翌日、天気予報で猛暑日になるというアナウンスに自然と足が竦んだ。やっぱり行きたくない。もしかしたら暑すぎて彼女もあそこに来ていないかもしれない。だけど僕には水代を返すという責任があるから行かなければならない。
ピコン、と電子音が鳴った。バーには『由紀夫』と表示されていた。そういえば昨日返事が来てなかったな。
『昨日は返信できなくてごめん。熱中症大変だったね。だけどびっくりした。真面目な康成さんがお財布忘れるんだね。あと康成さんにいきなり告白してきた女の子、面白い人だね。告白受けてみればいいのに。やっぱり康成さんの恋バナはまだ聞けなさそうだね。残念〜』
今日の由紀夫さん元気だなぁ。かなりからかってる。だけどちゃんと僕の心配もしてくれている。もう五年以上、メール交換を続けているから僕が年下なのもきっとどこかの文面でバレているんだと思う。由紀夫さんの文面は優しい。メールも小説もその文を読んだだけでいつの間にか温かい気持ちになっている。だからきっと僕は由紀夫さんのファンになったんだ。
由紀夫さんのメールを読んでいたら、新作の小説も読みたくなってきた。やっぱりあの場所へ行って彼女との約束を守ろう、そして由紀夫さんの新作の続きを読もうと思い立った。
家を出ようと靴を履いていると、突然騒がしい声が僕のすぐ背後で聞こえてきた。
「お兄ちゃん、大変だよ大変! 今アイスクリーム作ってるんだけどバニラビーンズがないの。だからお願い、買ってきて」
そう声を荒げていたのは妹の香麦だった。
「でもお兄ちゃん、待たせている人いるから早く行かないといけないんだよね」
「そっかぁ……」
小麦は心底ショックそうなため息を一つした。妹の落ち込んだ姿に僕は弱い。それにもし僕が断れば、小麦は1人でバニラビーンズを買いに行くだろう。だけど今日は昨日より一段階気温が高い。そんな炎天下の中を歩かせるわけにはいかない。だから仕方ない……。
「やっぱり、お兄ちゃんが行くよ。欲しいのはバニラビーンズだけ?」
その瞬間小麦は夏に咲くひまわりのように笑顔を輝かせた。
急いで行けばきっと間に合う。それに彼女はかなり時間にルーズなほうだ。学校で週に数回は遅刻してくるのを僕は知っている。まぁ、多少遅れても大丈夫だろう。
「でもお兄ちゃん用事あるんでしょ?」
少し眉を下げて心配そうに尋ねる香麦の頭をポンポンと撫でて、「大丈夫、すぐ終わらせるから。その代わり美味しいアイス作ってね」
「もちろん! 楽しみにしててね」
いってきます、と玄関の扉を開けながら言うと、「いってらっしゃ~い」と香麦の可愛らしい高い声が後ろから聞こえてきた。
どうしよう。もう待ち合わせの時間を30分も過ぎている。今日は何かの安売りセールなのか、お店には多くの人がいて、レジの前も当然のようにたくさんのお客さんが並んでいた。今は香麦に無事バニラビーンズを届けて彼女との約束の場所へと向かっていた。
どうかいつものように遅れていてほしい。そう願いながら僕はひたすらにペダルを漕いだ。
ペダルを漕ぐたびに熱風が僕の顔を襲ってきた。でも行かないと。彼女に水代を返さないと。そんな願いと責任感だけが今の僕の原動力だった。そして僕はようやく見覚えのある赤いボックスを見つけた。
自動販売機だ。炎天下の中買われることを静かに待っている飲み物たちに近づき、昨日彼女からもらった水を購入すると、待ってましたとばかりに天然水はガタン、と下へ落ちてきた。自転車へと戻りながら僕はその冷たい水を口にした。よく冷えた水は昨日ほどではないが、熱風によって負ったダメージを回復させてくれた。
やがてあの場所が見えてきた。だが、様子がおかしかった。30~40代くらいの女性たちがあの場所でたむろしていたのだ。一瞬彼女の姿が見えなかった。やっぱり遅れてきたのかと思いかけたその時、橋の脇に誰かが立っているのが見えた。近づいた時僕は言葉を失った。
そこには水島さんがいた。しかもかなり前からここにいたのか、彼女は顔を真っ赤にさせ、大量の汗が額から頬を伝い涙のように零れ落ちていた。それに彼女の体が揺らいでいるような……。
「川端くん」
彼女は虚ろな目で僕を見つめていた。これはとんでもなくまずい状況なのでは、と僕は咄嗟に悟った。
「いつから待ってたの?」
どうか今来たばっかりだと言ってほしかった。でも彼女の様子を見ればそうではないことは容易に理解できてしまう。
「5分前」
一瞬ほっとしてしまった僕を後の僕はきっと呪うだろう。
「待ち合わせの5分前だから9時55分からここで待ってたよ……っはぁはぁ」
まずいどころの状況じゃない。今の彼女はきっと昨日の僕よりも重篤な熱中症に侵されている。僕が待たせてしまったから、僕のせいで……。
「ごめん……。僕が遅れたから」
だけど彼女は僕のことを咎めなかった。それどころか彼女は昨日のような笑みを僕に向けた。
「あり……がとう、来てくれて……。正直来ないと思ってた……から。昨日あんなこと言っちゃったから……」
最後の言葉を言い終えるのと同時に、彼女は遂にバランスを崩して倒れてしまいそうになった。
僕は咄嗟に彼女に駆け寄って肩と背中を支え、お姫様抱っこをしていた。
「水島さん……水島さん」
はぁはぁ、と彼女は荒い呼吸を繰り返していた。水代も小説を読むこともこの際どうでもいい。こうなったら手段は1つしかない。僕は彼女を家へ連れて行くことを決意した。
僕は彼女をお姫様抱っこしながら自転車へと向かった。
家に着くと、後ろに乗せた彼女をおんぶしながら玄関の扉を開けた。
「おかえり、随分と早かったね」
階段の方から香麦の声が聞こえた。
そしてこちらに来ると、香麦は驚いた顔をしていた。そのはずだろう。女の子の名前なんか1度も出したことがないお兄ちゃんが女子高生をおんぶしているのだから。
「香麦、この人多分熱中症になってるから、氷枕と冷えシート持ってきて。お父さんの部屋で寝かせるから」
そう言うと香麦はさらに驚いた顔をしながら僕の指示に従ってくれた。
僕はお父さんの部屋まで彼女を連れていき、クーラーを稼働させて彼女を布団の上に寝かせた。
お父さんは仕事の都合で海外にいる。もう何年も会ってない。だけどずっと帰って来ないお父さんに苛立ちを感じたことはなかった。むしろ自分の夢を追い求める姿に尊敬すら感じることもある。だけど同時に不安もある。僕たちのことを忘れてしまっているのではないかと。
昔お父さんが寝ていたベッドには頬を赤くしてぐったりと寝ている彼女がいた。
「川端くん?」
一通り処置を終えた今、彼女は意識を取り戻した。視線を彼女に移すと半開きの瞳が弱々しくも真っ直ぐに僕を捉えていた。
「私、あの橋の下で川端くんを待ってて……それで川端くんが来た気が……。どうしよう、その後のこと何も覚えてない」
「そんなの当たり前だよ。僕が来た途端に倒れたんだから」
僕の言葉に半開きだった彼女の瞳は月が満ちたかのように丸くなっていた。
そして今まで倒れていたのに彼女は笑顔で僕を見つめていた。
「ごめんね、迷惑かけて」
初めて聞いた彼女の弱々しい声に僕は動揺してしまった。その声はあまりにも彼女に似合わない響きだった。そしてその言葉は今の彼女が言うべきものではない。
「違う。水島さんは何も迷惑なんてかけてないよ。僕が時間通りに来なかったから……約束を守らなかったから……」
しばらく気まずい沈黙が続いた。だけどその沈黙は彼女の次の一声で破られた。思えば沈黙はいつだって彼女から破っている気がする。まぁ、いつだってと言っても昨日のことだけど。
「本当にごめんね……。助けてくれてありがとう。これでお互い様だね。私元気になったからもう帰るね」
だけどまだ彼女の顔は赤くて、医者じゃない僕でも回復しているようには見えなかった。このまま彼女を帰してしまってもいいのだろうか?
空ではまだ太陽が人々に猛暑日といういらないプレゼントを贈り続けていた。もしこんな中帰らせてしまったら彼女はきっとまた倒れてしまう。
僕はベッドから起き上がろうとしている彼女の肩を手で押さえた。
「今はまだ寝てて、お願いだから。きっとまだ万全な状態じゃないと思うから」
彼女は下を向いて、自分の指に視線を置いた。
「でも、それって川端くんが困るでしょ?」
確かに昨日あんなこと言われて動揺していたのは事実だ。だけど僕は彼女の命を危険に晒してしまった。それはきっととてつもなく大きな罪だ。だって僕が昨日あんな断り方をしなければ彼女が倒れることはなかったから。
僕はその罪を償わなければいけない。思い付くことは一つしかなかった。僕が彼女にできる償い。それは……。
「困らないよ。それに、むしろ償いをさせてほしいんだ」
「償い?」
「お盆の間だけ、本当にお盆の間だけ水島さんの彼氏になるよ」
下を向いてた彼女はすぐに顔を上げて再び満月のように目を丸くして僕を見つめていた。
彼女を傷つけてしまった代償はきっと大きい。だから昨日の彼女の提案を受けて少しでも彼女への償いができればと、そう思ったんだ。
「そんないいよ、償いなんて。本当に大丈夫だよ?」
「水島さんが大丈夫でも僕はそうじゃないんだよ。水島さんを熱中症にさせたのは紛れもなく僕だから」
それしか思いつかなかったから。僕が彼女にしてあげられること。
彼女はベッドの目の前にある本棚の方をしばらく見つめ、やがて首と視線をこちらへゆっくり向けた。
「わかった。でも本当に良いの?」
「うん、お盆だけでしょ。それに僕もお盆は暇だったから」
これは本当の話。我が家はお盆に帰省するということをあまりしてこなかった。まぁ、お父さんのことがあるからなぁ。
それを聞いた彼女は小さく頷き、やがて昨日のような明るい笑顔を見せた。今日初めて見た彼女の満面の笑顔。
あれ、今血の流れが早くなったような……。
不思議な感覚に溺れていると、彼女はその笑顔のまま言葉を紡いだ。
「じゃあ、今日から4日間よろしくね」
文字を打ち終えた時、ちょっと長すぎたかもしれないと思った。だけど僕は今日のことを由紀夫さんに聞いてほしかった。香麦やお母さんには照れ臭くて話せないこと。お父さんがいたらもしかしたら打ち明けていたかもしれないこと。
年上に聴いてもらえるという安心感と顔が見えない遠い存在だからこそ僕は由紀夫さんに何でも相談できている気がする。
ピコン。
『嬉しいなぁ〜♪ 遂に康成さんから恋バナが聴けて。じゃあ、明日は初めてその女の子とデートするんだ。図書館だっけ? 読書家の康成さんならその女の子にお薦めの本とか紹介しちゃってエスコートできること間違いなしだね。明日デートどうだったか教えてね』
そう、僕たちはあの後デートの約束をした。途中でまた彼女が倒れてしまうことを危惧して僕は太陽が沈むくらいまで家にとめていた。
それまでは香麦が作ってくれたバニラアイスクリームを食べたり、お互いの趣味の話をしたりした。意外にも彼女は読書が好きだということが判明した。
突然連れてきた女の子を香麦に誤魔化すのが大変だったけど人助けで連れてきたんだよ、と説得したら何とか納得してもらえた。そして帰る直前に彼女は明日のデートを取り付けてきたのだった。
明日と言われれば突然かもしれないけれど、僕たちの恋人期間はお盆の4日間。しかも今日でお盆の1日目は終わってしまったのだ。
残りの3日間を無駄にしたくない、と彼女はきっと思っているからこそ明日にデートを取り付けたのだと思う。僕もそのデートの中で彼女への償いをしなければ。
そんな経緯を由紀夫さんに伝えたのだ。もちろん名前とか個人情報は伏せてあるけど。
それにしても、由紀夫さんは恋バナ好きだなぁ。もしかしたら今まで名前で男性って判断してたけど、最近のやり取りから実は由紀夫さんは女性何じゃないかと思い始めている。
まぁ、でもお母さん的な感じで話を聴いてもらえるのは悪い気はしない。本当にお母さんだったら恥ずかしい内容ではあるけれど。
空はもう夜の帳が下りていて、運悪く星が見えない夜だった。まぁ、この地域ではあんまり星は見えないから珍しくはないんだけど。それは僕たちの期限付きの恋人という曖昧な関係性に似た空模様だった。
ピコン、と電子音が鳴った。バーには『由紀夫』と表示されていた。そういえば昨日返事が来てなかったな。
『昨日は返信できなくてごめん。熱中症大変だったね。だけどびっくりした。真面目な康成さんがお財布忘れるんだね。あと康成さんにいきなり告白してきた女の子、面白い人だね。告白受けてみればいいのに。やっぱり康成さんの恋バナはまだ聞けなさそうだね。残念〜』
今日の由紀夫さん元気だなぁ。かなりからかってる。だけどちゃんと僕の心配もしてくれている。もう五年以上、メール交換を続けているから僕が年下なのもきっとどこかの文面でバレているんだと思う。由紀夫さんの文面は優しい。メールも小説もその文を読んだだけでいつの間にか温かい気持ちになっている。だからきっと僕は由紀夫さんのファンになったんだ。
由紀夫さんのメールを読んでいたら、新作の小説も読みたくなってきた。やっぱりあの場所へ行って彼女との約束を守ろう、そして由紀夫さんの新作の続きを読もうと思い立った。
家を出ようと靴を履いていると、突然騒がしい声が僕のすぐ背後で聞こえてきた。
「お兄ちゃん、大変だよ大変! 今アイスクリーム作ってるんだけどバニラビーンズがないの。だからお願い、買ってきて」
そう声を荒げていたのは妹の香麦だった。
「でもお兄ちゃん、待たせている人いるから早く行かないといけないんだよね」
「そっかぁ……」
小麦は心底ショックそうなため息を一つした。妹の落ち込んだ姿に僕は弱い。それにもし僕が断れば、小麦は1人でバニラビーンズを買いに行くだろう。だけど今日は昨日より一段階気温が高い。そんな炎天下の中を歩かせるわけにはいかない。だから仕方ない……。
「やっぱり、お兄ちゃんが行くよ。欲しいのはバニラビーンズだけ?」
その瞬間小麦は夏に咲くひまわりのように笑顔を輝かせた。
急いで行けばきっと間に合う。それに彼女はかなり時間にルーズなほうだ。学校で週に数回は遅刻してくるのを僕は知っている。まぁ、多少遅れても大丈夫だろう。
「でもお兄ちゃん用事あるんでしょ?」
少し眉を下げて心配そうに尋ねる香麦の頭をポンポンと撫でて、「大丈夫、すぐ終わらせるから。その代わり美味しいアイス作ってね」
「もちろん! 楽しみにしててね」
いってきます、と玄関の扉を開けながら言うと、「いってらっしゃ~い」と香麦の可愛らしい高い声が後ろから聞こえてきた。
どうしよう。もう待ち合わせの時間を30分も過ぎている。今日は何かの安売りセールなのか、お店には多くの人がいて、レジの前も当然のようにたくさんのお客さんが並んでいた。今は香麦に無事バニラビーンズを届けて彼女との約束の場所へと向かっていた。
どうかいつものように遅れていてほしい。そう願いながら僕はひたすらにペダルを漕いだ。
ペダルを漕ぐたびに熱風が僕の顔を襲ってきた。でも行かないと。彼女に水代を返さないと。そんな願いと責任感だけが今の僕の原動力だった。そして僕はようやく見覚えのある赤いボックスを見つけた。
自動販売機だ。炎天下の中買われることを静かに待っている飲み物たちに近づき、昨日彼女からもらった水を購入すると、待ってましたとばかりに天然水はガタン、と下へ落ちてきた。自転車へと戻りながら僕はその冷たい水を口にした。よく冷えた水は昨日ほどではないが、熱風によって負ったダメージを回復させてくれた。
やがてあの場所が見えてきた。だが、様子がおかしかった。30~40代くらいの女性たちがあの場所でたむろしていたのだ。一瞬彼女の姿が見えなかった。やっぱり遅れてきたのかと思いかけたその時、橋の脇に誰かが立っているのが見えた。近づいた時僕は言葉を失った。
そこには水島さんがいた。しかもかなり前からここにいたのか、彼女は顔を真っ赤にさせ、大量の汗が額から頬を伝い涙のように零れ落ちていた。それに彼女の体が揺らいでいるような……。
「川端くん」
彼女は虚ろな目で僕を見つめていた。これはとんでもなくまずい状況なのでは、と僕は咄嗟に悟った。
「いつから待ってたの?」
どうか今来たばっかりだと言ってほしかった。でも彼女の様子を見ればそうではないことは容易に理解できてしまう。
「5分前」
一瞬ほっとしてしまった僕を後の僕はきっと呪うだろう。
「待ち合わせの5分前だから9時55分からここで待ってたよ……っはぁはぁ」
まずいどころの状況じゃない。今の彼女はきっと昨日の僕よりも重篤な熱中症に侵されている。僕が待たせてしまったから、僕のせいで……。
「ごめん……。僕が遅れたから」
だけど彼女は僕のことを咎めなかった。それどころか彼女は昨日のような笑みを僕に向けた。
「あり……がとう、来てくれて……。正直来ないと思ってた……から。昨日あんなこと言っちゃったから……」
最後の言葉を言い終えるのと同時に、彼女は遂にバランスを崩して倒れてしまいそうになった。
僕は咄嗟に彼女に駆け寄って肩と背中を支え、お姫様抱っこをしていた。
「水島さん……水島さん」
はぁはぁ、と彼女は荒い呼吸を繰り返していた。水代も小説を読むこともこの際どうでもいい。こうなったら手段は1つしかない。僕は彼女を家へ連れて行くことを決意した。
僕は彼女をお姫様抱っこしながら自転車へと向かった。
家に着くと、後ろに乗せた彼女をおんぶしながら玄関の扉を開けた。
「おかえり、随分と早かったね」
階段の方から香麦の声が聞こえた。
そしてこちらに来ると、香麦は驚いた顔をしていた。そのはずだろう。女の子の名前なんか1度も出したことがないお兄ちゃんが女子高生をおんぶしているのだから。
「香麦、この人多分熱中症になってるから、氷枕と冷えシート持ってきて。お父さんの部屋で寝かせるから」
そう言うと香麦はさらに驚いた顔をしながら僕の指示に従ってくれた。
僕はお父さんの部屋まで彼女を連れていき、クーラーを稼働させて彼女を布団の上に寝かせた。
お父さんは仕事の都合で海外にいる。もう何年も会ってない。だけどずっと帰って来ないお父さんに苛立ちを感じたことはなかった。むしろ自分の夢を追い求める姿に尊敬すら感じることもある。だけど同時に不安もある。僕たちのことを忘れてしまっているのではないかと。
昔お父さんが寝ていたベッドには頬を赤くしてぐったりと寝ている彼女がいた。
「川端くん?」
一通り処置を終えた今、彼女は意識を取り戻した。視線を彼女に移すと半開きの瞳が弱々しくも真っ直ぐに僕を捉えていた。
「私、あの橋の下で川端くんを待ってて……それで川端くんが来た気が……。どうしよう、その後のこと何も覚えてない」
「そんなの当たり前だよ。僕が来た途端に倒れたんだから」
僕の言葉に半開きだった彼女の瞳は月が満ちたかのように丸くなっていた。
そして今まで倒れていたのに彼女は笑顔で僕を見つめていた。
「ごめんね、迷惑かけて」
初めて聞いた彼女の弱々しい声に僕は動揺してしまった。その声はあまりにも彼女に似合わない響きだった。そしてその言葉は今の彼女が言うべきものではない。
「違う。水島さんは何も迷惑なんてかけてないよ。僕が時間通りに来なかったから……約束を守らなかったから……」
しばらく気まずい沈黙が続いた。だけどその沈黙は彼女の次の一声で破られた。思えば沈黙はいつだって彼女から破っている気がする。まぁ、いつだってと言っても昨日のことだけど。
「本当にごめんね……。助けてくれてありがとう。これでお互い様だね。私元気になったからもう帰るね」
だけどまだ彼女の顔は赤くて、医者じゃない僕でも回復しているようには見えなかった。このまま彼女を帰してしまってもいいのだろうか?
空ではまだ太陽が人々に猛暑日といういらないプレゼントを贈り続けていた。もしこんな中帰らせてしまったら彼女はきっとまた倒れてしまう。
僕はベッドから起き上がろうとしている彼女の肩を手で押さえた。
「今はまだ寝てて、お願いだから。きっとまだ万全な状態じゃないと思うから」
彼女は下を向いて、自分の指に視線を置いた。
「でも、それって川端くんが困るでしょ?」
確かに昨日あんなこと言われて動揺していたのは事実だ。だけど僕は彼女の命を危険に晒してしまった。それはきっととてつもなく大きな罪だ。だって僕が昨日あんな断り方をしなければ彼女が倒れることはなかったから。
僕はその罪を償わなければいけない。思い付くことは一つしかなかった。僕が彼女にできる償い。それは……。
「困らないよ。それに、むしろ償いをさせてほしいんだ」
「償い?」
「お盆の間だけ、本当にお盆の間だけ水島さんの彼氏になるよ」
下を向いてた彼女はすぐに顔を上げて再び満月のように目を丸くして僕を見つめていた。
彼女を傷つけてしまった代償はきっと大きい。だから昨日の彼女の提案を受けて少しでも彼女への償いができればと、そう思ったんだ。
「そんないいよ、償いなんて。本当に大丈夫だよ?」
「水島さんが大丈夫でも僕はそうじゃないんだよ。水島さんを熱中症にさせたのは紛れもなく僕だから」
それしか思いつかなかったから。僕が彼女にしてあげられること。
彼女はベッドの目の前にある本棚の方をしばらく見つめ、やがて首と視線をこちらへゆっくり向けた。
「わかった。でも本当に良いの?」
「うん、お盆だけでしょ。それに僕もお盆は暇だったから」
これは本当の話。我が家はお盆に帰省するということをあまりしてこなかった。まぁ、お父さんのことがあるからなぁ。
それを聞いた彼女は小さく頷き、やがて昨日のような明るい笑顔を見せた。今日初めて見た彼女の満面の笑顔。
あれ、今血の流れが早くなったような……。
不思議な感覚に溺れていると、彼女はその笑顔のまま言葉を紡いだ。
「じゃあ、今日から4日間よろしくね」
文字を打ち終えた時、ちょっと長すぎたかもしれないと思った。だけど僕は今日のことを由紀夫さんに聞いてほしかった。香麦やお母さんには照れ臭くて話せないこと。お父さんがいたらもしかしたら打ち明けていたかもしれないこと。
年上に聴いてもらえるという安心感と顔が見えない遠い存在だからこそ僕は由紀夫さんに何でも相談できている気がする。
ピコン。
『嬉しいなぁ〜♪ 遂に康成さんから恋バナが聴けて。じゃあ、明日は初めてその女の子とデートするんだ。図書館だっけ? 読書家の康成さんならその女の子にお薦めの本とか紹介しちゃってエスコートできること間違いなしだね。明日デートどうだったか教えてね』
そう、僕たちはあの後デートの約束をした。途中でまた彼女が倒れてしまうことを危惧して僕は太陽が沈むくらいまで家にとめていた。
それまでは香麦が作ってくれたバニラアイスクリームを食べたり、お互いの趣味の話をしたりした。意外にも彼女は読書が好きだということが判明した。
突然連れてきた女の子を香麦に誤魔化すのが大変だったけど人助けで連れてきたんだよ、と説得したら何とか納得してもらえた。そして帰る直前に彼女は明日のデートを取り付けてきたのだった。
明日と言われれば突然かもしれないけれど、僕たちの恋人期間はお盆の4日間。しかも今日でお盆の1日目は終わってしまったのだ。
残りの3日間を無駄にしたくない、と彼女はきっと思っているからこそ明日にデートを取り付けたのだと思う。僕もそのデートの中で彼女への償いをしなければ。
そんな経緯を由紀夫さんに伝えたのだ。もちろん名前とか個人情報は伏せてあるけど。
それにしても、由紀夫さんは恋バナ好きだなぁ。もしかしたら今まで名前で男性って判断してたけど、最近のやり取りから実は由紀夫さんは女性何じゃないかと思い始めている。
まぁ、でもお母さん的な感じで話を聴いてもらえるのは悪い気はしない。本当にお母さんだったら恥ずかしい内容ではあるけれど。
空はもう夜の帳が下りていて、運悪く星が見えない夜だった。まぁ、この地域ではあんまり星は見えないから珍しくはないんだけど。それは僕たちの期限付きの恋人という曖昧な関係性に似た空模様だった。