「映画面白かったね、川端くん」
 「うん、特に別れのシーンとか」
 「もしかして泣きそうになった?」
 「う〜ん、そこはノーコメントで」
 映画を観た後、近くのファミレスで食事をしながらさっき観た映画の感想を話し合った。ここのファミレスは期間限定で一品でも選べば、無料でジュースを飲めるというサービスを提供していた。
 今日の彼女は藍色のワンピースに、薄手のサイズの大きめなカーディガンを羽織っていた。ダボカジってやつかな?シンデレラは青いドレスを身に纏って王子様と踊るから彼女もそれに合わせてコーデを考えたのかもしれない。
 ふと窓を見ると、昨日とは打って変わって銀色の雨が街を濁らせていた。正直今までの暑さは異常だった。その異常な気温が続いた日々を過ごしてきた僕にとって雨はご褒美だった。だけどきっと彼女は雨よりも晴れのほうが好きなんだろうなと思った。窓に映る彼女の顔が少しばかり悲しそうだったから。
 彼女と言葉のキャッチボールをしていたら喉が渇いてきた。
 「ここのファミレス、この夏期間限定でジュース無料なのいいよね」
 僕は彼女が言った期間限定に反応した。僕と彼女は期間限定で恋人となっている。いまだに信じられていないところもあるけど、目の前で美味しそうにデザートのバニラアイスクリームを頬張っている彼女が、この不思議な状況を現実だと僕に教えてくれた。
 「このバニラアイス美味しいね。でも香麦ちゃんが作ってくれたバニラアイスのほうが美味しかったかも」
 「それ香麦に伝えたら絶対喜ぶよ」
 「じゃあ、ちゃんと伝えておいてね」
 「うん、そうするよ」
 オレンジジュースが無くなってきたのか、ストローからはジュルジュルと奇妙な音を立て始めていた。
 「あ~、もうなくなっちゃった……。またオレンジジュース入れに行かないと」
 「水島さんってオレンジジュース好きだよね」
 「うん、甘さと酸っぱさのバランスが絶妙なの!」
 「ふ~ん、あっ」
 自分のグラスに目をやると僕もジュースがないことに気が付いた。
 「何のジュース飲みたいか言ってくれれば僕が入れに行くけど?」
 席を立ってそう言うと、彼女は悩んだ素振りをして、じゃあ2人で行こう、と提案してきた。
 「別に座っててもよかったのに」
 この数日、彼女は自分の体に負担をかけすぎてしまっている気がする。ちゃんと寝ているとは言っているけど、彼女の目の下には薄っすらくまが見える。
 「だって、2人で何かをするのって恋人っぽいでしょ。それに川端くん一人にやらせるなんてさすがに申し訳ないよ」
 そう言って彼女はさっきまでオレンジジュースの入っていたグラスを持って立ち上がった。
 ドリンクバーは思ったより人が並んでいて、僕たちの後ろにもそれなりの列ができていた。やがて僕たちの順番が回ってくると、彼女を先にドリンクバーへと誘導させた。彼女はさっきと同じようにオレンジジュースを入れていた。
 ちょっと入れすぎなんじゃないかな、と僕が指摘しようとしたその瞬間、通りすがりのおばさんにぶつかってしまい、オレンジジュースが宙を舞った。そしてその液体は僕の真っ白なTシャツに不時着してしまった。
 不幸中の幸いってやつなのか、ズボンや靴は無傷で済んだみたいだった。それでも、Tシャツはかなりの広い面積をオレンジ色が占めていた。だけど、それよりも心配になったのは彼女だった。
 彼女は顔を真っ青にさせて半分以下の量のオレンジジュースが注がれたグラスを持ちながら今もなお、僕のTシャツに広がり続けるオレンジ色を見つめていた。
 「ごめんなさい」
 おばさんは僕たちに頭を下げていた。
 「いえいえ、そんなにお気になさらいでください」
 僕の様子を見てホッとしたのか、もう一度頭を下げておばさんはこの場を去った。
 「ごめん、ごめんなさい。川端くんのTシャツが……」
 「だから大丈夫だって。それよりとりあえず後ろ結構並んでるから席に戻ろ?」
 席に戻る途中周りの視線が僕のTシャツに注目しているのを感じて恥ずかしさでいっぱいになった。
 席に戻ると自分の鞄から急いでティッシュを取り出して白色に侵略しようとするオレンジを食い止めた。すると、彼女もティッシュを持って僕の席に近づき拭いてくれようとした。
 「僕のティッシュで足りると思うから水島さんまで拭かなくてもいいよ」
 「私のせいで服汚しちゃったから、拭かないわけにはいかないよ」
 そう言って彼女は僕の服を拭き始めていた。彼女との距離の近さに昨日の現象がまた再発した。
 一生懸命に彼女が僕のTシャツを拭いてくれている。だけど、どれだけ拭いてもオレンジ色は自分たちの陣地を撤退する気はなかったようだ。それどころか、さっきよりもオレンジ色の面積が広くなったような気さえした。そのことに気づいたのか彼女はTシャツを拭く手を止めて、全然取れない、と呟いた。
 それから彼女は俯いてただ汚れた僕のTシャツを見つめていた。まだそこまで彼女と過ごしてきていない僕でも彼女が落ち込んでいることは明らかだとわかった。
 「大丈夫だから。こういうTシャツいくらでもあるから」
 「でも…………」
 ファミレスの中は人々の会話やBGMで音が満ちているはずなのに僕たちの席だけが夜の海岸のように静まり返っていた。
 どのくらい続いたのだろう。僕たちの空間を賑わいを取り戻す真昼の海岸にしたのは彼女のほうだった。また彼女から沈黙は破られたのだ。
 「じゃあ、今から買いに行こうか! 川端くんのTシャツ」
 「えっ」
 「ちょうど午後はこの辺り回ろって話だったじゃん。そこに服を買うっていう予定も入れて。あっ、もちろん私が責任を持って支払うから」
 「そんなことしなくても……」
 「もう決まったの」
 そんなこと勝手に決められても困るよ。彼女の強引さには毎度参ってしまう。
 「それに、さっき周りの人に汚れたTシャツ見られて恥ずかしそうにしてたの知ってるよ。これからデパート中回るわけだから、このファミレスの比じゃないよ」
 「でも服買うにしても外に出なきゃいけないからどっちみち見られちゃうよ」
 そう言うと彼女は口角を上げて微笑み、纏っていた白いカーディガンを脱いで僕に渡してきた。
 「これ着て。女性用だからちょっときついかもしれないけど、川端くん男の子にしては華奢だから多分大丈夫だと思うよ」
 「いや……、でも……」
 「いいから早く着て行こうよ」
 僕は無理矢理に渡そうとする彼女のカーディガンを受け取った。彼女には少し大きいような気がしたから僕が着るとちょうどよかった。Tシャツの汚れた部分もちょうどカーディガンに見えなくなった。
 彼女は僕の向かい側の席に戻ってさっき零して残ったオレンジジュースを一気に飲み干し、「早くしないと私が全部会計しちゃうよ」と言いながらレジの方へ向かってしまった。
 全部払わせるのはまずい。彼女から受け取ったカーディガンはまだ彼女の温もりが残っていて頬が熱くなるのを感じた。きっとカーディガンを着ているから火照っているのだろう。彼女のカーディガンから溢れる温かさに包まれながら僕はレジへ向かう足を速めた。

 「う~ん、違うなぁ~」
 僕たちはデパート内のあらゆる服屋を回っていたのだが、彼女いわくなかなか僕に似合う服が見つからないらしい。僕は服装に無頓着だからそういうのわからないけど……。だけど彼女が僕のために妥協せず服を選んでくれるのは正直嬉しい。
 「これどうかな?」
 形やデザイン、サイズとしては僕が今着ている白いTシャツと変わらないが、それは白藍色をしていた。
 「これ涼しそうだから今の暑い夏にいいかなって。それに一昨日アルバムでその服装の川端くんがいっぱい写ってたし、どれも似合ってたなって」
 確かに子どもの頃は青っぽい服を着ていた気がする。まぁ、お母さんが青を好きだったっていうのもあるけど。青い服を着るといつもお母さんが似合うねって褒めてくれたんだっけ。でもいつからか、僕は白か黒かグレーといった誰でも似合う服を着るようになっていた。周りの目を気にしてしまう性格だからクラスメイトが大人っぽい服を着るようになってからだと思う。
 お母さんのお世辞かもしれないし、お世辞じゃなかったとしても子どもの頃みたいに似合う保証なんてどこにもない。でも彼女が手に持っている服を僕は一目見て着てみたいと思ってしまった。
 「じゃあ、着てみようかな」

 駅に向かおうとする彼女とバス停に向かおうとする僕は別れ道まで雨の中を歩いた。偶然にも二人とも同じ緑色の傘を差していた。
 腕に違和感がある。服の重さで腕が引っ張られている感覚。
 「本当にこの服もらってもいいの?」
 結局彼女の押しに負けて僕はさっき選んでもらった白藍色のTシャツを支払ってもらってしまった。また彼女に余計な負担をさせてしまった。僕は果たしてあの時誓った償いをできているのだろうか。もう明日で償いのために築いた関係も終わってしまうというのに。僕はもしかしたらこの雨の音に負けてしまうくらい小さな声でぽつりと言葉を紡いだ。
 「僕はちゃんと償えているのかな。明日で最後なのに、このままでいいのかなって……」
 「川端くんはこの数日間楽かった?」
 「……うん、楽しかったよ。」
 「なら、いいじゃん。私も楽しかったよ。償いなんてもう気にしないで、明日が最後なんだから」
 彼女は眉を下げながらも笑みを浮かべていた。どうしてなのだろう、今度は胸に棘が刺さったような痛みを感じた。そんな顔をしないでほしい。
 「川端くん、もうちょっと傘近づけて」
 彼女の意図がわからなかったが、とりあえず近づけてみることにした。
 「もっと近づけて。くっつけてほしいの」
 またも注文を押し付けてくる彼女に仕方なく傘をくっつけてみると何かに似たものが出現した。
 「芽みたいでしょ。まだ土から出てきたばっかりの」
 「ほんとだ」
 何かに似ていると思ったら、芽だった。こんなに雨に打たれていたらどこまでもその芽が伸びる気がした。そして同時に思ってしまった。この彼女と過ごした日々が植物の芽のようにいつまでも続いてほしいと。
 僕たちは傘同士をくっつけながらしばらくその芽を眺めていた。
 「明日は海に行きたいなぁ。あと現地集合じゃなくて川端くんの家に集合でいい?」
 彼女はいつも通り、明日の約束を取り付けてきた。
 「何で現地集合じゃないの? 交通機関で直接向かえば早く海に着くと思うんだけど」
 「たまには2人でデートスポットに向かうのもいいかなって。それとも私と行くの嫌?」
 たまにはってまだ数日しかデートに行ってないし、そういう風な言い方は正直ずるいと思った。
 「水島さんがそうしたいなら別に反対したりしないよ」
 そう言うと、彼女は雨をやますことができるのではないかと思うくらいに笑顔を輝かせた。雨雲に隠れた太陽はきっと彼女の笑顔のようにキラキラ輝いている気がした。
 
 バスはものすごいスピードで僕を彼女から遠ざけていく。
 明日で終わるんだ、この関係は。最初は償いのためだと思っていたのに。どうして僕の気持ちはこんなにも沈んでいるのだろう。気候で表すと間違いなく僕の心は今みたいな雨模様だと思う。
 だけど、このシチュエーションどこかで観たことがある気がする。何だっけ?
 思考を巡らせると、あることが頭に浮かんだ。そうだ、今日観た『透明な恋』だ。主人公は言っていた。大好きな人と別れる時に気持ちがとても沈むこと。そしてそれほどまでに悲しむことは別れた相手に好意を抱いているということ。
 そうだったんだ。僕は知らない間に彼女のことを好きになってしまったんだ。いや、もしかしたら僕はどこかでそれを知っていたのかもしれない。
 だけど……。彼女はクラスの人気者だ。彼女に好意を抱いている人はたくさんいる。僕の入る隙なんてきっとない。
 それなのに、僕は気づいてしまったこの気持ちをどう消すか考えたくなかった。こんな時こそ。
 僕はメールを送った。本当に今付き合っている女の子を好きになってしまったこと。だけどその関係は明日で終わってしまうこと。彼女は僕と違って好いている人が多いこと。
 僕は一番の相談相手である由紀夫さんにメールを送信した。由紀夫さんを困らせることは承知の上だった。だけど聴いてほしかった。知ってほしかった。僕のこの気持ちを。
 雨は激しくバスの窓を叩いていた。その勢いで僕が抱いてしまったこの気持ちも洗い流してくれればいいのに。