雨上がりの河川敷。
夏風がそよぐと、草花に付いていた雨粒がぽっと落ちる。
風に弾かれた雨水は、夏の陽光を吸収しながら小さくいくつもの雫に分裂して、私の顔を濡らした。
私は雨が好きだ。
雨粒は、この世界の余計な音を吸い取ってくれるような気がするから。
水が滲んだような風音に、草が擦れる音。優しい川のせせらぎ。
――落ち着く。
高架橋の下。ここは、私の数少ない心安らげる居場所のひとつだ。
暑いけど、蝉がうるさいし虫もたくさんいるけど、騒がしい街中よりずっといい。
雨上がり特有のにおいを感じながら、私は日暮れを待っていた。
ふと、からからと自転車の車輪の音がした。
顔を上げ、音がしたほうを見やる。
そこには、クリーム色の自転車を押しながらやってくる、シンプルな装いの男の子がいた。
彼は、最近よくここへ来る男の子だ。名前は知らない。ただ、彼は決まって日暮れ前くらいにやってくる。
彼は私に気が付くと、ひっそりとした声で言った。
「きみか」
ふっと目尻を下げると生まれる目元の皺は、もともと柔らかな雰囲気を持つ彼をさらに優しげな印象にする。
彼は私から少し離れた場所に座ると、それ以上私を見ることなく、静かに本を読み始めた。
ぱらり。ときおり頁をめくる優しい音がする。
世間と切り離されたこの場所には、しばしばひとがやってくる。私はそのだれもがきらいで、だれかの気配を感じるたび、気配を消してこの場を離れていた。
ただ、彼だけは特別。
雨上がりの風のような雰囲気を持つ彼だけは、きらいじゃなかった。名前も、どこのひとかもなにも知らないけれど、なぜか。なぜか彼を見ると、胸のあたりがざわざわして、足元がふわふわして、泣きたくなるような、なんか、へんな感じになる。
こんな感情は初めてだった。
彼がやって来るようになったのは、最近だ。
ひとりでこの河川敷へやってきては、しばらくぼんやり川を眺めたり、本を読んだりして、いちばん星が出る頃に帰ってゆく。
ほかのひとと違って、彼の音は私の耳朶を心地よく震わす。
今日も、私は彼の息遣いとときおり聞こえてくる本のページをめくる音に耳を傾けながら目を閉じた。
――私の世界は、季節を問わず夏色だった。
私はどうやら、色覚異常というものらしかった。
空の青色や草木の緑色ははっきりと見ることができるが、ほかの色はぼんやりとしか分からないのだ。
それだけではない。
私は、みんなが当たり前にしている会話ができない。言葉を話すことができないのだ。
私はおそらく、この世界で弱者のほうに分類される。
ただ、だからといって虐げられるということはなかった。ほとんどのひとが、私に優しくしてくれた。
けれど、その優しさは言い換えればただの同情だ。
そう気付いてしまってからは、私はひとりでいるようになった。だれにも近付かず、弱みも見せないようにした。怖くなったのだ。ひとに、じぶんのことを知られるのが。弱者なのだと思われることが。
ひとりの世界は、なんの変化も感情の動きもない代わりに、雨上がりの空のように凪いでいる。つまらないけれど、これでいい。
下手に気を遣われるより、親切にされるより、ずっと楽だ。
***
彼と初めて出会ったのは、今日のような空がみずみずしい夏の日だった。
空の色を落としたような、鮮やかな青色のシャツ。ひそやかな息遣い。どこか寂しげな横顔。
うっかりその場を離れることも忘れて、私はその横顔に見入っていた。
視線を感じたのか、彼が私に気付いた。
その瞬間、ハッと我に返る。
しまった。話しかけられたらどうしよう。
体がこわばり、汗が吹き出してきた。
しかし、緊張の糸をぴんと張った私とは裏腹に、彼はなにも見なかったかのように、私から視線を外した。声もかけてこない。
私はいささか、拍子抜けして彼を見つめた。
彼は自転車を停めると、日陰に入った。手提げバッグから本を取り出すと、静かに読み始める。彼はそれから、一度も私を見ることはなかった。
その日から、彼はたびたび高架下に来るようになった。
相変わらず私にはまったく興味がないらしく、そのおかげで私も彼が来たときだけはその場を去ることなく、そのまま橋の下でうたた寝をするようになった。
私たちの距離が近付いたのは、それから数日後のことだ。
その日はひどい夕立があって、私は慌てて高架下に逃げ込んだ。
高架下から離れた場所にいたせいで、少し濡れてしまった。
雨は止むどころか強まるばかりだった。
高架下から、川に吸い込まれていく針のような雨をぼんやりと眺めて夕立がおさまるのを待った。
そのときだった。
慌ただしい車輪の音が聴こえてきた。見ると、下生えの草を荒々しく踏み潰して、やってくる影があった。彼だ。
彼も雨に降られてしまったらしく、びちょ濡れの状態で高架下に駆け込んできた。いつもさらさらとしている黒髪からは水が滴り、シャツは肌に張り付いている。結構濡れてしまったようだ。
彼は自転車ごと高架下に飛び込むと、雨で濡れてしまった服やバッグを乱雑にタオルで拭き始めた。
しばらくして、彼がはたと私を見た。今の今まで私がいたことに気付いていなかったらしい。
彼はおもむろに私のすぐ目の前まで来ると、タオルをそっと差し出してきた。
「……これ、使って」
私も濡れていることに気が付いて、気を遣ってくれたのだろう。
私は戸惑いつつも、そのタオルを借りることにした。
――ありがとう。
そう言いたいけれど、言葉は出てこない。今まで話せないことに不便を感じたことは何度もあった。でも、ここまでもどかしく思ったのは初めてだ。
「くしゅんっ!」
ぶるっと体が震える。
今日は風が強い。雨に濡れた体はずいぶん冷えていた。私はタオルで体を拭いた。
それ以降、彼は私になにも言うことはなかった。
彼が貸してくれた柔らかなタオルは、嗅いだことがあるような、ないような、どこか優しいにおいがした。
それから、私は彼が来たときだけは逃げることをやめた。彼はほぼ毎日のように高架下へやってきた。
そうなると、彼が来ない日はとても長く、つまらなく思えた。心というものは勝手だ。
私は、彼に借りたタオルをまだ返していない。返さなきゃと思うのだけど、このタオルだけが私と彼を繋ぐ唯一のものだったから、返すのが惜しかった。
あのタオルを抱き締めて目を閉じると、決まって彼の夢を見た。だから、彼が来ない日はタオルをそばにおいて目を閉じた。
優しい夢だ。彼は夢のなかでは私に優しい声で話しかけてくれて、微笑みかけてくれた。
心が震えるほど嬉しかった。
この感情は、なんという名前なんだろう。
胸がざわざわして、同時にふわふわする。
じぶんでじぶんの心がままならなくて、彼と目が合うと動揺する。
彼のことを考えると落ち着かなくなるのだけど、でも決していやな感じではないのだ。
ずっと夢を見ていたい。そう思えた。
でも、目を開けると、決まってそこにはだれもいなかった。
今まで感じたことのないこの感情は、なに?
***
ある日、高架下に見慣れない少女が立っていた。
優しい髪色をした、品のある顔立ちの子だ。
私は彼女の死角に隠れて様子をうかがっていた。
彼女はしばらくのんびりすると、高架下から出ていった。
私はなんとなく気になって、彼女の後を追うことにした。
追いかけてみると、彼女は橋の近くにあるカフェに入っていった。カフェの表側に回ってしばらく出入りする客を眺めていると、さきほどの少女が顔を出した。ホールスタッフらしき制服を着て、接客をしている。
彼女はどうやら、カフェの店員らしかった。
カフェのなかは、たくさんの客で賑わっている。みんな、彼女と同年代くらいの若者だ。
そのなかに、見知った顔を見つけた。彼だ。
テラス席に、彼の姿があった。テーブルの上には、汗をかいたドリンクカップと、いつも彼が持ち歩いている本とタブレット。
河川敷へ来る前はいつもここで時間を潰していたのか、と新たな発見に少しだけ嬉しくなったのも束の間、彼の様子は、いつもと少し違っていた。
頬はいつもよりほんのり紅色に染まり、その眼差しは本ではないべつのものを映している。
なにを見ているんだろう、とその視線を辿って、私は小さく息を漏らす。
彼は、ホールスタッフである彼女を一心に見つめていた。
彼女を見つめる彼の眼差しは、私と似ていた。
雑音も、視線も、気配も。ほかのなにも目に入らなくなってしまうくらい、夢中な眼差し。
――恋、だ。
彼は、彼女に恋をしていた。
彼女が近くを通るたび、何度も口を開くものの、結局声は出せないまま。声をかけたいけれど、勇気が出ない。そんなところだろうか。
彼女に会いたくてカフェに来て、話しかけようと思いながらもできなくて。結局彼女へ近づけないままカフェを出て、時間を持て余した結果、あの高架下で項垂れていたのだ。毎日のように。
彼の横顔に滲んでいた哀愁は、孤独ではなく、後悔だったのだ。
彼が最近あの河川敷の高架下へ来るようになった理由。
すべて好きな少女に会うためだったのだ。
――そっか。そうだったんだ。
胸がざわざわした。前とはちょっと違う、切なさを含んだざわざわだ。ふわふわはなかった。
私はそっとカフェから離れた。
その後、ひとりで高架下へ戻った私は、ぼんやり水面を眺めていた。するとほどなくして彼がやってきた。案の定、顔色は暗い。きっと、今日も話しかけられずに終わったのだろう。
彼は相変わらず、私にはまったくかまわない。今まではそういうところが好きだと思っていた。それなのに、今はなんだか寂しく感じてしまう。
私は少しだけ彼のそばに寄った。自ら近付いた私に、彼は少しだけ驚いた顔をしたけれど、すぐに私から視線を外した。
深いため息をつく彼のとなりに、私は座る。
すると、
「……あの、」
彼はおもむろに私に話しかけてきた。
その眼差しを見て、私は決意した。
――また、声をかけられなかったな。
蝉の声を聴きながら、僕は小さくため息を漏らした。
これで何度目だろう。今日こそはと思ったのに。
少し前、好きなひとができた。
最近通い始めたカフェでバイトをしている女の子だ。大学内でも何度か見かけたことがあるから、たぶん同じ大学生。だけど、それ以外はなにも知らない。
名前も、年齢も、彼氏がいるのかすらも。
毎日、カフェに着くまで今日こそはぜったいに声をかけると心に決めているのに。
いざ彼女を前にすると、途端に勇気が萎んでしまう。彼女と目が合うと、頭のなかが真っ白になってしまうのだ。とんだチキンだ。
彼女を好きになるまで、僕はじぶんがこんなに意気地無しだとは知らなかった。
なんの成果もなく僕は毎日カフェに通い続けて、結果珈琲には結構詳しくなった(気がする)。
彼女は、そのうちに僕の顔を覚えてくれたらしく、僕が行くと会釈してくれるようにはなった。けれど、それだけ。
彼女のなかで、僕はただの客のひとりに過ぎない。最近ちょっとよく見るな、くらいの。
彼女は、カフェではとても人気者で、いつもいろんな客に声をかけられていた。
彼女の周囲は、まるで太陽系のようだった。
僕には到底手の届かないひとなのだ。そう思いつつも、顔を覚えてくれているんだから、と、一抹の希望を捨てきれずにいた。
「――にゃあ」
不意に、腕のなかにいた猫が鳴いた。
「あっ」
ハッとして、僕は仔猫を脇に下ろす。
「ごっ、ごめん!」
仔猫は僕から離れると、ぷるぷると身体を震わせた。
うっかり強く抱き締め過ぎてしまったかもしれない。大丈夫だったかなと小さな背中を撫でると、仔猫は僕を見上げて「にゃあ」と鳴いた。
よかった。なんでもないようだ。怪我でもさせていたら大変なことだった。
気を取り直して、本を開く。猫についての本だった。
この仔猫は、最近ここに来るようになって見つけた猫だ。まだ子どものようだが、警戒心が強く、寄ろうとすると威嚇してくるので知らんふりしていた。
しかし、このあいだはどんな心境の変化か、急にそばへ来たかと思うと、すりすりと身を寄せてきたのだ。
二、三日前のことだっただろうか。
今までじぶんのそばへ来ることなんて一度もなかったのに、と驚いた記憶がある。
この河川敷の近くには、民家はない。母猫の姿も見たことがない。一度、ひどい夕立にあってここへ来たときも、この仔猫は一匹だった。
雨に濡れて冷えたのか、ぷるぷると小さな身体を震わせているものだから、さすがに可哀想になってバッグに入っていた使っていないほうのタオルを貸してやったのだ。
仔猫は、このあたりに住み着いた野良猫なのだろう。こんな小さいのに。
「……お前も、いつもひとりだな」
そっと、驚かせないように声をかけてみる。すると仔猫は僕をまっすぐに見あげて、「にゃあ」と鳴いた。
「……僕も同じだ。僕も……好きなひとがいるんだけどね。なかなか、うまくいかなくて」
その日、僕は彼女へ伝えられなかった想いをこの仔猫に訴えた。おかげでずいぶん心は楽になった。
仔猫はガラス玉のような瞳で、まばたきもせずにじっと僕を見つめていた。
近くで見ると、作りもののように美しい顔をした猫だった。
その日から、仔猫は僕に懐くようになった。自由なものだな、と呆れもしたが、甘えられるのは案外嬉しかった。
「にゃあ」
仔猫が僕を見上げて鳴き声を上げる。
そういえば、まだ名前を決めていない。そろそろ名前のひとつでもないと呼びづらい。だけど、飼っているわけでもないのに勝手に名前なんてつけてもいいのだろうか。
そんなことを思っていたときだった。
かさり、と草が擦れる音がした。顔を上げると、目の前にいたのは――。
「ねぇ、きみ」
目の前にいたのは、僕が一目惚れした彼女だった。
僕は驚きのあまり、というか、話しかけられたことが理解できなくて、声が出なかった。
「ねぇ、この子ってもしかして、きみが飼ってるの?」
彼女は、僕のとなりに腰掛けると、頬杖をついて言った。
「……――え?」
***
蒼ざめた夏空の下、僕は一目惚れの彼女と対峙していた。
「あ、いきなり話しかけてごめんね! 私、天風織花! 帯平大学の三年で、このすぐ近くにあるカフェでバイトしてるんだけど」
「あ……は、はい。どうも……」
ひょんなことから彼女の名前と年齢まで知ることができ、内心驚く。というか、僕より歳上だったとは。同じ歳か、一年生だと思っていた。
「あ……あの、えっと」
僕はどぎまぎしながらも必死に言葉を探した。しかし、気の利いた言葉なんて浮かぶはずもなく、ただそばにいた仔猫を抱き上げた。
「いきなり話しかけてごめんね! この子、きみにすごい懐いてるみたいだから、もしかして飼い主なのかなって」
「いや……違います」
ぶんぶんと首を横に振る。
「そうなんだ。バイト休憩のときとか、たまにこの仔猫見かけるんだけど、私が触ろうとすると逃げちゃうんだよね」
「そうなんですか」
「うん! 私、猫が大好きだからこの子のこと可愛がりたいんだけど」
言いながら、彼女は仔猫に手を伸ばす。すると、仔猫は警戒心をあらわに、ふーっと毛を逆立てた。
「きらわれてるみたい」と、彼女は苦笑した。
そういえば、出会った頃は僕に対してもこんな調子だったかもしれない。
「ねぇ、名前なんて言うの?」
「え? ……あ、えっと……この仔猫は、僕もたまにここで見かけるだけだから、名前はないっていうか……」
たった今付けようとしていたところだけれど、正直、今は猫の命名どころじゃない。
こんな至近距離で彼女と目を合わせて、且つ会話をしているなんて状況。冷静でいられるわけもない。
頭のなかは真っ白だ。
それでもなんとか、しどろもどろになりつつそう答えた。すると、彼女は小さく笑って首を振った。
「違うよ、きみの名前だよ」
「えっ。僕?」
「うん。きみ」
考えてみれば、それもそうか。
「えっと……水上星夜、です」
「セイヤくんって、どういう字?」
名前を呼ばれ、どきんと心臓が跳ねた。
「ええと……星の夜って書いて星夜……です」
「へぇ。すてきな名前だね」
彼女はにっこりと微笑む。それだけで、僕の心臓ははち切れんばかりに高鳴っている。
「ねえきみ、いつもカフェに来てくれてる子だよね?」
どきりとした。
「あ、いや、そ、それはたまたま大学が近くて……あと、あのカフェの雰囲気が気に入ってて」
ストーカーだと思われたらと怖くて、僕はつい早口になった。
「大学が近いってことはもしかして、星夜くんも帯平大学? 何年?」
慌てる僕の様子を気にすることなく、彼女はさらに問いかけてくる。
「二年です。二年の文学部で……」
「文学部? 私も私も! すごい偶然じゃん」
「……そうなんですね」
知らなかったふうの相槌を打ちながら、内心では少しがっかりしていた。やっぱり彼女にとって僕は、カフェに来るただの客でしかなかったのだ。
「もしかしたら、構内でも会ってたかもね!」
「……そう、ですね」
――実際会ってるんだけどな、何度も。
「私ね、カフェできみを見かけるたび、話してみたいなって思ってたんだ」
「えっ?」
驚いて顔を上げる。目を丸くする僕を見て、彼女は目の下あたりをほんのり赤らめて、はにかむようにして笑った。
「なんていうか、ほかのお客さんとはなんか違うなぁって思ってて。いつもひとりだったし。だからなんか気になってたんだ。うまく説明できないけど」
――見られてた。というか、僕のこと、結構見ててくれてたんだ。
嬉しいような、恥ずかしいような。じわじわと顔が真っ赤になるのを感じた。
「今日、ここに来てみてよかった。この子のおかげできみに会えた」
「この子?」
「うん、この仔猫ちゃん」
彼女は僕が抱いている仔猫を見た。
「今日、カフェの入口にたまたまこの子がいてさ。ちょうど休憩時間だったから、追いかけてきたの。そうしたらここに行き着いて、それでもってきみがいたってわけ」
「……そう、だったんですか」
「私ね、猫が大好きなんだけど、お母さん猫アレルギーだから飼えなくて」
僕は仔猫と彼女を交互に見た。
仔猫は、僕の腕のなかでごろごろと喉を鳴らしている。ずいぶん気を許してくれているみたいだ。
「……触ってみますか?」
「えっ?」
彼女が目を丸くする。
「たぶん、僕がこのまま抱いてれば逃げないと思うから」
大きな瞳が、きらりと輝く。
「いいの?」
「うん、優しく……してあげてください。まだ仔猫で、結構臆病だから」
僕は仔猫を見る。仔猫も僕を見て、「にゃあ」と鳴いた。
「もちろん! じゃあ……そっと」
彼女はおそるおそるといったかんじで、仔猫に手を伸ばす。彼女の細く小さな手が、仔猫の頭を撫でる。
「わっ……ふわふわだぁ」
仔猫は逃げることなく、僕の腕のなかでじっとしていた。少しだけ身体が強ばっているようだったが、次第に解けていった。彼女に悪意がないことが伝わったのだろう。
「めっちゃ可愛いね!」
仔猫に触れた彼女は、今まで見たことないくらいにとろけた笑顔で僕を見た。
「そ……う、ですね」
不意打ちの笑顔に、僕は思わず赤面する。
「やっぱり猫は可愛いなぁ……」
思ったよりおとなしい仔猫に安心しつつ、僕は彼女の笑顔を盗み見る。
ぱたぱたと揺れる長いまつ毛に縁取られた瞳はしっとりと濡れていて、きらきらしていた。光の加減で青にも緑にも見える。僕が見ているものとはまた違った世界を映しているような不思議な瞳だと思った。
不意に、彼女が瞬きをした。
「ねぇ、この子って、ここに住み着いてるんだよね?」
「え?」
ぱちりと目が合い、ハッとする。
「あ……そうですね、たぶん。ここに来ると、いつもいるから。母猫は見たことないけど……」
「じゃあこの子、ひとりぼっちなのかな」
「……そうですね」
僕は小さく頷く。
「……そういえば猫って、赤系の色が分からないんだっけ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。前に本で読んだんだ。……それを知ってからかな。同じものを見ていても、ひとによって見えかたが違うかもしれないんだって意識するようになったのは」
「ひとによって……」
「そうやって生活してみると結構楽しくて、どんどんひとに興味が湧いてくるのよね」
「へぇ……」
僕では考えもしなかったことだ。
まさか、猫が赤を認識できていなかったなんて。僕はちらりと背後に置いてある自転車を見た。自転車のボディは、深い赤色だ。
この仔猫に僕の自転車は、何色に見えているのだろう……。
「きみの見ている景色と、私が見ている景色もきっと違う。そう考えると不思議だし、お互いのこと気になっちゃうよね」
と、彼女は言いながら僕の顔を覗き込んだ。
「そっ……そう、ですね」
どきどきしながらなんとか頷く僕の横で、
「あっ、そうだ!」
いいこと考えた、と、彼女が一際明るい声を出す。
「これからふたりで、この子のお世話しない?」
世界中の音が一瞬にして鳴り止んだように思えた。
「……えっ?」
ここで。ふたりで。
……ふたりで?
「えっと……それってつまり、先輩と僕で、ここでこの仔猫を飼うってことですか?」
「そう!」
屈託のない笑顔を見せる彼女に、僕は目を丸くする。
「私ひとりじゃ、たぶんこの仔猫逃げちゃうしさ」
「それは……」
たしかに。
「仔猫が懐いてくれてるきみがいれば、私もこの子に気に入ってもらえるかもしれないし? あ、もちろん猫缶とかのお金は私が出すし!」
「いや、お金は僕も出しますけど……」
ちらりと仔猫を見る。仔猫はなんのことやら、きょとんとした顔で僕を見上げている。
……どうしよう。どうしたらいいんだろう。
彼女の提案はこれ以上ないくらいに嬉しい。
けれど。こんな急に距離が縮まるだなんて思ってもいなくて、ちょっと怖気付いてしまう。
黙り込んでいると、視界の端で彼女の前髪が揺れた。
ハッと息を呑む。すぐ目の前に、彼女の顔があった。覗き込むようにして、僕を見ている。
「ダメ?」
「えっと……ダメではないですけど……」
一度濁してみたものの、結局彼女の圧に押し負けて、
「わ、分かりました……」
気が付けば、そんな言葉を口走っていた。
「やたっ!」
彼女が嬉しそうに笑う。
「ありがとう! お礼にカフェでカフェモカを一杯ごちそうするね!」
「カフェモカ?」
「うん! あのカフェはね、実はカフェモカがいちばん美味しいんだよ」
「……知らなかった」
「きみ、カフェモカ好き?」
僕はこくりと頷いた。
「……好きです」
言ってから、顔を背ける。
やばい。耳まで熱い。どうしよう、今ぜったい茹でダコだ。
「よかった!」
と、僕の心の内を知らない彼女は、無邪気に笑っている。
「私のことは、織花って呼んで。私は星夜くんって呼ぶね」
「……はい」
名前を呼ばれた嬉しさにむずむずしながらも、僕はそれを悟られないよう、なんとか真顔のまま頷いた。
「にゃあ」
仔猫が鳴く。
僕は仔猫を抱き上げ、じっとその目を見つめた。
よく見ると、仔猫の瞳は美しい黄金色をしていた。
「にゃっ」
もう一度、仔猫が鳴く。どこか、得意げな顔に見えたが――まぁ気のせいだろう。
それにしても、
「……人生って分からない」
小さく呟きながら、僕は織花さんを見る。
「え?」
彼女が顔を上げる。
「なんか言った?」
「あ……いや……。まさか、こんな展開になるなんて夢にも思わなかったな、って」
ずっと焦がれていたひとがこんな近くにいるなんて。それでもって、彼女と仔猫の世話をすることになるなんて。
「ふふ。私も」
風が彼女の柔らかな栗色の髪の毛をさらう。微笑んだ織花さんは、びっくりするほど美しい。
「この子、月みたいな瞳してるね」
「月?」
「そう。きれいな黄金色」
「……言われてみれば」
「ね、この子の名前、私が決めてもいい?」
「いいですけど……」
「じゃあ、月にしよ!」
「月? それってもしかして」
とある猫のキャラクターを連想した僕に、織花さんはにやりと意味深に微笑んだ。
「私、セーラームーン大好きだったの!」
やっぱりか、と僕は苦笑を漏らす。
「……僕も、姉がいたからセーラームーンは小さい頃ちょっと見てました」
「ほんと!?」
美少女たちが変身して悪役を倒すという女の子版のヒーローアニメだ。アニメには惑星の名を冠した美少女たちが出てくるのだが、それぞれ惑星にちなんだ特徴を持っている。そのため、惑星の勉強をするとき、あのアニメを参考にしたらすごく覚えやすくて助かった。
そう言うと、織花さんは大きな瞳をさらに大きく輝かせた。
「ほんと? 星夜くんはだれが好きだった? 私はやっぱりうさぎちゃんが……」
織花さんはそれから、楽しそうにセーラームーンの話を始めた。とても、無邪気な笑顔で。
僕はその笑顔に見惚れつつ、相槌を打った。
どうやら、彼女はアニメが好きらしい。少し意外だったけれど、彼女の新たな一面が知れたことは純粋に嬉しかった。
僕は、大好きなアニメを語る織花さんを、太陽でも見るかのように目を細めて見つめた。
僕もアニメはよく見るけれど、陰キャ趣味だと思われてしまいそうでじぶんから口にしたことはなかった。
好きなものを好きとまっすぐに言ってしまう織花さんは、とても眩しかった。織花さんはしばらく話したあと、おもむろに「やば! 休憩時間終わってた!」と慌てて立ち上がった。
「ごめん、星夜くん。私そろそろバイト戻るね!」
「あ、はい」
ならって立ち上がった僕に、彼女はハッとした顔をして、
「あ、その前に連絡先教えてよ」
と、言った。
メッセージアプリを開き、友だち登録を済ませると、彼女は安心したように微笑んで、手を振って高架下から出ていった。
彼女の姿が見えなくなり、僕はふうっと息を吐く。
まるで夢のような時間だった。いったいどれくらいの時間、僕は彼女と話していたのだろう。
友だち欄に追加された織花さんの名前を見つめながら、僕は高鳴る心臓を押さえた。
風が吹いた。ぽつ、と雫が頬を撫でたような気がして、顔を上げる。
空には、少し傾いた太陽と、澄んだ蒼。雲はほとんどない。
雨ではなかった。おそらく、草花に落ちていた露が、風で飛ばされて降りかかったのだろう。
僕は空から地面に視線を落とした。足元には、仔猫がいる。顔を洗っていた。仔猫にも露が降りかかったのかもしれない。
「……月」
織花さんが決めた名前で、仔猫を呼んでみる。すると仔猫はぴたりと動きを止めて、僕を見上げた。僕は月を抱き上げて、視線を合わせた。
黄金色の澄んだ瞳には、頬を赤く染めた僕が映っている。
まるきり、恋をしている顔だった。
うわ。もしかして僕、こんな顔で彼女と話してたのか。
今さらになって、恥ずかしさが込み上げてくる。
さらに頬を染めた僕を見て、月はやっぱり得意げな顔で「にゃあ」と鳴くのだった。
騒音がきらい。
ひとがきらい。
同情されることがきらい。
そうやってひとりを好んできた私は、あるとき彼に出会った。
そして、はじめて赤という色を見た。
ハッとした顔。
こくりと、ゆっくりと動く喉仏。
困惑気味に揺れるまつ毛。
どきどきと高鳴る鼓動に呼応するように色づいていく顔。
ずっとあいまいだったその色は、彼が教えてくれた。赤は、恋の色だった。
彼とは対照的に、彼女は明るく騒がしかった。
私を見ればすかさず触ろうとしてくるし、抱っこしようともしてくる。私を抱っこしていいのは、彼だけなんだけど。
彼女は私の、もろ苦手なタイプだ。
――でも。
私は私を抱く彼を見上げる。
彼のこんな幸せそうな顔が見られるのなら、うるさいのも悪くないかもしれない。
背中にぶつかる騒がしい彼の心音を聴きながら、私は頭上をふり仰いだ。
空はやっぱり、夏の色をしていた。