ピピピ……。アラームは僕だけじゃなく、ベッドから遠くに掛けてある制服までも起こす勢いで部屋中に鳴り響いた。
重たい瞼を擦りながらまだ騒がしく鳴っているアラームを消した。
ベッドから起き上がって部屋のカーテンを開けると、昨日の雨が嘘のように皮膚を焦がすほどの熱い日差しが部屋の中に入り込んできた。
最後の日が始まってしまった。どうやら一晩寝て消せる気持ちではなかったようだ。
この気持ちはきっと届かない。だけど今日一日だけは、こんな僕と彼女は同じ時間を過ごせる。だから、一秒でも長く彼女と一緒にいられるように早く支度を済ませなくては。
クローゼットの引き出しを開けてビーチサンダルを掘り出そうと中身を漁るがなかなか見つからない。苦戦に強いられていると、部屋の扉からノックの音が2回聞こえてきた。2回ってことはお母さんか。この家では年齢順にノックの回数が決められている。今はいないけど1番上はお父さんだからノック1回ならお父さん、2回ならお母さん、妹の香麦なら4回。だから僕が誰かの部屋に入る時は3回ノックをする。
「入っていい?」
いいよ、と言い切る前に扉が開いた。お母さんはこの部屋の惨状を見て目を丸くした。それもそのはず、ビーチサンダルが見つからなくて服を出していってたらいつの間にか部屋は服の海と化していた。ある意味海水浴場だ。
「いや〜、なかなかビーチサンダルが見つからなくてさ」
「ビーチサンダルって、海にでも行くの?」
首を縦に振るとお母さんは仕方ないなぁ、と呟いて僕のビーチサンダルを一緒に探してくれた。いつもそうだ。僕が何かを失くすたびにお母さんはいつだって探し物を一緒に見つけようとしてくれる。そして僕の探し物を一番に見つけてくれるのもお母さんだった。
そして今回も見つけたよ、と声を弾ませていた。その喜び方は僕以上だった。いつも僕の探し物を見つけた時は僕よりも喜んでいた。
「ありがとう、お母さん」
「よかった。それよりその靴入る?」
お母さんはさっきまでの喜んでいた表情を心配そうな表情に変えていた。
その言葉に僕も一気に不安になった。これを履いていたのは確か、中学1年か2年の時だった気がする。
少なくとも去年は受験生だったから海には行っていない。男の子は中学生でも足が大きくなるから僕がこの靴を履けなくなるのもおかしな話ではない。
案の定、お母さんがせっかく見つけてくれたそのビーチサンダルは、小さくてとても履けそうにはなかった。
「ごめん、お母さん。一緒に探してくれたのに」
だけどお母さんは怒るどころか、それがわかっていたかのような反応で僕に笑いかけた。
「そうだろうとは思ってたよ。ちょっと待ってて」
そう言い残してお母さんは僕の部屋を去っていった。
5分くらい経つと再び階段を上る音がこの部屋まで聴こえてきた。そして僕の部屋の入口から白い箱を持ったお母さんが現れた。
「おまたせ。これあげるよ」
優しく微笑みながら、お母さんは僕に白い箱を手渡してきた。
その箱を開けてみると、クシャクシャになった白い紙が入っていて、まだ本当の中身がわからなかった。その紙を一つ一つ取り出していくと、青いものが一部露出した。そして遂にその全容が明らかになった。
それは新品の青色をしたビーチサンダルだった。しかも見ただけで僕にぴったりサイズの靴だと感じた。だけど、どうしてお母さんは僕の足にぴったりな靴を選べたんだろう。いや、それは今に始まったことじゃない。僕は自分で靴を選んだことがない。いつも靴だけはお母さんからプレゼントされる。それが当たり前だったから不思議に思ったことはなかったけど……。
「不思議そうな顔してるね」
そう言うとすると、白い箱から現れた青いビーチサンダルをお母さんは赤ちゃんの頬を撫でるように優しく触れていた。
「この靴はね、お父さんが作ったものなの。ううん、この靴だけじゃない。あなたが今まで履いてきた靴全てがお父さんの手から生まれてきたものなんだよ」
「えっ」
ずっと不安に思っていた。夢を追いかけているお父さんは僕たちのことを忘れているんじゃないかって。
でも違った。お父さんはちゃんと僕たちのことを想ってくれていた。お父さんはお父さんだった。
確かに昔はわからなかったけど、最近になって僕が履いている靴は高価なんじゃないかと思っていた。
目の奥が熱くなるのを感じる。
「本当は言うなって口止めされてたんだけどね。そういうの恥ずかしいからって。でもやっぱり伝えたくなったんだよね。もう彼女ができるくらいに成長したんだもん」
お母さんはさっきとは違うニヤついた笑顔を僕に見せた。
「えっ、お母さん知ってたの?」
「あっ、やっぱり本当だったんだ。香麦から聞いたんだよ」
香麦には上手く誤魔化せたと思ってたのに。いくら小学生とはいえ、女性の感は侮れない。
「それにしてもまさか、出張中にこんなに息子の恋が進展しているとは」
「いや、僕と彼女はそんな単純な恋じゃ……」
「そうだよね。恋って単純じゃないものね」
何か変な解釈をしているような。そんなくだらない会話を続けていると、インターフォンの音が耳に入った。
「噂をすれば、じゃあ頑張って! あと忘れ物と熱中症には気を付けて、いってらっしゃい」
香麦はそのことまでお母さんに報告していたのか。お母さんにすべてを知られてしまったという恥ずかしさが、僕の体の奥からこみ上げてくるのを感じた。お母さんがまたニヤついた笑顔で僕を見送るからその恥ずかしさは自然と倍増した。
僕は恥ずかしさで火照っている顔を隠すように足早に部屋を出た。ぼそっとお母さんに挨拶すると、もう後ろにいて見えないけど、僕にはなぜだかお母さんが笑っている顔しか思い浮かばなかった。
「お待たせ」
玄関の扉を開けるとそこにはあまり見慣れない格好をした彼女が佇んでいた。白藍色のノースリーブのワンピースを着ていて、髪はいつもと違って上の方でお団子にしていた。
「どうしたの、川端くん? 顔赤い気がするんだけど」
「いや、えっと……この暑さのせいだよ」
この暑さとさっきお母さんに僕と彼女の関係がバレてしまった恥ずかしさのせいだと思いたい。だけど僕にはわかる。いつもと違う彼女の格好にドキドキして、頬が赤く染まっていることを。
「ふ~ん」
彼女はなぜか面白くなさそうな顔をしていた。思えばこんな顔を見るのは初めてかもしれない。どうしてそんな顔をするのか疑問に思っていると……。
「海に行く前にね、私……その、行きたいところがあるの」
僕は少し違和感を感じた。その違和感を確かなものにするために僕は話を続けることにした。
「もしかしてその行きたい場所に行くために現地集合にしなかったの?」
「う、うん。そうなの。それで私ワッフルが食べたいなぁって。川端くんの家の近くでしょ?」
「うん。水島さんは甘いものが好きなんだね」
「う、うん!」
やっぱり、いつもと様子がおかしい。
「水島さん、具合悪くない?」
「ううん、す、すごく元気だよ。どうして?」
「いや別に……元気ならいいんだけど」
僕は不安を抱えながらも、彼女を困らせるようなことはしたくなかったからこれ以上言及はしなかった。
「どのワッフルにしようかな」
「ちょっと悩みすぎな気がするんだけど」
「だって、どれも美味しそうなんだもん」
「じゃあ、シェアする?」
「えっ、いいの?」
「うん、味にこだわりないから水島さんが食べたいワッフルでいいよ」
「やった~」
慣れてきたのか、この頃には彼女の様子も元通りになっていた。僕が見る限りは。
「川端くん、頼んできたよ。生クリーム味と抹茶味のワッフル」
「じゃあ、半分にしようか」
「うん!」
この会話、香麦と来た時にもした気がする。時々彼女と香麦が重なることがある。彼女にももしかしたらお兄ちゃんがいるのかもしれない。まぁ、お父さんが甘やかしている可能性も否めないけど。
「美味しい〜」
目を弧にして、頬を手で押さえながら食べている彼女を見ていたら、僕も自然と笑みがこぼれた。
「あっ、もしかして馬鹿にした笑い?」
「ううん、美味しそうに食べるなぁって。食レポとか向いてそう」
「そうかな〜。このワッフル美味しすぎる」
「う〜ん、語彙が足りない気がするから前言撤回かも」
「え〜」
今日は太陽も夏を届けながらしっかり僕たちを見つめている。太陽はただこの世界を暑くさせるだけだから好きじゃない。だけど……。
この太陽が沈む頃には僕たちの関係はシンデレラの魔法のように終わってしまう。1秒でも長く一緒にいられるように太陽にはまだ南の空の上で浮かんでいてもらいたい。
水しぶきが宙を舞って星のように煌めいている。小さな子どもたちが雪合戦をするかのように海水を掛け合っている。
海の家のかき氷屋さんは扇風機が稼働しているからか、外より幾分か涼しく感じられた。右手で掬ったスプーンの上の冷たい氷の結晶が僕の口の中でゆっくりと溶けていく。目の前の彼女はかき氷を早く口に運び過ぎたのか、スプーンを持ってる左手を額に当てていた。
「もっとゆっくり食べればいいのに」
「だって、美味しいんだもん。美味しいから自然に手が早く動いちゃうの」
ブルーハワイのシロップが掛けられたかき氷を食べながら話す彼女の舌は既に青く染まっていた。
もう陽は傾き始めていて、海をオレンジジュースに変えていた。昨日の僕のTシャツのように。夕方は嫌でもお別れを連想させる。
僕はある荷物が入ったリュックに視線を移した。これを返したら、本当にこの関係は終わってしまうんだな。
僕がよほど思い詰めた顔をしていたのか「川端くん具合悪いの?」と心配した声色で問いかけてきた。
やっぱり今返そうとリュックの中からある荷物を取り出そうとした。だけど、その行動を止めるように彼女は僕が食べていた溶けかけのかき氷を一気に口の中へと流し込んでいた。
「何やって……」
「だって川端くん、かき氷食べるの遅いんだもん」
「そうやって誤魔化さないでよ。今僕がリュックから取り出すことを止めようとしたよね?」
「そうだよ。だってそれ返したら本当にお別れでしょ」
そう言うと彼女は僕の腕を引っ張って店の外へと連れ出した。お金は食べる前に払っていたから問題はない。それでも、いきなり腕を掴んだりしてほしくない。もうお別れなのにこれ以上意識したらもっと彼女のことを好きになってしまうから。
僕のリュックの中には昨日借りたカーディガンが入っている。つまり、これを返せばもう会う口実はなくなってしまうのだ。お店の前に取り付けられた風鈴の音が彼女とのお別れを助長させていた。
比較的に海に近い砂浜に来ると彼女は引っ張ってた細い腕を僕の手首から離した。無表情で海を見つめる彼女の瞳は海の色と似ていた。
彼女は海から僕へと視線を移して、表情も口角を上げて微笑みを浮かべていた。だけどまた海に視線を戻して、彼女は少しずつ海へと近づき、やがて彼女の足首が海に浸かった。
彼女は再び僕に視線を移して、右手を僕に差し出してきた。
「手、繋いでほしいな。シンデレラの手を繋ぐ王子様みたいに」
恋人関係を結んでから僕たちはこうして手を繋いできた。手を繋いでいると、いろんなことが伝わる。温もり、感触、時には感情までそれは伝えてくれる。手を繋ぐことは僕にとって一番の愛情表現だと思っている。やがてその2つの手は1つに重なった。初めて触れた時と同じように彼女の手は綿あめみたいに柔らかくて、少しでも強く握ってしまったらガラスのようにひび割れてしまうのではないかと思った。そして同時にその手からもうこれで最後だよ、というメッセージも伝わった。
「じゃあ、あのテトラポットまで歩こう」
そこは遠いようで近いような不思議な距離に位置していた。
彼女の方を向いて軽く首を縦に振ると、僕たちは歩き始めた。歩くたびに砂が足の裏にびっしりとくっついてくる。その砂はまるで今まで彼女と過ごしてきた日々のようだった。
「ねぇ」
彼女の柔らかい声に僕は顔を上げた。すると、彼女は見てよと言うように足元を指さしていた。
見ると、足の甲くらいまで彼女の足は海水に沈んでいた。だけどこれがどうしたのだろうか。
「その顔、全然わかってくれてないでしょ」
「逆にわかる人の方が少ないと思うよ?」
「う〜ん、川端くんならわかってくれると思ったんだけどな〜」
くすくすと彼女は微笑んで、「今私はガラスの靴を履いたお姫様なの」と言った。
彼女のその言葉に僕はもう一度彼女の足元に視線を移した。夏の日差しを受けた海水は透き通っていて、彼女の足元を包んでいた。
確かにそれはガラスの靴のようだった。
僕は顔を上げて本当だね、と呟くと彼女の表情は笑顔こそあったが、眉は下がっていた。それはきっと心の底からの笑顔じゃないということが嫌でもわかってしまう。今まで彼女と過ごしてきた時間が僕をそう理解させた。その表情に僕は胸を締め付けられるのを感じた。今までに感じたことがないくらいに苦しかった。
「もう少しで魔法が解けるから。この関係は終わるから。だから、今だけはお姫様でいてもいいよね……」
最後の方はほとんど声が聞こえなかった。それくらい彼女の声は震えていてガラスのように脆かった。
本当にこのままでいいのだろうか。何も言えないままお別れするなんて。
僕に向けられていた彼女の視線はやがて目的地のテトラポットへと向き、止めていた足を再びそこへと動かしていた。僕も彼女に合わせるように歩みを進めた。
静かで深い沈黙が僕たちを包んでいた。僕たちの空間だけが喧騒で溢れている海岸ではないかのように。
その沈黙はテトラポットまで残りわずかの時にあっけなく崩された。最後の沈黙も彼女が破ったのだった。
「今、魔法が解けるおまじないをしてたの」
「えっ」
「手結びジンクスって知ってる?」
聞いたことがあるようなないような。もしかしたら僕が今まで読んできた本の中にあったのかもしれないけど、思い出せないなぁ。
彼女はそんな僕の心中を悟ったのかその手結びジンクスについて教えてくれた。
「手結びジンクスはその名の通り好きな相手と手を繋いだ者同士は永遠に結ばれるっていうジンクスなの」
「単純なジンクスだね。でもそれだと世の恋人たちは皆永遠に結ばれるんじゃないの?」
「ただ手を繋ぐんじゃなくて、お互いの利き手同士を繋ぐっていう意味なの。だから同じ利き手同士だとこのジンクスには当てはまらないの。あとお互いが利き手じゃない方で繋ぐのも」
僕は再び彼女と結ばれている手に視線を落とした。僕が繋がれているのは左手。でも利き手は右手なのだ。対して彼女はどうだったっけ? 確かさっきのかき氷、彼女は左手で掬って食べてたっけ? だとしたら……。
「わかったかな? だからこれでもうおしまい、だよ。私たちは結ばれない。迷惑かけちゃったね」
おしまい……。それは僕が彼女とあの橋の下で出会う前の関係に戻る合図だった。数日前に戻る、ただそれだけの話なのに……。
だけど、僕は簡単には消せない想いを抱いてしまった。関係が戻っても、僕の心はもう元には戻れない。
昨日自覚した彼女への想い。そしてそれは決して伝えてはいけない想い。人気者の彼女と自分とではきっと不釣り合いだから。それに彼女はお盆に友だちが帰省していなかったから、仕方なく僕を誘ったんだと言っていた。男の子と遊ぶわけだから恋人関係という設定の方がすんなりと事が進むと考えたのだろう。だから僕は彼女に言えない。本当は好きだなんて言えない。
手から彼女へと視線を移すと彼女は唇を青くしていた。肩は小刻みに震えていた。こんなに暑いのに彼女は寒そうだった。海に入って体をちゃんと拭かなかったのか、かき氷の食べ過ぎか。おそらく両者なのだろう。その時僕は思い出した。さっき返そうとしたカーディガンの存在に。
このカーディガンを返せば、この関係が本当に終わってしまうんだ。だけど目の前にいる彼女は寒そうにしている。僕は繋いでいた左手を彼女から離して鞄からそれを取り出した。
「これ返すね」
「うん」
彼女は頷いて僕からカーディガンを受け取った。だけど彼女はまた僕にそれを返して、腕を横に伸ばした。
「着せて?」
彼女は首を軽く傾げてそう言った。それは恋人としての最後のお願いを意味していた。
「わかった」
僕はカーディガンを彼女の腕に丁寧に通した。着終えるとそのカーディガンはやっぱり彼女にはぶかぶかだった。だけどそれも一つのファッションなのかなと思ってしまうくらいに彼女はそれを着こなしていた。
ありがとう、と呟いた彼女は海に背を向けて僕と視線を合わせないまま帰路へついた。立ち止まってできた彼女の足跡は海の波が遠くの沖へと連れて行った。
その日の夜、僕は由紀夫さんにメールを送信した。昨日の返信が来ていないことに疑問を抱きながらも文字を打ち終えると、扉からノックの音が聞こえた。それは2種類あった。2回叩く音と4回叩く音。
「入るよ?」
2人の声がハモった。正直、今は一人にしてほしいんだけどなぁ。だけど僕のそんな願いは虚しく、お母さんと香麦は遠慮の欠片もなく僕の部屋の扉を開けた。
「今日のデートどうだった?」
「別に」
「またまた照れちゃって」
2人して僕をからかってくるから、いい加減イラついてきた。そして思わず口走ってしまった。
「もう水島さんとは別れたから、ほっといてよ」
僕がその一言を放った瞬間、僕の部屋の空気が凍り付いたのを感じた。まるで僕の部屋だけに冬が訪れたかのように。
僕は2人の顔を見たくなくて、机を見るように下を向いていた。
「本当に?」
香麦が驚きを隠せていない声でそう呟いた。
その問いに僕は下を向いたまま小さく頷いた。すると香麦は悲しそうな顔をした。香麦には関係ないことなのに、どうしてそんな表情をするのだろう。そう不思議に思っていると……。
ピコンと電子音がこの部屋を支配した。見ると由紀夫さんからの返信メールが届いたのだ。
『昨日は返信できなくてごめんなさい。康成くん、いつもそのままの気持ちを顔も声も本性も知らない自分に打ち明けてくれて本当にありがとう。そんな康成くんにお願いがあります。断られることを承知でお願いがあります。明日会ってほしいの。ずっと想像してたんだ。いつもこうやってメッセージをやり取りする康成さんがどんな人なのか。でも実際に会ったことがないから、不審に思うのも仕方がないことだと思ってる。だから無理して会いに来なくてもいいの。待ち合わせ場所は前に康成さんがよく本を読みに来る場所だと書いてた永久橋の下の川のほとりでいいかな? 時間は午前11時。1時間、待ってます。』
すべての文を読み終えて、僕は息を飲んだ。今までずっとやり取りしてきた由紀夫さんに明日会える。棚に並べられている本に視線を移す。あの小説たちの生みの親に会えるんだ。
でも同時に恐怖心も僕の中には宿っていた。画面上の顔も声も本性も知らない人に会うのだ。インターネットが普及した現在、ネット上で知り合った人と実際に会って被害に遭うという事件が後を絶たない。由紀夫さんがそういう人だとは思ったことはないけど。だけど、どうして僕が本を読む場所のことを知っているのだろう。永久橋は全国にあるし、もしかしたら長いやり取りの中で知られたのかもしれない。
由紀夫さんに会いたいという好奇心と事件の被害者になるかもしれないという恐怖心が僕の脳内でバチバチに戦っている。どうしたらいいんだろう。由紀夫さんのことを信じたい。その気持ちはあるはずなのに……。自分の臆病さに呪いたくなった。脳内戦争に終止符を打てないでいると……。
「会いに行ったら?」
今まで一言も発していなかったお母さんが口を開いた。この発言をしたということは、お母さんはメールの文面を僕の後ろから読んでいたことになる。じゃあ、お母さんは僕の脳内の好奇心を応援するってこと?普通親はこういうの止めるものじゃないのだろうか。
正直今回のことは絶対に反対するものだと思ってた。
「お母さん、それ本気で言ってる? 会ったことないんだよ? 危ない目に遭うかもしれないんだよ?」
「だって、会いたいんでしょ。由紀夫さんに。だったら会いに行けばいいじゃない。私は反対しないよ」
私眠いからと言ってお母さんは眠そうな目を擦りながらドアへと向かい最後に頑張って、と言い残してそのドアの向こうへと姿を消した。
それに続いて香麦も部屋を出ようとしていた。そういえば……。
「香麦、そういえばこの間ファミレスでバニラアイスを食べたんだけど水島さんがそのアイスよりも香麦が作ったアイスの方が美味しかったって」
「えっ」
部屋の扉に手をかけていた香麦は振り返って、普段は見せない真剣な眼差しで僕を見つめていた。
「ねぇお兄ちゃん、本当に水島さんとお別れでいいの? お兄ちゃんの気持ちがわからないから何とも言えないけど、この数日のお兄ちゃん、楽しそうだったよ」
「もしかして、水島さんが倒れたあの日僕たちの様子をこっそり見てたの?」
「うん、見てたよ。ちょっとね。話の内容から恋人なんだって知った時は驚いたけど」
期間限定の恋人だということはバレてなかったみたいだけど、それなら香麦を誤魔化せきれなかったのにも納得がいく。
「それにね、人が作ったお菓子を美味しいねって褒めてくれる人に悪い人はいないんだよ。少なくとも香麦は見たことないなぁ。だからきっと水島さんはとっても素敵な人だと思うんだ」
香麦は微笑みながらそう言った。その笑顔が彼女と重なった。やっぱりちゃんと気持ちを伝えたい。どんなに不釣り合いであったとしても彼女に好きっていう思いを伝えたい。
「ありがとう、香麦。もう一度話してみるよ。もうすぐで学校だからそこで話そうと思う」
「もうすぐで学校⁉」
「そこに反応するんだ」
「だって全然宿題終わってないんだもん。お兄ちゃんが女の子連れて来たから勉強に集中できなくなったんだよ」
「人のせいにする人に良い人はいないと思うよ」
お母さんに告げ口した恨みも込めてそう言うと、香麦はほっぺを膨らませて踵を返した。
心配して損した、と言い残して香麦は少し強めに僕の部屋の扉を閉めた。そこまで怒らなくてもいいのに。だけど。
香麦が閉めた扉を見つめた。恐怖心が完全に無くなったわけじゃない。それでも明日由紀夫さんに会おうと思った。お母さんの言う通り僕は由紀夫さんに会いたかった。今まで綴られたきた文章から由紀夫さんのことを信じたかった。
それに、恋愛小説で有名になった由紀夫さんから水島さんに気持ちを伝えるためのヒントが得られるとも思ったのだ。
ベッドに体を預けると、この数日の疲れが津波のように僕の全身を襲い、深い夢の中へと連れて行った。
重たい瞼を擦りながらまだ騒がしく鳴っているアラームを消した。
ベッドから起き上がって部屋のカーテンを開けると、昨日の雨が嘘のように皮膚を焦がすほどの熱い日差しが部屋の中に入り込んできた。
最後の日が始まってしまった。どうやら一晩寝て消せる気持ちではなかったようだ。
この気持ちはきっと届かない。だけど今日一日だけは、こんな僕と彼女は同じ時間を過ごせる。だから、一秒でも長く彼女と一緒にいられるように早く支度を済ませなくては。
クローゼットの引き出しを開けてビーチサンダルを掘り出そうと中身を漁るがなかなか見つからない。苦戦に強いられていると、部屋の扉からノックの音が2回聞こえてきた。2回ってことはお母さんか。この家では年齢順にノックの回数が決められている。今はいないけど1番上はお父さんだからノック1回ならお父さん、2回ならお母さん、妹の香麦なら4回。だから僕が誰かの部屋に入る時は3回ノックをする。
「入っていい?」
いいよ、と言い切る前に扉が開いた。お母さんはこの部屋の惨状を見て目を丸くした。それもそのはず、ビーチサンダルが見つからなくて服を出していってたらいつの間にか部屋は服の海と化していた。ある意味海水浴場だ。
「いや〜、なかなかビーチサンダルが見つからなくてさ」
「ビーチサンダルって、海にでも行くの?」
首を縦に振るとお母さんは仕方ないなぁ、と呟いて僕のビーチサンダルを一緒に探してくれた。いつもそうだ。僕が何かを失くすたびにお母さんはいつだって探し物を一緒に見つけようとしてくれる。そして僕の探し物を一番に見つけてくれるのもお母さんだった。
そして今回も見つけたよ、と声を弾ませていた。その喜び方は僕以上だった。いつも僕の探し物を見つけた時は僕よりも喜んでいた。
「ありがとう、お母さん」
「よかった。それよりその靴入る?」
お母さんはさっきまでの喜んでいた表情を心配そうな表情に変えていた。
その言葉に僕も一気に不安になった。これを履いていたのは確か、中学1年か2年の時だった気がする。
少なくとも去年は受験生だったから海には行っていない。男の子は中学生でも足が大きくなるから僕がこの靴を履けなくなるのもおかしな話ではない。
案の定、お母さんがせっかく見つけてくれたそのビーチサンダルは、小さくてとても履けそうにはなかった。
「ごめん、お母さん。一緒に探してくれたのに」
だけどお母さんは怒るどころか、それがわかっていたかのような反応で僕に笑いかけた。
「そうだろうとは思ってたよ。ちょっと待ってて」
そう言い残してお母さんは僕の部屋を去っていった。
5分くらい経つと再び階段を上る音がこの部屋まで聴こえてきた。そして僕の部屋の入口から白い箱を持ったお母さんが現れた。
「おまたせ。これあげるよ」
優しく微笑みながら、お母さんは僕に白い箱を手渡してきた。
その箱を開けてみると、クシャクシャになった白い紙が入っていて、まだ本当の中身がわからなかった。その紙を一つ一つ取り出していくと、青いものが一部露出した。そして遂にその全容が明らかになった。
それは新品の青色をしたビーチサンダルだった。しかも見ただけで僕にぴったりサイズの靴だと感じた。だけど、どうしてお母さんは僕の足にぴったりな靴を選べたんだろう。いや、それは今に始まったことじゃない。僕は自分で靴を選んだことがない。いつも靴だけはお母さんからプレゼントされる。それが当たり前だったから不思議に思ったことはなかったけど……。
「不思議そうな顔してるね」
そう言うとすると、白い箱から現れた青いビーチサンダルをお母さんは赤ちゃんの頬を撫でるように優しく触れていた。
「この靴はね、お父さんが作ったものなの。ううん、この靴だけじゃない。あなたが今まで履いてきた靴全てがお父さんの手から生まれてきたものなんだよ」
「えっ」
ずっと不安に思っていた。夢を追いかけているお父さんは僕たちのことを忘れているんじゃないかって。
でも違った。お父さんはちゃんと僕たちのことを想ってくれていた。お父さんはお父さんだった。
確かに昔はわからなかったけど、最近になって僕が履いている靴は高価なんじゃないかと思っていた。
目の奥が熱くなるのを感じる。
「本当は言うなって口止めされてたんだけどね。そういうの恥ずかしいからって。でもやっぱり伝えたくなったんだよね。もう彼女ができるくらいに成長したんだもん」
お母さんはさっきとは違うニヤついた笑顔を僕に見せた。
「えっ、お母さん知ってたの?」
「あっ、やっぱり本当だったんだ。香麦から聞いたんだよ」
香麦には上手く誤魔化せたと思ってたのに。いくら小学生とはいえ、女性の感は侮れない。
「それにしてもまさか、出張中にこんなに息子の恋が進展しているとは」
「いや、僕と彼女はそんな単純な恋じゃ……」
「そうだよね。恋って単純じゃないものね」
何か変な解釈をしているような。そんなくだらない会話を続けていると、インターフォンの音が耳に入った。
「噂をすれば、じゃあ頑張って! あと忘れ物と熱中症には気を付けて、いってらっしゃい」
香麦はそのことまでお母さんに報告していたのか。お母さんにすべてを知られてしまったという恥ずかしさが、僕の体の奥からこみ上げてくるのを感じた。お母さんがまたニヤついた笑顔で僕を見送るからその恥ずかしさは自然と倍増した。
僕は恥ずかしさで火照っている顔を隠すように足早に部屋を出た。ぼそっとお母さんに挨拶すると、もう後ろにいて見えないけど、僕にはなぜだかお母さんが笑っている顔しか思い浮かばなかった。
「お待たせ」
玄関の扉を開けるとそこにはあまり見慣れない格好をした彼女が佇んでいた。白藍色のノースリーブのワンピースを着ていて、髪はいつもと違って上の方でお団子にしていた。
「どうしたの、川端くん? 顔赤い気がするんだけど」
「いや、えっと……この暑さのせいだよ」
この暑さとさっきお母さんに僕と彼女の関係がバレてしまった恥ずかしさのせいだと思いたい。だけど僕にはわかる。いつもと違う彼女の格好にドキドキして、頬が赤く染まっていることを。
「ふ~ん」
彼女はなぜか面白くなさそうな顔をしていた。思えばこんな顔を見るのは初めてかもしれない。どうしてそんな顔をするのか疑問に思っていると……。
「海に行く前にね、私……その、行きたいところがあるの」
僕は少し違和感を感じた。その違和感を確かなものにするために僕は話を続けることにした。
「もしかしてその行きたい場所に行くために現地集合にしなかったの?」
「う、うん。そうなの。それで私ワッフルが食べたいなぁって。川端くんの家の近くでしょ?」
「うん。水島さんは甘いものが好きなんだね」
「う、うん!」
やっぱり、いつもと様子がおかしい。
「水島さん、具合悪くない?」
「ううん、す、すごく元気だよ。どうして?」
「いや別に……元気ならいいんだけど」
僕は不安を抱えながらも、彼女を困らせるようなことはしたくなかったからこれ以上言及はしなかった。
「どのワッフルにしようかな」
「ちょっと悩みすぎな気がするんだけど」
「だって、どれも美味しそうなんだもん」
「じゃあ、シェアする?」
「えっ、いいの?」
「うん、味にこだわりないから水島さんが食べたいワッフルでいいよ」
「やった~」
慣れてきたのか、この頃には彼女の様子も元通りになっていた。僕が見る限りは。
「川端くん、頼んできたよ。生クリーム味と抹茶味のワッフル」
「じゃあ、半分にしようか」
「うん!」
この会話、香麦と来た時にもした気がする。時々彼女と香麦が重なることがある。彼女にももしかしたらお兄ちゃんがいるのかもしれない。まぁ、お父さんが甘やかしている可能性も否めないけど。
「美味しい〜」
目を弧にして、頬を手で押さえながら食べている彼女を見ていたら、僕も自然と笑みがこぼれた。
「あっ、もしかして馬鹿にした笑い?」
「ううん、美味しそうに食べるなぁって。食レポとか向いてそう」
「そうかな〜。このワッフル美味しすぎる」
「う〜ん、語彙が足りない気がするから前言撤回かも」
「え〜」
今日は太陽も夏を届けながらしっかり僕たちを見つめている。太陽はただこの世界を暑くさせるだけだから好きじゃない。だけど……。
この太陽が沈む頃には僕たちの関係はシンデレラの魔法のように終わってしまう。1秒でも長く一緒にいられるように太陽にはまだ南の空の上で浮かんでいてもらいたい。
水しぶきが宙を舞って星のように煌めいている。小さな子どもたちが雪合戦をするかのように海水を掛け合っている。
海の家のかき氷屋さんは扇風機が稼働しているからか、外より幾分か涼しく感じられた。右手で掬ったスプーンの上の冷たい氷の結晶が僕の口の中でゆっくりと溶けていく。目の前の彼女はかき氷を早く口に運び過ぎたのか、スプーンを持ってる左手を額に当てていた。
「もっとゆっくり食べればいいのに」
「だって、美味しいんだもん。美味しいから自然に手が早く動いちゃうの」
ブルーハワイのシロップが掛けられたかき氷を食べながら話す彼女の舌は既に青く染まっていた。
もう陽は傾き始めていて、海をオレンジジュースに変えていた。昨日の僕のTシャツのように。夕方は嫌でもお別れを連想させる。
僕はある荷物が入ったリュックに視線を移した。これを返したら、本当にこの関係は終わってしまうんだな。
僕がよほど思い詰めた顔をしていたのか「川端くん具合悪いの?」と心配した声色で問いかけてきた。
やっぱり今返そうとリュックの中からある荷物を取り出そうとした。だけど、その行動を止めるように彼女は僕が食べていた溶けかけのかき氷を一気に口の中へと流し込んでいた。
「何やって……」
「だって川端くん、かき氷食べるの遅いんだもん」
「そうやって誤魔化さないでよ。今僕がリュックから取り出すことを止めようとしたよね?」
「そうだよ。だってそれ返したら本当にお別れでしょ」
そう言うと彼女は僕の腕を引っ張って店の外へと連れ出した。お金は食べる前に払っていたから問題はない。それでも、いきなり腕を掴んだりしてほしくない。もうお別れなのにこれ以上意識したらもっと彼女のことを好きになってしまうから。
僕のリュックの中には昨日借りたカーディガンが入っている。つまり、これを返せばもう会う口実はなくなってしまうのだ。お店の前に取り付けられた風鈴の音が彼女とのお別れを助長させていた。
比較的に海に近い砂浜に来ると彼女は引っ張ってた細い腕を僕の手首から離した。無表情で海を見つめる彼女の瞳は海の色と似ていた。
彼女は海から僕へと視線を移して、表情も口角を上げて微笑みを浮かべていた。だけどまた海に視線を戻して、彼女は少しずつ海へと近づき、やがて彼女の足首が海に浸かった。
彼女は再び僕に視線を移して、右手を僕に差し出してきた。
「手、繋いでほしいな。シンデレラの手を繋ぐ王子様みたいに」
恋人関係を結んでから僕たちはこうして手を繋いできた。手を繋いでいると、いろんなことが伝わる。温もり、感触、時には感情までそれは伝えてくれる。手を繋ぐことは僕にとって一番の愛情表現だと思っている。やがてその2つの手は1つに重なった。初めて触れた時と同じように彼女の手は綿あめみたいに柔らかくて、少しでも強く握ってしまったらガラスのようにひび割れてしまうのではないかと思った。そして同時にその手からもうこれで最後だよ、というメッセージも伝わった。
「じゃあ、あのテトラポットまで歩こう」
そこは遠いようで近いような不思議な距離に位置していた。
彼女の方を向いて軽く首を縦に振ると、僕たちは歩き始めた。歩くたびに砂が足の裏にびっしりとくっついてくる。その砂はまるで今まで彼女と過ごしてきた日々のようだった。
「ねぇ」
彼女の柔らかい声に僕は顔を上げた。すると、彼女は見てよと言うように足元を指さしていた。
見ると、足の甲くらいまで彼女の足は海水に沈んでいた。だけどこれがどうしたのだろうか。
「その顔、全然わかってくれてないでしょ」
「逆にわかる人の方が少ないと思うよ?」
「う〜ん、川端くんならわかってくれると思ったんだけどな〜」
くすくすと彼女は微笑んで、「今私はガラスの靴を履いたお姫様なの」と言った。
彼女のその言葉に僕はもう一度彼女の足元に視線を移した。夏の日差しを受けた海水は透き通っていて、彼女の足元を包んでいた。
確かにそれはガラスの靴のようだった。
僕は顔を上げて本当だね、と呟くと彼女の表情は笑顔こそあったが、眉は下がっていた。それはきっと心の底からの笑顔じゃないということが嫌でもわかってしまう。今まで彼女と過ごしてきた時間が僕をそう理解させた。その表情に僕は胸を締め付けられるのを感じた。今までに感じたことがないくらいに苦しかった。
「もう少しで魔法が解けるから。この関係は終わるから。だから、今だけはお姫様でいてもいいよね……」
最後の方はほとんど声が聞こえなかった。それくらい彼女の声は震えていてガラスのように脆かった。
本当にこのままでいいのだろうか。何も言えないままお別れするなんて。
僕に向けられていた彼女の視線はやがて目的地のテトラポットへと向き、止めていた足を再びそこへと動かしていた。僕も彼女に合わせるように歩みを進めた。
静かで深い沈黙が僕たちを包んでいた。僕たちの空間だけが喧騒で溢れている海岸ではないかのように。
その沈黙はテトラポットまで残りわずかの時にあっけなく崩された。最後の沈黙も彼女が破ったのだった。
「今、魔法が解けるおまじないをしてたの」
「えっ」
「手結びジンクスって知ってる?」
聞いたことがあるようなないような。もしかしたら僕が今まで読んできた本の中にあったのかもしれないけど、思い出せないなぁ。
彼女はそんな僕の心中を悟ったのかその手結びジンクスについて教えてくれた。
「手結びジンクスはその名の通り好きな相手と手を繋いだ者同士は永遠に結ばれるっていうジンクスなの」
「単純なジンクスだね。でもそれだと世の恋人たちは皆永遠に結ばれるんじゃないの?」
「ただ手を繋ぐんじゃなくて、お互いの利き手同士を繋ぐっていう意味なの。だから同じ利き手同士だとこのジンクスには当てはまらないの。あとお互いが利き手じゃない方で繋ぐのも」
僕は再び彼女と結ばれている手に視線を落とした。僕が繋がれているのは左手。でも利き手は右手なのだ。対して彼女はどうだったっけ? 確かさっきのかき氷、彼女は左手で掬って食べてたっけ? だとしたら……。
「わかったかな? だからこれでもうおしまい、だよ。私たちは結ばれない。迷惑かけちゃったね」
おしまい……。それは僕が彼女とあの橋の下で出会う前の関係に戻る合図だった。数日前に戻る、ただそれだけの話なのに……。
だけど、僕は簡単には消せない想いを抱いてしまった。関係が戻っても、僕の心はもう元には戻れない。
昨日自覚した彼女への想い。そしてそれは決して伝えてはいけない想い。人気者の彼女と自分とではきっと不釣り合いだから。それに彼女はお盆に友だちが帰省していなかったから、仕方なく僕を誘ったんだと言っていた。男の子と遊ぶわけだから恋人関係という設定の方がすんなりと事が進むと考えたのだろう。だから僕は彼女に言えない。本当は好きだなんて言えない。
手から彼女へと視線を移すと彼女は唇を青くしていた。肩は小刻みに震えていた。こんなに暑いのに彼女は寒そうだった。海に入って体をちゃんと拭かなかったのか、かき氷の食べ過ぎか。おそらく両者なのだろう。その時僕は思い出した。さっき返そうとしたカーディガンの存在に。
このカーディガンを返せば、この関係が本当に終わってしまうんだ。だけど目の前にいる彼女は寒そうにしている。僕は繋いでいた左手を彼女から離して鞄からそれを取り出した。
「これ返すね」
「うん」
彼女は頷いて僕からカーディガンを受け取った。だけど彼女はまた僕にそれを返して、腕を横に伸ばした。
「着せて?」
彼女は首を軽く傾げてそう言った。それは恋人としての最後のお願いを意味していた。
「わかった」
僕はカーディガンを彼女の腕に丁寧に通した。着終えるとそのカーディガンはやっぱり彼女にはぶかぶかだった。だけどそれも一つのファッションなのかなと思ってしまうくらいに彼女はそれを着こなしていた。
ありがとう、と呟いた彼女は海に背を向けて僕と視線を合わせないまま帰路へついた。立ち止まってできた彼女の足跡は海の波が遠くの沖へと連れて行った。
その日の夜、僕は由紀夫さんにメールを送信した。昨日の返信が来ていないことに疑問を抱きながらも文字を打ち終えると、扉からノックの音が聞こえた。それは2種類あった。2回叩く音と4回叩く音。
「入るよ?」
2人の声がハモった。正直、今は一人にしてほしいんだけどなぁ。だけど僕のそんな願いは虚しく、お母さんと香麦は遠慮の欠片もなく僕の部屋の扉を開けた。
「今日のデートどうだった?」
「別に」
「またまた照れちゃって」
2人して僕をからかってくるから、いい加減イラついてきた。そして思わず口走ってしまった。
「もう水島さんとは別れたから、ほっといてよ」
僕がその一言を放った瞬間、僕の部屋の空気が凍り付いたのを感じた。まるで僕の部屋だけに冬が訪れたかのように。
僕は2人の顔を見たくなくて、机を見るように下を向いていた。
「本当に?」
香麦が驚きを隠せていない声でそう呟いた。
その問いに僕は下を向いたまま小さく頷いた。すると香麦は悲しそうな顔をした。香麦には関係ないことなのに、どうしてそんな表情をするのだろう。そう不思議に思っていると……。
ピコンと電子音がこの部屋を支配した。見ると由紀夫さんからの返信メールが届いたのだ。
『昨日は返信できなくてごめんなさい。康成くん、いつもそのままの気持ちを顔も声も本性も知らない自分に打ち明けてくれて本当にありがとう。そんな康成くんにお願いがあります。断られることを承知でお願いがあります。明日会ってほしいの。ずっと想像してたんだ。いつもこうやってメッセージをやり取りする康成さんがどんな人なのか。でも実際に会ったことがないから、不審に思うのも仕方がないことだと思ってる。だから無理して会いに来なくてもいいの。待ち合わせ場所は前に康成さんがよく本を読みに来る場所だと書いてた永久橋の下の川のほとりでいいかな? 時間は午前11時。1時間、待ってます。』
すべての文を読み終えて、僕は息を飲んだ。今までずっとやり取りしてきた由紀夫さんに明日会える。棚に並べられている本に視線を移す。あの小説たちの生みの親に会えるんだ。
でも同時に恐怖心も僕の中には宿っていた。画面上の顔も声も本性も知らない人に会うのだ。インターネットが普及した現在、ネット上で知り合った人と実際に会って被害に遭うという事件が後を絶たない。由紀夫さんがそういう人だとは思ったことはないけど。だけど、どうして僕が本を読む場所のことを知っているのだろう。永久橋は全国にあるし、もしかしたら長いやり取りの中で知られたのかもしれない。
由紀夫さんに会いたいという好奇心と事件の被害者になるかもしれないという恐怖心が僕の脳内でバチバチに戦っている。どうしたらいいんだろう。由紀夫さんのことを信じたい。その気持ちはあるはずなのに……。自分の臆病さに呪いたくなった。脳内戦争に終止符を打てないでいると……。
「会いに行ったら?」
今まで一言も発していなかったお母さんが口を開いた。この発言をしたということは、お母さんはメールの文面を僕の後ろから読んでいたことになる。じゃあ、お母さんは僕の脳内の好奇心を応援するってこと?普通親はこういうの止めるものじゃないのだろうか。
正直今回のことは絶対に反対するものだと思ってた。
「お母さん、それ本気で言ってる? 会ったことないんだよ? 危ない目に遭うかもしれないんだよ?」
「だって、会いたいんでしょ。由紀夫さんに。だったら会いに行けばいいじゃない。私は反対しないよ」
私眠いからと言ってお母さんは眠そうな目を擦りながらドアへと向かい最後に頑張って、と言い残してそのドアの向こうへと姿を消した。
それに続いて香麦も部屋を出ようとしていた。そういえば……。
「香麦、そういえばこの間ファミレスでバニラアイスを食べたんだけど水島さんがそのアイスよりも香麦が作ったアイスの方が美味しかったって」
「えっ」
部屋の扉に手をかけていた香麦は振り返って、普段は見せない真剣な眼差しで僕を見つめていた。
「ねぇお兄ちゃん、本当に水島さんとお別れでいいの? お兄ちゃんの気持ちがわからないから何とも言えないけど、この数日のお兄ちゃん、楽しそうだったよ」
「もしかして、水島さんが倒れたあの日僕たちの様子をこっそり見てたの?」
「うん、見てたよ。ちょっとね。話の内容から恋人なんだって知った時は驚いたけど」
期間限定の恋人だということはバレてなかったみたいだけど、それなら香麦を誤魔化せきれなかったのにも納得がいく。
「それにね、人が作ったお菓子を美味しいねって褒めてくれる人に悪い人はいないんだよ。少なくとも香麦は見たことないなぁ。だからきっと水島さんはとっても素敵な人だと思うんだ」
香麦は微笑みながらそう言った。その笑顔が彼女と重なった。やっぱりちゃんと気持ちを伝えたい。どんなに不釣り合いであったとしても彼女に好きっていう思いを伝えたい。
「ありがとう、香麦。もう一度話してみるよ。もうすぐで学校だからそこで話そうと思う」
「もうすぐで学校⁉」
「そこに反応するんだ」
「だって全然宿題終わってないんだもん。お兄ちゃんが女の子連れて来たから勉強に集中できなくなったんだよ」
「人のせいにする人に良い人はいないと思うよ」
お母さんに告げ口した恨みも込めてそう言うと、香麦はほっぺを膨らませて踵を返した。
心配して損した、と言い残して香麦は少し強めに僕の部屋の扉を閉めた。そこまで怒らなくてもいいのに。だけど。
香麦が閉めた扉を見つめた。恐怖心が完全に無くなったわけじゃない。それでも明日由紀夫さんに会おうと思った。お母さんの言う通り僕は由紀夫さんに会いたかった。今まで綴られたきた文章から由紀夫さんのことを信じたかった。
それに、恋愛小説で有名になった由紀夫さんから水島さんに気持ちを伝えるためのヒントが得られるとも思ったのだ。
ベッドに体を預けると、この数日の疲れが津波のように僕の全身を襲い、深い夢の中へと連れて行った。