久しぶりのお昼間デート。
意気込んで家を出てきたけれど、太陽の日差しは強すぎる。私と彼は橋の下の日陰になっている土手に隠れるようにして並んで座った。なんだか、二人だけの秘密基地に来たみたいで、少し心が浮き立つ。
「何ここ! 涼し~」
水辺の近くだからか、それとも日陰だからなのか、日向よりも随分と過ごしやすい。
「しばらくここにいようよ」
私はシャツの襟首をちょっと摘まんでパタパタと煽ぎながら、ゆったりと流れる目の前の川を眺める。不意に、日向の川面を揺らすように魚が跳ねた。
「あっ! さかな」
思わずすくっと立ち上がり水辺へ近づこうとした私に、気遣う声が背後からかかる。
「未奈、落ちるなよ」
「大丈夫だよ。子供じゃないんだから」
川へ近づき水面を覗き込んでみる。川の水は、思いのほか澄んでいた。水の中を窺い知ることはできたけれど、残念ながら魚の姿はなかった。しばらく川辺に佇み川の流れに目をやる。私の気配を感じているのか、それとももうどこかへ泳いでいってしまったのか、それからしばらく待ってみても、もう魚が飛び跳ねる姿を捉えることはできなかった。
「さっきはホントにさかなが跳ねたのに」
少し残念な気持ちになりながら彼の側へ戻る。「そっか」と相槌を打ってくれたものの、彼の意識は、私ではなく広げられた本へと向けられていた。それはいつものことなので、別に気にしない。そっと彼の隣に腰を下ろすと、こっそりと彼の横顔を盗み見た。お疲れ気味なのか、少し眠そうにしているところがなんだかかわいい。
そんなことを思いながらニヤニヤと彼の横顔を覗いていると、彼が不意に顔を上げた。
「何?」
「ううん。何でもない。颯斗が本読んでるときの顔って、真剣でいいなと思っただけ」
私の言葉に彼の頬が赤く染まる。本当はかわいいと思っていたなんてことは言わない。言ったら拗ねるだろうから。
しかし私の心を読んだのか、彼は赤い顔のまま少し顔を顰めた。
「どうせ本当はそんなこと思ってないくせに」
これは別に怒っているわけじゃない。照れているだけ。それが分かるから、私は体ごと顔を近づける。
「どうしてよ? 本当にいいなと思ってたよ」
「そう言うの本当にいいから」
完全に照れてしまった彼は、本をパタリと閉じると立ち上がる。
「そろそろ行こうか。映画何時からだっけ?」
「その前にお昼食べよう。お腹すいた」
もう少しここに居たい気もするけれど、今日のデートはまだ始まったばかりだ。
最近はお互い仕事が忙しく、休日は家でゴロゴロと過ごす、いわゆるおうちデートがほとんどだった。
それに、今年の夏の暑さと言ったら尋常じゃないっ!!
連日猛暑日を記録しており、昨日は猛暑を通り越して酷暑にまでなったらしい。
太陽は、私の肌をジリジリと焼くどころか、素早くジュウっと焼いて、それから、蒸し焼きにして旨味を閉じ込めてやる、とでも言いたげに鋭い紫外線と耐え難い熱風を差し向けてくる。
だから、命の危険を感じる日中はとてもじゃないけれど、出歩く気にはならない。それ故に、お昼間デートは必然的に封印され、冷房の効いた快適空間に篭らざるを得なかったという訳である。
致し方なく快適空間に篭っていた訳だが、そんな生活が嫌かと聞かれると、決してそう言う訳ではない。
快適空間でダラダラゴロゴロすることは、至福の喜びだと思っている。
……思ってはいるのだが……
やはり、たまには外に出て映画やショッピングデートがしたくなる。こんなに暑いならプールデートもいいかもなぁと思いつつ、視線を少し下に向けると、大きな肉壁に阻まれた。ダメだ。プールデートは、なしなしなし。
でも、やっぱりどこかに行きたいよぉ〜という私のわがままで、本日は太陽に負けじとお昼間デートを決行中。
彼と肩を並べて歩きながら、彼が押している白いフレームの自転車へと目をやる。真新しい光を放つそれはカラカラと小気味良い音を放っている。
「ねぇ、なんで自転車で来たの?」
「え? だって。天気良さそうだったから。最近運動不足だし、気持ちいいかなと思って」
自転車を押しながら、彼はあっさりとそんなことを言う。
いやいやいや。天気は良いけど、暑いじゃん。溶けるじゃん!
私の不服そうな顔に気が付かないのか、彼は良いことを思いついたと声を弾ませる。
「そうだ。今度、サイクリングとかどう?」
運動不足は否めないけれど、その提案には承服しかねる。この暑いのに体を動かすとか、なんの罰ゲームなんだと思う。
「え〜、いやだよ。暑いもん。今日だって天気は良いけど、紫外線強いし気温も高いから無理すると良くないよ。それに、自転車があったら移動するとき邪魔じゃん」
「まぁ、それはそうだけど。でも、暑い中バスを待つくらいなら自転車で出かければ良いかと思ったんだよ」
私の指摘に、彼は少し渋い顔をする。
「それに、もともと待ち合わせ場所は映画館だっただろ? 途中で未奈に会って歩くことになるなんて想定外だよ」
彼の言葉に私は思わず反論する。
「私だってこの炎天下の中、歩くことになるなんて思わなかったよ。まさか、夏祭りで道路が歩行者天国になってて、バスが運休するなんて思わないじゃん」
不測の事態を思い返して唇を尖らせる。
「まぁ、リサーチ不足だよね。完全に」
「それはそうだけどさ……。でも、まあいいや。いい穴場見つけちゃったし。帰りにまたさっきの場所、寄ろうよ」
私が満面の笑みで彼に言うと、呆れ顔が返ってくる。
「別にいいけど、『虫がぁ』とか言って騒がないでよ。夕方の川辺なんて小さい羽虫がたくさん飛んでるんだからね」
「……虫かぁ。それはちょっと嫌だな」
彼の言葉に私は思わず眉を寄せた。
「まぁ、でもちょっとだけ。きっと夕日が綺麗だと思うんだよね。良くない? 河川越しの夕日。うん。なんか青春っぽい」
想像をして一人盛り上がっている私にテンションを合わせるわけでもなく、彼は「青春っぽいか?」と首を傾げながらも、分かったと頷いた。
そんな他愛もない会話をしながら、炎天下の中を湿気に溺れそうになりながら、ようやく目的地の映画館に着く。彼が自転車を止めている間、私は映画告知の大きなポスターを見るともなしに眺めていた。
「お待たせ」
私の頭にポンと手を置きながら彼が声をかけてくる。隣に並んだ彼は私よりも幾分か背が高いので、並ぶとどうしても見上げる形になる。
「映画、楽しみだな。昨日ネットニュースで見たけど、上映開始からたった三日で百万人突破だって。すごくない?」
「ふ~ん。そうなの。それよりも早く中に入ろ。日差しがやばい」
私たちのそんな会話をくだらないと思っているのか、それとも私たちの仲の良さにヤキモチでも妬いているのか、太陽がジリジリと私たちを焦がしにかかる。唯一無二の太陽に勝つなんてことは出来るはずもないので、私は頭に置かれた彼の手を取ると、引っ張るようにして建物の中に入る。建物内はしっかりと冷房が効いていて涼しい。思わず、「あ~、快適」と言葉が漏れる。
「そういえばさ、そんな格好してて暑くないの?」
薄手の長袖を着る私を、理解できないと言う顔で見下ろしてくる彼に、私は唇を尖らせる。
「日焼けしたくないんだもの。日焼け止め塗ってるけど、全然効かないし。それに外は暑いけど、電車とか建物の中は寒いからこれで丁度良いの」
「本当に?」
「本当よ」
そんなどうでもいい会話を経て、いつしか会話はどの店でランチをするかに移っていった。
快適空間でランチを食べて、今とても話題になっているアニメ映画をたっぷり二時間半堪能して、私たちはようやく太陽の下へ戻って来た。
映画館の空調はやっぱり少し強めだった。すっかり冷えた体を、彼にくっつけて歩く。すると、自転車を押していた彼がピタリと立ち止まった。スンと鼻を鳴らしてから空を見上げる。私もつられて空を見る。相変わらず眩しいくらいの太陽と、水色に白い入道雲がよく映えるいわゆる夏空が広がっていた。
あの雲、綿菓子みたいだなぁと、毎年一度は思う事を今年も考えていると、不意に彼が口を開いた。
「ねぇ、未奈。近くにカフェってないかな?」
私に問いかけたはずなのに、眉を寄せた彼の視線はまだ空に向けられていた。そんな彼を小首を傾げながら見上げる。
「颯斗、もう疲れちゃったの?」
冗談めかしていう私の言葉に、空を見上げたままの彼は上の空で答える。
「そうじゃないけど……」
「コーヒーショップだったら、さっきの映画館にあったよ。緑のマークのチェーン店。戻ってそこに行く?」
「そういう所じゃなくて、カフェがいいな」
「カフェ? 少し先に、赤い看板のバーガーショップもあるけど、そこもダメとか言ったりする?」
「うん。カフェがいい」
彼がこんなに頑なにわがままをいうなんて珍しいなと思いながら、私は、スマートフォンを鞄から取り出すと素早く付近のカフェを検索する。
現在地から、近いところで二件のヒットがあった。先ほど候補としてあげた二つの店ならば、どちらも全国展開をしているチェーン店なので至る所に店舗がある。それなのに、なぜそこではダメなのだろう。
「カフェ、あったよ。この近くだと二つ。ハワイアンカフェと純喫茶みたい。どっちにする?」
スマートフォンの画面から目を離して、彼を見上げると、今度は彼もしっかりと私を見てくれた。
「どっちがここから近い?」
「う〜ん。ハワイアンカフェかなぁ。ここから徒歩五分だって」
「五分か……。まぁ、ぎりぎり間に合うかな……。よし! そこに行こう!」
彼は私のスマートフォンの画面に表示されている地図を素早く見ると、早足で歩き出した。自転車のカラカラという音が早くなる。
彼を追うようにして、私も慌てて歩く。
一体どうしたのだろう。いつもならば、わがままを言うのは私の方で、彼を振りまわすのも私の方。彼はこんなに強引にどこかに行こうとはしない。私は小さな不安を覚えた。
「ね、ねぇ。どうしたの? 何かあったの?」
私は息を切らしながら彼に問いかける。その問いかけに彼は前を向いたままぶっきらぼうに答えた。
「もうすぐ雨が降る」
「えっ?」
彼の言葉に思わず空を見上げる。
相変わらずの青空だ。しかし言われてみれば、向こうのほうの空には先ほどまではなかった黒い雲がじんわりと広がっているようだった。
「どうしてわかるのっ?」
「匂いがしたんだ」
「匂いっ?」
「そう。雨の匂い」
「雨の匂いっ?」
息を切らした問いに彼は無言で頷くと、そのあとはもう何も言わず、ずんずんと先を急ぐ。
彼に遅れまいと懸命に歩き、目当てのハワイアンカフェにはあっという間に着いた。立ち止まった途端、ジトリとした湿気が全身に纏わり付いてきた。重だるい空気が気持ち悪い。早足で歩いてきたために汗も噴き出してきて、不快感に拍車をかける。
少しでも涼しさを求めて手のひらで自身を仰ぐ。乱れた呼吸を整えようと一度大きく空気を吸い込んだ時、視線が空へと向いた。先ほどまでそこにあった夏空は、いつの間にやら黒い雲に飲み込まれていた。
私の隣に立つ彼も空を見上げてから、大きく息を吐く。
「ふぅ。間に合った」
そう言いながらニコリと私に笑いかける彼は、もういつもの彼だった。
店の扉を押し開けて中に入ると、陽気な音楽が店内に鳴り響いていた。その音楽に負けじと底抜けに明るい「いらっしゃいませ〜」と言う声とともに、太陽もビックリのキラッキラの笑顔で女性店員が直ぐに案内へとやってくる。
「お二人様ですか〜?」というちょっと鼻にかかった明るい声に頷くと、「あちらのお席へどうぞ〜」と窓際の席を勧められた。
上から下まで全面ガラス張りの窓際の席は、晴れていれば太陽の光が燦々と降り注ぎ、とても開放的な気分になれそうだ。
しかし、ちょうど席についた時ポツポツと雨が窓を叩き出した。
「雨、降ってきたよ。この後、近くのコンビニで傘を買わなくちゃね」
席に座りながら何気なく彼に声をかけると、彼はニコリと笑った。
「じきに、晴れるさ」
「そうなの?」
そんな会話をしていると店員が注文を取りに来た。私がアレコレと悩んでいると、彼が優しくアドバイスをくれる。
「パンケーキをゆっくりと食べたらいいさ。食べ終わる頃に、雨は上がるだろうから」
「え? うん。じゃあ……トロピカルパンケーキで」
注文を終えたタイミングで新しい入店者があり、店員は「いらっしゃいませ〜」とまた底抜けに明るい声を張り上げて、私たちの席を離れていった。
私たちが入店した後から何組かの入店があり、席が徐々に埋まり始めている。
「お客さん、増えてきたね」
「みんな、僕らみたいに雨宿りが目的だろうね」
「ホント、降られる前にお店に入れて良かったわ」
そんな事を言いながら、お互いに目を見てクスクスと笑い合う。確かに言われてみれば、席についたばかりの客たちは濡れた髪を拭いたり、服や鞄の滴を払ったりする動きをしていた。
それからふと気になって、彼に聞いてみた。
「そういえば、どうしてコーヒーショップやハンバーガーショップじゃなくて、カフェだったの?」
彼は着席時に店員によって出された水をコクリと一口飲むと、さも当たり前という顔で私の問いに答える。
「だって、通り雨だから」
「なにそれ? どういう事?」
彼の答えが意味するところが分からず、私は間抜けな問い方をしてしまう。
「雨宿りは、カフェでって決めてるんだよ。僕は」
「えっ? 決めてるって……もしかして、マイルールって事?」
「うん。まぁ、そうだね」
そう言いながら、彼は恥ずかしそうに片頬をポリポリと掻く。そんな彼をポカンと見つめていると、恥ずかしげに視線を逸らしながら彼は言葉を足す。
「それに、今日は未奈と一緒に居るからね」
「私?」
「そう。未奈といるから、尚更カフェでなくちゃダメだったんだ」
「なんで?」
「だって、コーヒーショップやバーガーショップって、手頃な価格だし、いろいろな所に店があるから利用しやすくて、晴れていても結構人がいるだろ?」
そうなのだ。コーヒーショップもハンバーガーショップも、いつも沢山の利用者がいる。時には、レジ前に列を成しているところを見かける事もある。
「利用しやすいということは、雨宿り目的の客で店内が混雑することが予想される」
「まぁ、そうね」
彼の予想はそれほど的外れではないだろう。私も、彼にカフェと問われてパッと思い浮かべたくらいなのだ。それほど身近で利用しやすいのだから、雨が降り出せばすぐに多くの人が店へ駆け込んでくることだろう。
そんな場面を想像して、私はコクンと肯く。
「つまり、満席で席に座れないかもしれないだろ。それに」
「それに?」
「人が多いと、騒がしくて未奈とのおしゃべりを楽しめない」
イタズラっ子みたいな笑みを向けながらそう言う彼の言葉に、途端に私の顔は赤くなる。
「な、何言ってるのよ! もお〜」
慌ててツッコミを入れるも、それ以上なんと言っていいか分からず、一人アタフタとしてしまう。