おいおい、困るよ……」
ソリスは渋い顔をしながらさらに先に進んでいく。すると、ふわっとめまいに襲われ方向感覚がおかしくなった。
「ん……? なんだ……これは?」
辺りを見回し、自分の歩いてきた方を確認すると、いつのまにか進行方向が横方向へずらされていることに気がついた。何かの魔法だろうか? ソリスは首をかしげながら先へと進む。
森の終わりに差し掛かると、突然視界が開け、広大な花畑が広がっていた。無数の赤、青、黄色の花々が咲き乱れ、かぐわしい香りが辺り一面を染め上げていた。
すでに日は沈み、空には茜色から群青色へのグラデーションが美しく描かれ、宵の明星がキラキラと輝いている。その夕暮れ空の下に広がる一面の花の世界はまるで天国のようでソリスは圧倒された。
「うわぁ……素敵……。でも……、何か変ね?」
それは自然にできたようなものではなく、どこか人の手による匂いがしたのだ。
目を凝らして見ると花畑の先に青い三角屋根の建物が見える。誰かが住んでいるようだった。
「こんなところに一体誰が……?」
ソリスは首をかしげながらも花畑を進んでみる。オレンジの百合にピンクのなでしこ、黄色い菊に白いシャガ、たくさんの花々がソリスを迎えてくれるように香り豊かに揺れていた。
「綺麗ねぇ……」
ソリスは次第に幸福感に包まれていく。これほど多くの花々に囲まれるのは生まれて初めてのことで、そのかぐわしい香り、美しさに心を奪われた。
「頼んで……みるか……」
誰が住んでいるのか分からないが、ソリスは寝床と食事の恵みを求めて訪ねてみることに決心した。ウルフのいる森でなんかとても眠れないのだ。
花をかき分け、進んでいくと、照明をつけた家の窓から暖色の光が漏れ、辺りの花々に明かりを落とした。それはまるで花畑の中の宝石箱のように見える。
うわぁ……。
ソリスはその幻想的な光景に吸い寄せられるように足を速めた。
近づいて行くと徐々に様子が見えてくる。その建物はまるで童話から抜け出したような、石と木材を組み合わせた温もりのある外観をしていた。広いウッドデッキにはテーブルも配され、居心地の良さを感じさせる。
「素敵ねぇ……」
ずっと狭い集合住宅で暮らしてきたソリスは、こんなところで暮らすなんて夢みたいだとつい憧れてしまう。
家の玄関までたどり着くとソリスは大きく深呼吸をした。こんな素敵な家に住むのだから、山賊とかではないだろう。
しかし……。
こんな山奥にポツンと暮らしているなんて、余程の変人か訳アリである。そもそも人間ではないかもしれない。とんでもない魔物が出てきたらどうしよう……。ソリスは今になってブルっと震えた。
その時だった――――。
ガチャリ。
ドアがいきなり開いた。
ソリスはビクッと固まる。
すると、中から男の子が顔を見せた。金髪のショートカットに碧い瞳。まるで童話から飛び出してきたような可愛い男の子だったのだ。
キュン! と、ソリスのなかで何かがときめいた。
「ど……、どなた?」
男の子は不安そうに眉をひそめる。
「あっ、ごめんなさい! 怪しいものではないです。山賊に追われて迷い込んでしまいました。良ければ食べ物と軒先を貸していただきたく……」
男の子は不思議そうに首をかしげ、目を凝らしてソリスを見た。
「山賊に……?」
男の子は周りを見回し、小さな女の子一人だと分かるとニコッと笑い、うなずいた。
「いいよ! ようこそ。さぁ、入って!」
「あ、ありがとうございます!」
何とか野宿せずに済みそうになったソリスはホッと胸をなでおろし、深々と頭を下げた。
◇
「おじゃましまーす……」
恐る恐る部屋に入ると広いリビングには暖炉の灯がともり、その前にはゆったりとしたソファーが置いてあった。
「うわぁ……、素敵……」
ソリスは目をキラキラ輝かせながら両手を組んだ。ずっと森の中を歩き疲れた先にたどり着いた暖炉はまるでオアシスだった。
「ソファーにでも座ってて。今、お茶入れるから……」
「あ、ありがとうございます」
ソリスは暖炉の炎に両手をかざして暖を取り、大きく息をついた。
「はい、どうぞ……」
少年はニコッと笑うとティーカップをローテーブルに置いた。少年は青いリボンをワンポイントにした、白と青の柔らかな布が複雑に重なり合う、見たこともないデザインのシャツを羽織り、動くたびにサラサラと布が揺れ動いた。下は青い短パンで細い足がニョキっとのぞいている。
「あっ、ありがとう……。私はソリスって言います。あの……お家の方は?」
ソリスは辺りを見回した。
「ははっ、ここは僕一人しか住んでいないよ。僕はセリオン。はい、クッキーもあるよ」
セリオンは落ち着いた物腰で、クッキーの入ったバスケットをソリスに勧めた。
「ひ、一人……。そ、そうなんだ」
ソリスはその奇妙な話を怪訝に思いながらクッキーを一つつまむ。
「お客さんが来ることなんてほとんどないから、ロクなおもてなしができないけど、ゆっくりしてって」
セリオンはニコッとかわいらしい笑顔を見せた。
「おもてなしなんてそんな、クッキー最高に美味しいです!」
「ふふっ、良かった。それ、僕が焼いたんです」
セリオンはほほをポッと赤く染めると照れながらうつむいた。
その様子にソリスはキュンと胸の奥で何かが弾けるのを感じる。人里離れたこんな森の中で一人クッキーを焼いている可愛い少年。その尊さにどうにかなってしまいそうだった。
ゲフンゲフン!
ソリスは変な高鳴りをする自分の胸に咳ばらいをし、雑念を払うとお茶を口に含む。華やかなルビー色をしたお茶は香り高く、爽やかな酸味と共に鼻腔を抜けていった。
その後、セリオンの手料理の兎のオーブン焼きを食べ、暖炉の炎を眺めながら二人はいろいろな話で盛り上がった。兎を狩った時のこと、付け合わせの野菜の育て方、そして、身の上話――――。
話を総合すると、セリオンは先祖代々続くこの地を守って暮らしているらしい。裏の畑で野菜を作り、山で狩りをし、薬草を摘んで月に一度くらい街へ行って生活に必要なものを買っているということだった。
両親はどこにいるのか聞いてみたが、それははぐらかされてしまった。きっと人に言えない事情があるのだろう。ソリス自身もアラフォーのおばさんだということを打ち明けられておらず、人のことは言えなかった。
夜も更け、満月が高く上がるころ、二人は眠りにつく。ソリスはソファーに寝転がって毛布をかける。十歳の小さな身体ではソファーでもう十分だったのだ。
「おやすみ」「また明日……」
暖炉の炎を眺めるまぶたがすぐに落ちてきて、ソリスの激動の一日は幕を下ろした。
◇
カチャカチャ……。
翌朝、ソリスが物音で目が覚めると、さわやかな朝日の中、セリオンが朝食の準備をしていた。
「あ、起こしちゃったかな? ごめんね」
セリオンはお茶を注ぎながら申し訳なさそうに謝る。布の折り重なった不思議なシャツが朝の光にキラキラと輝いていた。
「あ、いやいや。私も手伝う!」
ソリスは慌てて寝癖を押さえながら起き上がる。
「大丈夫だよ。もう出来上がったから」
セリオンは眩しい笑顔でニッコリと笑う。
「じゅ、準備してくるねっ!」
ソリスはポッと頬を赤らめ、バタバタと洗面所の方へ駆けていった。
◇
セリオンは一人だと寂しいということだったので、ソリスはしばらく逗留することにした。昨日は『すぐにでも王都に行って解呪せねば』と焦っていたが、よく考えたらそんなに急ぐ話ではないのだ。もちろんフィリアとイヴィットのことを忘れた訳ではないが、少しここで休んでも怒られるような話でもないだろう。
「今日は魚釣りにね、行こうと思うんだ」
セリオンはパンをかじりながらチラッとソリスを見た。
「魚釣り!? 私やったことないの。連れてって!」
ソリスは目を輝かせる。
「ふふっ。いっぱい釣って今晩のおかずにしよう! 楽しみになってきたよ!」
セリオンはパアッと明るい笑顔でソリスを見た。
ソリスはその眩しい笑顔についクラクラとなってしまい、思わず額を手で押さえる。アラフォーのおばさんが少年の尊さにメロメロだなどという現実は、決して認められなかったのだ。
あくまでも自分は十歳の少女、過ちはあってはならない、と何度も言い聞かせる始末だった。
セリオンはウキウキとしながら、物置から釣竿を二本取り出してくると肩に担いだ。
「じゃぁ、しゅっぱーつ!」
セリオンは輝く笑顔でソリスの手を取り、お花畑の中を歩き出す。ナチュラルに手をつながれて一瞬焦ったソリスだったが、
「しゅっぱーつ!」
と、ソリスも嬉しそうに真似をして、つないだ手を振り、歩き出した。
二人はお互いの顔を見つめあい、ニッコリと笑って同じ歩幅で歩いていく。
「お日さま ぽっかぽか~♪ 手つなぐ ぼくときみ~♪」
上機嫌にセリオンが歌い出す。ちょっと調子っぱずれだが、のびやかな歌声にはワクワクとした楽しさがたくさん詰まっていた。
「え? 何の歌なの?」
「今、思いついたまま歌ってるんだよ。一緒に歌お?」
セリオンは小首をかしげてソリスの顔をのぞきこむ。その可愛らしさにソリスはクラクラしてしまう。
「いいよ! お日さま ぽっかぽか~♪ 手つなぐ ぼくときみ~♪」「ぼくときみ~♪」
「お花畑 乗り越えて~♪ 湖まで ぴょんぴょんぴょん~♪」「ぴょんぴょんぴょん~♪ きゃははは!」
温かい春の日差がさんさんと降り注ぐ花畑を、二人は即興の歌を歌いながら楽しく進んでいく。
孤児院を出てから不本意に冒険者をやり、命のやり取りをしながらギリギリの暮らしをしてきたソリスにとって、こんな楽しい時間は生まれて初めてだった。もちろん、フィリアやイヴィットとの時間も楽しかったが、それは大人の楽しさなのだ。こんな童心に帰って伸び伸びとした楽しさに触れるなんてことは全く記憶になかった。
『あぁ、人生ってこんなに楽しいものだったのね!』
ソリスは心の底から湧き上がる喜びに身を任せ、セリオンとの笑顔が交わされるその瞬間を心から楽しんだ。
辛く厳しい時間の連続で凍り付き、ささくれだったソリスの心はこうしてゆっくりと溶かされていくのだった。
◇
しばらく森を歩いた時だった。いきなりパアッと視界が開け、息を呑むほどの美しい湖が目の前に広がった――――。
「うわぁ。素敵……」
湖の水面は太陽の光を受けてキラキラと輝き、その光が雲の影に映え、まるで夢の中のような景色である。周囲を濃い緑の森が囲み、静かで美しい自然の劇場となっていた。
「綺麗でしょ? 僕のお気に入りの場所なんだ」
セリオンは自慢げに胸を張る。
「うん! とっても綺麗で……なんだか空気も清々しく美味しいわ」
ソリスは両手を空に伸ばし、大きく息を吸った。
「ふふっ、良かった。それじゃ、今晩のおかずを釣ろう」
セリオンはそう言うと靴を脱ぎ、湖に入って岩をひっくり返した。
ソリスが不思議に思っていると、セリオンは何かを捕まえている様子である。
「何……してるの……?」
ソリスがのぞきこむと、セリオンが何かを顔の前に突き出した。
「釣り餌だよ! 川虫」
つままれた細長い虫はうねうねと身体をねじらせ、逃げようともがいている。
キャァァァ!!
ソリスはその不気味な動きに耐えられず、黄色い悲鳴を上げ、逃げだしてしまう。
「おりょ?」
セリオンは何が起こったのか分からず、首をかしげて木の裏に隠れるソリスを見ていた。
◇
「虫が苦手だったんだね。ごめんね」
セリオンはソリスの仕掛けに、代わりに川虫をつけてあげる。
「ご、ごめんなさい……。わたし、虫がダメなの……」
アラフォーにもなって虫がダメとは情けないと思いつつ、ソリスは少女の姿で目をギュッとつぶって震えていた。
「いいよ、誰にも苦手はあるからね。はい、できたよ」
セリオンは少し深くなっているポイントに仕掛けを投げると、竿をソリスに渡した。
「あ、ありがとう。わたし……釣りは初めてなの。これは待ってればいいの?」
「うん、魚が食いつくと浮きがね、ギューって沈むから、そうしたら引き上げるだけだよ」
「わ、分かったわ……」
ソリスは胸に手を当て、何度か大きく息をつくと、水面でゆらゆらと揺れている黄色く長細い浮きを見つめた。
湖面を渡るさわやかな風にあおられて浮きは揺らめき、湖面に同心円の波紋を描く。波紋は陽の光をキラキラと反射して水面に美しいアートを描いていく。
ピリリ、ピーチュリ……。
森の奥から小鳥のさえずりが響いてきた。
見上げれば青空に白い雲がぽっかりと浮かんでいる。
「はぁ……、なんだか癒されるわ……」
大きく息をつくソリス。
仲間を殺され、自分も何度も殺されながら、最後にはこんな少女になってしまって街を逃げ出した最近の波乱に満ちた日々が、ソリスには遥かなる異世界の幻のように感じられてしまう。
二十数年間、あくせくダンジョンで魔物を狩っていた日々は一体なんだったんだろう? ソリスは首をひねってしまう。こうやって毎日魚釣りして暮らせばよかったんじゃないだろうか? 命懸けで魔物と戦うストレスフルな毎日に意味なんてあったのだろうか?
ソリスは今までの人生に自信が持てなくなってきてため息をつき、うなだれて足元で揺れる水面を見つめた。
「引いてる! 引いてるよ!」
セリオンの声で慌てて顔を上げるソリス。
黄色い浮きはすでに水中に引き込まれ、荒れる水面がキラキラと光っている。
うわぁ!
慌てて竿を立てるソリス。
グングンと強烈な引きが竿をしならせた。見れば水面下でキラリと鱗を輝かせながら大きな魚が暴れている。
「おぉ、これはオーロラトラウト! 脂がのって美味しい魚だよ! 頑張って!」
セリオンはニコニコしながらこぶしをギュッと握り、応援する。
「お、美味しいの!? ゆ、夕飯は豪華に行くわよぉ!」
美味しいと聞いて俄然やる気になったソリスは、絶対逃がすまいと全神経をオーロラトラウトに集中させた――――。
その時だった、沖の方から水面下をボウッと青く輝く何かがたくさんやってきて、暴れるオーロラトラウトを包んだ。
え……?
直後、プツン! と糸は切れ、オーロラトラウトは逃げて行ってしまった。
あ……。
いきなりやってきたあっけない終焉に、ソリスは呆然と立ち尽くす。
「な、何……あれ……?」
「翠蛟仙の奴ぅ……」
セリオンはプクッとほおを膨らますと、少し沖の岩にピョンと跳びうつり、パァンと水面を力いっぱい叩いた。
ヴゥン……。
不思議な音がして煌めく蒼い光が同心円状に、水中を沖の方まで広がっていく――――。
「翠蛟仙! 出てこい!」
プンプンと怒りながらセリオンはこぶしを突き上げ、叫ぶ。
ソリスはその見たこともない不思議な技に驚き、セリオンがまだ語っていない秘密の一端に触れた気がして、思わず息を呑んだ。
突如、青空が掻き曇り、不気味な黒い雲が空を包んでいく。
「な、何なの……?」
その異様な事態にソリスは寒気を感じ、恐怖に引かれるように後ずさった。
直後、ピシャーン! という激しい稲妻が湖面に突き刺さり、水柱が天を穿つように立ちのぼる――――。
キャァァァ!
思わず頭を抱えしゃがみ込んでしまうソリス。
湖面にはもうもうとした水煙があがっている。
セリオンは動じず、プリプリしながら水煙に向かって指をさした。
「ちゃんと説明してよね!」
くふふふ……。
若い女性の笑う不気味な声が、水煙の中から響いてくる。
え……?
ソリスが声の方を向くと、ぼうっと水煙の中で鋭い二つの黄金の光が輝いていた。
「な、何……あれ……?」
水煙が徐々に晴れると、神秘的な半透明の乙女が姿を現す。彼女の肌はすりガラスのように美しく、内から漏れる青い光に照らされて幻想的に輝いている。その眼は黄金色に輝き、彼女の下半身は水面下に隠れていたが、長く大蛇のように見えた。これがセリオンの呼び出した翠蛟仙らしい。
「あら、セリオンどうしたの? うふふふ……」
翠蛟仙は挑発するように楽しそうに笑った。
「どうしたじゃないよ! オーロラトラウトを精霊たちが奪っていったんだ。返してよ!」
セリオンはブンブンとこぶしを振りながら怒りをぶつける。
「ふぅん……、そんなの知らないって……言ったら?」
翠蛟仙は挑戦的な鋭い視線でセリオンを貫く。
「僕らの大切な夕飯……、返さないって言うなら……怒るよ?」
セリオンはクリっとした可愛い目でにらみつけた。
「おぉ、怖い怖い!」
翠蛟仙はブルっと身体を震わせると、バシャッと水中に潜ってしまう。
「あっ! ちょっと待って! 返してよ!」
セリオンは身を隠した翠蛟仙にムッとして、水面をパシパシと叩いた。
ソリスはこんな可愛い少年の何が怖いのか分からず、首をひねった。もしかすると……、彼の背後には恐ろしい秘密を持つ両親がいるのかも……? そんな思いが頭をよぎり、ソリスは急に不安に駆られて眉をひそめた。
直後、青い光がスーっと水面下をソリスの方に一直線に迫ってくる。
え……?
バシャァ! と水しぶきを上げながら翠蛟仙はソリスに襲い掛かったのだ。
うわぁ!
ボーっとしていたソリスは対応が遅れてしまう。
「つーかまえた!」
翠蛟仙はソリスを羽交い絞めにすると、いやらしい笑みを浮かべながらセリオンを見た。
「こーんな可愛い人間の女の子、どうしたの? 餌なの? くふふふ……」
「な、何するんだ! おねぇちゃんを離せ!」
セリオンは焦った。まさかソリスを狙ってくるとは思わなかったのだ。
「ふぅん……。この娘があなたの弱点みたいね? いいもの見つけちゃった。くふふふ……」
「止めろよ!」
顔を真っ赤にして叫んだセリオンは、ソリスの方に駆け寄ろうとした。
「動くな!! この娘がどうなってもいいのかい? ヒヒヒヒ……」
翠蛟仙はニヤけながら、蛇のような舌をチョロチョロと動かした。
「卑怯だぞ!」
「あー、お話のところ申し訳ないんだけど……」
ソリスは翠蛟仙に腕をガシッと握ると、レベル124の異常な力で一気に捻りあげた。
「うわっ! 痛い! 痛い! 止めてぇ!」
翠蛟仙はたまらず悲鳴を上げる。
「お、おねぇちゃん……」
セリオンはソリスの怪力に思わず目が点になる。
「人質は相手を見て取らなきゃ」
ソリスは翠蛟仙にドヤ顔で言った。
くぅぅぅ……、こんの小娘がぁぁぁ。
翠蛟仙は水中に入っていた自分のシッポを使って、ビシャっと水をソリスにぶっかけた。
うわっ!
思わず手を離してしまうソリス。
「喰らえ!」
翠蛟仙はその隙を逃さず、大蛇となっている下半身でソリスをグルグル巻きに縛り上げた。
「絞め殺してやる!」
渾身の力を込め、翠蛟仙はソリスを締め付ける。
しかし――――。
「あら? 私と力比べ? ふふふっ」
ソリスは笑みを浮かべると、ふん! と、全身に力を込め、大蛇の締め付けに対抗していく。
ぬおぉぉぉぉぉ!
ギギッギギッギ……。
徐々に開かれていく締め付けの輪。
「痛い! な、なんて怪力なの!? 痛い、痛いって!」
たまらず湖に飛び込んで逃げだした翠蛟仙は、盛大に水しぶきを上げた。
だが、ソリスはガシッと握ったシッポを離さない。
「どこに行こうというのかしら? ぬぉぉぉりゃぁぁぁ!」
シッポを持って思いっきり引っ張り上げるソリス。
水中を逃げようともがいていた翠蛟仙だったが、ソリスの怪力には敵わない。湖から引っこ抜かれると、そのまま背後の巨木に叩きつけられた。
「ぐはぁ! こ、この小娘がぁぁぁ!」
翠蛟仙は目を激しく真紅に輝かせ、両腕を内側から青く激しく光らせ始める。
「させないわ!」
ヤバい予感がしたソリスは、そのまま翠蛟仙をグルングルンとシッポをもってジャイアントスイングのように振り回した。
「ぬわぁ! や、止めろぉ!!」
翠蛟仙は激しい遠心力で頭に体液が上り、うまく身動きが取れない。
ソリスは回転の勢いを使って一度翠蛟仙の頭を空高くもち上げると、そのまま湖面に叩き落した。
ソイヤー!
ゴフゥ!
盛大な水しぶきが上がり、翠蛟仙は泡に包まれながら水中へ沈んでいく。
「これでどうよ?」
ソリスはふぅふぅと荒い息をつきながらドヤ顔で水中をのぞきこむ。翠蛟仙はその衝撃に気を失ったようで水の底でピクリとも動かない。
「あれ? やりすぎた……かしら……?」
ソリスは不安になってきてそーっと身体を引き上げ、翠蛟仙を草むらの上に雑に転がす。
よーいしょっと!
翠蛟仙はその霞むような美しい身体を無力にさらけ出し、まるで水揚げされたマグロのように無防備にのびていた。
「おねぇちゃん、大丈夫!?」
セリオンが駆けてくる。
「私は全然大丈夫。それより蛇女が……マズいかも?」
ソリスは、ピクリとも動かなくなってしまった、そのすりガラスのような幻想的なつくりの身体を不安げに見つめた。
「このくらい大丈夫だよ。彼女は水の精霊王、水系の精霊の女王なんだ」
「へっ!? 精霊王!? これが?」
ソリスは目を丸くする。精霊王と言えばこの世界の精霊の頂点に立つ魔法生物である。彼女の声が響くとき、精霊の大群が動き、時には天災さえ引き起こすという。確かに身体は神秘的で独特の質感を持ち、ただものではない造形をしているが、世界の頂点の一つと言われるとなんとも微妙な感じがした。
「随分前にね『この湖が気に入ったから住まわせてくれ』っていうから『いいよ』って言ったんだよ。でも、段々我が物顔でふるまうようになって困ってたんだ」
セリオンはのびている翠蛟仙の頬をパンパンと叩く。
「おーい、起きろー」
しかし白目をむいてしまっている翠蛟仙は反応がない。
「精霊王怒らしちゃったかも……。マズいかな……?」
ソリスは恐る恐る翠蛟仙の顔をのぞきこむ。
「ははっ、大丈夫だよ。たまには痛い目に遭わせておかないと図に乗ってくるからね」
「そ、そういうもん……なの……?」
ソリスが心配そうに様子を見ていると、翠蛟仙の目がうっすらと開いた。
「気がついた? 悪さするからだよ? いつも言ってるでしょ?」
セリオンは子供をたしなめるように声をかける。
翠蛟仙はソリスの方を向くとビクッと身体を震わせ、セリオンの陰に隠れるように逃げた。
「ははっ! おねぇちゃんはいい人だから悪さしなきゃ怖くないよ」
セリオンは陽気に笑った。
「ちょっとやりすぎちゃったかしら? ごめんなさいね」
ソリスは苦笑しながら頭を下げる。
「あなた……、何なの? ただの人間じゃない……、女神の眷属の臭いがするわ」
翠蛟仙は不安げにセリオンに隠れながら、ソリスをにらんだ。さすが精霊王である、ソリスの秘密に気がついたようだった。
「え? おねぇちゃん女神様の知り合い?」
セリオンはキョトンとしながらソリスに聞いた。
「ち、違うわよ! ただちょっとギフト持ちな……だけ……」
ソリスは両手を振りながら慌てて否定する。呪いのかかった不吉なギフトのことはあまり口外したくなかったのだ。
「ふぅん、ギフトねぇ……」
翠蛟仙はけげんそうな目でソリスをにらむ。
「そ、それよりお魚を返してよ! 今晩のディナーにするはずだったんだから」
ソリスは翠蛟仙をにらみ返す。
「ふぅ……。ちょっとからかっただけなのに、あんた達大人げないわね! いいわよ。後で持っていってあげる」
翠蛟仙は口をとがらせ、ジト目でソリスを見た。
「やったぁ! これで今晩はごちそうだね」
満面に笑みを浮かべて、ピョンと跳び上がるセリオン。
「うわぁい! ごちそう!」
ソリスも楽しみになってセリオンと微笑みあった。
「その代わり! 美味しく料理しなさいよ……?」
翠蛟仙は不機嫌そうにそう言い放つと、両手をバッと空に伸ばした。
何をするのかと思ったら、翠蛟仙は身体の内側から鋭い青い光を放ちはじめる。
うわぁ!
いきなりの輝きに焦るソリス。
翠蛟仙の体は徐々に薄れていき、青く輝く丸い発光体になるとそのまま湖の方へとすぅーっと飛んで……、最後には消えていった。
「いっちゃった……」
精霊王の不思議な変身に見とれていたソリスは、消えて行った方をじっと見つめる――――。
やはり精霊王とはかなりの術者なのだ。勝てたのはたまたま肉弾戦になったからだけに違いない。途中繰り出そうとしていた、腕を光らせる不思議な技を放たれていたら、何歳も若返らせられてしまっていたかもしれない。ソリスはブルっと身体を震わせた。
その後、釣りを再開したものの、小さな鮒が何匹か釣れただけだった。やはりあのオーロラトラウトはビギナーズラックの大ヒットだったらしい。
◇
お昼になり、二人は湖畔の岩に腰かけてランチバスケットを取り出す。
「はい、パンですよー。ちょっと焼きすぎちゃったけど……」
セリオンは少し恥ずかしそうに、表面が少し焦げてしまった丸くて大きなパンをソリスに渡した。
「ありがとう! もうお腹ペコペコなのっ!」
ソリスはニコニコしながら受け取った。
「はい、チーズだよ!」
セリオンはナイフで削ったチーズをソリスのパンの上に乗せる。
「うわぁ! 美味しそう……。いただきまーす!」
満面の笑みで一気にパクリと行くソリス。
香ばしいパンの香りに芳醇なチーズの濃厚な旨味が追いかけてきて、ソリスの脳髄を揺らした。
うほぉ……。
恍惚とした表情で宙を仰ぐソリス。
それは今まで食べたどんなランチより美味しかったのだ。
「はい、お茶ね」
セリオンは甲斐甲斐しく石で作ったかまどで沸かしていたお湯で、お茶を入れたのだ。
「何から何までごめんね、ありがとう!」
ソリスは手を合わせ、カップを受け取ると、立ちのぼるかぐわしいハーブの香りを深く吸い込む。甘酸っぱいバラ系の香りが鼻腔をくすぐり、ソリスは思わずうっとりとため息をついた。
「いやいや、おねぇちゃんがいてくれて僕も嬉しいんだ。やっぱり食事はね、一人だと美味しくないんだよ」
セリオンはニッコリと笑う。
「そうよね……」
ソリスは仲間が亡くなってからの食事を思い出し、深いため息をつくと、その味気無い記憶に首を振った。
見上げれば青空にゆったりと白い雲が流れていく――――。
亡くなった仲間が今の自分を見たらどう思うだろう? 少女になって可愛い男の子と一緒に魚釣りにピクニック。とても説明できない。
『ソリス殿! ズルいでゴザルよ!』『ダメ……ズルい……』
二人の声が聞こえてきそうである。
でも、自分でもなぜこんなことになっているのか説明できない。まるで運命に導かれたかのように今、天国のように美しい湖畔で最高のランチを頬張っているのだ。
『ごめんね、忘れた訳じゃないよ』
ぽっかりと浮かんだおいしそうな雲に向けて、ソリスは切ない想いを送り、寂しげな笑みを浮かべた。
その後、しばらく釣りを続けたものの、浮きはピクリとも動かなくなってしまった。
「今日はもうダメだね」
大物を釣れなかったセリオンは、ガックリしながら首を振った。
「そろそろ帰る?」
「そうだね。お家にお魚が届くのを待つかな……」
セリオンは大きくため息をつくと、浮きを引き上げ、帰り支度を始めた。
「本当に持ってきてくれるかな?」
「一応あれでも精霊王だからね。約束は守るでしょ。もし、守らなかったらおねぇちゃんがパンチ! してあげて」
セリオンは無邪気にパンチのジェスチャーをしながら笑う。
「い、いや、暴力はちょっと……」
ソリスはマズいところを見られちゃったと、顔を赤くしながらうつむいた。
「そう? なんだかすごく戦いなれてて僕ビックリしちゃった」
「そ、そんなことないんだけどね。あははは……」
ソリスは冷汗をかきながら頭をかいた。
◇
話をしながら森の中を歩いていく二人。途中、セリオンは精霊王翠蛟仙がやったイタズラの話や、今までに釣り上げた大物の話をしてくれて、とても盛り上がった。
「こんなのどかなところにも、いろいろ面白いことがあるのね」
「そうなんだよ。毎日いろんなことが起こるんだ。でも、おねぇちゃんがいてくれた方がもっともっと楽しくなるね」
セリオンはまぶしい笑顔でソリスを見る。
「そ、そう? 良かった……」
ソリスはその笑顔の輝きにドキッとしてしまう。いまだかつてここまで誰かに受け入れられたことがあっただろうか? もちろん仲間たちとは心を許し合ってはいたものの、それでも分別ある大人の距離感はあったと思う。セリオンの屈託のない無垢なる受容はあまりにストレートすぎて、アラフォーのソリスには眩しすぎる。
ソリスは思わず顔を背け、ギュッと目をつぶってしまう。
しかし――――。
もし、自分がアラフォーのおばさんだと知ったら、セリオンはどう思うのだろう?
ソリスはふとそう思うと、ドクンと心臓がはねた。
パン屋のおばさんも孤児院の同期も、知り合いのアラフォーの女性はみんな成人した子供がいるのだ。セリオンからしたらアラフォーのおばさんなど『おねぇちゃんの母親』である。こんな気さくに心を開く対象などではないはずだった。
「ダメ……、ダメよ……」
ソリスは真っ青になり、思わず首を振った。
この無垢な笑顔を失うなんて考えられない。命懸けの苦労の果てにたどり着いた、まるでオアシスのようなこの心温まるスローライフを、絶対に失うわけにはいかない。
ソリスは悪い汗のにじむ額を手で拭い、キュッと口を結んだ。
◇
しばらく森を縫いながら進む獣道を歩いていくと、足元に何か赤いものがあるのに気がついた。
「あれ? これは……何?」
立ち止まり、しゃがみ込むソリス。
「あっ! タマゴタケだ! これ、美味しいんだよ!」
セリオンは碧い目をキラキラと輝かせた。
「えっ? 見た目は毒々しいけど……」
「大丈夫! 掘ってみて。崩れやすいからそっとね」
う、うん……。
ソリスは恐る恐る落ち葉をかき分け、根元を掘ってみる。
なるほど、根元には卵のような白いツボがあり、それを割って生えてきているようだった。
へぇ……。
掘り上げたタマゴタケをじっくりと見れば、真っ赤なのは傘の上だけで、裏や軸は薄黄色になっている。確かに美味しそうに見えた。
ふと見まわすと、他にも何本も生えているのに気がつく。
「あっ! まだまだたくさんあるわ!」
「本当だ! ディナーが豪華になるぞ!」
二人はいきなり現れた大自然の恵みに、嬉々としてキノコ狩りに興じた――――。
バスケットいっぱいに獲れたタマゴタケ。二人は満足そうににんまりとほほ笑む。
「こんなにたくさん、食べきれないわね」
「うん、残りは街へ売りに行こう。結構高値で売れるんだよ」
「本当!? お金も稼げちゃうなんてラッキーだわ!」
「おねぇちゃんが来て、運が向いてきたみたい。ありがとう」
ニッコリと笑うセリオン。
「そ、そう? よ、良かった……」
ソリスは恥ずかしくなってキノコの山に目を落とし、落ち葉などを取り除く。
すると、そのうちの一つの傘に白いイボイボがついているのに気がついた。
「あれ? このキノコ、イボが付いてるわ……?」
ソリスは不思議そうにそれをつまみ上げる。
「あっ! ダメダメ! それはベニテングダケ。毒キノコだよ」
セリオンは慌てて叫んだ。
「えっ!? 毒キノコ……? 危なかったわ……」
胸をなでおろすソリス。
「食べた人は『女神様と交信できた』とか言ってるけど、危険なキノコだよ!」
「め、女神様と!?」
ソリスの心臓がドクンと高鳴った。自分の秘密も仲間の蘇生も今、女神様に全てがつながっているのだ。
「いやいや、単なる幻覚だよ。毒で女神様呼べる訳ないもん」
セリオンは眉をひそめ、首を振った。
「げ、幻覚……なのね……」
「塩漬けにすると毒は抜けるので持って帰ろう。毒さえ抜けば美味しいよ!」
「毒を……抜く……」
ソリスはその白いイボイボをまじまじと見つめながら、秘められた不思議な力に魅入られていた。
お花畑へと戻ってきた二人は、家の裏にある家庭菜園でトマトとズッキーニ、ハーブを収穫して家へと戻る――――。
「ふはぁ、疲れたねぇ……」
セリオンがドアを開けた時だった。
「遅いじゃない、あんた達!」
ダイニングテーブルに座っていた若い女性が、不機嫌そうな声を出す。その手にはワイングラスを持ち、酔っぱらっているようだった。
へ?
ソリスは焦る。二人が帰ってくることを知っている人物、一体誰だろうか?
見れば銀色に輝く美しい髪に透き通るような白い肌、瞳は氷のように澄んだ青色で、冷たく神秘的な輝きを放っていた。
「勝手に上がらないでっていつも言ってるでしょ! もう! ワインまで飲んで!」
セリオンはプリプリと怒る。
「あれを見てもそんなこと言えるかしら?」
女性はニヤッと笑うとキッチンを指さした。
え……?
そこには虹色に輝く大きな鮭が横たわっていた。
「おぉぉぉぉ! こ、これはまさか……ミスティックサーモン……?」
セリオンは駆け寄って、その美しく輝く魚体を眺めまわし、ほれぼれする。
「うちの子たちに無理言って一番いい奴を探してもらったのよ。幻の魚よ、どう?」
「いやぁ、最高だよ! ありがとう! 早速調理しよう」
セリオンは嬉々としてエプロンをかけ、ウロコ取りにとりかかる。
「あのぉ……、もしかして……」
ソリスは恐る恐る女性に声をかける。
「何よ? 私が分かんないの?」
女性はその碧い瞳でソリスをにらみ、ワインを一口含んだ。
「せ、精霊王さん……ですよね?」
「そうよ? あんたに痛めつけられたところ、まだ痛いんですケド?」
翠蛟仙はジト目で不満をこぼす。
「ご、ごめんなさい……。人間にもなれるんですね」
「本体だと食事できないんでね。美味しいもの食べるなら人にならないと」
翠蛟仙はニヤッと笑い、美味そうにまたワイングラスを傾けた。
「おねぇちゃん! ちょっと手伝ってくれる?」
キッチンでセリオンが呼んでいる。巨大な魚をさばくのは小さな身体ではなかなか簡単ではないようだ。
「ハーイ、今すぐ!」
ソリスは慌てて駆けて行った。
◇
「ハイ! 出来上がり!」
セリオンは巨大な楕円鍋をオーブンから取り出すと、少しヨロヨロと危なっかしく運んでテーブルの上にドン! と、置いた。
「どれどれ? 美味しくできたか?」
翠蛟仙はペロッと唇を舌で舐めながらふたを開ける。ぼうっと湯気が上がり、ハーブの香りがふわっと広がっていく。ミスティックサーモンは表面に焦げ目がつき、野菜とハーブのエキスの中で煮込まれている。アクアパッツァを作ったのだ。
「おー、美味そうだ! 上手上手!」
翠蛟仙は待ちきれずに、まだフツフツと煮汁が沸き上がっている中、フォークでひとかけら身を取るとパクリとほお張った。
「ズルーい! ちゃんと取り分けようよ!」
セリオンはプクッとほおを膨らませる。
「おほぉ! これはまた……」
恍惚とした表情で至福の時を満喫する翠蛟仙。
「じゃあ、私が……」
ソリスが大きなスプーンとフォークで取り分けていく。身をゴソッと取ると、オレンジ色の鮮やかな切り口からはジュワッと芳醇なエキスが湧きだしてくる。脂ののった最高級のミスティックサーモンの身は旨味の塊だった。
「こ、これは美味しそうね……」
ソリスも思わず、ゴクリとのどを鳴らしてしまう。
一緒に煮ていた野菜とタマゴタケも添え、豪華なディナーが出来上がった。
「では、待ちきれないのでカンパーイ!」
セリオンがリンゴ酒のグラスを二人に差し向けた。
「カンパーイ!」「カンパーイ!」
チン! チン! とグラスの澄んだ音が部屋に響く。
「どれどれ……」「いい香りだわ……」
みんなまずはミスティックサーモンにフォークを入れた。
ジューシーな身がホロホロとほぐれ、口に入れた瞬間その濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。
「うはぁ……」「ほわぁ……」「はぁぁ……」
脳髄を駆け巡る至福の快感に圧倒され、全員がただ無言で陶酔する。本当に美味しいものを食べた時、人は言葉を失ってしまうのだ。
しばらくの間、みんなミスティックサーモンの魅力に取り憑かれ、ただフォークを動かしながら、至高の美味しさを堪能することに没頭していた。一緒に入れたタマゴタケもいい出汁を出して、期せずして奇跡のマリアージュになっていたのだ。
あっという間に食べ終わってしまった三人――――。
「いやぁ、これはすごいよ……」
セリオンは恍惚とした表情でリンゴ酒をちびりと飲んだ。
「こんなに美味しいならまた探させないとね。ふふふっ」
「今まで生きてきた中で一番美味しい一皿だったわ……」
ソリスは宙を見上げながらつぶやいた。
「今までって十年くらい? ふふふっ」
セリオンは無邪気に聞いてくる。
「えっ!? あっ……まぁ……そうね……」
ソリスは余計なことを言ってしまったと思わず苦笑いした。三十九年だなんて口が裂けても言えないのだ。
翠蛟仙はジト目で何か言いたそうだったが、口はつぐんだままだった。
まるで漫才のような翠蛟仙とセリオンの話で盛り上がった後、セリオンがトイレに中座した――――。
翠蛟仙はこの機を逃さず、ソリスに鋭い視線を投げかける。
「あなた、何者なの?」
「な、何者って、ただの人間ですよ! 人間!」
ソリスは冷汗をかきながらティーカップをとり、一口お茶を含んだ。
「嘘言いなさい。ここはあなたのような人間の子供が来れるようなところじゃないのよ?」
「人間じゃなかったら何だって言うんです?」
ソリスは逆に鋭い視線を翠蛟仙に向けた。
「さっきも言ったじゃない、女神様の眷属。一体何を言われてここに来たのかしら?」
翠蛟仙は探るような上目づかいでソリスの瞳をのぞきこむ。
「残念ながら外れです。逆に教えて欲しいの。女神様は何でもできるお方なの?」
「ははっ! そりゃぁこの世界も、私もあなたも、女神様に作られてるんだから何でもできるんじゃないの?」
肩をすくめる翠蛟仙。
「死んだ人を生き返らせたり……も?」
恐る恐る聞いてみる。
「そりゃぁできるでしょうよ。でも、それって女神様に何のメリットがあるのかしら?」
「メ、メリット……?」
「女神様はお忙しいお方。生き返らせてくださーい、はーい! なんてことになる訳ないじゃない」
「そ、そうよね……」
ソリスは鋭いツッコミにたじろいだ。確かに蘇生なんて気軽にやってくれるわけはないのだ。
でも……。それでも女神様に頼まずにはおれない。
「どう……やったら会えるんですか?」
「ははっ! そんなの私の方が知りたいわよ!」
翠蛟仙は鼻で嗤うとワイングラスをグッとあおった。
「精霊王でも会えないんですね……」
「自分は地方のしがない中間管理職。社長に会える機会なんてそうそうある訳ないわ」
自嘲気味に肩をすくめる翠蛟仙。
「そ、そうなのね……」
「ん……?」
翠蛟仙は急に身を乗り出すと、じっとソリスの瞳をみつめた。
「な、なんですか?」
「あなた……、呪われてるの?」
「えっ!?」
「ふぅん、呪い持ち……ね。あなたもずいぶん苦労してるのね」
翠蛟仙はニヤッと笑うと静かに首を振る。
「そ、そうよ! 苦労の連続……よ……」
ソリスは口をとがらせ、ふぅと重いため息をついた。
「解呪……してあげようか?」
翠蛟仙は得意げに微笑みながらソリスの顔をのぞきこむ。
「えっ!? で、できるんですか! ぜ、ぜひ!!」
ソリスはいきなり降ってわいたチャンスに、思わず身を乗り出した。司教ですら解けなかった呪い。それがまさかこんなディナーの席で叶うだなんて夢のようである。
「これでも精霊王なのよ? このレベルの呪いなら余裕よ」
ドヤ顔でソリスを見下ろす翠蛟仙。
「すごい! さすが! ぜひぜひお願いします!!」
「じゃあ、手を出して」
翠蛟仙はソリスに手のひらを差し出す。
「は、はい……」
ソリスが恐る恐る出した手を翠蛟仙はガシッと握ると、何かをぶつぶつとつぶやき始めた。
ヴゥン……。
突如、黄金の魔法陣がソリスの顔の前に展開され、中で六芒星がクルクルと回りだす。翠蛟仙はその魔法陣の中に浮かんでは消えていく幾何学模様を眺めながら、眉をひそめた――――。
「あー、これね……。年齢操作系……厄介な呪いねぇ……」
「か、解除できそうですか?」
ソリスは心配そうな顔で身を乗り出す。
「うん、ここをこうすれば終わり……」
翠蛟仙は魔法陣の中でクルクルと回る正四角形をツンツンとつつく。
「よ、良かったぁ!」
ソリスはパアッと明るい笑顔を見せた。
「でも……。解呪したら呪われた時に戻るってことよ? いいのね?」
翠蛟仙は真顔で聞いてくる。
「何言うんですか! 戻ってくれた方が……、えっ……、ちょっ、ちょっと待って……」
ソリスはここで重大な事に気がついた。解呪するとアラフォーに戻ってしまう。それは当たり前の話ではあったが、今ここでアラフォーになってしまったらセリオンに見られてしまう。
「ダメ……ダメよ……」
ソリスは混乱し、青い顔でうつむいた。
「どっちなのよ!」
翠蛟仙は不機嫌そうにソリスをにらむ。
「そ、その解呪というのは一週間だけ有効とかならないんですか?」
「はぁっ! あんた呪いをなんだと思ってるの? はい、止め止め!」
翠蛟仙は呆れたように首をかしげ、手で魔法陣を払い、消し去った。
あ、あぁ……。
思わず手で顔を覆うソリス。
翠蛟仙はしょげかえるソリスをジト目でにらみ、大きく息をつくと、ワイングラスを傾ける。
「まぁ、よく考えな」
「は、はい……。くぅ……」
解呪を求めて旅にまで出たのに、今では解呪されたくなくなってしまったことにソリスは混乱してしまう。
セリオンにだけは見られたくない……。そう思ってしまうソリスだったが、ではいつ解呪してもらうのだろうか?
「ど、どうしよう……」
頭を抱えるソリス。
「ま、いいわ。また機会があったらね。チャオ!」
翠蛟仙はそう言うとボン! と煙に包まれ、やがて青い輝く球になってしまった。
「あっ! ま、待って!」
ソリスは慌てて引き留めようとしたが、青い球は窓からスーッと空高く飛んで行ってしまう。
あぁ……。
ソリスは遠く消えていく青い球に手を伸ばし、そしてふぅとため息をつく。せっかく見つけた解呪への糸口を、みすみす失ってしまったことに後悔の念が押し寄せる。
華年絆姫の名誉のため以外にも、若返りの呪いにはどんな副作用があるかもわからないし、今後強敵と戦う際にも死ねないデメリットを抱えてしまう。だから解呪は絶対しなければならなかった。しかし、それは今ではないと思ってしまうのだ。
くぅぅぅぅ……。
ソリスはその矛盾した思いに心がかき乱される。
「あぁ、どうしたら……」
ソリスはしょぼくれた顔をしてテーブルにゴン! と額をおろし、深いため息をついた。
ただ、女神様ならフィリアとイヴィットを生き返らせることができることを知れたことは、収穫と言えるだろう。どうやって実現するのか見当もつかないが、それでも可能性がゼロではないことにソリスはずいぶん救われた気分になった。
「フィリア……、イヴィット……、待ってて……」
ソリスは顔を上げると窓の外に高く登った満月を見つめ、口をキュッと結んだ。