「なんかあった?」

 帰り道で多田野君がふいに言った。 

 わたしはそのとき多田野君の細くて長い指をぼんやりと見ていた。指はわたしが借りていた黒い傘に絡んでいる。

「えっ、なにもないです。少し考えごとをしていただけです・・・・・・」

「そう。それならいいんだけど。あのさ、いつまでそんな話し方するつもり?」

「そんな話し方って?」

「タメ口じゃないってこと」

 そう言った多田野君の口調は、いつもとは違っているように感じた。

「だって・・・・・・」

「えっ? なんて言ったの?」

「だって、です」

「ちがう。そのあと」

「・・・・・・男の人とタメ口で話すことなんてほとんどないから」

「ふーん。そうなんだ。じゃあ、俺にはタメ口で話してよ」

「いきなりは無理です」

「じゃあさ、こうしよう。次に岩伏が敬語を使わなかったら、なんでも言うことをひとつ聞く」

 多田野君はとてつもない名案でも思い浮かんだかのように言った。

「そんなこと、簡単に言わないほうがいいですよ。どうせ、いろんな女の子に言ってるんでしょう?」

 わたしがそう言うと、多田野君は目尻を下げてひどく寂しそうな顔をした。わたしは冗談で言ったつもりだったのに。

「ご、ごめん・・・・・・」

「おっ、敬語じゃなくなった」

「あっ、えっ、いまのは、たまたま」

「ほらほら、その調子」

「もう、からかわないでよー」

「岩伏もそんな顔するんだな」

「どんな顔?」

「うーん。なんかこうぱっとその場が華やぐような、そんな感じかなあ」

 多田野君は何気なく言ったつもりだったのかもしれないけれど、わたしの頬は自然と赤く色づいた。

「どうした?」

「なんでもない・・・・・・」

 わたしは、いまの顔を見られたくなくて、彼に背を向けた。

 そのときだった。

 黒のバイクがわたしのカバンをひったくったのは。

 一瞬の出来事だった。

「岩伏!」

 多田野君が鋭い声で言った。

 わたしはカバンを盗まれたときにバランスを崩して倒れ込んでいた。

「大丈夫か?」

「うん・・・・・・」

「くそ! なにやってんだ、俺は」

「わたしは大丈夫だから、気にしないで」

「そんなわけには、いかない。だって岩伏、手首おさえてる」

「こんなのたいしたことないよ」

 わたしは彼を安心させるために、手のひらをひらひらさせようとしたけれど、できなかった。手首に痛みが走ったからだ。

「ほんとに、ごめん。俺がついていたのに・・・・・・」

「家に帰って、湿布でも貼れば一日で治るよ。この程度なら」

 わたしがそう言っても、多田野君が口を開くことはなかった。

 その後、多田野君が、もろもろ連絡をしてくれた。

 わたしは何度も、ひとりで行くから大丈夫、と言ったけれど、彼は、病院までついて行く、の一点張りだった。

 結局、病院まで付き添ってくれた後、自宅まで送ってくれた。

 その頃には、空は太陽が眠り、月が顔を出していた。

「今日はほんとにありがとう」

 わたしはぺこりと頭を下げて言った。

「ああ」

「多田野君、気をつけて」

「ありがとう。やさしいな、岩伏は」

 多田野君はぎこちない笑みを浮かべて言った。

「またね、多田野君」

 わたしがそう言うと、彼は背を向けたまま、右手だけ挙げて応えた。

 わたしは彼の背中が見えなくなるまで、一度も視線を逸らさなかった。