義兄の温度を知ったのは、わたしが小学四年生、貴史(たかふみ)が中学三年生のときだ。

 その日は鈍色の空に、たるんだ肉のようなぶあつい雲が広がっていた。わたしは窮屈に感じ、息苦しさを覚えた。空からは申し訳なさそうに、粉雪がひらひらゆっくりと、時間をかけて地面に舞い降りていた。わたしの見ている世界を白に変えながら。

 じゃれ合う兄妹のようだな、と思い、貴史に目をやった。貴史は眉ひとつ動かさず、熱心に本を読んでいた。

 わたしは開け放した部屋の窓から手を伸ばし、粉雪をそっと手のひらに乗せた。粉雪は手のなかですぐに溶けた。代わりに、切なさや儚さのような感情が、わたしの胸の奥の柔らかな部分をつついた。


美咲(みさき)、寒いから窓を閉めて」


「どうして雪は降るの?」


「空に聞いてみるといいよ」


 わたしたちは、いつものように貴史の部屋で過ごしていた。お互いの指を舐めあって。

 その行為は、いつからか始まり、今に至るまで続いている。日常生活の一部に組み込まれたように思えた。

 今では、お互い身を寄せ合い、舐めあうようになっていた。わたしはその行為が、おかしなことだとまったく思っていなかった。わたしには、その時間に見合うものは、他に思い浮かばなかったからだ。その瞬間の連続が、わたしにとってはすべてだった。

 母は、わたしたちを引き離そうとした。

 わたしは、貴史から一生引き離されるのではないかと思い、過呼吸を起こすほど泣きじゃくった。母はそんなわたしにかまいもせず、わたしのために部屋を空けた。父の書斎になっていた部屋で、四畳半ほどの広さの和室を。

 わたしは母の目を盗み、貴史の部屋に忍び込んでいた。

 そのたびに、貴史は、


「よく来たね」


 と優しい声音でわたしを部屋に迎え入れてくれた。
 
 貴史のベッドのなかで、布団を頭まで被り、ひそひそ話をする。貴史は何も言わずに、わたしの話を聞いてくれた。海のような目で。わたしは、その目がとても好きだった。

 貴史が微笑みかけてくれるだけで、学校での嫌なことや、母のうるさい小言も、忘れられた。


「美咲、指をかして」


 貴史が言い、わたしは人差し指を差し出す。

 
 貴史の形の良い口のなかに、わたしの人差し指が吸い込まれる。一瞬で人差し指は、熱に包まれる。

 わたしは、その瞬間が好きだ。


「貴史、指かして」


 わたしも言い、貴史の指を自分の口のなかに忍び込ませる。

 飴を舐めまわすように、お互いの指を口のなかで転がす。舐め終わると、指をくわえたまま、身を寄せ合い眠りにつく。母が仕事を終えて帰ってくるまで。

 その日。いつもの時間になっても、母が職場から帰って来なかった。


「お母さん、遅いね」


「今日は、忙しいんだよ」


 貴史が頭を撫でてくれた。わたしは嬉しくなり、貴史に身を預けた。   

 心の奥の深い部分が、熱くなったような気がした。貴史は優しい手つきでわたしの顔を起こすと、わたしに視線を合わせた。わたしは目を逸らしてしまいそうになった。


「どうしたの?」


 わたしは訊いた。


「今からすることは、絶対に内緒。誰にも言ったらだめだよ」


 貴史はいつも以上に優しい声音で言った。


「うん、わかった」


 私は笑顔で答え、貴史の手を強く握りしめた。


「目をつむって」


 貴史にそう言われ、わたしは目をつむった。目を閉じていても、貴史の顔が近くにあるのがわかる。顔にかかる息で。

 気づけば、二人の唇は重なり合っていた。わたしは、思わず目を見開いた。貴史の長い睫毛が、目の前にある。一本一本が、力強く上を向いている。

 わたしは嫌われたくない一心で、抗わなかった。

 初めての異性の唇は、意外な温度だった。唇は温かいと思っていた。貴史の唇は、心まで凍りそうな冷たさだった。

 キスの仕方なんてわからない。同じクラスの女子が、ファーストキスを他のクラスの男子とした、という会話が頭を過ぎった。

 わたしと貴史がキスするなんて。時間にして数秒ほどだっただろうか。でも、体感した時間は、何分にも何十分にも感じられた。

 そこには、二人を俯瞰して見ている自分がいた。不思議な感覚だった。二人は氷の彫刻のようだった。そこにあるだけで成立するもの。見事に部屋と同化していた。

 わたしが目を開けると、貴史の目は暗く淀んでいるように見えた。わたしは、その目が少し怖かった。

 わたしは、他の家の兄妹もこんな行為をしているのだろうか、と思った。多分している。正常なことなのだと思い込むことにした。貴史が間違っていたことなんてない。

 私が小学生の間に同じことを何度かした。


「このことは、絶対に内緒だよ」


 貴史は毎回人差し指を唇の前に立てて言った。
 
 その後に、行為に及んだ。

 わたしは、いつの間にか、キスのタイミングがわかるようになっていた。その瞬間は、何かの儀式のように崇高で清らかにさえ感じた。

 小学生、最後のキスは、わたしが中学校に入学する三か月前。

 初めてキスをしたときと同じように、粉雪が舞っていた。
「美咲は、好きな人いる?」


 (かおり)はそう言うと、前髪を指先で触った。

 香は学校内で生き抜くためのこれと言った能力は持ち合わせていない。学内のヒエラルキーのなかで、上位に君臨できるような人間では決してないが、どこか憎めない部分があるおかげで、誰かに嫌われている様子はない。


「いるよ」


「誰? どんな人?」


「貴史」


「この学校の人?」


「違うよ。お兄ちゃん」


「お兄ちゃん? どこのお兄ちゃん? 近所のお兄ちゃん? 従兄のお兄ちゃん? それとも……」


「義理の兄だよ」


 わたしは香の会話を遮って言った。

 香は大きく開けていた口を閉じ、目を少し丸くした。


「ふーん」


 とだけ言い、香はわたしの元を離れ、他のクラスメイトに、恋愛の話題を持ちかけていた。  


 わたしは香の後ろ姿に向けて心のなかで呟いた。


『わたしが誰を好きだって、あなたには関係ないでしょう』と。


 香は中学に入学してからできた友達だ。正確には友達と呼べないかもしれない。


「私たち、友達だよね?」


 香がいつも一方的にそう言ってくる。


「うん……そうだね」


 わたしは曖昧に頷くだけ。

 香は笑うと左の頬にだけえくぼができる。目は一重だが、ぽってりとした唇をしていて、そこだけやけに艶っぽい。笑うとその唇から色の悪い歯茎がのぞき、アンバランスな感じがする。その唇を意識的に見ている男子が数名いることは知っている。


「美咲は髪を明るくして、少しメイクをしたら、すごくかわいくなるのに」


 香はよくわたしにそう言ってくる。

 わたしは、周りからどう見られているかあまり興味がない。いつも適当に受け流している。

 香と初めて話したのは、入学してから二カ月ほど経った頃だと思う。わたしは、勉強はできるほうだった。いつも、貴史に教えてもらっているおかげだろう。

 授業中に、よく問題を先生にあてられていた。その日も、数学の授業中に問題をあてられ、すぐに答えた。

 授業が終わり、休み時間に香が話しかけてきた。


「ねえ、神代(かみしろ)さん。勉強を教えてよ。私、勉強苦手なんだー。もう少しで、テストだから、一緒に勉強しない?」


「いいよ」


 わたしは一瞬彼女の顔から視線を外して答えた。

 小学生のときは、友達なんていなかった。
女子がグループを作って話をしているときも、ひとり椅子に座り、外の景色を眺めていた。

 わたしには、貴史との世界がすべてだった。

 初めは何を話していいのかわからなかったが、いつも話しかけてくるのは香のほうからだった。わたしは、ただ頷くだけ。誰かに自分の存在を認識してもらえるのは、嫌な気分ではなかった。

 貴史に求められる感覚とは、違う心地よさがあった。

 香とは色んな場所に遊びに行った。カラオケ。ボーリング。ゲームセンター。ファストフード店。なかでも、ゲームセンターでプリクラを撮ったことは印象に残っている。わたしが硬い表情をしていると、香が変顔で笑わせてくれた。できあがったプリクラを見て、二人で周りの目も気にせず大笑いした。

 わたしが誰かの前で人目も気にせず笑ったのは、はじめてだったかもしれない。
 香に、知り合いの先輩たちと出かけようと誘われたのは、夏休み前のことだった。

 六月だというのに、やけに暑い日だった。わたしは半袖の黒のTシャツに、ジーンズで待ち合わせ場所へ向かった。

 待ち合わせ場所は、街で一番大きな駅だった。大型モニターの周りは、待ち合わせをしている人たちで溢れ返っている。誰もが忙しなく、スマートフォンを操作している。

 わたしが二十分前に着くと、まだ香は来ていなかった。鋭い日差しに、わたしは思わず手をかざした。わたしは木陰で香を待つことにした。


「やあ」


 ふいに声をかけられた。わたしにかけられた声だとは思わなかった。


「神代さんだよね?」


 その男の人は、わたしの名前を呼んだ。


「はい」


立川瞬(たちかわしゅん)。よろしくね」


 そう言った男の人の顔には見覚えがあった。

 その後、白石(しらいし)という、立川先輩の友人が合流した。

 香は遅れて来た。待ち合わせ時間の十五分後に。


「ごめん、ごめん……メイクに時間かかっちゃって」


 香はわたしには見せたことのないようなメイクをして現れた。


「じゃあ、行こうか」


 香は悪びれもせずに言った。

 カラオケは駅から五分程度歩いたところにあった。

 カラオケでは、思わず耳を塞ぎたくなるほどの音量で、ヒット曲らしいであろう音楽が流れていた。わたしは思わず顔をしかめた。


「どうしたの?」


 香が訊いてきた。


「ううん」


 香と先輩達は、三人でその曲を口ずさんでいる。わたしは不安になってきた。鼓動がやけに速い。受付が終わると、二〇五号室に案内された。部屋は薄暗く、一層不安な気持ちを掻き立てる。わたしはソファーに座らずに立っていた。


「美咲ちゃん、俺の隣に座りなよ」


 立川先輩が言った。

 美咲ちゃん、と呼ばれ、鼓動が高鳴る。貴史以外の男の人に、名前で呼ばれたことなんてない。

 香は白石先輩と親しげに話している。

 一番に曲を入れたのは、白石先輩だった。歌の上手さはよくわからないが、嫌な気持ちにはならなかった。

 次に香。ラップが入っている曲を違和感なく歌う。歌っている最中に、香がわたしのほうに視線をよこした。でも、わたしは思わず、視線を逸らしてしまった。

 最後に歌ったのは、立川先輩。白石先輩とは、また違う歌声だ。心が安らぐような、不思議な気分になった。

 ふと、貴史がカラオケで歌を歌ったら、と想像してみたが、曖昧な輪郭さえ思い浮かべることができなかった。

 わたしは歌わなかった。最後まで。どれだけ勧められても。流行りの曲なんて、一曲も知らない。

 知っている曲と言えば、貴史がたまに口ずさんでいる曲ぐらいだ。

 二時間は思いのほか、すぐに過ぎていった。

 料金は立川先輩と白石先輩が支払ってくれた。


「自分の分は、自分で支払います」


 わたしは言った。


「今度、デートして」


 立川先輩は悪戯な笑顔を浮かべて言った。


「ありがとうございます」


 わたしは頬を赤くして言った。

 その後、待ち合わせ場所の駅まで戻り、先輩達と別れた。


「立川先輩、絶対、美咲に気があるよ」


 香がわたしに耳打ちをした。

 わたしは返事に困り、俯いて自分のつま先を見つめた。

 立川先輩に告白されたのは、夏休みに入って、四人で花火大会に行った帰り道だった。
 わたしと貴史の関係に名前はつけられない。

 貴史は、いつもそばにいてくれる。これからも、それは変わらないだろう。わたしは、いつまで貴史を求めるのだろうか。

 この先何年もいまの関係が続くとは思えない。いずれ、それぞれの好きな相手と結ばれるはずだ。

 わたしは、いま、立川先輩のことが気になっている。

 初めてだった。わたしのことを、好きなんて言ってくれる男の人は。

 告白された日。


「どうしても、美咲ちゃんと、付き合いたいんだ」


 先輩はわたしの目を真っ直ぐに見てそう言ってくれた。

 まだ、よく知らない相手に対して、どうしてそこまで言い切れるのか、不思議だった。ただ、先輩の真っ直ぐな目には、嘘はまじってないように感じた。


「どうして、わたしなんですか? まだ知り合ったばかりなのに……」


「そんなに理由が必要? 知り合ったばかりかどうかは関係ない。付き合いながら、お互いのことを知っていけばいいんだよ」


 先輩はそうとも言ってくれた。

 他人と付き合うということは、そういうことなのだろうか。

 貴史のことは気になっていたが、わたしは立川先輩と付き合うことにした。

 本当は、貴史の気持ちを、試したかっただけなのかもしれない。
 貴史の部屋をノックしたのは、蒸し暑さが少しは和らいだ夕暮れどきだった。

 わたしはドアの前で、ノックすることを一瞬ためらった。

 一線を越えてしまう気がしたからだ。鼓動の速さが、何かを伝えようとしている。

 わたしは、唇をきつく結んでドアをノックした。


「どうぞ」


 いつもの貴史の声色で返事があった。

 ドアを開けると、貴史はシャープペンをノートに走らせていた。


「ちょっと、いいかな」


「いいよ。どうしたの?」


「うん……あのね、話があるの」


「なに?」


「わたし、同じ中学の先輩と、付き合うことにしたの」


「そう。それで?」


「あの……だから、貴史とは、もう、そういうことはできないの」


「そう。わかった」


「じゃあね。そういうことだから」


 わたしは貴史の目を見ることができなかった。


 貴史はいまどんな表情で、わたしを見ているのだろうか。怒っているのか。悲しんでいるのか。わたしには、わからない。

 わたしは部屋を出ようとした。

 ドアの前まで行くと、背中越しでも、貴史の視線が張り付いているのがわかった。寒気がした。

 ドアノブに手をかけようとしたとき、貴史が椅子から勢いよく立ち上がり、一直線に向かってきた。顔を俯けたまま。息が触れるほどの距離まで。


「貴史!」


 わたしは思わず名前を叫んだ。

 貴史は突然顔を上げた。

 貴史の目は、いままでに見たことのないような目をしていた。感情が全く読めない。

 次に貴史は右手で、わたしの左手を乱雑に掴み、ベッドまで引きずった。

 ベッドに、わたしを投げやって貴史が馬乗りになった。

 貴史の目に変わりはなかった。

 わたしは、怖くなり懸命に抗った。

 体中の力を振り絞り、貴史を押しのけようとした。どれだけ足掻いても、態勢は変わらない。やはり、貴史は異性だ。

 貴史はわたしの両手を広げて押さえつけた。すごい力だった。貴史にこんな力があったなんて考えたこともなかった。


「やめて」


 わたしは声の限り叫んだ。

 貴史は何も答えない。ただ、どこまでも暗くて黒い目で、わたしを見つめている。その目が怖かった。ただ。

 同じ態勢が、数十秒続いただろうか。わたしは足掻くことを止め、懇願するような目で貴史を見つめる。

 貴史の目に変化はない。

 貴史は、徐々に顔を近づけてくる。

 全身が粟立つ。怖い。貴史が怖い。

 こんなこと、初めてだ。

 貴史が怖いなんて。いつも一緒にいて、指を舐め合い、唇を重ねてきた。それだけで満たされていたのに。他には何もいらなかった。

 いまの貴史は、貴史ではない。何か邪悪な化身が乗り移ったように感じる。獲物を見つけた捕食者のように、貴史の目は一点に集中している。わたしの唇に。

 貴史の顔が目の前まで来ると、わたしは目を閉じた。こんなときでも、身体は流れに身を委ねる。

 貴史はぶつけるように、唇を合わせてきた。

 こんなことは嫌だ。こんなキスは嫌だ。

 わたしは、顔を左右に振る。

 貴史は頬を片手で押さえ、執拗にキスをしてくる。

 わたしは観念した。貴史の深部に触れた気がした。

 あまり感情を表に出さない貴史に、こんな激しい欲動が宿っていた。

 わたしは目を開け、虚ろな表情で貴史を見つめた。貴史は狂った玩具のように、私の唇を貪っている。すべてが嫌になった。

 次の瞬間、口のなかに血の味が広がった。わたしの血ではない。

 先に唇を離したのは、貴史だった。貴史の下唇から血が滴っている。


「どうして?」


 貴史は泣きそうな顔をして言った。

 わたしは、何も答えずに部屋を出ていった。
 駅前のロータリーに着くと、すでに立川先輩の姿があった。


「どうしたの? 美咲ちゃん、何かあった?」


「はい……兄のことで」


「とりあえず、ゆっくり話そう。公園にでも行こう」

 駅から離れ、住宅街まで歩いた。この辺りは、街灯が少なくて気味悪い。一人では歩きたくはない。

 公園は住宅街に囲まれるようにして、ひっそり佇んでいる。灯りはひとつだけで、灯りの周りには、無数の虫が円を作って飛び回っている。


「それで、何があったの?」


 ベンチに腰掛けると、立川先輩が言った。


「あの……兄が怖くなったんです……」


「どうして? 優しいお兄さんだって、言ってたじゃん」


「そうなんですけど……今日の兄は、いつもと違って……」


「そっか。受験勉強で、大変なんじゃないの? お兄さん、受験生なんだよね?」


「はい、そうです……」


「美咲ちゃんが、サポートしてあげないと」


「そうなんですけど……」


「美咲ちゃんみたいな、かわいい妹がいたら、俺だったら勉強がんばっちゃうけどなあ」


 わたしは先輩の目をじっと見つめ、欲しがるように言った。


「キスしてください」


「……どうしたの? 急に」


「お願いします。してください」


「俺はいいけど……いいの?」


「はい。先輩にしてほしいんです」


 先輩はわたしの肩に優しく触れ、わたしの体を引き寄せた。わたしは目を閉じた。気配を感じる。先輩の。柔らかい唇だった。唇の手入れをきちんとしているのだろうか。この唇は、他の女の子にも触れている気がした。

 男の人の唇が、こんなにも柔らかいなんて意外だった。

 先輩は背中に手を回してきた。わたしも同じように、先輩の背中に手を回す。抱き合い、深いキスをした。

 わたしは欲しくなった。先輩のすべてを。口のなかに、何かが入ってきた。先輩の舌だった。体がビクついた。先輩は変わらず舌を入れてくる。わたしは目を開け、先輩の唇を引き離した。


「ごめん。嫌だった?」


「そんなんじゃないです……ただ……」


「ほんとにごめん。今日は帰ろう」


 先輩はそう言い、わたしに手を差し伸べた。


「大丈夫です」


 わたしは言い、自分で立ち上がった。

 家の前まで、先輩は送ってくれた。


「じゃあ、またね」


 立川先輩はそれだけ言うと、一度も振り向かずに暗闇のなかに消えて行った。