交差点で、信号待ちをしていた。周りは数え切れないほどの人で溢れ返っている。空間を埋め尽くす喧噪。 

 このざわめきを起こしている人たちは、わたしと貴史の関係を、誰ひとりとして知らない。

 みんなどこへ向かっているのだろう。本当に帰るべき場所はあるのだろうか。

 わたしは目を閉じ、ゆっくり息をひとつ吐いた。

 一瞬だけど、世界が無音に感じ、ここには、わたしひとりしかいないような気がした。

 信号が青に変わる。

 わたしは、前に進まなければ、と思った。でも、わたしはその場で立ち尽くしてしまった。周りの人たちが、ダムが決壊して溜まっていた水が勢いよく流れだすように、わたしを追い抜いていく。どこからか、舌打ちや小声で文句を言う声がする。すこし気分が悪くなった。

 わたしは歩いて来た道を振り返る。

 終わりかけた夏の日差しは、まだまだまぶしく、わたしの目を眩ませた。

 その間も、人の波は流れ流れて、わたしは何度も飲み込まれそうになった。

 わたしはそのたびに、自分の身体がどこか知らない世界に飲み込まれてしまいそうな気がした。

 ふいに、貴史の顔が浮かんだ。唇をそっと指でなぞってみる。そこには、確かに、貴史の温度が残っていた。

 貴史のことを思い浮かべてみた。ここしばらくは曖昧だった貴史の輪郭がくっきりとして浮かんできた。

 目が光りに慣れ、もう一度、いままでいた世界を見つめ直した。

 何ひとつ変わっていない世界が、ただ、伸びた時間のように広がっているだけだった。

 歩いてきた道には、蟻が群生しているような光景が広がっている。

 わたしは、歩いて来た道を引き返そうと思った。

 もう一度、唇を指でそっとなぞる。

 わたしは、自宅とは反対の方角に踏み出そうとしていた足を、自宅の方角に向け直し、震える足を踏み出した。