「どうだっていいから、気にしない」
俺はそういうのに興味がない。
理由はわからないけれど、俺は今、そんなものがなくても充実している。
陽太と話すこと、下校する時に本屋に寄り道すること、本を読むこと。
それで十分なのだ。
「ま、蒼真はそっか」
今日も、そんないつも通りの生活をしながら、時間は過ぎていった。
放課後になるまでは。
俺は陽太と別れ、本屋に寄った。
毎週水曜日、下校中に三十分本屋にいる。
それが俺の習慣である。
落ち着いたクラシックが流れる店内は、本の匂いがする。
特に何か買いたいものを求めて来るわけではない。ただ、いい本があるか、掘り出したいだけだ。
「あ、藤月の新刊出てる…」
藤月、という今話題のミステリー作家の新刊が出ていた。
その本を手に取ろうとした、その時だった。
「藤月、お好きなんですか?」
ひょこっ、と、女性の店員さんが顔を覗かせてきた。肩にかかったナチュラルな色の髪の毛が、色素の薄い目と合って、すごく優しい感じがした。
「あ…、好き、というか、少し気になって」
ぎこちない言い方になってしまって、なぜか急いでその本を本棚から引き出す。
「おもしろいですよ、藤月。最近はどこかの小説賞の受賞候補になったみたいで、特に人気が出てきてますから」
「へぇ…」
薄いリアクションしかできないけれど、俺が驚いていたのは、この店員さんの本への思いの凄さだった。
店員さんからすらすらと出てくる言葉は、どれも正確なもので、それだけ本への思いが強いのかが、よくわかった。
「藤月はミステリーを書くけれど、それが主に書かれている感じじゃないんですよね。恋愛を主に書かれているけれど、少しミステリー要素が入っている、というように感じても、藤月の場合は、その少しのミステリー要素の内容やからくりが、ほかの作家さんに比べて、格段に濃い。きっとそれが、私たち読者にとって、藤月にハマる鍵なんでしょうね」
生き生きと話していた店員さんと目が合った途端に、店員さんの瞳が揺れた。
「…何ですか?」
俺は何かついているのかと思い、髪の毛を触ってみた。
すると、店員さんに勢いよく手を握られた。そして、
「…そうまくん!!やっぱり、そうまくんだよね!!私だよ、覚えてる!?」
…は?
どうしてか、店員さんは、俺の名前を知っていた。
「え、いや、覚えてないです」
全く覚えていない、と思い、できる限り記憶を巡らせる。
「きこだよ!!きこ!!」
「あ、きこって…」
まさか。
「小さいころに、公園で遊んでくれた人?」
きこさんの瞳がうるうると輝いている。
「そうだよ~そうまくん!!思い出してくれてよかったー!なんか似てるなって思って話しかけちゃったよ、成長したなぁ!」
まるで親戚のように言われ、思わず少し笑ってしまった。
「蒼真ですよ。いやぁ、まだ記憶が曖昧だわ、久しぶりすぎて」
「私もだよ。なんだぁ、ここの本屋来てたのか。結構前からバイトしてたんだけど、夏休みになって、夜のシフトから昼間に切り替えたんだ。水曜日と金曜日と土曜日、私居るから」
少し話をして、そういえばと、きこさんが訊ねてきた。
「そうまくん、今何歳?」
「十六歳、高一です」
「わー、早いね!私は十九歳、大学一年生になりました。ちょうど私たちって、学校入れ替わりだったんだね」
確かに、会うのは小学校以来かもしれない。
「きこさんが小学校卒業してから、全く話してなかったですもんね」
「そうかも!そうまくん、前はきこちゃんって呼んでたけど、懐かしいね。タメ口でいいし、きこでいいよ」
「え!?あんま慣れてないんで、しばらく敬語かも」
小学生の時は、髪の毛結んでたよな。なんか大人っぽくなったな。あっという間だな、時間が過ぎるのって。
「そうまくん、もう少しで夏休みでしょ」
「うん」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
きこさんは、走ってどこかへ行ってしまった。俺は疑問に思いながらも、手に持っている藤月の新刊をじっくり見てみる。
「チョコレートが溶ける前に」と、独特なフォントで堂々と題名が書かれている。
しばらく見ていると、きこさんが戻ってきた。
「はい、これ!」
渡されたのは、一冊の本だった。
「そうまくんに宿題!これ、次の水曜日までに読んできて。単行本とか、買うと高いじゃん。だから、一週間でしっかり読んできてくれたら、私オススメの本貸してあげるよ」
単行本は高いし、毎月二冊くらいのスパンで買ってしまったら、確かに金欠になる。現時点でそうなってるし。
でも、きこさんが貸してくれた本を読めば、一週間という限られた時間で、その本にどっぷり浸かっていられる。しかもお金は無くならない。
「…いいんですか?」
「いいよ。本はたくさん読んだ方がいいから!」
「…ありがとうございます!借ります!」
こうして俺は、きこさんとの本の貸し借りが始まったのだ。
今週読む本は、藤月の「刺すより喰めば」という、ザ・ミステリー小説だった。
もらった本には、たくさん読んだ跡があって。
本が読める嬉しさと共に、まだはっきり思い出せていないきこさんのことが喉につかえていた。
空は、群青だった。
夏休みに入った。
暑さは日に日に増していき、外に出る気が失せる。
俺は、きこさんに貸してもらった本を、順調に読み進めていた。
「…ん?」
ある日の夜、ページをめくった時、何かひらひらと、一枚の紙が落ちた。
拾って見てみると、それはメモのようだった。
「おすすめメモ…?」
おすすめメモ、と書かれた下に、ずらりと長文が並んでいる。まさか、昨日あの短時間で、これを書いたのだろうか。すごすぎる。
『これは、藤月のミステリー小説です!ただのミステリー小説じゃなくて、たくさんの仕掛けがあります。そうまくんはわかるかな?私は何度も読み返してそういったものを見つけたいタイプなので、五回くらい読んでわかったものもあったよ!暇だったら逆から読んでみてね。藤月の作品の中では、少し難しいかもしれません。次の水曜日に話そう!』
これでようやく、全体の二割ほど。
どうしてこんなに書けるのか、不思議でならない。
けれど、読んでいると、確かに同じ推測をしている場面もあれば、逆の推測をしている場面もあって、すごくおもしろい。
水曜日にたくさん話せるといいな。お互いの考察も、良かったと思った場面についても。
「蒼真ー、十二時には寝るようにしてよー?遅くとも三十分には絶対だからねー?」
お母さんの大きな声が一階から聞こえ、
「わかってるー」
と、いつも通りの返事をした。
翌朝、カーテンを開けると、眩しい日差しが部屋に入り込んできた。
エアコン無しではいられないような危険な暑さに、朝から負けそうだった。
ふとスマホを見ると、陽太からいくつか、メッセージが来ていた。
『今日空いてる?』
これだけか、と思いつつも、
『空きすぎてて暇』
と送った。すぐに既読がつく。
『モール行かん?』
『いいよ。何時集合にする?』
『昼食べてからでもいい?』
『うん。じゃあ二時とか?』
短い会話が続く。
『おっけー。場所いつものとこでよろ』
『はーい』
こんな風に、俺たちは暇な時、近所のモールに行くことが多い。あっさりとした会話が、俺たちにはちょうどよかった。
階段を降りて、リビングの戸を開けると、涼しい風がすっと俺の身体に染みた。
「おはよ。あの、お母さん」
「おはよう。何?」
「俺、昼過ぎにモール行ってくるから、夜ご飯なんか買ってくるよ」
大体モールに行くときは、お母さんの負担を軽減させるため、家族のお弁当などを買って来ることがほとんどだ。陽太もそうしている。
「いいの?ごめんね。明日はちゃんと作るからね。夏休み入ったばっかりなのに…」
お母さんは、飲食店でパートで働いているものの、家事を全部やってくれている。お父さんは、バリバリのサラリーマンなので、両親は常に忙しい。
「お父さんの分も買って来るけど、いつものでいいかな?」
「いいと思うよ。私もいつもので平気!あ、でももしお蕎麦があったらそっち!」
できれば俺も手伝いたいものなのだが、俺は家事全般が壊滅的にダメなので、これくらいしかできない。
「わかった。買って来るね」
そう言って、俺は洗面台に向かった。
お昼ご飯を食べ、俺は自転車でモールに向かった。アスファルトが、じりじりと焼き付くように光っていた。
相変わらず、河川敷には短い背丈の草たちが、太陽の光をいっぱいに吸収している。
「やっほー蒼真」
「陽太、待たせた?ごめん」
「行こうぜ」
あっつ、とつぶやきながら入ったモールは、エアコンがガンガンにきいていて、少し寒いほどだった。
「俺、ちょっとシュークリーム買ってきていい?」
陽太がシュークリームのお店を指差して言う。俺も食べたくなってきた。
「うん。俺も買おうかな。なんかフルーツ系の味ある?」
「期間限定で、夏はりんご飴味出てる」
「え、食べたい」
陽太は慣れたようにシュークリームを一瞬で注文し、俺は間違えないように、丁寧にしっかり注文した。
「ここに座って食べよっか」
ぺり、と紙をめくると、薄い飴でコーティングされた可愛らしいシュークリームが出てきた。
いただきます、と一口かじると、パリっと表面の飴に亀裂が入り、ふわふわのシュークリームが、ふんわりと口の中で溶けた。
それから、クリームに入ったシャキシャキのりんごが、りんご飴を見事に連想させた。
「…え、すごい。陽太、めっちゃ美味しいよ、これ!」
「だろ?俺もう五回食べてるから、言われなくてもわかんだよ」
「美味しい、ほんと美味しい~…」
りんご飴、「刺すより喰めば」にも出てきてたな。あれ、何かのキーアイテムなのかな。
…そういえば、俺が一番最初にりんご飴を食べたのって、きこさんが夏祭りでくれたからだった。
小さい頃、俺ときこさんと俺のお母さんの三人で、夏祭りに行った。
そこで初めて、きこさんに「美味しいよ」と言われて、りんご飴を食べた。
子どもながらに、俺は美味しすぎて、夢中で食べていたっけ。
「蒼真?」
そんなことを思い出していると、陽太に話しかけられ、現実に引き戻された。
「どした?」
「あぁ、なんか昔のこと思い出してた」
…というか。
「俺、陽太に伝えたいことがあって」
「え、何?」
俺は今日、陽太にきこさんのことを言おうと思っていたのだ。
「俺がいつも行ってる本屋でね、何年かぶりに、幼馴染と再会したんだよ!」
ぽかんとした表情の陽太から発せられた言葉は、自分の想像をはるかに裏切った。
「…は?」
「…え?」
少し沈黙の間が空いてから、陽太がその空気をさいた。
「いやいや、え?それが俺に伝えたいこと?」
「うん、そうだけど…」
くはっ、と大きく口を開け、陽太が笑い始めた。俺は意味が分からず、陽太に状況を説明すると、ますます笑われてしまった。
「俺そんな面白いこと言ったかな?」
「いや、面白いっていうか、特に重大な事じゃなくてよかったって思って。その話、また後で聞かせてよ。楽しみだわぁ」
俺は応援してるから~、と言う陽太に違和感を覚えつつも、何の弁当を買って帰ろうかを考えてしまっている自分に恥ずかしくなって、陽太の発言はどうでもよくなっていた。
きこさんに本を借りてから、一週間が経った日。
俺はいつものように自転車をこいで、本屋に向かった。
本屋に入ると、きこさんが新しく入荷された本たちを棚に並べていた。
「きこさん、一週間ぶりですね」
俺は少し小さい声で、きこさんを呼んだ。
すると、きこさんはぱっと振り返り、
「あ、そうまくん!一週間ぶり。どう?本は読めた?」
と、明るい笑顔で訊ねてきた。
「はい。すっごくおもしろかったです!後で語りたいぐらい」
「でしょ!お店の中だとこんな感じで話さなきゃいけないし、出て話そう」
そう言って外に出るきこさんの後に続く。
「きこさん、お仕事大丈夫なんですか?」
「うん。ちょうど休憩だから」
きこさんはお店の中だと小さな声でゆっくり話せないからと、外のベンチに腰掛けた。そして、丸くて大きいおにぎりを二つ、膝の上に出す。
私ちょっと食べながら話してもいい?と訊かれ、もちろん、と返した。
「その本、結構難しかったでしょ?一つひとつの事件が深いし、登場人物もころころ変わるし」
「確かにそうですね…。でも、結局犯人は主人公の妹だった、っていうのはわかりましたよ。時間はそれなりにかかっちゃったけど」
「すごいね!私全然わからなかったよ。何度も読み返してやっとだったな」
本の話に花を咲かせていたところ、ふと、おすすめメモのことを思い出した。
「そういえば、おすすめメモって、きこさんがあの時とっさに書いたんですか?」
おにぎりを食べ終えたきこさんが、ラップを丸めてベンチの横にある自販機のそのまた横にある錆びたくずかごに捨てた。
「そうだよ。あ、それあげるよ!私に返されても、きっと捨てちゃうだけだろうから」
「じゃあ、ありがたく貰います…!」
店の中に入ると、きこさんはまた走って行ってしまった。次の本だろうか。
「はい!今度はこれ!」
可愛らしいイラストが表紙に施されている、一冊の本を渡される。
まるみのあるフォントで、「ヨウコとタケコ」と書かれている。書いたのは、「まじかるばなな」という名前の小説家らしい。
「これは、極端に表紙が可愛くて買っちゃったんだ。でも、すごくおもしろかったんだよ!」
ニコッと微笑むきこさんにつられて、俺も微笑んでしまう。
「へぇ。ざっくり言うと、どんな本なんですか?」
「うーん…。シェアハウスしてる二人の女の子の物語。優しくて、あったかくて、ほのぼのしてる。読んでてすごく癒されるよ」
こういった本はあまり読まないので、とても興味深いと思った。
「じゃあ、読んできますね。ありがとうございます。お仕事、頑張って」
「うん!こちらこそ、またね!」
その晩、俺はおすすめメモを読んで寝た。
借りた小説よりも先に、おすすめメモの方が読みたい気がした。
「おもしろかった…」
俺は、きこさんに本を借りて三日で、「ヨウコとタケコ」を読み終えてしまった。
あっさりとした出来事に、ヨウコとタケコのどろどろとした複雑な思いが混ざって、あっという間に読者は惹かれてしまう。
けれど、最終的には、そんな思いよりも、二人の楽観的な思考が勝ってしまう。そしてまた、ほのぼのとした日常が戻る。
この沼は、このループは、確かにすごくクセになる。
読み終えてしまったし、特にやることもないので、まだ一週間経っていないけれど、本屋へ行くことにした。
今日は何か買って帰ろうと思い、トートバッグを肩に提げて、自転車をこいだ。
日陰に置いてあった自転車は、こいでいるうちに、どんどんと熱を吸収していった。
「あれ?そうまくん、こんにちは。今日は普通に本買いに来たの?」
今日はきこさんの方から声を掛けてくれて、なんとなく、少しだけ、嬉しかった。
「こんにちは。はい、本買いに来ました。だけど、実は『ヨウコとタケコ』読み終わっちゃって」
「えー!?は、早くない!?まぁ、とりあえず本買って、後で話そう!私、今日ちょうど午後から上がるからさ。どこか行って話そっか」
話し終えると、俺は本棚を見上げた。今日はなんだか爽やかな小説が読みたい気分だったので、表紙の色が綺麗な本を買った。
パティシエを目指す男子中学生が、唯一自分を認めてくれた同級生の女の子に、小さなケーキを作る青春ストーリー。
きこさんが貸してくれた「ヨウコとタケコ」を読んで、普段読まないタイプの小説にも挑戦しようと思えた。
「よーし、そうまくん。私あと一時間は大丈夫だけど、どうする?どこ行って話す?」
きこさんがお洒落な私服になり、あ、大人になったんだな、と、不思議なことを思ってしまった。
きこさんとは小さい頃、よく河川敷で遊んでたっけ。
「…河川敷とか、どうですか。今日は少し風もあるし、いつもより少しは涼しいんじゃないかと」
「懐かしい!よく遊んでたよね。いいね、散歩がてら行こう!」
覚えてくれてたんだ。
覚えてたの、俺だけじゃなかったんだ。
きこさんが微笑むと、俺も微笑んでしまった。なんだか、少し嬉しくて。
自販機で水を買うのも、なぜか楽しかった。
「散歩がてらって言ったけど…。俺、ここに自転車置いていくことになって心配なんですよね」
「え、待って、まさか…」
「ほらきこさん、後ろ乗って」
「えー!?無理、怖い怖い!捕まっちゃうって、あー!」
「よく友達乗っけてるんで大丈夫ですよ」
「そうまくん、こういう時私より大人っぽくなるのやめて!!」
怖い、無理、と連呼するきこさんが面白くて、笑いながら河川敷まで半分ほどの距離まで走った。さすがにきこさんがかわいそうだったから。
そんなきこさんも笑っていて、なんだか、昔を思い出した。
「そうだ。そうまくん、お昼ご飯大丈夫?私は後で食べるんだけど…」
「大丈夫です。一時間くらいなら平気なので」
「そっか。よかった」
自転車を押して歩き始めて間もなく、もうお昼なのかと知った。
話しながら歩いていると、突然、きこさんのスマホが鳴った。
「あ、電話だ。ちょっとごめんね」
きこさんはスマホをポケットから取り出すと、画面に少し微笑んだ気がした。
「もしもし。ちょっと早くない?…あ、もう近くまで来てくれてるの?ありがとう。…ちょっと、あと一時間くらい待っててもらえる?…ごめん。幼馴染の子と話したくて」
幼馴染。なぜか、その言葉に引っかかった。通話してる相手は、男の人のようだった。声が少し低い。
「…うん。…うん。ごめんね。…わかった。じゃあ、また後でね。…うん、バイバイ」
プツッ、と、きこさんが電話を切る。
また、スマホ画面に微笑む。俺の心の中が曇る。
「…電話、誰ですか」
俺は、訊きたいわけじゃないのに、訊きたくないのに、そう言ってしまっていた。
「えーっと、大学の友達。今日こっちに遊びに来てくれたんだ」
「…その友達って、何人なんですか」
「今日は一人かな。いつもはあと二人いて、四人で遊ぶことが多いけど」
目線が、どんどんと沈んでいく。涼しい風が吹く。
「…男の人、ですか」
「うん!そうだよ」
ごめん。きこさん。
ごめん。
俺のこと、ずっと幼馴染って言わないでよ。幼馴染だけど、俺とそいつ、そんな違うかよ。
大学の友達って言う前に、えーっと、なんて付けないでよ。
なんでそいつは遊びに来たの。なんで今日は一人なの、そいつ。
男の人って、誰なの。
「…そうなんですね」
質問しつこくて、うざいって思ったかな。
そうまくんってこんな子だったっけ、って、変に思われちゃったかな。
勝手にこっちへ踏み込んで来ないでほしいって、思っても言わないでくれたのかな。
「どうしたの?そうまくん?」
「いやっ、なんでもないです。ごめんなさい、行きましょっか」
自転車をこいでいたさっきまでの自分との、気持ちの高低差がすごすぎる。
河川敷までもう少しの場所で電話がかかってきたのは、本当によかったと思う。
こんな状態で、いつもみたいにきこさんと話せる気がしなかったから。
「懐かしいね!当たり前だけど、全然変わってないな」
「俺、本読んでてもいいですか?」
「え、そうまくん本読むの?…じゃあ、私も読もうかな」
本をトートバッグから出して、静かに読み始める。
なんか俺、嫌だな。すねてる子どもみたいで。
もう本を半分くらい読んだ時だった。
「ふふっ」
隣を見ると、柔らかく微笑んだきこさんの姿。
「…どうか、しましたか?っていうか本は?」
「ううん。実は本、読んでないの」
きこさんの透き通った肌が風に撫でられる。色素の薄い瞳が優しく光り、淡い色の唇が静かに動く。
「なんか、すっごく大きくなったけど、本を読む時のそうまくんは変わらないなぁって。見ちゃってた」
この時、初めてわかった気がした。
石渕さんが顔を赤くした、理由。顔が赤くなるってこういうことか、と思う。
自分を見てくれている人から、花束みたいな言葉をもらった時、そうなるんだ。
「…かっこよくなったね、そうまくん。そうまくんは、私の自慢の幼馴染だよ!」
キラキラと輝く水面に、言いたくなった。俺の心は今、お前くらい光ってるって。
きこさんは、おかしい。俺の気持ちをころころ変える、魔女みたいな人。
さっきまでもやもやしてたのに、今こんなに、俺の心も体もきゅーんってなってる。
この人が何を言おうと、俺の心も連動して動く。
普段の俺が、俺じゃなくなるみたい。
そんなことができてしまう、おかしい人。
「…まじでなんなの、ほんと」
「ん?何か言った?」
息を大きく吸って、俺は言った。
「きこさんも、綺麗な人になったよ。俺の自慢の幼馴染だよ」
空は透き通った群青だ。川も透き通った水色だ。俺の青いTシャツも、きっと透き通るくらい、純粋な思いがこもっている。
恥ずかしくても、この世界に溢れた美しい青に言ってやったと思えば、大丈夫な気がする。
きこさんは、変わらぬ微笑みのまま、その言葉を受け取った。動揺なんて、一切しなかった。
「あははっ、ありがとう!」
きこさんは、弟を可愛がるような感じで、笑った。
もっと色々言いたいことはある気がするけど。
なんだか、今日はこれでいい気がした。
本にしおりを挟むのを忘れたくらい、君に夢中だったから。
その日の夜、俺は陽太にこう送った。
『今度遊ぶ時、俺自分の話ばっかりしたらごめん』
すぐ、こう返ってきた。
『なんかいいことあったんだ?全然いいけど』
いいことあったよ。めっちゃ、いいことあった。
次遊ぶのが楽しみで、どんな風に話そうか、ずっと考えてしまっていた。
四日後、俺はきこさんに「うずくまって、はいあがれ」という小説を貸してもらった。
勉強の合間に読むと、やる気が出てくる本。
おすすめメモを読んでも、やる気が出てくる気がした。
理由はなぜだか、よくわからない。
ただ、いつもより自分が元気なことは、よくわかっている。
「で?この前の意味深発言の割には、全然話さねーじゃん。あれ何だったの?」
「あっ…と、それは…」
「なんだよ、余計気になるんだけど」
陽太とモールに来た今日、俺はこの間陽太にトークで送ってしまった言葉を思い出す。
「あの、きこさんの話なんだけど…」
「だろうと思った。幼馴染さんだろ?」
「うん。あのね…」
俺は、きこさんと河川敷で話した時のことを、陽太に話した。
「お前めっちゃ青春してんじゃん」
「なんか自分でも、あの時の俺は謎に浮かれてたのかもしれないって思う」
なんでそんなことになってしまったのだろうか、と思っていると、陽太がニヤッとこちらを見た。
「な、何?」
「自分でわかんねーのー?本当ー?そういう話疎すぎるんだよ、蒼真は」
「本当に何言ってるかわかんないんだけど」
「ほーら恋愛疎すぎ天然な性格も顔面も国宝級の爽やか王子蒼真くん、そういうとこですよ。女子に人気なのは、お前のそういうとこなの」
「え、陽太?本当に何の話してるの?怖いんだけど」
ま、いつでも俺を頼れよ。応援してるから。という彼の言葉の意味がやはりわからず、少しむかむかした。
陽太と遊んでから数日後、水曜日。
今回は自分が買った小説も読みたかったため、きこさんから借りたものは、ギリギリに読み終わった。
うずくまって、でもまたはいあがる。そんな主人公の夢に向かう懸命な姿は、すごくかっこよくて、きこさんが選ぶ小説には本当に感激してしまう。
俺はいつものように炎天下の中自転車をこいで、きこさんのもとへ向かった。
「きこさん、一週間ぶりですね」
「そうまくん、一週間ぶり!あ、本読み終わった?どうだった?」
「すごくおもしろかったです。タイトルの通りでした。主人公がかっこよすぎて…」
本を語りつくし、お互い満足な表情を浮かべていた時、きこさんが何かを思い出したように「あ!」と言った。
「そうだ。思い出した!私ね、そうまくんのことをお母さんに話したんだ。そしたらお母さんがそうまくんに会いたくなっちゃったみたいで、ぜひ家に来てほしいんだって。明日、ちょうどお母さんの仕事が休みなんだけど、どう?」
きこさんのお母さん…と、記憶を巡らせる。きこさんと遊んでる時も、たくさん話してくれたな、あのお母さん…。
そうなったら、俺のお母さんにも言わなくては。
「いいんですか?じゃあ、お邪魔させていただきます」
「そんなかしこまらなくていいからね、そうまくん!」
「なんかかしこまっちゃうんですよ…」
そんなことを話しながらも、明日、きこさんの家に行くことが決まった。