僕と彼女の物語
時間は午前十時三十分。静かに流れる川の音と程よく冷えた風、そして永久橋の下にできた灰色の影が今日もこの川のほとりに魔法をかけていた。五日前のあの日と同じように。だけどあの日と違ってお財布はちゃんと持ってきたし、水も自動販売機で買ってきたし、服もショッピングデートで彼女が選んでくれた白藍色のTシャツを身に纏ってきた。
待ち合わせの時間までまだ三十分もあった。水の入ったペットボトルを左隣に置いて、僕は五日前も読んでいた由紀夫さんの小説の続きを読み始めた。この作者に会えるんだと意識しながら。そして3ページめくったその時。
「何読んでるの?」
どこかで覚えのある甘い香りが背後からした。そしてその香りを纏った主は僕を康成さんと呼んだ。由紀夫さんじゃないと言えないはずのその名前を。
どうして? どうして彼女が僕を康成って呼んでいるの?
「康成くん。ううん、違うね。川端くん、こっち向いて」
いや、もしかしたら声が偶然彼女に似てただけで彼女じゃないかもしれない。でもここのところ彼女の声はよく聞いているから、果たして間違えるのだろうか。僕が恋した彼女の声を。振り返ればすべてがわかる。彼女なのか別の誰かなのか。
僕はゆっくりと後ろを振り返った。色素の薄いミディアムヘアに青みがかった瞳、服装はあの時と同じ白い長袖ブラウスの袖を肘近くまでまくっいてタンポポ色のスラックスを履いていた。それらの情報は間違いなく目の前にいる少女が水島夏芽であることを証明していた。そして同時に由紀夫さんが彼女であることも証明されたことになる。でもそれはあり得ないはずのことだった。
「水島さん、どういうこと……」
「どういうことって、そういうことだよ」
「そういうことがわからないんだよ。まるで水島さんがあの小説家の由紀夫さんみたいに聞こえるよよ」
「だからそういうことだよ」
「じゃあ、由紀夫さんが何十年も前から作品を書いていたことをどう証明するの?水島さんはまだ生まれてないよね」
すると彼女は僕から視線を外した。そこにいつもの彼女の笑顔はなかった。何か僕は悪いことを言ってしまったのだろうか。
しばらく沈黙が続いた。いつもその沈黙を破ってきたのは彼女だった。だから今度は僕からその沈黙を破ろうと思った。
「ごめん。尋問みたいに聞いちゃって。でも本当に何が何だかわからないんだ。だから、話せるところまで話してほし……」
「私は本当の由紀夫さんじゃないの」
「えっ」
思いもよらない発言に言葉を失った。どういうこと?
「本当はお母さんが由紀夫を名乗って小説を書いてたの。でも色々あって、私がその名前を継いだの」
そうだったんだ。確かにそれなら納得がいく。彼女のお母さんなら何十年も前から小説を書いててもおかしくない。色々あった、というのはきっと彼女のお母さんの身に何かあって、小説が書けない状態になってしまったのだろう。顔を悲しそうに歪めながら話す彼女の様子からそう察した。じゃあ、僕が由紀夫さんの小説で初めて読んだ『透明な恋』は彼女のお母さんが書いたものなのだろうか?
「水島さんはいつから由紀夫さんになったの」
「五年以上前のことかな。私が初めて書いた作品は『透明な恋』っていう題名の小説なの。川端くんが私を知るきっかけになった小説。といってもこの小説、お母さんが小学生の時に学芸会の台本として書いたものなんだけどね。それを私が小説風にアレンジしたものなんだ」
「そうだったの」
由紀夫さんいや、彼女と知り合うきっかけとなった小説。一番大好きな小説。お母さんが昔書いたものをもとにしていたとはいえ、目の前にいる彼女が丁寧に紡いできた物語だったんだ。
「私が由紀夫で失望した?」
彼女らしくない言葉に僕は首を横に振って否定した。
「嬉しいよ。水島さんが由紀夫さんで。だって、僕はどっちも好きだから。由紀夫さんの小説も、水島さんのことも」
言い終わったところではっとした。思わず彼女に抱いてた気持ちを伝えてしまっていた。
彼女はまた熱中症になってしまったのではないかと思うくらいに赤くさせた顔を上げた。ここまで言ってしまったんだ。ちゃんと最後まで伝えないと。でも彼女は知っている。僕の気持ちを。だって彼女は由紀夫さんだから。
だけどこの間送った文面は彼女ではなく由紀夫さんに送ったものなのだ。だから今はちゃんと彼女にこの気持ちを伝えなければならない。
僕はこれからの人生で使うはずだった勇気を今という瞬間にすべて乗せた。
「この数日本当に楽しかったんだ。一緒に話して、本を読んで、映画を観て、海に行って、美味しい物を食べて。全部忘れられないくらい大切な思い出になった。だから欲が出ちゃったんだと思う。もっと水島さんとそんな思い出を描いていきたいって。小説を書くように」
「私もだよ」
「えっ」
彼女も同じ気持ちだったの? そう思っていると彼女は僕の右隣に座った。座る位置も、見える景色も、彼女の服装もあまりにも五日前と同じだったから、まるであの日にタイムスリップしてきた錯覚に陥った。だけど僕のこの気持ちがそうではないと教えてくれた。
彼女はあの時と同じように右腕で頬杖をついて顔を僕に向けた。
「私ね、川端くんと出会う前から君に恋してたの」
「えっ、本当?」
「本当だよ。メールでやり取りしているうちにね」
彼女の言葉にもともと赤くなっているであろう顔がさらに赤くなった気がする。彼女と同じ気持ちだったことが本当に嬉しかった。
「ありがとう、ずっと直接言いたかったんだ。川端くんがあの日感想をくれたこと。それが確実に私の創作へのモチベーションになったんだよ。本当にありがとう」
「そんなに感謝しなくても、本当に素敵な小説だったから」
すると彼女はより一層顔を赤くさせた。周りからみたら二人して熱中症になっていると思われるだろう。だけど幸いにも今は僕たち以外に誰もいなかった。
「ちなみに、川端くんと康成くんが同一人物だってこと、かなり前から知ってたよ」
「えっ、5日前じゃないの?」
「うん、あの時には既に答えは出てたよ。だからあの日君に話しかけた。何の脈略もなく話したこともない男の子に近づけるほど強い女じゃないからね。だからこそ、あの時素直に好きですって言えなかったんだもん」
「本当に今だから言えるけど、あの時は様子のおかしいクラスメイトだと思ったよ」
「もう、せっかく今いい感じのシチュエーションなのにそんなこと言わないでよ」
「ごめん、ごめん」
怒ったようなセリフを言いつつも、彼女は煌めく川をバックに満面の笑みを浮かべていた。
「ねぇ、覚えてる? 私が一番大好きな物語」
「あ〜、あれはもう意味わからなすぎて忘れるのが大変だったよ」
「忘れないちゃダメだよ」
真面目な声色で彼女はそう言った。
「私が一番大好きな物語は、これから描いていくの。川端くんとの物語を」
「僕との物語を?」
彼女は大きく頷いた。そして打ち合わせをしていたかのように僕と彼女はお互いの手を同じスピードで近づけていた。
僕の利き手である右手と彼女の利き手である左手はやがて固く結ばれた。誰にも解けないくらいに。
この瞬間僕が歩んできた人生、そして彼女が歩んできた人生、2つの物語がぴたりと重なった。
もしこのジンクスが本当なら僕たちは今、永遠に結ばれたことになる。
「そのTシャツ似合ってるね」
「そんなの当たり前だよ。水島さんが一生懸命探してくれたものだから」
永遠を手に入れた僕たちならきっと何ページだって物語を紡いでいける。
僕と彼女の物語を
~終わり~
時間は午前十時三十分。静かに流れる川の音と程よく冷えた風、そして永久橋の下にできた灰色の影が今日もこの川のほとりに魔法をかけていた。五日前のあの日と同じように。だけどあの日と違ってお財布はちゃんと持ってきたし、水も自動販売機で買ってきたし、服もショッピングデートで彼女が選んでくれた白藍色のTシャツを身に纏ってきた。
待ち合わせの時間までまだ三十分もあった。水の入ったペットボトルを左隣に置いて、僕は五日前も読んでいた由紀夫さんの小説の続きを読み始めた。この作者に会えるんだと意識しながら。そして3ページめくったその時。
「何読んでるの?」
どこかで覚えのある甘い香りが背後からした。そしてその香りを纏った主は僕を康成さんと呼んだ。由紀夫さんじゃないと言えないはずのその名前を。
どうして? どうして彼女が僕を康成って呼んでいるの?
「康成くん。ううん、違うね。川端くん、こっち向いて」
いや、もしかしたら声が偶然彼女に似てただけで彼女じゃないかもしれない。でもここのところ彼女の声はよく聞いているから、果たして間違えるのだろうか。僕が恋した彼女の声を。振り返ればすべてがわかる。彼女なのか別の誰かなのか。
僕はゆっくりと後ろを振り返った。色素の薄いミディアムヘアに青みがかった瞳、服装はあの時と同じ白い長袖ブラウスの袖を肘近くまでまくっいてタンポポ色のスラックスを履いていた。それらの情報は間違いなく目の前にいる少女が水島夏芽であることを証明していた。そして同時に由紀夫さんが彼女であることも証明されたことになる。でもそれはあり得ないはずのことだった。
「水島さん、どういうこと……」
「どういうことって、そういうことだよ」
「そういうことがわからないんだよ。まるで水島さんがあの小説家の由紀夫さんみたいに聞こえるよよ」
「だからそういうことだよ」
「じゃあ、由紀夫さんが何十年も前から作品を書いていたことをどう証明するの?水島さんはまだ生まれてないよね」
すると彼女は僕から視線を外した。そこにいつもの彼女の笑顔はなかった。何か僕は悪いことを言ってしまったのだろうか。
しばらく沈黙が続いた。いつもその沈黙を破ってきたのは彼女だった。だから今度は僕からその沈黙を破ろうと思った。
「ごめん。尋問みたいに聞いちゃって。でも本当に何が何だかわからないんだ。だから、話せるところまで話してほし……」
「私は本当の由紀夫さんじゃないの」
「えっ」
思いもよらない発言に言葉を失った。どういうこと?
「本当はお母さんが由紀夫を名乗って小説を書いてたの。でも色々あって、私がその名前を継いだの」
そうだったんだ。確かにそれなら納得がいく。彼女のお母さんなら何十年も前から小説を書いててもおかしくない。色々あった、というのはきっと彼女のお母さんの身に何かあって、小説が書けない状態になってしまったのだろう。顔を悲しそうに歪めながら話す彼女の様子からそう察した。じゃあ、僕が由紀夫さんの小説で初めて読んだ『透明な恋』は彼女のお母さんが書いたものなのだろうか?
「水島さんはいつから由紀夫さんになったの」
「五年以上前のことかな。私が初めて書いた作品は『透明な恋』っていう題名の小説なの。川端くんが私を知るきっかけになった小説。といってもこの小説、お母さんが小学生の時に学芸会の台本として書いたものなんだけどね。それを私が小説風にアレンジしたものなんだ」
「そうだったの」
由紀夫さんいや、彼女と知り合うきっかけとなった小説。一番大好きな小説。お母さんが昔書いたものをもとにしていたとはいえ、目の前にいる彼女が丁寧に紡いできた物語だったんだ。
「私が由紀夫で失望した?」
彼女らしくない言葉に僕は首を横に振って否定した。
「嬉しいよ。水島さんが由紀夫さんで。だって、僕はどっちも好きだから。由紀夫さんの小説も、水島さんのことも」
言い終わったところではっとした。思わず彼女に抱いてた気持ちを伝えてしまっていた。
彼女はまた熱中症になってしまったのではないかと思うくらいに赤くさせた顔を上げた。ここまで言ってしまったんだ。ちゃんと最後まで伝えないと。でも彼女は知っている。僕の気持ちを。だって彼女は由紀夫さんだから。
だけどこの間送った文面は彼女ではなく由紀夫さんに送ったものなのだ。だから今はちゃんと彼女にこの気持ちを伝えなければならない。
僕はこれからの人生で使うはずだった勇気を今という瞬間にすべて乗せた。
「この数日本当に楽しかったんだ。一緒に話して、本を読んで、映画を観て、海に行って、美味しい物を食べて。全部忘れられないくらい大切な思い出になった。だから欲が出ちゃったんだと思う。もっと水島さんとそんな思い出を描いていきたいって。小説を書くように」
「私もだよ」
「えっ」
彼女も同じ気持ちだったの? そう思っていると彼女は僕の右隣に座った。座る位置も、見える景色も、彼女の服装もあまりにも五日前と同じだったから、まるであの日にタイムスリップしてきた錯覚に陥った。だけど僕のこの気持ちがそうではないと教えてくれた。
彼女はあの時と同じように右腕で頬杖をついて顔を僕に向けた。
「私ね、川端くんと出会う前から君に恋してたの」
「えっ、本当?」
「本当だよ。メールでやり取りしているうちにね」
彼女の言葉にもともと赤くなっているであろう顔がさらに赤くなった気がする。彼女と同じ気持ちだったことが本当に嬉しかった。
「ありがとう、ずっと直接言いたかったんだ。川端くんがあの日感想をくれたこと。それが確実に私の創作へのモチベーションになったんだよ。本当にありがとう」
「そんなに感謝しなくても、本当に素敵な小説だったから」
すると彼女はより一層顔を赤くさせた。周りからみたら二人して熱中症になっていると思われるだろう。だけど幸いにも今は僕たち以外に誰もいなかった。
「ちなみに、川端くんと康成くんが同一人物だってこと、かなり前から知ってたよ」
「えっ、5日前じゃないの?」
「うん、あの時には既に答えは出てたよ。だからあの日君に話しかけた。何の脈略もなく話したこともない男の子に近づけるほど強い女じゃないからね。だからこそ、あの時素直に好きですって言えなかったんだもん」
「本当に今だから言えるけど、あの時は様子のおかしいクラスメイトだと思ったよ」
「もう、せっかく今いい感じのシチュエーションなのにそんなこと言わないでよ」
「ごめん、ごめん」
怒ったようなセリフを言いつつも、彼女は煌めく川をバックに満面の笑みを浮かべていた。
「ねぇ、覚えてる? 私が一番大好きな物語」
「あ〜、あれはもう意味わからなすぎて忘れるのが大変だったよ」
「忘れないちゃダメだよ」
真面目な声色で彼女はそう言った。
「私が一番大好きな物語は、これから描いていくの。川端くんとの物語を」
「僕との物語を?」
彼女は大きく頷いた。そして打ち合わせをしていたかのように僕と彼女はお互いの手を同じスピードで近づけていた。
僕の利き手である右手と彼女の利き手である左手はやがて固く結ばれた。誰にも解けないくらいに。
この瞬間僕が歩んできた人生、そして彼女が歩んできた人生、2つの物語がぴたりと重なった。
もしこのジンクスが本当なら僕たちは今、永遠に結ばれたことになる。
「そのTシャツ似合ってるね」
「そんなの当たり前だよ。水島さんが一生懸命探してくれたものだから」
永遠を手に入れた僕たちならきっと何ページだって物語を紡いでいける。
僕と彼女の物語を
~終わり~