飛び出した、と言っても宛があるわけではなかった。
衝動、まさに本能といったところだろう。夏の蒸し暑さが通り抜けるアスファルトの小道を蹴り上げて走った。
「冒険と言ったらなんだ?やっぱり遠出か?」
少し考えてから走ってきた道を引き返す。向かう先は、徒歩15分の駅だった。この時間だったら始発に間に合うかもしれない。揺れる電車の中、人もまばらな社内に淡い光が差し込む情景を想像する。うん、冒険って感じだ。
額に滲む汗を拭って、もう一度走り始めたその時、前を歩く老人に引き留められた。
「おぉ、ときちゃん。どこに行くんだい?こんな朝早くに」
「堺のばあちゃん、久しぶり。僕、今から冒険に出るんだ」
暗がりでよく分からなかったが、じっと目を凝らすと声を掛けてきたのは近所に住む知り合いのばあちゃんだった。ばあちゃんは僕から『冒険』なんて単語が出てくるなんて信じられないといった様子で目を丸くする。
「勉強のし過ぎでとうとう頭がおかしくなっちまったんかい?」
「……そうなのかもね」
勉強、という単語が耳に飛び込んできた瞬間、手のひらに汗が滲む。貧血を起こしたかのように目の前がチカチカして、視界から色がなくなった。
そうだ、僕は勉強をしなくちゃいけなかった。ちゃんと賢くなって父さんの名誉を傷つけるようなドラ息子を卒業しなきゃいけない。
こんなこと辞めて家に戻らなくては。
こんな馬鹿な夢……。
「何があったのかは知らないけれど、気張りんさいよ。あんたがそんなことするなんて、よっぽどのことなんだろう?」
ばあちゃんの優しい声が耳を打った。
「……うん」
僕はまた歩を進める。
家のある方向を振り返らずにただひたすら前へと進んだ。夏の朝の匂いは土臭い。蝉の必死に生きようとする声が耳をつんざく。アスファルトの窪みに溜まった雨水は、暁の空の際で滲む太陽の色を今か今かと待ち望んでいた。
冒険
こんな無謀なことする僕を許せない人は、馬鹿な夢だと、くだらない夢だと嗤えばいい。
ただ嗤うだけで進めない人間と僕は違う。
夢を夢のままで終わらせようとした、あの頃の僕とは違う。
変わりたかった。
けれどここまで変わりたいと思えたきっかけを、僕は未だに思い出せなかった。
ようやく駅までたどり着くと、一番遠い駅までの切符を買って始発の列車に滑り込む。
僕以外誰もいない空白のシートをぼんやりと眺めながら、僕は日の出を待つ。
数分後、オレンジの滲んだ空から柔らかな光が電車の窓ガラスに射した。
「生日の出だ……初めてみた。凄ぇ……こんなに綺麗なんだ」
初めて見る朝日が昇る瞬間を忘れまいと目に焼き付ける。
遠い空の色はあまりに鮮やかで、美しくて。
僕の知らない世界はこんなにも誰かの心を震わすことができるんだと思ったら、少しこの世界で生きることを好きになれた。
「生きることを好きになれたって、あれ……?僕、どこかで聞いたことのあるような」
震える指先は何故だかバッグのファスナーを引いていた。ほんの僅かに触れる冷たい質感、それは朝に詰め込んだリングノートだった。
青い表紙が目に飛び込んでくるなり、僕は脳天を突きさされたかのような激しい頭痛に襲われる。
「あ……ぐっ……あ゛」
息ができないくらい苦しい。
電車の中、一人蹲りながら苦痛に耐える。
あぁ、意識が飛びそうだ。
そう感じた途端、背中から魂が抜かれたように、蓋をしていた記憶が溢れ出した。